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都立上水高校 第1期社会科部OB・OG会公式ブログ

第1期社会科部は平成21年3月12日消滅。本ブログは現在活動中の新生「社会科部」様や都立上水高校とは一切関係ありません。

横浜をゆく ~文字でふり返る横浜研修~ 最終回(第16回)

2006年05月06日 22時48分28秒 | 【連載】横浜をゆく
波乱の旅終了す
先ほどから気になっていたのだが、海岸通を挟んだ向かい側にある建物は、謎の音楽をずっと流していた。「貿易会館スカンディア」からであろうか。周囲の人たちに迷惑のような気がするが・・・。
ともかく私どもは、開港資料館前交差点から日本大通を進んだ。日本大通はここから横浜公園までの約400メートルほどしかないが、横幅はかなり広い。解説板によると、慶応2年(1866年)10月20日、横浜で日本人街の3分の2、居留地の4分の1を焼失する火事があり、そのため日本人街と居留地に区画整理し、その真ん中に延焼を防ぐための大きな通りをつくることになったという。鉄の橋(吉田橋)を設計したブラントンによって設計され、1872年に日本大通が誕生したそうだ。
キングの塔・神奈川県庁前を通り、横浜港郵便局前交差点を渡って3時46分頃に日本新聞博物館の入口に到着した。ここで解散することになり、顧問などのお話の後、3時47分に解散した。

私どもは全員、みなとみらい線を利用するため、地下深いホームへ向かい、3時55分発『急行・渋谷行』に乗車した。渉外担当・全権代行・研究関連担当は横浜で、顧問は武蔵小杉で降車し、私は終点・渋谷まで向かった。
このようにして、平成17年度の特別研修旅行はすべて終了した。<完>

 ご愛読ありがとうございました。今回で「横浜をゆく」は終了です。今後とも、公式ブログのご愛読のほど、お願いします。(執筆:元三代会長<今後、私の署名はこのように表記します>)

横浜をゆく ~文字でふり返る横浜研修~ 第15回

2006年05月03日 21時36分35秒 | 【連載】横浜をゆく
横浜開港資料館
外に出て階段を下りると、門が閉められていて私どもは拘束されるのではないか、と危惧されたが、手で簡単に開けられたので、風などによるものだったと見られる。
シルク博物館の前の開港広場交差点には「史跡 英一番館跡」の碑があったが、その後ろにはこれまたセクシーな像が建っていた。芸術というのは悩ましい。
さて、大桟橋通を渡ると開港広場である(2時53分)。ここは日米和親条約締結の地で、そのモニュメントは何故か地球をかたどった球状であった。

私どもはその隣にある横浜開港資料館に向かい、2時54分に8分早く到着した。まず中庭に至ったが、そこには玉楠の木(たまくすのき)という木があった。これは教科書にも載っている、1854年のペリーの横浜上陸時に随行画家・ハイネが描いた絵の一番右側にある木であるそうだ。関東大震災で焼失したが、その根から再び芽が出て今の姿になったという。すごいなア(博物館のパンフレットの表現のまね)。

さて私どもは建物内に入り、チケットを購入して常設展示室に入った。しかし、そのあまりの狭さに私は驚いてしまった。後に顧問がおっしゃっていたが、10年ほど前に来た時から、展示内容も全く変わっていないそうである。本日のはじめに訪れた横浜税関資料展示室と日本新聞博物館は新しく、きれいであったが、後の方になるにつれて規模・きれいさのグレードが落ちてきてしまった。しかし、展示内容はかなり面白かった。どこかで見たことのある有名なものもあった。だが、やたら複製品が多かったのは残念であった。
興味を持ったのは、咸臨丸(かんりんまる)についての展示である。1857年につくられた625トンの船で、1860年に勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎らによって日本初の自力太平洋横断を果たしたことで有名だが、その後は小笠原諸島の測量や北海道開拓使の物資運搬に使われ、1870年に北海道沖で難破したそうだ。なんだが、寂しいものを感じた。尚、見学中の2時58分、顧問よりWBC決勝が終了したことが伝えられた。
2階は横浜の街についての展示であった。今日一日、横浜市中区内のいたるところを訪れたのでなかなかなじみが感じられた。横浜ステーションや鉄(かね)の橋などの模型もあった。鉄(かね)の橋は朝訪れた吉田橋のことで、1869年に英国人技師・ブラントンによって木製から鉄製に変えられた。長崎のくろがね橋に次いで、日本で2番目の鉄橋だそうだ。
この後、企画展「創業の時代を生きた人びと」展を見た後、1階の受付脇のミュージアムショップへ行った。色々な書籍があったが、常設展の図録はなく、顧問は小中学生向きの「横浜のあゆみ 改訂版」(815円)を購入なさっていた。
中庭を出ると渉外担当と全権代行がおられ、旧館の記念ホールをすぐ見た。その途中には「喫茶室ペリー」と書かれた案内板があり、顧問は「ふざけたネーミングですね~。」と渉外担当とともに失笑していた。

3時40分、14分早く出発した。(つづく)(執筆:会長)

