都立上水高校 第1期社会科部OB・OG会公式ブログ

第1期社会科部は平成21年3月12日消滅。本ブログは現在活動中の新生「社会科部」様や都立上水高校とは一切関係ありません。

上水高校社会科同好会情報調査局

2006年02月28日 19時36分31秒 | お知らせ
 私的団体の設立を会長宛に届出いたしました。

名称:上水高校社会科同好会情報調査局 (JSIA)

目的:内外の情報を調査・収集し、社会科同好会代表部に逐一報告する。また、社会科同好会の権益を保護・確保するためにインターネット等を駆使して、様々な工作を行う。

設立人:渉外担当代表(前会長)

構成人員:2人

 なお、上記の団体はいわゆる『天下り』団体などではなく、本気で情報収集・工作を行いますのでご理解ください。

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第23回

2006年02月28日 13時47分08秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
さらばむかしみち(2)
 さて青梅街道を横断し、さらに進むと水根ロータリーに到着した。ここには木製の大きな看板があり、それの指す方向へ歩いて行った。この頃雨は一時的にやみ、49分早い2時2分、遂に奥多摩水と緑のふれあい館に到着した。我々は一旦館内に入り、トイレへ行った。そして再び外に出て、2時9分、小河内ダム展望塔へ向けて出発した。
仮面ライダーと蜘蛛男
 再び雨が降り始め、強くなってきた。そんな中、私どもは進んだ。歩きながら、顧問が小河内ダムについてのガイドを始めて下さった。小河内ダムは戦前から工事が続き、戦後になって昭和32年(1957年)にようやく完成した。又、ダムに沿った直線道路(堤頂の道路部)では映画等の撮影がよく行われ、仮面ライダーと蜘蛛男が戦った場所もここであるそうだ。このようなことを顧問が流れるようにお話なさっていると、私どもの後方にいたおばさん2人組も熱心に聞いておられ、私どもとその場の雰囲気を共有していた。顧問のガイドが終わると、おばさん方は顧問に「もしかして、学校の顧問ですか?」と尋ねると、顧問は「ええ、まあそういう者です。休日は一般人なので。」と曖昧にお答えなさっていた。
 ちなみに、私は帰宅後、仮面ライダーと蜘蛛男についてインターネットで調べた。何と、仮面ライダー第1回が蜘蛛男との対決で、タイトルは「怪奇蜘蛛男」だったそうだ。
 「ダムトリビア」というページには第1話の様子の他、小河内ダムをはじめとした諸ダムでの仮面ライダーロケについて書かれている。第56話「アマゾンの毒蝶ギリーラ」ではギリーラの毒をダムの貯水池に混入する計画があったそうで、執筆者が「※注意!貯水池に毒を混入するなどの行為は重大な犯罪です。絶対にしてはいけません。」と警告なさっている。丁寧だ。
 さて、私どもは管理事務所前に到着した。いよいよダムであるが、雨脚が一段と強くなってきたため、一旦管理事務所の軒下に退避することにした。色々と確認事項をチェックし、少々そこにいると、若干雨脚が弱くなったので、私どもは再び出発した。そして2時15分頃、小河内ダムに到着した。堤から下を見ると、発電所がはるか下へ見える。

