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都立上水高校 第1期社会科部OB・OG会公式ブログ

第1期社会科部は平成21年3月12日消滅。本ブログは現在活動中の新生「社会科部」様や都立上水高校とは一切関係ありません。

川越をゆく ~すべてはここから始まった~ 最終回(第10回)

2006年03月30日 21時45分46秒 | 【連載】川越をゆく(完結)
時の鐘
 菓子屋横丁を出たとたん、諸事情により道が分からなくなり、少しの混乱の末、ようやく一番街へ出た。
蔵造りの建物に囲まれた、感動的な通りである。しかし、1軒だけ非常に西洋的な家があり、そこだけ周囲の雰囲気になじんでいなかった。又、南側から走ってきた東部バスは、大宮予備校のラッピングであった。
4時14分、時の鐘にたどり着いた。鐘の下が薬師神社とは知らなかった。又、内部から時の鐘を移そうとするとデジカメの画面に暗く写ってしまい、難しい撮影だった。
4時26分ごろ、時の鐘を出発し元の道へ戻った。
一番街散策と旅の終わり
蔵造りに囲まれた一番街を南下し、4時31分、仲町交差点に至った。ここを過ぎると、普通の現代の町並みが続き、4時44分、本川越駅に到着した。

平成17年8月撮影

現地解散であるが、全員西武新宿線利用のため、4時55分発『急行:西武新宿行』に乗車した。予定の便より1本はやい電車である。
電車を乗り継ぎ、私どもは全員無事帰宅した。ドラマあふれる、波乱の旅であった。(完)(執筆:会長)

川越をゆく ~すべてはここから始まった~ 第9回

2006年03月28日 19時56分39秒 | 【連載】川越をゆく(完結)
平成17年8月撮影

菓子屋横丁
川越市立博物館の前の道を西へ進むと、「道灌」という和菓子屋を見つけた。私は、家族よりその店の「道灌まんじゅう」というものを購入するよう、要請されていたため、少々お時間を頂いて中へ入った。「道灌まんじゅう」は、生地は玄米で、あんは埼玉県産の小豆をつかっているようである。8個セットで800円。単品を8個買えば、セットより安い640円である。箱代が結構高いように感じた(尚、私は単品8個のほうを買った。)。
西へ歩き続けると、道が狭くなり、右手には川越市役所があった。さらに進み、3時8分、札の辻交差点を通過し、3時12分に菓子屋横丁に到着した。

札の辻(平成17年8月撮影)

ここでは自由行動となった。たくさん美味しそうなものがあった。皆さんの様子を紹介しよう。
構成員Aは、御家族から要請されたお煎餅を探しておられた。煎餅屋「雷神堂」にはたくさんの煎餅があるとともに、たくさんの試食があり、私はたっぷり食べた。が、買わなかった。なかなか美味しかったのだが、特に買う気はなかった。
財務担当は、早速たい焼きを食べていた。後で、ソフトクリームも召し上がりになったようである。
会長は、紫いもソフトクリームを食べていた。お味を聞くと、「普通のソフトクリームと変わらない。着色料をたくさん使っているのではないか。」と言っていたので、私は「買おうかな~。」と思っていた気持ちを引っ込めた。又、川越名物・大黒棒というふ菓子(350円)を買おうとしておられた(やめたようだ)。長さは1mという、すごーく長いものであった。
私は、いも団子100円を食べた。これといって、サツマイモだな~と思う味ではなかった。
9分送れて、3時54分に出発した。(つづく)(執筆:会長)