横浜をゆく ~文字でふり返る横浜研修~ 第14回

2006年05月02日 21時24分44秒 | 【連載】横浜をゆく
横浜中華街④ ~観光~(2)
結局崎陽軒のシュウマイはなく、再び歩いて「重慶飯店(じゅうけいはんてん)第二売店」に入った。この店には色々な月餅が売っていて、非常に驚いた。月餅って、こんなにバリエーションがあるのか~。しかし、シュウマイは重慶シュウマイというものしかなかったため、店を出た。すると、およそ2軒先に「崎陽軒」の店自体が見つかった!「崎陽軒」の文字が金色ででかでかとあり、な~んだと思いながらも安堵した。

研究関連担当のみがそこに行き、顧問は奥さんからおもしろい食べ物を買ってこいと連絡があったそうで、再び「重慶飯店」へ買いに行かれた。
こうして買い物を終え、2時7分に出発した。途中で顧問はサクラソフトクリームを買われ、再び歩いて「China Town80」というインフォメーションセンターに着いた。ここは横浜中華街の様々なパンフレットがあったのでそれを頂き、2時12分に東門である朝陽門をくぐって中華街とお別れした。予定より5分早かった。

シルク博物館
本町通などを越え、2時15分、山下公園中央口交差点に着いた。私どもはそこから山下公園通を北西に進み、山下公園には入らなかった。顧問が「カップルだらけでしょう。」というように、公園内はすごい数のそういう人だらけだったからである。
山下公園通を歩きながら顧問は、次に訪れるシルク博物館に行くのは始めてである、とおっしゃっていた。横浜には何度も来ていて、10年程前には前々任校の遠足のコースに入っていたが、顧問は別の所にいったため訪れられなかったとのことである。
さて、シルク博物館の前に着いた。入口は2階部分のようで、外の階段を登っていた。ひっそりとしていて、やっていないのではないかと思われたが、開館しており2時23分に中へ入った(7分早い)。

受付でチケットを買い、早速見学した。「絹と生活ゾーン」では私どもの生活の中で身近な絹製品が展示されていて、布団や衣料だけでなく食べ物もあって驚いた。又、武蔵村山市の伝統工芸である「村山大島袖」の服もあり、思いがけない出会いであった。さらに、「絹ができるまで」ゾーンでは蚕から絹ができるまでの過程が展示されてある。蚕が吐き出す糸の直径は0・02ミリで、1粒の繭から1300メートルの糸がとれるという。とてもロングである。
その後、「絹のあゆみ」ゾーンということで、世界と、そして上の階に日本の民族衣装・風俗衣装が展示されてあって、2時40分頃に鑑賞が終了した。
個人的な感想だが、あまり面白くはなかった。衣装に興味がある人には面白いのかもしれないが、これで入館料が大人・500円、高大学生・200円は高いと思う。顧問も「大して面白く無かったですね。」とおっしゃっていて、見学者も私どもの他はまばらであったのも自然であろう。
休憩した後、予定より11分早い2時49分に出発した。(つづく)(執筆:会長)

横浜をゆく ~文字でふり返る横浜研修~ 第13回

2006年04月28日 21時41分27秒 | 【連載】横浜をゆく
横浜中華街③~観光~(1)
私どもはもと来た道を戻り、関帝廟(かんていびょう)通りに出た。そこには山下町公園があった。有名な山下公園の類似品である。
そして天長門をくぐり、南門シルクロードを進んで媽祖廟(まそびょう)を通過し、1時19分、朱雀門に着いた。ここは中華街の南門で、地図が設置してあったためこの後の行動計画を練った。
1時21分、南門シルクロードを引き返し、1時22分、媽祖廟に着いた。ここは4日前の3月17日に開廟したばかりで、かなり新しかった。顧問も「こんなに早く訪れたと写真を見せれば、自慢できますよ。」などとおっしゃっていた。廟の周りに掘られた動物の彫刻は、大変精巧であった。なお、この地は当初、大京によってマンション建設が計画されていたとのことである。

1時28分、媽祖廟を出発し、天長門を再びくぐって関帝廟通りを進んだ。顧問が全員に、各自購入したいものを尋ねると、渉外担当が肉まんを、研究関連担当が崎陽軒(きようけん)のシュウマイを、そして私が月餅(げっぺい)をあげたので、売っている店を探しながら歩くことにした。また、私が顧問に「ソフトクリームは買わないんですか?」と伺うと、「人が多いのでくっつけてしまいそうだから、様子を見ています。」とのことだった。
肉まんを売っている店は多くあった。しかし、1個300円と高かったり、行列になっていたりして渉外担当はなかなか買えなかった。又、やたら天津甘栗を売っていて店頭で試食として配布していたが、私は栗が大嫌いなので嫌悪感を抱いた。
1時31分、山下町公園前を通過し、1時35分に関帝廟に着いた。