高さ149mあるそうで、その高さが実感できた。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第22回

2006年02月27日 19時07分48秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
水根での行軍
 斜面を下り、歩いて行った。この辺りの道はうっそうとした木々に囲まれ、もはや山道である。私は後ろから2番目を歩き、1番後ろは副代表が歩いた。私どもはどんどん進んだ。
繰り返すが、まさしく山道である。登りが続き、なかなかきついものがあった。しかし、そんな状況でも副代表は時たま立ち止まってビデオ撮影をし、走ってやってくるということを何度もやっていておられた。
途中で本来の「奥多摩むかしみち」に合流し、引き続き歩いて行った。前をゆく会長や出納担当、構成員A、構成員Bはどんどん歩いていく。だいぶ疲れてきた。息が切れてきた。ちょっと前をゆく全権代行なども疲れてきたそうで、顧問が「ここを登ったら休憩しましょう。」とおっしゃり、そこを登りきってちょっとスペースのある場所にたどり着いた(1時32分)。しかし、前をゆく会長・出納担当・構成員A・構成員Bは既に先へ進んでしまった。全権代行が「まだ行くんですかぁ?」とまいっておられ、副代表が会長らの所へ駆けつけて停止させたようである。
本当に疲れた・・・。汗をかいて暑かったため、着ていた上着を脱いだ。後日会長に、何故あんなに歩いて行ったのかと尋ねた。すると、会長からは「何だかジャングル道のように思えて、行軍しているという感覚に襲われて気合が入った。」という答えがあった。ちなみに、当日会長が着用していたズボンはインターネット販売で買った、旧東ドイツ軍の軍服だったそうである。彼にとって神秘的なエネルギーを受けておられたのであろう。
さて、私どもが休憩していた所は青目立不動堂の前だった。顧問は見てみようとしたが、公開をしていなく、残念そうであった。
10分ほど休憩をし、再び出発することにした(1時40分)。小さな階段を登ると、右手に会長らが座っておられ、合流して歩いて行った。
さらばむかしみち(1)
遠くには奥多摩湖が見えるようになった。道は車道となり、急カーブを曲がりながら歩いて行ったが、遂に雨が降り出した。私や出納担当など一部の方は折り畳み傘やカッパを取り出し、着用した。顧問は「もうここまで来てしまったので、このまま行きましょうね~。」とおっしゃっていた。「奥多摩研修を、あきらめない。」
そして水根休憩所が右手遠方に現れ、奥多摩むかしみちが終了した。但し旧青梅街道はここで終わるのではなく、この先は大菩薩峠を越えて甲府まで続くそうである。
雨の中、下り勾配の道を進んだ。水根沢遊歩道は狭い川の上にこれまた狭い橋がかかっており、雨の中そこを通るのは「いとをかし」の世界であった。
そしてさらに進むと、右手で道が枝分かれしていた。右手の道は急な斜面になっており、このまま直進すべきか右手に進むべきか判断がつかず、地図を参照した。しかし、このような分岐点は地図に載っておらず、大変迷った。紛糾した末、副代表などから直進すべきとの答申が出され、そうすることにした。すると、青梅街道に出た。これで良かったようである。
尚、後日東京都水道局発行の「ようこそ 水源地ふれあいのみちへ」パンフレットを見ると、右手のみちは「見晴らしの丘歩道」の一部で、登山道チックな道であったようだ。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第21回

2006年02月25日 18時56分55秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
迂回路入口
 道幅が広くなり、視界が開けてきた。いかにも山の車道という感じである。傾斜がきつくなり、ヘアピンカーブが続いた。
 12時55分、道の右脇側面が上図のようにコンクリートで覆われていた。しかも、突起がいくつも出ている。これを見て顧問が、「おー、なんだこの形は!何か、怪しい電波を出していそうですね~。」というと会長が「ここから社会科同好会予備隊の攻撃電波が出力しているんです。」と軍事的な戯れを発言していた。ここは「社会科同好会予備隊西久保基地」。
 坂を登りきると分岐点となった。しかし左側の道は工事中のようで通行止めのため、右側へ進んだ。
 すると1時丁度、左手に本来の「奥多摩むかしみち」の道が出てきた。この先で土砂崩れが発生したため、通行止めとなっていたのである。本来のむかしみちはうっそうとした山道で、行かないですんで良かったという声が出た。