川越をゆく ~すべてはここから始まった~ 第8回

2006年03月27日 18時23分29秒 | 【連載】川越をゆく(完結)
川越市立博物館
 道を引き返し、1時18分、川越市立博物館にたどり着いた。トイレの後、早速見学した。ミニ展「むかしの勉強 むかしの遊び」展をまず見た。昭和30年代と平成元年ごろの川越の小学校が、「大掃除」や「運動会」「修学旅行」などテーマ別に比較できるよう展示されていた。昭和30年代の「大掃除」の写真で、女子のスカートの中が写ってしまっていた点について、財務担当と構成員Aが「これは法律に接触するのではないか。」と意見を交わしていた。又、平成元年ごろの「水泳」の写真について、構成員Aが「何で女子のほうを写しているんだろうね。」とたずねると、財務担当が「カメラマンの好みじゃない?」と答えていた。
展示室内には、昭和の頃の様々な日用道具が展示されていた。体験コーナーとして、古い計算する機械があった。どのようにしてそれを操作すればよいか、私どもは色々考えた。その時!学芸員の方がいらっしゃり、私どもにそれの使い方を解説して下さった。なかなかおもしかった。
特別展示を見た後、常設展示室に移動する途中、特別展示のアンケートがあったので私は答えた。
常設展示室は「近世」「近代」に重点を置いたつくりになっていた。見始めて少したった頃、「(5分後の)午後2時より学芸員がガイドをいたします。所要時間は30分ほどです。」という案内が放送された。しばらくすると、学芸員と参加者がやってきて、ガイドを行っていた。私は、せっかくなので「近代・現代」からガイドを聞いた。興味深いお話ばかりであった。
川越の街なみが蔵造りとなった理由についてのお話もさることながら、私が一番興味を引かれたのは、「蔵造りの町並み復元模型」を前にして聞いたお話である。
明治26年(1893年)3月17日午後8時頃~翌18日午前5時ごろにかけて発生した「川越大火」は、町の北の方で出火し、北西の風にあおられて川越の町全体に広がっていった。それを教訓として、蔵造りの家々は北側には窓をほとんど設けず、日のあたる南側に窓を開けているという。模型を見ると、たしかに北側に窓がある蔵造りの家は、ほとんどなかった。逆に、南側から見ると、窓がたくさんあった。これにはただ驚くばかりで、非常に感動した。
これ以外にも、興味深いお話をうかがい、最後に「川越まつり」のビデオを6分間鑑賞し、ご案内は終了した。私はまだ見ていなかったところを見学し、先に進んだ。
すでに見学を終えられた会長、構成員A、財務担当はビデオコーナーでビデオ鑑賞やインターネットをなさっていた。しばらく、ビデオコーナーで色々やり、常設展示室を出てトイレに行った。そして2時52分、2分遅れての出発となったのである。(つづく)(執筆:会長)

川越をゆく ~すべてはここから始まった~ 第7回

2006年03月25日 19時49分43秒 | 【連載】川越をゆく(完結)
昼食
さて、予定より18分早い12時12分、川越城本丸御殿を出発し、昼食の店を探すために国道254号線へ出た。すると、「ジョリーパスタ」「焼肉屋」「CoCo壱番屋」「くるまやらーめん」が見つかったため、特別研修旅行事業担当者会副代表(昼食担当)である財務担当の指導のもと協議をし、その結果、私どもはCoCo壱番屋川越城下町店で昼食をとることにした。
12時22分、CoCo壱番屋に入った。各々が食べたものは、次の通り。
 ・会長:仕込みとんかつカレー(辛さ:1辛)
 ・構成員A:やさいカレー(辛さ:普通)
 ・私:ハンバーグカレー(辛さ:普通)
 ・財務担当:うまとろ豚カレー(辛さ:普通)

昼食時の出来事を記しておく。
構成員Aは辛いものがお好みで、そなえつけのホットペッパーなるものをたくさん振りかけておられた。食後、財務担当が福神漬けをそのまま召し上がられていたが、構成員Aは福神漬けだけでなく、ホットペッパーも指に振りかけて、カレーなどにつけずにそのまま食べておられた。その行為を、会長は「恐ろしい蛮行だ!」と批判なさっていた。
その会長は、カレーの辛さを1段階挙げていたため、とても辛くつらかったようである。最後には「体が悲鳴を上げている」といい、健康のためとんかつの脂身を残していた。そのため、私はそれを頂いたが、大変おいしかった。
私どもが一番困ったのは、支払いである。構成員Aを除いて、私どもは自分の代金ちょうどのお金がなかった。お昼時だったため、4人がばらばらに払うのは無理かもしれないと思い、もしばらばらに払うことが出来なかったら、あとで隣のゲームセンターへ行ってお金を両替して、清算しようと話していたが、杞憂に終わりよかった。
1時10分、CoCo壱番屋川越城下町店を出発した。(つづく)(執筆:会長)