関帝廟は古くからあり、関東大震災、太平洋戦争と1986年の火災によって3度焼失し、現在のは1990年に完成した4代目で、きれいであった。隣には横浜中華学院が見えるが、グランドが土や芝生でなくコート状で、「バスケットコートは狭くないか?」という声が上がった。又、渉外担当は顧問に「ここは治外法権なんでしょうね~?」と質問し、顧問は「おそらくそうなのではないでしょうか?」と答えておられた。しかし、門は高く厳重なのだが、関帝廟からならいくらでも入り込めそうである。
さて1時39分、私どもは関帝廟を出発した。中国風のデザインが施された自動販売機や、「日本における新聞誕生の地」の碑を見た後、地久門についた。角にあった華都飯店(かとはんてん)を見てみると月餅があり、さらに肉まんが250円ぐらいであったため、私と渉外担当はお土産として購入した。
1時44分に出発し、長安道を歩いた。途中の横浜中華学院の門の前で立ち止まり、私は自動販売機でお茶を買い、渉外担当は今食べるための肉まんを買いに行った。又、研究関連担当は近くの店へ崎陽軒のシュウマイを探しに行ったが、残念ながら見つからず、再び歩いた。
1時48分、善隣門に到着し、中華街大通りを進んで行った。崎陽軒のシュウマイを見つけるべく、まずは「老維新號(ろういしんごう)」に入った。私はせっかくなので、あんまん(200円)を買って食べた。おいしかったのだが、よく考えたらこういう所のあんまんは冷凍食品のあんまんと大して味は変わらず、反対に肉まんは大きく異なるものだから、肉まんにするべきだったと今になって後悔している。(つづく)(執筆:会長)

横浜をゆく ~文字でふり返る横浜研修~ 第12回

2006年04月27日 22時12分18秒 | 【連載】横浜をゆく
横浜中華街② ~昼食の章~
かなり狭い店内だが、座席はあいており、4人と2人掛けのテーブルを店員さんがくっつけて6人掛けとしてくれ座った。しかし、私が座ったところは天井のヒーターからの温風がダイレクトにあたるため、非常に暑くて苦しいものがあった。
私どもはラーメンやチャーシューメンを注文し、又、顧問が餃子をおごってくださった。だが、店員さんによると餃子は6個入りで、1個余ることが判明した。そこで、1人だけ餃子を2個食べられることになり、餃子をかけた決死のじゃんけんが行われることになった。さあ、ジャンケンポン!・・・なんと、顧問を除いた4人全員がグーを出し、顧問がパーを出して一発で勝利したのである。顧問は、裏で自分を持ち上げるためのかけひきがあったのではないかと推測されていたが、ともかくウィナーであるため、餃子は顧問の口に渡ることになった。
さて、こういった小さい店は従業員が少ないため、食べ物が出てくるまで相当時間がかかることが予想されたので、色々と歓談をした。いくつか話題はあったが、私は顧問の担任するクラスは、何故教室があそこまで散らかって汚いのかと質問した。すると顧問は、「私のクラスは、ごみや私物を自分の机の周りに散らかす人がやたら多くいましてね、私はそう言う人たちを『帝国主義』と呼んでいるんですよ。さらに、教卓や教壇の脇に誰かの私物が放置されていて、『これ誰の~?』と聞くと、何故か後ろの方の人から『あ、それ自分のです。』という答えが返ってきましてね。まあそういった人たちが多い『帝国主義クラス』なんですよ。」とお答えになると、『帝国主義』という言葉に反応したのか、渉外担当は大そうにこやかであった。
また、店内にはテレビがあり、私ども客席からは死角になっていて見えないのだが、WBC中継の音声だけは聞こえた。その動向を私どもは気にしていたのだが、いつしか話がアメリカの横暴な振る舞いについてとなり、政治的に飛躍し過ぎて危険なトークになったため、途中でその話を打ち切った。
さて、12時52分頃にラーメンが出てきたため、私どもは食べ始めた。

そして、12時58分にサービスのオレンジが、12時59分に遂に餃子も出てきた。しかし、研究関連担当はオレンジが苦手であったため、誰かが2個食べられることになったが、辞退者が続出し、同じ1年生だからという理由で全権代行に渡った。
1時12分、私どもは食べ終わって出発した。出発すると顧問は、奥さんからのメールを読んでWBCの戦況を伝えて下さった。奥さんに頼んでおいたそうで、「妻が興奮しながら送ってきています。」とおっしゃっていた。(つづく)(執筆:会長)

横浜をゆく ~文字でふり返る横浜研修~ 第11回

2006年04月26日 23時23分36秒 | 【連載】横浜をゆく
横浜中華街① ~選定の章~
私どもは大桟橋通を南下し、横浜中華街を目指した。「東横イン前方200m」と言う看板があり見たかったが、残念ながら日本大通り入口交差点で曲がり、東へ進んだ。12時17分、加賀町署北交差点とみられる所に着き、顧問は「おそらく、前に見えるポールが赤く中国風なので、ここらが中華街の端だと思います。」とおっしゃっていたが、「私、横浜スタジアムによく野球を見に来るんですが、中華街で食事をするようになったのは本当に最近でしてね。いつも、こういう所に来ても横浜のマクドナルドや吉野家を探していますから、あまり詳しくないんですよね~。」と不安そうであった。
私どもは長安道を進んだが、町並みはごく普通で人も多くなかったためか、渉外担当が「中華街と言っても人は少ないですね。」と言うと、顧問に「何を言っているんですか、これからですよ。」と言われていた。
12時20分、善隣門の前に到着した(27分遅れ)。さすが中華街の正門だけあって、すごい人の数である。渉外担当も驚いていた。