 看板の指示通りに、私どもは迂回路を歩いて行った。すると、前方にトンネルが現れた。西久保トンネルである。すると顧問が、「トンネルを2人ぐらいで歩いて、それをバックからビデオ撮影すると、かっこいいシルエットが撮れて、今後の映像番組作りに役立つのでは?」と提案され、やってみようということになった。顧問と全権代行が2人でトンネル内を歩き、副代表と私が撮影を担当した。趣きのある映像が撮れたと思う。
 さて、私どもも西久保トンネルを通過し、中山橋を渡って(1時7分)左へ曲がった。この辺りで構成員Bらは、何やら残虐なゲームのお話を明るくなさっていた。
そして青梅街道を横断。さらにまっすぐ歩き、トンネルをくぐってすぐ右へ曲がった。トンネルの上へ登る道である。そして、例の旧ダム建設鉄道線路上に到達、鉄道トンネル中山口に着いた。
鉄道トンネル
 
 予定より20分早い1時15分頃、いよいよ鉄道トンネルに入った。「むかしみち一部崩落による迂回コース案内図」によると、青梅街道を迂回路にするには車の往来が激しく危険のため、今回この旧ダム建設鉄道線路のトンネルを整備し、これを迂回路としたそうだ。長さが440mあり、電灯を設置するなどしたという。長年放っておいた廃線トンネルが今回、思わぬ形で役に立ったということであろう。しかし、長年利用していなかったようなので、1ヶ所、壁から滝のように地下水が落ちてきていた。なかなか怖いトンネルである。
 先述のように440mもあり、線路と砂利はそのまま残っていた。そして1時24分、ようやく出口の滝のり沢口に着いた。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

一般入試 受験状況結果

2006年02月24日 18時55分59秒 | 上水高校ニュース
 東京都教育委員会の発表によりますと、昨日実施された上水高校一般入試の受験状況は以下の通りです。

 男子:74人→73人
 女子:71人→70人
 合計:145人→143人(1.23倍)

 欠席者は2人だけでした。
 尚、国語の問題の採点基準に変更があることも発表されました。
  2の(2)の答え:「探勝」だけでなく「探賞」も答えとする(漢字の書き取り)

 昨年も「彩る」の読み方を答えよという問題が、訓読みは常用漢字外という理由で採点基準が変更されていましたので、2年連続でのミスですね~。
 尚、詳しくは東京都教育委員会ホームページをご覧下さい。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)
 

皇太子誕生日

2006年02月23日 15時32分56秒 | Weblog
 本日は皇太子さま、46歳の御誕生日であります。謹んで、お祝い申し上げます。

皇居東御苑(昨年7月の第4回特別研修旅行にて)

お堀

三の丸尚蔵館

 (執筆:会長<元・研究関連担当代表>

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第20回

2006年02月22日 22時04分28秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
立てば茶屋
 出発するのは良いのだが、しだくら吊橋を折り返さなければならない。今回は特に班編成はせず、準備ができた方から渡っていった。私は最後から2番目となり、殿(しんがり)は顧問が引き受けて下さった。
 心地よい揺れを感じながら、渡っていった。後ろをふり返ると、顧問は顔を下にさげ、肩をすくめながら歩いておられた。そのため向こう岸に着いた際、顧問に「以前、高い所は好きとおっしゃっていましたが、こういうものは苦手なんですか?」と尋ねると、「いや、高所恐怖症なんですけれど展望台とかは登りたがる性格なんです。」という答えであった。
 さて、こうしてしだくら橋を離れ、12時24分頃より私どもは歩いて行った。
すると12時32分頃、馬の水のみ場・立てば茶屋跡が見えた。昔、馬方衆はここで馬を休ませ、自分たちは「たてば」と呼称された茶屋で一服したそうで、しみず・大島屋・ごーろという3つのお店があったそうな。
 ここで顧問が、クイズ形式のガイドをして下さった。青梅街道は内藤新宿を出発し、いくつもの宿場町を越えていくが、新宿の次の宿場はどこかという質問が出されたが、私どもはなかなか答えが出せなかった。中央線沿線というヒントが出され、荻窪とか小金井という答えが出てきた末に、正解の中野という声が上がった。青梅街道の宿場は、内藤新宿→中野→田無→小川→箱根ヶ崎→青梅にあったそうである。しかし、青梅から先にも私どもが歩いているこの道が青梅街道として甲斐国の方へ続いていたが、途中に宿場などはあったのかという疑問があった。が、ここのように、青梅から先には宿場ではなく茶屋などの休憩所がいくつかあったのだろう、ということであった。
道所吊橋
 さて、立てば茶屋跡を出発し、12時39分頃にむし歯地蔵尊を越えながら歩いて行った。すると12時44分、道所(どうどころ)吊橋が現れた。またも吊橋である。しかし顧問などが難色を示されたため、希望者だけが渡ることにした。
 すると突然会長が、吊橋を走って渡りはじめた。これは蛮行である。そのため、顧問などから「走るな、走るな!」と言う声がとんだ。どうも会長は、この行動を軍事演習にタイアップしていたとみられる。
 私も半分ぐらいまで渡り、川の様子を写真撮影した。吊橋を支えるワイヤー部分を見ると、やはり恐怖を覚える。
 さて、こうして吊橋を堪能した私どもは、再び歩き始めた。しばらく登り坂が続いた。