※尚、この連載中の会長は筆者ではありません。

川越をゆく ~すべてはここから始まった~ 第6回

2006年03月21日 22時40分17秒 | 【連載】川越をゆく(完結)
川越城本丸御殿
細い道をくねくね歩き、11時42分、川越城本丸御殿にたどりつき、靴を脱ぎ、川越城・川越市立博物館・蔵造り資料館の共通入場券(300円)を買って中へ入った。
私は、京都の二条城より小さく狭く感じた。又、それと異なって、うぐいす張りでなかった。
受付を通り、使者の間などに面する廊下を右に曲がり、川越城年表を見た後に私と財務担当はトイレに行った。喜多院とは打って変わったトイレであった。
トイレを出た直後の廊下には「川越反歴代藩主一覧表」があったが、多くの藩主が数年で変わっているな~と感じた。
ちなみに、後詰所に川越城本丸御殿の年表があったが、それには興味深いことが書かれていた。
昭和9年(1934年)、本丸御殿は初雁武徳殿(川越地方武道奨励会の修練道場)として使われ、太平洋戦争後の同22年(1947年)に川越市立第二中学校(現在の川越市立初雁中学校)の校舎になった。そして、同26年(1951年)には、何と同中学校の屋内運動場となってしまい、今でもその時のボールがあたった跡が天井などに残っているようだ。このお城は、激動の状況に置かれていたのだな~、と感慨深いものを感じた。
尚、外に出ると玄関の正面に『初雁武徳殿』と書かれた石碑があった。(つづく)(執筆:会長)

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川越をゆく ~すべてはここから始まった~ 第5回

2006年03月17日 16時38分04秒 | 【連載】川越をゆく(完結)
喜多院(2)
10時ちょうど、私どもは庫裏の中に入った。スピーカーから喜多院について解説したテープが流れていたが、その声がお経を読むような調子であったため、趣を感じた。入口で靴を脱ぎ、使用後100円が返却されるロッカーに靴を入れ、中へ入った。ガラス戸をあけて入ると、拝観受付があり、400円を払ってチケットとパンフレットをもらった。その部屋にはストーブや机といすがあり、少し休憩をした。またガラス戸を開け、次の部屋へ入るとひんやりした。その部屋には重要文化財「職人尽絵屏風(しょくにんづくしえびょうぶ)」の複製品が展示されていた。室町時代に活躍した様々な職人が、丁寧に描かれてあった。
前へ進み客殿に入ると、庭が見えた。曲水の庭というそうである。靴をはいていなかったため、建物内部では足が冷たかったが、外に出ると太陽の光が当たって暖かかった。
庭に面した廊下には、かごがあった。内部には座布団が敷かれ、脇息と背面のための座布団もあった。
そして。かごの正面の部屋は「家光誕生の間」である。江戸幕府3代将軍・徳川家光が生まれた部屋であるが、彼はこの建物がある喜多院で生まれているわけではない。この建物は江戸城から移築されたものだからである。お経を読むような調子で話す、スピーカーのガイドを聞いて気がついた。
「家光誕生の間」を出て進み、書院に入った。柱に『昭和六四年NHK大河ドラマ春日局放映 この奥の部屋全体春日局化粧の間』という張り紙があった。私は会長とともに、わずか7日間しかなかった「昭和64年」を記入しているということは、この張り紙は昭和64年かそれ以前より準備していたものであろうと思い、又、17年もこれを張り続けていたのだろうかと考えてしまった。
さて、ここの左手に「お手洗い」という案内があったため、私どもはトイレに行くことにした。廊下を歩いていき、書院にくっつく形で建っているトイレの建物に入った。そこのトイレに、私どもは驚くばかりであった。写真のように、新しく大変きれいなのである。