中華街散策マップ(我々の歩いた道)
※クリックすると拡大します

撮影をし、12時22分、善隣門をくぐり中華街大通りを歩いて行った。中華街のメインストリートだけあって人の数は大変多く、行列の出来た店もあった。私どもは安い店で昼食をとるべく、こう言ったメインストリートからそれて、脇道にどんどん入って行った。まず、中山路を開港道方面へ入って行ったが、良い店がなく引き返した。「大珍 樓別館」という店では秘伝炭火焼きチャーシュー1280円が480円に割引き、という看板があり、私どもは驚いた。
顧問が「以前、私が来た店はなかなか良かったので、ひとまずそこを探しているんですが見つからないかもしれません。」といいながら、先導なさった。中山路を歩き、関帝廟通りに出て、関帝廟の前に至ったが(12時28分)、また後で来ようということで関帝廟通りを天長門の方へ向かって歩いた。そして、次の香港路に入り、中華街大通り方面へ歩いたが、やはり安くてラーメン・チャーハンが700~800円代で、これといった店が見つからず、再び中華街大通りに出た。
続いて12時33分頃、北京小路へ入ったがすぐに開港道に出て中華街の果てとなってしまったため、引き返した。前方には中華街パーキングという巨大立体駐車場が見えた。
さて、引き返してそのまま市場通りにはいった。この通りは狭いが、2基の牌楼(門)がある、活気にあふれたストリートである。しかし、やはり良い店がなく、またも関帝廟通りに出て天長門方面へ歩いた。

人があふれる中華街をさまよい続けて、そろそろ20分ほどになった。もういい加減に決めよう、という雰囲気の中、上海路に入ると、右手に「富貴楼(ふうきろう)」という店があった。少々さびれていて、一般の商店街にある店と変わらない感じではあったが、メニューを見るとラーメン550円。安くて800円、普通は千円以上という相場であった中華街の他の店と比べて格安であったため、この店に入ることにした(12時40分過ぎ)。(つづく)(執筆:会長)

横浜をゆく ~文字でふり返る横浜研修~ 第10回

2006年04月24日 20時26分14秒 | 【連載】横浜をゆく
日本新聞博物館

日本新聞博物館② ~見学の章~
11時15分、ビデオ上映は終わり、私どもは3階へ上がった。3階は常設展示室・歴史ゾーンで、江戸末期から現在までの新聞の歩みを紹介していた。実物が展示の中心となっており、明治~戦中ごろのは文字がとても小さく、写真も不鮮明だな~、と改めて感じた。
各時代の新聞づくりについても紹介してあり、写真だけでなく輪転機や活版印刷などの機械も展示されてあった。活版印刷で活字を拾う作業は、かなり大変なものであると思った。又、1980年代半ばのワープロもあり、顧問は「今から20年ぐらい前はこういうのが本屋さんでレンタルしていましてね~、私も借りて使っていましたよ。」と教えて下さった。
展示はかなり充実していて面白かったため、私と顧問は見学に時間がかかり、出発予定時刻の11時40分を既に回ってしまった。ここまで充実した場所とは想定していなく、見学予定時間を44分としていたことも一因である。
研究関連担当は5階の現代ゾーンも既に見終えたそうで、まだまだいっぱい展示があるということを聞き、4階を通過するエスカレーターで5階に上がって、顧問とともに「歴史さえ見ればあとはよい。」ということで、かなりのスピードで見た。取材や編集、広告について解説してあったが、ちょっと見るだけの快速見学である。ここはなかなかの施設なので、次の機会にじっくり見たいと思う。
最後の販売コーナーには、「新聞配達タイムトライアル」というシミュレーションゲームがあった。自転車に乗り、制限時間内に画面上で新聞配達をするというゲームで、渉外担当が挑戦されたが苦戦されていた(11時59分)。
こうして見学が終了した。時間は過ぎているが、次の中華街の見学・昼食時間は2時間24分とかなり長くとっていたので、問題はないだろうということでミュージアムショップへ向かうことにした。全権代行の姿が見えなかったが、しばらくしてショップに現れたので安心した。
ショップには多くのものが売られていた。横浜に関する様々な本や絵葉書などがあった。顧問は「図録コレクター」であるそうで、「日本新聞博物館常設展 展示図録」(840円)を購入され、私も買った。又、かつての新聞の付録で、展示もされていた「卓上ベースボール」というものの復刻版を、渉外担当が買っていた。
こうしてミュージアムショップを出発し、1階への階段を下りた。この階段は先ほどのビデオ番組の冒頭で現れたもので、顧問は「ここは気をつけて歩かないと、いきなりタイムスリップしますよ!」と冗談をおっしゃり、「でも、まさかカエサルが出てくるとは思わなかった・・・。」と感想を漏らしていた。

12時11分、31分遅れで出発した。(つづく)(執筆:会長)

横浜をゆく ~文字でふり返る横浜研修~ 第9回

2006年04月22日 23時38分51秒 | 【連載】横浜をゆく
日本新聞博物館① ~ビデオ鑑賞の章~
本町通を東へ進み、10時49分、港郵便局前交差点についた。後ろをふり返ると、「史跡 神奈川運上所跡」の碑があった。運上所は明治5年(1872年)に横浜税関に改称したが、初代の建物は現在の神奈川県庁がある所に建っていたため、ここに碑があるのだ。