※本連載本文で表記されている役職は、すべて平成17年11月5日現在のものです。現在とは大きく異なっております。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)


奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第19回

2006年02月21日 15時19分39秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
しだくら橋(2)
 さて、そんなしだくら橋前にして、私どもはみんなで渡ってみることにした。しかし、渡れるのは5人で、さらに反対側から渡ってくる人もいるため、私どもは3人ずつで渡ることにした。そのため、顧問の音頭のもとグー・チョキ・パーで3つの班にわかれた。班編成は次の通り。
 1班:全権代行・私・構成員B
 2班:会長・出納担当・副代表
 3班:構成員A・顧問
 早速、私ども1班から渡り始めた。確かにゆらゆら揺れる。これは普段味わう感じではないので、私どもに恐怖心を抱かせる。
 構成員Bは羽黒三田神社で階段降りに恐怖を抱かれていたように、こういった高所での活動が苦手のようで、叫びながら渡っておられた。又、普段は冷静沈着な全権代行も、この時ばかりは普段より甲高い声をあげられていた。橋の真ん中に来た時、私はデジカメで川を撮影したが、構成員Bらに早く渡れと怒られてしまった。
そして、ようやく向こう岸に到着した。私どもの後から、続々とやって来る。出納担当は「こんなの楽勝じゃん。」と言いながら、余裕の表情を浮かべておられた。又、副代表はビデオを回しながら渡っていたそうだ。後日視聴したが、副代表の後を歩いていた構成員Aの叫び声がたくさん入っていた。
昼食とガイドと
 さて、こうしてしだくら橋を渡ったのだが、とくにこちら側に用があるわけではない。また戻らなければならないのである。それを知って構成員Bは「えーっ!又渡るのー!?」と悲痛な声をあげておられたが、ここにはスペースがあるので昼食にしようと顧問が提案された。確かに、ここで昼食を取っている方が前方に見え、私どもも昼食とすることにした。
 しかし、特に椅子があるわけではないので私どもは石組みの上などに座り、各自で昼食を取った。顧問だけが、少し離れた所で食べることになってしまい、大変申し訳ありませんでした。私は今朝ファミリマートで急いで買った納豆巻き(と思われる)とパンを食べた。食べていると、5人までしか渡れないしだくら吊橋をおじさん・おばさん集団が一挙に渡っていた。おそらく10人ほどだったと思われるが、度胸があることよ。
 これまでの研修旅行から分かるように、顧問などは食べるのが早く、私はとても遅い。そこで、この時間を利用して、快速進行のためこれまでの場所で実施を延期してきたガイドを行って頂くことにした。
 まずは出納担当より、「奥多摩ビジターセンターともえぎの湯」。小平グリーンロード研修の時と同じように、原稿をメールで保存し携帯電話に表示しようとしていたが、なかなか電波が受信できず難儀しておられた。ガイドからは「ほっほー、ビジターセンターはそういう所であったのか。」という知識を得ることができた。
続いて、会長による「奥多摩の自然」。奥多摩町役場は海抜339mの所にあり、奥多摩町は東西に19.5km.、南北に17.5㎞で、面積の94%が森林であるそうだ。
 3番目は全権代行による、「奥多摩むかしみち」について。むかしみちは旧青梅街道であるが、その昔青梅街道は「甲州裏街道」とも言われていたそうである。
12時13分より、4番目副代表から「奥多摩町の歴史」について。古代からの歴史を話して下さったが、制限時間6分を越えたため、中断となった。
 尚、ガイドの途中で構成員Aが、吊橋を支える鉄柱にしがみつきぶら下がるという蛮行をなさったため、会長などが遺憾の意を表明し、顧問が「おい、やめろ。」と注意しておられた。
 ガイドが終了し全員が出発の用意ができたため、出発することになった。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第18回