さらに、私が試しにお通じ用の個室に入ってみると、便器のふたが自動的に開いた。以前にもこのようなトイレは見たことがあったが、古い建物に併設された最新式のトイレという絶妙なコンビネーションに、私どもはただただ驚嘆した。
それを済ませ、私どもは「春日局化粧の間」などを見た後、うぐいす張りの廊下を通って本堂へ向かったが、本堂の入口ちかくで通行止めになっていたため引き返した。
拝観受付やストーブ・つくえのある部屋へたどり着き、しばらく休憩した。私は「さきたま文庫36 仙波東照宮」を購入した。
10時55分ごろ、私どもは庫裏・書院・客殿を出発した。また本堂と絵馬の前を通り、松平大和守家の墓所へ行った(10時57分)。そして、どろぼう橋を通って引き返し(11時1分)、松平家墓所の西側の細い道を通り、星月橋という小さな橋を渡ると、ぶらんこなどのある公園にたどり着いた(11時6分)。せっかくなので、ぶらんこを少し漕いだ。頑張ってしまい、ふらふらになり気持ち悪くなったが出立した。
もと来た道を引き返し、本堂の正面のいすやつくえのある場所で休憩をとることにした。露店がいくつか出ており、構成員Aはあんずあめを買い、会長はたこ焼きを買って食べていた。
11時19分、休憩を終え、一旦東側の山門から出て、北側の門から再び喜多院境内に入り、五百羅漢を目指した。しかし、五百羅漢の入口が分からず、少し混乱したが、財務担当がみごと発見なさった。11時23分ごろ、私どもは五百羅漢のある場所に入り、様々な形の石造を見た後、予定より11分遅れの11時26分、喜多院を出発した。
北側の門から出て、喜多へ向かって歩いている途中、私は手袋をなくしたことに気がついたが、発見できなかった。(つづく)(執筆:会長)

川越をゆく ~すべてはここから始まった~ 第4回

2006年03月16日 13時31分47秒 | 【連載】川越をゆく(完結)
喜多院(1)
しばらく進み、またも石階段を登ると喜多院の慈眼堂(じげんどう)があった。その後ろには、「暦応(りゃくおう)の古碑(こひ)(板碑)」や「延文(えんぶん)の古碑(板碑)」をはじめとして、様々な石碑があった。しばらく慈眼堂や石碑を眺めた後、もとの石階段を降り、鐘楼門(しょうろうもん)に近づいた。脇を通り、道路に出て正面を眺めると、門に緑色の竜の彫刻が見えた。
眺めた後、再び鐘楼門の脇を通り、ベンチなどのある休憩所へいき、休息をとった(9時42分頃)。私はトイレへ行った。
9時47分ごろ、続いて本堂(慈恵堂)へ向かった。本堂はカラフルな幕が周囲についていた。あとで思ったのだが、この日は建国記念日で祝日だからこれがついていたのだろうか。

手を洗い清め、煙を浴びた後、私どもは本堂の中へ入った。お賽銭箱やおみくじ、お守り売り場などがあった。
本堂を出た私どもは、本堂の左横の苫抜き地蔵の前へ行った。『ここにだるまを置かないで下さい。』という看板が立っていた。地蔵の前に平べったい台があったため、財務担当は「(台があるから、人々は)ここにだるまを置きたくなるのだろうね~。」と感想を述べていた。
その右横には絵馬をかけるものがあり、私どもは絵馬に書かれている願い事の文を色々と読み、批評しあった。
9時56分、私どもはそこを出発し、本堂の前を通って、庫裏(くり)へ向かった。その入口には建国記念日のためであろうか、「日の丸」がはためいており、会長は脱帽しておられた。又、その左隣には小さな大黒堂があり、そこにあったスタンプを私はしおりに押した。1つは川越七福神の『第三番 大黒天 喜多院』と書かれたもので、もう1つは五百羅漢と『小江戸川越』という文字が入ったものである。(つづく)(執筆:会長)

川越をゆく ~すべてはここから始まった~ 第3回

2006年03月14日 21時59分09秒 | 【連載】川越をゆく(完結)
仙波東照宮
 予定より5分早い8時45分に私どもは本川越駅を出発した。8時48分、国道229号線と東照宮中院通りの交差点にかかったが、クロス式の横断歩道であったため、私どもは感動した。又、歩行者用信号も発光ダイオードのものであったため、感動は2倍である。尚、会長は発光ダイオード訴訟和解の際の中村教授の物まねをなさっていた。
 9時、仙波東照宮に到着した。外にある説明板を読み、正面入口から中へ入った。随身門をくぐると、東照宮というイメージにしては華やかでなく、とても小さいのに驚いた。