そこから日本大通を渡ると横浜港郵便局があり、なかなか近代的な建物のつくりである。さらに本町通を渡ると、横浜情報文化センターがある。ここには日本新聞博物館(ニュースパーク)の他、放送ライブラリー、横浜都市発展記念館、横浜ユーラシア文化館が入っている。どれも面白そうである。
10時50分頃、予定より6分早く日本新聞博物館入口に到着した。壁には企画展「元気のみなもと!スポーツ新聞展」のポスターがあり、顧問や渉外担当は「お~、これは面白そうだ!」と喜んでおられたが、1週間後の3月28日から始まるということが分かり、落胆されていた。そしてポスターをよく見てみると、顧問がデイリースポーツの「みんなの優勝」という見出しで、阪神ダイガースの昨年のリーグ優勝時の新聞を指しながら、「私、これを保存していますよ!」と声をあげられた。私どもが驚いて、「先生、デイリースポーツも購読されているんですか。」と言うと、「それはもちろん、何といったって、デイリーはタイガースファンのしんぶん赤旗ですからね~。どんな事件があっても1面はタイガース、テロがあってもタイガースですよ。」と力説しておられた。
顧問の熱弁を伺いながら自動ドアをくぐると、そこは吹き抜けとなった広いホールであった。

そして大きなスクリーンがあり、それを見た私は驚いた。何と、平成17年前期連続テレビ小説「ファイト」総集編が放映されていたからである!!丁度この日は、「ファイト」総集編全4回が一挙にNHK総合テレビで放映される日だったのである。私もじっくり楽しみたかったのだが、3月7~10日にBS2で放映された分をDVDで録画済だったので、名残惜しいがエスカレーターで2階へ上がった。
2階に上がると、『ミュージアムショップ「ル サロン ドゥ ミュゼ」』があり、後であさりましょうということで先へ進んだ。自動券売機でチケットを買い、さらに歩き自動改札機を通った。なかなか複雑な構造で、2階をほぼ1周する形となった。
途中で顧問が携帯を取り出し画面を見た後、「WBCの決勝戦で、キューバと日本の試合のなのに2つの国の国歌が流れず、アメリカの国歌だけが流れたそうです。『おかしい!』と妻が怒っています。」と奥さんからのメールを報告して下さった。
さて改札機を通ると女の人がいて、「このあと11時から、ニュースパークシアターでビデオ上映を行いますので、どうぞお越し下さい。」と言っていた。5分後から始まるようで、顧問と相談し、休憩を兼ねるという形で鑑賞することにした。
定員120名のシアターのようだが、私ども5名の他に2名の方がいるだけで、かなりガラガラであったが、11時丁度に始まった。タイトルは「知りたいと願う限り」。時は2050年ぐらい、主人公の高校生ぐらいの女の子が日本新聞博物館を訪れ、古風な階段を歩いていると突然タイムスリップし、カエサル時代のローマや名誉革命時のイギリス、さらに太平洋戦争時の日本などを訪れ、「時が流れも、国が違っても、人々の“情報”に対する欲求は変わりません」(パンフレットより)ということをつたえる番組であった。日本国憲法公布記念都民大会の写真内で、主人公が舞台へ向かって手を挙げながらピョンピョン飛び跳ねているなど、合成やCG映像を多用した作品であった。(つづく)(執筆:会長)

横浜をゆく ~文字でふり返る横浜研修~ 第8回

2006年04月21日 19時12分17秒 | 【連載】横浜をゆく
横浜税関(2)
展示室はなかなか充実していた。横浜税関の建物は初代(1873~83年)、二代(1885~1923年・関東大震災で倒壊)、三代(1934年~現在)と変遷を繰り返しており、現在は三代目だが平成15年(2003年)に改修したそうだ。そのため、大変きれいであった。ビデオルームには横浜税関の建物の精密な模型もあった。
歴史以外にも密輸の手口の事例の展示や麻薬・拳銃などの密輸物品などの展示もあり、非常に面白かった。最後にはカスタム君がデザインされたスタンプがあり、全権代行は積極的に押していた。
このようにして見学を終え、先ほどの椅子のところで休憩をしていると、奥から顧問がやってこられて私に「ここのトイレはすごくきれいですよ。」とおっしゃったので「へえ~、トイレあるんですか、どちらですか?」と伺うと、扉のほうを指差しながら「また川越の喜多院のきれいなトイレのように、ブログに写真を載せて下さい。」と返された。そこで、研究関連担当とトイレに行ってみた。やはり新しいだけあって、きれいである。「トイレの消臭力~レモン~」もおいてある。ただ、研究関連担当が個室に入ったものの、喜多院のトイレと違って、自動的にふたが開いたわけではなかった。尚、川越の喜多院のトイレのエピソードについては、「部報 JS社会」第1号、又は本ブログ記事「川越をゆく」を参照されたい。
又、洗面所にはうがい薬が湧き出るスイッチがあり、ためしに口に含んでうがいをしてみた。

右側にあるのがうがい薬湧き出し装置

ボタンを押すと、うがい薬発射!!