2006年02月20日 22時14分10秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
天候危うし(2)
 さらに歩き続ける。11時39分ごろ、又も民家が散見されるようになった。しかし、ここの民家は何となく趣きが違う。かなり古そうな建物であり、軒先で何かを天日干ししているなど、昔からの風習を維持しているかのような感がするのである。顧問も非常に感動しておられた。
 11時41分、惣岳(そうがく)の不動尊の前に到着した。しかし、中は石段があり、木々に囲まれた神秘的な雰囲気で、非常に険しそうな感じがしたため、希望者のみ入ってみることにした。そのため、全権代行は入口で待機することになり、その他のメンバーは中へ入っていった。
 不動明王と書かれた石碑の隣にある鳥居をくぐり、石段を登って行った。すると小屋が現れた。ここで何かを祀っているとは思えないのだが、その小屋の上の方ではおばさん集団が座って弁当を食べておられるだけで、周りには何も建物は見えなかった。ただ、石段がさらに上の方へのびていたが、さすがに登るのは断念した。
顧問が「ここは鳥居があってそれは神社なんですけれど、隣には不動明王とかかれた石碑がありましたよね。あれはお寺なんです。なので寺の本殿みたいなのがあるはずなんですけれども、見当たりませんね~。それに、神仏習合というのは明治時代に廃仏毀釈でつぶされていきましたから、何でここだけ残っているんだろう。」と、解説を交えながら疑問点を出して下さった。
 石段を降り、鳥居をくぐって全権代行と合流。そして11時44分、再び出発した。段々と雲行きが怪しくなり、雨が降りそうな気配がしてきた。

しだくら橋
 雨も気がかりであるが、私どものお腹も又、気がかりである。そのため顧問と相談の結果、12時になったらどこかで昼食を取ることにした。
 そう考えて歩いていると、11時49分ごろ、しだくら橋が現れた(26分早い)。吊橋である。

「この橋を渡る際、五人以上で渡らないで下さい。」という看板のある、いかにも揺れそうな怖い橋である。尚、今私はパソコンでこの紀行文を書いているが、「しだくら橋」という表記を、この項の見出し共々「しだらく橋」と書いてしまった。第5回研修のしおりも見てみたら、こちらも「しだらく橋」となっていた。申し訳ない、完全に私の誤った思い込みによるミスである。私が中学1年生の時、地理の授業で「ヒマラヤ山脈」というのを習った。有名である。しかし、私はこれをどういうわけか「ヒラヤマ山脈」と覚えてしまい、定期テストでもそのように書き、×を受けたことがある。よく考えれば、「平山山脈」なんておかしいなと気づいたはずなのだが、カタカナ語というのは間違えやすいものだよ。(つづく)(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第17回

