謎の羽黒三田神社 ~波乱の幕開け~(1)
さて20メートルほど歩いて右折し、いよいよ奥多摩むかしみちに入った。早々から羽黒坂という、急な坂である。昔、木炭運びの多数の馬や大八車などが苦労した、そのような坂を登っていると、右手に石段が登場した(9時40分頃)。地図によれば、どうもこの石段の上に羽黒三田神社があるらしいので、登ることにした。
まず十数段登ると、目の前に鳥居が現れ、右手には遊具施設のある公園があった。鳥居の方を見ると、石段がまだまだ続いている。それも半端な量ではない。上が見えないぐらいと言える、恐ろしいほどの石段の数である。私どもはひとまず登って見ることにした。
少し登ると、山門らしきものがあり、私どもはそれをくぐってさらに登った。しかし、登っても登っても、なかなか頂上に着かない。この石段は尋常では無かった。途中で、私は足が非常に疲れてきた。「足が消耗した」と言ってもよいだろう。会長は「踊り場と踊り場の間隔が異常に広いぞ。」と皮肉を言っていたが、本当に山門を越えてからは一切踊り場というようなものがなく、ただひたすら石段を登っていった。先生は苦しそうに「しょっぱなから過酷なことになりましたね~・・・・・・。」とおっしゃりながらも、私どもはただ登っていった。
こうした過酷な環境を乗り越え、私は頂上に一番乗りした。しかし、そこには何もない。続いてやってきた会長や先生も「何だ、何もないじゃないかよ~!」と無念そうであった。しかし、よく見ると前方に、石が階段状になった上り坂があった。何と、まだ一番上ではなかったのである。そのため、私どもは再び上を目指して行った。すると、目の前に人家の門が登場。「佐々木さん」のご自宅であった。きちんと塀もあり、郵便受けも備わった門構えである。(つづく)(執筆:研究関連担当代表)
さて20メートルほど歩いて右折し、いよいよ奥多摩むかしみちに入った。早々から羽黒坂という、急な坂である。昔、木炭運びの多数の馬や大八車などが苦労した、そのような坂を登っていると、右手に石段が登場した(9時40分頃)。地図によれば、どうもこの石段の上に羽黒三田神社があるらしいので、登ることにした。
まず十数段登ると、目の前に鳥居が現れ、右手には遊具施設のある公園があった。鳥居の方を見ると、石段がまだまだ続いている。それも半端な量ではない。上が見えないぐらいと言える、恐ろしいほどの石段の数である。私どもはひとまず登って見ることにした。
少し登ると、山門らしきものがあり、私どもはそれをくぐってさらに登った。しかし、登っても登っても、なかなか頂上に着かない。この石段は尋常では無かった。途中で、私は足が非常に疲れてきた。「足が消耗した」と言ってもよいだろう。会長は「踊り場と踊り場の間隔が異常に広いぞ。」と皮肉を言っていたが、本当に山門を越えてからは一切踊り場というようなものがなく、ただひたすら石段を登っていった。先生は苦しそうに「しょっぱなから過酷なことになりましたね~・・・・・・。」とおっしゃりながらも、私どもはただ登っていった。
こうした過酷な環境を乗り越え、私は頂上に一番乗りした。しかし、そこには何もない。続いてやってきた会長や先生も「何だ、何もないじゃないかよ~!」と無念そうであった。しかし、よく見ると前方に、石が階段状になった上り坂があった。何と、まだ一番上ではなかったのである。そのため、私どもは再び上を目指して行った。すると、目の前に人家の門が登場。「佐々木さん」のご自宅であった。きちんと塀もあり、郵便受けも備わった門構えである。(つづく)(執筆:研究関連担当代表)