口に含むのがなかなか難しかった。歯磨き粉のような味がした。
横浜三塔
10時41分、横浜税関展示資料室を出発し、税関分庁舎の前で信号待ちをしながら周囲の建物を見渡した。横浜税関の上にはクイーンの塔が見える。顧問はそれを見て「あそこには登れるんでしょうかね~?それに、登って何をするんですかね~?」と疑問の声をあげると、渉外担当は「やはり昔は、あのような高い所から不審船がないか、安全のために見渡す必要があったのではないですか。」と訴えておられた。又、海岸通を挟んだ向かいには、神奈川県庁のハイカラな建物があった。「キングの塔」である。
さて、私どもはみなと大通りを南下した。右手には神奈川県庁新庁舎があり、その左横奥には日本経済新聞社ビルがあった。水色の大きな文字の看板があったため、大変目立った。
10時47分、本町通と交差した。角には神奈川県加賀町警察署本町交番があり、なかなかクラシックな建物である。その前には日の丸が掲げられていたが、撮影しようとすると上手くはためていてくれなかった。又、前方右側には横浜開港記念会館があった。これは「ジャックの塔」である。

顧問は、「あそこは一般の人は入れるんでしょうか?何人か建物内に入っていますけれど。」とおっしゃっていた。後日調べてみたところ、普段は中区の公会堂として使用され、毎月15日に一般公開しているそうだ。(つづく)(執筆:会長)

横浜をゆく ~文字でふり返る横浜研修~ 第7回

2006年04月20日 22時25分34秒 | 【連載】横浜をゆく
馬車道ものづくし ~横浜こと始め~(2)
10時2分、「日本写真の開祖 写真師・下岡蓮杖(れんじょう)顕彰碑」が現れた。お碗を伏せたようなオブジェの上に、明治風の写真機をかたどったオブジェがのっかっているという、妙なものであった。
そして同じく10時2分、イスラム教モスク風の建物が左手に姿を現した。神奈川県立歴史博物館である。今回は見学しないが、顧問は「すげ~、『神々と出逢う―神奈川の神道美術―』展というのをやっているよ。普通、こんな「神道の神々」なんかをやる所はありませんよ!」と感嘆されていた。10時5分ごろ、本町通りを渡ると左手にこれまた重厚な建物である、横浜第二合同庁舎がみえた。
このように、ハイカラなものにたくさん出会える道であった。

横浜税関(1)
10時7分、7分遅れで海岸通4丁目交差点につき、海岸通に入って東へ進んだ。10時9分には左手に日本郵船歴史博物館があり、「企画展 日本郵船クルーズ文化史 飛鳥Ⅱ誕生まで」のポスターをみて渉外担当は大変ニコニコしていた。
そして10時11分、左手に今度は神奈川県警察本部のビルがみえた。

10時13分、横浜税関が左手に現れた。日の丸がはためくのが見えて感動していると、渉外担当に「当たり前でしょう、今日は祝日で、税関は国の機関なんだから。」としかられた。そういえば、来る途中にみた都営バスも日の丸をつけていたなぁ。

さて、横浜税関もこれまたモスク風のつくりであり、てっぺんの塔は「クイーンの塔」とよばれ、横浜三塔の1つであるそうだ。案内板によると資料展示室は「クイーンのひろば」とも呼ぶそうで、顧問はこの呼称に難色を示していた。
入り口のほうに回ると、入り口の左横にセンスの悪いどでかい人形が置いてあった。2メートル弱ほどあるのだろうか。さらに右横には、ディスプレイに入れられた同じキャラクターのミニ人形があり、「カスタム君」と言うそうである。顧問や渉外担当はこの人形を大いに酷評していた。

ビックカスタム君

スモールカスタム君

私どもは建物の中に入り、右手へ曲がった。そこには椅子と机が置いてあり、さらにパンフレットが多数あったので色々と手に入れた。特に渉外担当はこういったものに関心があるらしく、熱心に取っていった。(つづく)(執筆:会長)

横浜をゆく ~文字でふり返る横浜研修~ 第6回

2006年04月19日 16時49分54秒 | 【連載】横浜をゆく
馬車道ものづくし ~横浜こと始め~(1)
9時53分、予定より3分遅く馬車道交差点を通り、ハイカラな趣きのある馬車道を引き続き進んでいった。
9時55分、「太陽の母子像(アイスクリーム記念碑)」が現れた。

写真でわかるように、かなりセクシーな像であるが、側面のプレートを見るとアイスクリーム発祥の地であることを記念したモニュメントとあり、「日本アイスクリーム協会」と書かれていた。このセクシーな像とアイスクリームがどのような関係をもつのか、みんな不思議に思っていた。また、研究関連担当はビデオ撮影を自粛していた。
ちょっと進むと9時56分、角に「慶応マッサージ」という店があった。

かなり巨大な看板であるためひときわ目に付き、私は渉外担当に「慶應義塾大学に係わり合いがあるのかな。小泉首相が好きなのかな。」などと話した。
 9時57分、横浜市民文化会館(関内ホール)が右手に登場した。「横浜市立芹が谷中学校吹奏楽部第十一回定期演奏会」とあり、顧問は「芹が谷って町田のほうですよ。わざわざすごいね~。」と驚いていた。関内ホールの前には「日本で最初のガス灯」があった。ガス灯は明治5年(1872年)に馬車道などに始めて設置されたようで、昭和61年(1986年)に関内ホールの完成を祝ってここにガス灯を復元したそうだ。ガス灯は点灯していたが、顧問は「この復元したものは、ガスで点灯しているのですかね~?」と疑問を呈していた。プレートの記述では、それは不明であった。また、壁面には明治末期の馬車道の写真のレリーフがあり、左隅のガス灯がエメラルドグリーン色に塗られていた。奥の方にはイスラム教のモスク風の建物がみえた。