2006年02月19日 17時57分34秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
白髭神社
 11時12分、白髭神社入口に到着した。白髭神社へは石段を登るようになっていたので、構成員Bが非常に難色を示した。すると、石段の前にいた、例の観光ガイドボランティアと見られるおじいさんが「ここの階段は大したことないよ。」とエールを送ってくださり、私どもは勇ましく石段を登って行った。
 お話の通り石段は非常に易しいもので、11時14分、白髭神社境内に到着した(予定より11分早い)。やはり観光ガイドボランティアご一行がいたが、しばらくしていなくなったので、色々と神社を観察した。
 神社の建物の右横には、非常に大きな石灰岩の断層面が露出しており、壮大な感じがした。高さ約30m、横幅約40mだそうだ。

 顧問が神社の建物のつくりなどについて、いくつか解説して下さった。その後、何人かがお賽銭を入れてお参りされていた。
 19分早い11時21分、白髭神社を出発した。
天候危うし(1)
 しばらく行くと、弁慶の腕抜き岩というものが現れた(11時25分)。高さ3mほどで、腕の通る岩が下の方にあることから弁慶伝説となったようである。試しに私が穴に腕を通してみたが、余裕であった。
 耳神様を越え、どんどん歩いて行った。すると11時29分、お隣に青梅街道が現れた。全権代行が青梅街道の白髭トンネルの方に向けて、携帯電話を構えた。写真撮影をされるようだったが、顧問が驚いて「全権代行どうしたの?トンネルなんかとって面白いの?」と私に耳打ちされた。私は「いや、きっとあれだと思います。」と言って、はるか上の方にある橋梁を指差した。

その橋梁は写真のように、異常な高さで架かっていたので、顧問はまたも驚かれて少々感激していた。これも、やはりダム建設鉄道線路のようである。よくこんなものをつくった、と私も感激してしまった。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

新シリーズ小笠原 最終回(第25回)

2006年02月18日 17時07分37秒 | 【連載】新シリーズ小笠原(完結)
濱江丸

3日目(7)
濱江丸の章
 1時30分乗船し、兄島を出発して父島二見港へ向けて出発した。2時28分頃、父島境浦海岸沖合いに至り、沈没船を目撃した。
 これは濱江丸(ひんこうまる)というそうで、大戦中は南方方面に物資輸送を行っていた。しかしサイパン陥落前々日の昭和19年6月12日、サイパン北方で爆撃され、操縦不能に陥り1ヶ月太平洋をさまよった。その後復旧し北上したが、7月末、父島近海で雷撃機による魚雷を受けたが撃沈はせず、境浦沖合いに座礁して乗組員は陸にあがったという。
 昭和38年のチリ地震の津波で海岸近くの現在地に流され、その後放置されて現在はだいぶ沈んでいる状況である。
 3時5分頃、二見港に上陸した。(おわり)

※お知らせとお詫び※
 筆者、会長就任による多忙のため、及び本連載への人気が低迷していることを受け、本連載は今回で打ち切ります。ご愛読下さいました皆様、突然の終了となり大変申し訳ありません。
 今後は連載中の「奥多摩をゆく」をはじめ、さらにクオリティーが高く楽しめる記事を書いてまいりますので、本ブログ御愛読のほど、何卒宜しくお願い申し上げます。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