 石鳥居をくぐって右手には屋外休憩所があり、自動販売機とベンチやテーブルが置いてあった。『開運だんご』というのれんをつけた店もあったが、開店していなかった。時間が早かったためであろうか。又、左手にはご年配の方々が何人かいらっしゃり、ゲートボールを楽しんでいらした。時々ボールを打つ音が聞こえ、のどかなひと時であった。

 石階段の右の「沿革碑」を眺め、私どもは石階段を上った。おじいさんが健康のためであろうか、石階段を使ってトレーニングをなさっていた。ちなみに、この石階段の段数は約50段だそうである。
一番上につくと、「葵」の紋章がついている正門があった。そこを通ると、目の前は拝殿である。その手前には狛犬があり、拝殿を囲むようにして歴代川越藩主が献納した「石燈籠」があった。これより先は閉まっており、残念ながらいけなかったが、私どもは拝殿を眺めたり、石燈籠に刻まれている文字を読んだりした。
その時、掃除をしていたおじいさんが拝殿へお賽銭を投げ、拝んだのち、私どもへ目をやって話しかけてこられた。そのおじいさんは、私どもに仙波東照宮について解説してくださった。
 右手の「狛犬」と「正門」の間にある「手水鉢(ちょうずばち)」は、もとは江戸城にあったもので、寛永14年にこちらに移築されたもの。手水鉢の正面に、『御本城』と書いてあり、それは江戸城を指すからであるという。又、右手狛犬と拝殿の間にある石燈籠は、柳沢吉保が献納したものであるが、そこに刻まれている日付は『元禄15年12月16日』で、赤穂浪士討ち入りの2日後のことで、討ち入りの時にはもう完成していたのだろう、とおっしゃっていた。さらに拝殿内部のものについて等、さまざまなことをお話しして下さり、非常にためになった。
おじいさんにお礼を申し上げ、しばらく見た後に、私どもは出発した(9時25分)。石階段を降り、左に曲がり進むと、弁財天厳島神社が見えた。太鼓橋の先には小さな鳥居があった。
 9時28分、私どもはそこを立った。(つづく)(執筆:会長)

川越をゆく ~すべてはここから始まった~ 第2回

2006年03月12日 09時51分35秒 | 【連載】川越をゆく(完結)
本川越駅
 8時39分、本川越駅に到着した。トイレに行った後改札をくぐると、構成員Aがいた。他に誰もいなかったため、彼は「(研修旅行が)今日じゃなかったのか、それとも本川越駅集合じゃなかったのか、心配したよ~。」とおっしゃっていた。ご心配かけて申し訳ない。
 すぐに財務担当と会長が改札をくぐってこられた。会長は前日、西国分寺から武蔵野線で朝霞へいき、そこから東武東上線で来ると話していたが、それをおやめになった。パソコンで検索する際、「本川越駅」ではなく「川越駅」をキーワードにしていたことに気づき、変更したという。又、後から聞いた話だが、2人は私と同じ電車に乗っていたようだ。おそらく、乗車した車両が離れていたのであろう。(つづく)(執筆:会長)

川越をゆく ~すべてはここから始まった~ 第1回

2006年03月11日 18時56分59秒 | 【連載】川越をゆく(完結)
プロローグ
 社会科同好会の設立以来、すでに9回も実施してきた特別研修旅行。その第1回目である川越研修旅行から、はやくも1年以上が過ぎました。
 平成18年度を目前とし、社会科同好会が新たなスタートを切るためにあたり、基本活動の原点をふり返ります。
 尚、この連載は現在配布中の「部報 JS社会」第1号にも掲載されていますが、その内容をよりグレードアップしたものとなっていますので、どうぞお楽しみ下さい。

凡例
 参加者は当時の構成員4名。人物名は以下の通り表記します。
 ・会長→会長
 ・筆者(会長全権代行)・特別研修旅行担当者会代表→私
 ・財務事業担当者会代表→財務担当
 ・構成員A
 
 尚、川越で訪れた各地については、「部報 JS社会」第1号にて研究成果発表として掲載されています。本校図書室で配布中ですので、どうぞご覧になって見てください。(つづく)(執筆:会長)

 ※第2回は明日掲載予定です。