左側にエメラルドグリーン色のガス灯が見える

復元されたガス灯

さらに進むと、10時丁度、平安堂薬局が左向こうに見えた。この薬局の建物は、1階は大変きれいなのだが、2~4階は古くさかった。(つづく)(執筆:会長)

横浜をゆく ~文字でふり返る横浜研修~ 第5回

2006年04月18日 19時43分47秒 | 【連載】横浜をゆく
関内駅での混乱と吉田橋(2)
9時39分、関内駅南口を出発した(4分早い)。横浜市は3月26日に市長選挙があるそうで、大きなPRポスターが目に付いた。また、選挙を知らせる音声も流されていたが、その音源は道路の隅っこにあったごく一般的なラジカセであった。

普通は違うだろう~、と思いながらも私どもは高架沿い北西へ歩いていった。北口で降りるべきだったようで、失敗したと思いながら吉田橋を目指した。9時44分、関内大通と交差する関内駅北口交差点についた。研究関連担当は朝マックを食べ歩きしていたのだが、コーヒーなどに難儀している様子のため、いったん待ち、その間顧問から旺文社の「横浜中心図」地図が配布された。2月の活動で行った「特別研修講座 ~横浜~」の際にも配布されたが、それよりインクの色が濃くなっていた。
引き続き歩き、馬車道と交差したので左手の新横浜通を横断し、予定時間ぴったりの9時47分に吉田橋に到着した。現在、吉田橋はお堀の中を通る首都高速横羽線の上に架けられている。首都高の掘は、かつては水が流れており、1859年の横浜開港の際、外国人居留地を隔離するために作られたものである。

隙間に首都高がみえる

長崎の出島と同じ形であり、居留地内に入るには堀の上にかけられたいくつかの橋を通らなければ行くことが出来なかった。吉田橋はそのうちの1つで、後に吉田新田により架橋されたことから「吉田橋」と呼ばれた。橋のたもとには関門がおかれ、関門を挟んで居留地を「関内(かんない)」、その外を「関外(かんがい)」と呼んだのである。吉田橋はこのような歴史を有するもので、「史跡 吉田橋関門跡」の碑がたっていた。その真横におじさんが座っていたので、少々困った。

碑のすぐ右におじさんが座っていた
9時51分、私どもは引き返し、馬車道を北北東へ進み始めた。(執筆:会長)

横浜をゆく ~文字でふり返る横浜研修~ 第4回

2006年04月17日 17時03分13秒 | 【連載】横浜をゆく
鉄道つれづれの旅② ~京浜東北・根岸線~(2)
かつての宿場町に位置する東神奈川を越えて、ついに天下の横浜駅に至った。おお~!だが、あまり乗ってくる人は多くなかった。ここで私が顧問に「実は私、神奈川県を訪れるのは人生で初めてなのですよ。新幹線で通ったことはありますけど。」と申し上げたら、顧問は「えっ!?」と大声を発せられた。その声が高く、車内の幾人かがこちらに振り向いた。そして顧問は「へぇ、本当!?降り立ったことないんだ。じゃぁ、鎌倉にも行ってないの?」とおっしゃり、私は「はい。本当は中2のときに遠足で行くはずだったんですけれど、我々の年から東京めぐりになったんですよ。ちょうど、昨年5月の遠足のように班に分かれて、浅草寺やなんかをめぐりましたよ~。」と言うと顧問は笑いながら、「あぁ~なるほど、確かにそういうことはありますよ。以前の学校で、遠足をやることになってある先生が『多摩の生徒は東京もんのくせに都心を訪れない。』ということを憂いていましてね、そのために東京を巡ることになったんですよ。そんなふうに、東京もんのくせに都心を知らない生徒がいることを憂いている先生は結構いますからね。」と答えてくださった。なるほど~。
続いて話は3年生のことになった。来年度は2・3年合同の選択授業があるが、進路探索研修旅行の時はどうなるのであろうか、とお聞きすると顧問は「おそらく『きゅうこう』でしょう。」。一瞬、『休校』と聞こえたが、すぐに『休講』と気がついた。世の中そんなに甘くは無い。
9時29分、11分早く関内駅に到着した。
関内駅での混乱と吉田橋(1)
走り去る車両を写し、ひとまず南口へ向かった。階段を下り改札へ向かったが、その前にトイレがあったので私や渉外担当・全権代行は立ち寄った。また、顧問は切符の精算を行いにいった。