鉄道大回り乗車の旅(八高線編)その9

2006年02月17日 21時30分34秒 | 【連載】鉄道旅行記
高崎線は行く(2)
 倉賀野。上り電車は隣のホームなので、そちらに移動。ホームの案内表示には大宮,上野のほかに新宿や横浜方面といった行き先があった。湘南新宿ラインが開通してからはこのような行き先の電車も来るのである。ホームには高麗川行きの列車がやってきた。もちろんキハ110系。客を少し降ろしてすぐに発車していった。高崎側にはEH200型電気機関車らしきものが停まっていた。奥のホームに高崎方面行き電車が到着。車両はE231系だった。こちら側にも、もうそろそろ電車が来るだろう。
思ったとおり電車が近づいてきた。遠目で見た感じだが車両は211系らしい。私は車両がクロスシート車かどうか確かめるため端の方へ移動した。車両は5両×2編成の10両。大宮側の5両はロングシート、つづいて高崎側5両はいかに…。
 全バツだった。どちらもロングシート。ということで相談の結果、途中の籠原まではこの電車で行くことになった。
 高崎線211系に乗車。電車は倉賀野を発車した。再び鏑川を渡り、右に北藤岡を見つつ通過。関越自動車道をくぐり新町に到着。ここから本庄まではひたすら真っ直ぐでカーブらしいカーブがない。私はほかのメンバーと籠原で降りることを確認して、後ろの車両に移った。9号車はM(電動)車だがエアーコンプレッサー(CP)の音がうるさい。10号車はMc(電動制御)車。私はここに座った。神名川橋を越え神保原(じんぼばら)に到着。ここからはATOS(「アトス」と読む)区間に入る。車窓の景色は本線沿いなので、住宅が目立つ。本庄に到着。ここで特急「水上・草津」3号上野行きの接続待ちのため7分間停車。電車は車内保温のため、ドアが開かない。すると、車外に大学生らしい集団がいるのだが、ドアが開かないことに戸惑っている。開け方は分かっているみたいだが、ボタンをしっかりと押さないと開かないというものなので、軽く押しただけでは開かないのだ。この集団はしっかり押し切っていないがために、ドアが開かないのである。そこで、私は内側からドアを開けた。すると、この方々からは「ありがとう」と言われた。特急電車は5・6分ほど遅れているらしく、この電車は特急の後に発車することになり、ここで5分ほど遅れることになった。
 5分ほどして特急「水上・草津」3号上野行きが来た車両は185系古い部類の電車である。特急電車は本庄を発車。この電車もすぐに発車する。高崎線では半自動時は発車間際にドアを開く方式で、八高線とは逆である。
 本庄を発車。次は岡部。ここまでの遅れを取り戻すため、飛ばしてゆく。岡部を発車し、次は深谷。深谷の次が籠原である。深谷を発車したあたりで、私はほかのメンバーがいる車両に戻った。放送部長と構成員Aはゲームをしていた。
 籠原に到着。この電車は後ろに5両をつなぎ、15両で上野に行く。私たちは電車を降り、後ろの増結車両を見ることにした。後ろの車両もロングシートだった。そのため、次の上野行きに乗ることにした。211系は一度ドアを閉めた。いよいよ連結である。後ろから211系5両が到着。双方共に非常口を開け、作業員の方が、連携を取りながらゆっくりと近づいてゆく。残り1メートルほど、連結は、遅すぎると噛合わないし、速すぎると追突事故になる。速度を微調整して連結器が接続される。「ガチャン」と音が鳴り後ろの電車にわずかな衝撃が走る。連結完了だ。15両になった211系は上野に向けて5分ほど遅れて発車していった。
                                (つづく)
                          著者:研究関連担当代表
PS.掲載されている写真はこの際に撮った物ではありません。