トイレから出ると、ひとまず全権代行と共に改札へ向かった。すると、改札の向こうを左から右へ研究関連担当が駆け抜けていった。さすが素早いな~と思いながら改札を抜け、周辺地図の前で皆さんを待った。すると、顧問がやって来られ「研究関連担当はマクドナルドに行きました。」と伝えて下さった。そういえば、「時間が無くて朝食はとらず、ジュース1本飲んでやってきた」と言って苦しんでいたな~、と思い出し、その後改札を通ってやってきた渉外担当を含めた4人で、しばらく研究関連担当を待つことにした。しかし、いくら待っても研究関連担当がやってこない。顧問が「もしかしたら、マクドナルドで食べてるんじゃないのか?」と推測されたため、私どもは「それはまずい。」と焦った。連れ戻すにも、関内駅周辺にはマクドナルドが2軒もあるそうで、かなり慌ててしまったが、そこに研究関連担当がマクドナルドの袋を下げて現れた。どこにあるか迷ってしまった、とのことであった。いや~、よかった。(つづく)(執筆:会長)

横浜をゆく ~文字でふり返る横浜研修~ 第3回

2006年04月14日 22時00分53秒 | 【連載】横浜をゆく
鉄道つれづれの旅② ~京浜東北・根岸線~(1)
川崎駅に着いたが、今後のために南武線車両を撮影したかったため、顧問に許可を請い、研究関連担当と共にホーム前方(立川寄り)へ向かった。しかし、車両がホームの先端ぎりぎりまで来ていたため撮影が困難であり、乗ってきた車両の反対側に止まっていた『各停:立川行(当駅始発)』が9時8分とまもなくの出発であるとわかったため、それが発車するのを待つことにした。研究関連担当はホーム先頭でビデオ撮影をするようだったが、私はカメラのため、電車のスピードが上がると写せない恐れがあったので、顧問などの待つホーム中ほどへ向かって歩いていった。するとその途中で発車時刻となり、走って行く電車を上手く写すことが出来た。
さて、私は顧問たちが待つホーム中ほどの改札・乗り換え用階段へ行き、共に研究関連担当を待った。しかし、なかなかやってこない。消息不明となってしまったのである。顧問が、「彼は電車が好きだから、今の立川行に乗っていったんじゃないの?」と冗談を発し、渉外担当が「もしそうだとしたら、大変なことになりますよ。」などと返していた。だが、この1つ手前にも改札・乗換え用階段があるので、おそらく彼はそちらで上がったのだろうと思われ、私どもも階段を上っていった。しばらくすると研究関連担当が現れ、消息が判明した。
さてここは、かの有名な川崎である。しかし、コンコースは一般的な駅のようなつくりで、渉外担当は「なんだ、川崎といっても大したこと無いな。これなら立川の方がずっとすごいよ。」などと、主観を述べていた。
京浜東北・根岸線ホームに行くと、ちょうど9時12分発『各停:磯子行』が入線してきた。この車両は行先表示板が電光式で、内部設備も新しめのつくりであったので、「京浜東北線にもこういう車両があるのか~。」と感嘆した。車内はかなりすいており、端から会長・顧問・研究関連担当、反対側に端から全権代行・空席・渉外担当と座った。

電車が次の鶴見に着くと、「鶴見線は乗換え」という看板を見た顧問が「昔は鶴見線の車両は汚くてね~、こんなのに乗せるのかよ、ひでぇな~っていうくらいでね。たしか茶色に塗られていたと思うけど、いまはどうなったのかな。」と言うと、研究関連担当がもうなくなったと答えていた。4日前の17日に湘南電車も消え、現在JR東日本で古い電車と言えば、中央線ぐらいになっているとのことである。(つづく)(執筆:会長)

横浜をゆく ~文字でふり返る横浜研修~ 第2回

2006年04月12日 20時08分15秒 | 【連載】横浜をゆく
鉄道つれづれの旅① ~南武線~
川崎まで23駅あるため、発車・停車を繰り返しながら電車は進んだ。私の記憶では、南武線に乗車するのは平成16年10月以来のはずたった。そのため、なかなか新鮮な旅であった。
立川の次は西国立であるが、何だかいきなり都心とは趣きを異にした半ローカルチックな風情が感じられた。ホームも短いような気がした。さらに分倍河原・府中本町は、平成16年10月の乗車の際に下車して周辺を散策したこともあり、なにやら懐かしさを感じた。
さて、目の前のサッカー少年たちは元気であり微笑ましい。だが、なかなか降りてくれない。すると、とある少年が持っていた切符が目に入った。よく見ると・・・【立川→620円区間】。私が持っていたのは立川から関内までの780円区間であったため、これは当分空かないぞと思われ、矢野口駅すぎで、座ることをひとまず断念した。
その後は、顧問や研究関連担当らとともに少々会話をした。顧問の立川にくるまでのルートをうかがい、また、南武線のことについても、どの駅で人の乗降が激しいか、とか、なぜ快速運転が困難な状態にあるかについてうかがった。そして、多摩川の周囲には工場が盛んに進出しており、府中には東芝があり、川崎の武蔵中原付近は富士通の工場だらけとのことである。
このように地理的な教養を身につけながら、電車は武蔵溝ノ口・武蔵新城・武蔵中原・武蔵小杉と「武蔵○○駅」四連射帯を突き進んだ。特に武蔵小杉は別路線(東急東横線)との、終点川崎を除いた最後の乗換駅であり、座席が空くことが期待された。しかし、立っている人はどんどん少なくなっていくのだが、座席の勢力図には変化がほとんど見られなかった。
こうして9時5分、川崎駅に到着した。サッカー少年の集団とともに、私どもは電車を降りた。(執筆:会長)