鉄道大回り乗車の旅(八高線編)その8

2006年02月17日 00時33分12秒 | 【連載】鉄道旅行記
八高線は行く(6)
 寄居に到着。列車交換のため、発車まで10分ほどある。そのため私と放送部長は一度列車から降りることにした。例のごとくドアを開けてホームに降りる。ホームが低いため、車両にはステップがついている。外ではエンジンのアイドリング音が聞こえるので、一見バスのようにも見える。ホームが低いことから車両の床下が見える。そこからエンジンが見ると、やはり回っていた。今首都圏では、ディーゼル車の排ガス規制がされているが、鉄道もやはり対象なのだろうか。
 隣には東武東上線と秩父鉄道線がある。双方共に電化されている。この路線は依然非電化だ。ホームの時刻表は非常にローカル的なもので、1時間に1本とない。しかも年中同じダイヤなのである。(平日も休日も関係なし)ホームの看板も昨日の写真の通りどこか国鉄チックである。昔はここを5・6両編成が走ったというが、今では考えられない。
 そんな事で、すぐに時間が経ってしまったので、高麗川行きの列車が来た。入線するところを取るのもおつだが、そんな事をして列車に行かれてしまっては大変なので、すぐに車両に戻った。
 列車は寄居を発車。隣を秩父鉄道線が走っているのだが、電化されている線路は分かっても、その存在に最初は誰も気づかなかった。途中で、貨物列車とすれ違った気がした。ちなみに秩父鉄道を走っているのは国鉄の101系と元東急車、そして蒸気機関車(SLパレオエクスプレス)である。この先用土、松久、児玉、丹荘と進んでいく。乗客は次第に増えてゆく。この区間の途中で私はトイレに行った。
 児玉に到着。ここの看板は国鉄時代から変わってないそうな。ここまで、八王子から約80キロほど。寄居あたりが高麗川-高崎間の中間点で、ここまでが45分ほど。踏み切りも数多く越えてきたので、八王子からまもなく100箇所目に突入する。しかしその100箇所目がどこにあったかは知らない。丹荘を発車し、神名川橋りょうを渡る。ここからは群馬県だ。
 群馬藤岡。この駅前は多少栄えているようで、イトーヨーカ堂があったここでこの看板を見ることになるとは・・・。八高線もあなどれない。群馬藤岡を発車。車内は混雑し始めいよいよ立ち客が現れた。上越新幹線、上信越自動車道をくぐりいよいよ北藤岡に到着した。隣は高崎線の線路がありここからは実質的な高崎線になる。(「八高線は行く」おわり)

高崎線は行く(1)
北藤岡を発車。高崎線に合流。頭上に架線が復活し、電化路線をマスコンフルノッチ(アクセル全開)で加速してゆく。一度本線と別れ、単線のまま鏑(かぶら)川を越える。再び本線が右に出てきて3車線の中を2両編成のディーゼル気動車が快走する。そして列車は静かに減速してゆくいよいよ八高線の旅も終わりだ。降りる仕度をして、到着を待つ。
 倉賀野に到着。私たちは列車から降りた。ここのホームもキハ110系に合わせて低い。キハ110系は再びエンジンを唸らせ、高崎へ最後の駅を発車していった。ここからは本格的な高崎線。列車が来るまで少しかかりそうだ。
                                (おわり)
                          著者:研究関連担当代表

PS.2月16日から新しい役職に正式に代わりました。それに伴い、一部構成員の名義が変わります。
 2/10現在 → 2/16より
    会長 → 渉外担当代表
研究関連担当代表 → 会長
総合統括副代表 → 研究関連担当代表
会長全権代行 → 会長全権代行
出納担当代表 → 出納担当代表
                  その他変更はありません。

ダイジェスト国分寺研修旅行 下

2006年02月16日 22時15分47秒 | Weblog
国分寺市Ⅱ
 現在の国分寺を見学し、続いて「史跡武蔵国分寺址」を訪れました。建物などは建っていなく、石碑などがあって当時をしのぶことが出来る場所でありました。
 そして、近くの国分寺市立第四中学校敷地内にある「国分寺市立文化財資料展示室」を訪れました。国分寺市内に分散している、小規模展示室の3つめですが、一番新しくて綺麗な展示室でした。
 その後、さらに南下して府中市に入り、府中刑務所北の三億円事件発生現場付近を訪れました。

 府中街道を北上し、武蔵国分尼寺址を見た後、伝鎌倉街道を通りました。先生によると、かつては舗装がされていなく、大変趣きのある道であったそうです。

 こうして、小平・小金井・国分寺・府中市を舞台とした「第8回特別研修旅行」は、古代・中世・近世をしのびながら終了しました。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

東山道武蔵路