都立上水高校 第1期社会科部OB・OG会公式ブログ

第1期社会科部は平成21年3月12日消滅。本ブログは現在活動中の新生「社会科部」様や都立上水高校とは一切関係ありません。

第9回上水祭訪問(第5回第1期社会科部の集い)

2012年09月15日 23時00分14秒 | OB・OG会
 平成24年9月15日(土)、「東京都立上水高等学校第1期社会科部OB・OG会」では「第5回第1期社会科部の集い」として東京都立上水高等学校を訪問し、開催中の「第9回上水祭」を視察して参りました。昨年に続いての訪問です。

 今回も昨年同様、新生・社会科部の展示の模様を視察して参りました。新生・社会科部にとって、今回が3年連続3回目の上水祭参加となります(第1期社会科部時代を含めると、通算6回目の参加)。素晴らしいことですね。

 本年の展示は『上水社会科部 バーチャルツアー』と題して、3年F組教室を使用して行われていました。部員数は昨年よりは減少しているものの、割りばしを使った国会議事堂の模型作成や、本年7月に日本銀行本店の見学を行うなど、持続的に活動を行っている様子がうかがえました。

 部長殿(新生・社会科部3代目)より写真撮影・ブログ掲載の許可を頂いたため、展示風景の写真を掲載いたします。









 私は日本銀行本店を訪問した経験がないため、大変興味深く感じるとともに、久しぶりに巡検(第1期社会科部での呼称は「特別研修旅行」)を行いたくなりました。

執筆:東京都立上水高等学校第1期社会科部OB・OG会会長(旧社会科同好会第3代会長※上水高1期生)


※当会は『平成21年3月12日に消滅した旧社会科部』(=第1期社会科部)のOB・OG会であり、現在東京都立上水高等学校で活動を展開する『社会科部』様との間には直接の関係はありません。本ブログについても同様ですので、本ブログの記載内容について現在の『社会科部』様や東京都立上水高等学校へ問い合せることはお控えください。

第4回第1期社会科部の集い

2012年07月29日 23時06分42秒 | OB・OG会
 平成24年7月29日(日)、東京都立上水高等学校第1期社会科部OB・OG会では「第4回第1期社会科部の集い」を実施致しました。会場はJR国分寺駅北口近くの「国分寺CHUBO はっぴ 北口店」でした。



 今回は史上初の居酒屋での開催となり、今までとはまた違った盛り上がりをみせました。加えて、昨年9月の「第8回上水祭」にて現・社会科部の出展を見学した者からその模様の報告があり、より一層盛り上がりました。

 今後も、秋の上水祭を再び訪問するなど、第1期社会科部OB・OG会の活動を定期的に行っていければと思います。また、現役時代のような散策活動(当時の呼称は「特別研修旅行」)を再び行いたいという意見も出されましたので、実現へ向けて様々な可能性を探って参りたいと考えています。

執筆:東京都立上水高等学校第1期社会科部OB・OG会会長(旧社会科同好会第3代会長※上水高1期生)


※当会は『平成21年3月12日に消滅した旧社会科部』(=第1期社会科部)のOB・OG会であり、現在東京都立上水高等学校で活動を展開する『社会科部』様との間には直接の関係はありません。本ブログについても同様ですので、本ブログの記載内容について現在の『社会科部』様や東京都立上水高等学校へ問い合せることはお控えください。

第8回上水祭訪問

2011年09月11日 21時28分37秒 | OB・OG会
 平成23年9月11日(日)、「東京都立上水高等学校旧社会科部OB・OG会」では「第3回社会科部の集い」として東京都立上水高等学校を訪問し、開催中の「第8回上水祭」を視察して参りました。

 旧社会科部は平成17~19年の3年連続で上水祭に参加しましたが、平成20年は出場せず、その後平成21年3月12日に全部員の卒業により会員が0名となり消滅したはずでした。

 ということで、旧社会科部の大半のOB・OGは久しく上水祭見物に行くことは無くなっていましたが、本年3月27日の「第2回社会科部の集い」の席上で“昨年(平成22年)の上水祭に、「社会科部」と名乗る団体が展示を行っていた”という驚愕の情報があるOBから提供されたため、実情を確かめるべくこの度上水祭を訪問することになった次第です。

 さて、肝心の確認結果ですが、先述の情報通り「社会科部」様が展示を行っていらっしゃいました。現役部員である先代の部長殿から撮影・掲載の許可を頂いたため、展示風景の写真を掲載いたします。









 先述のように旧社会科部は唯一の部員(3期生)が平成21年3月に卒業したことで消滅しましたが、その直後の平成21年4月に入学された6期生2名が入会し、新生社会科部として活動を開始。翌22年9月には「第7回上水祭」に参加し、部誌も発行。部員は順調に増え、今回は2回目の上水祭参加・部誌発行となったとのことです。

 展示や部誌を拝見したところ、これまで浅草や国会議事堂、谷中などの散策活動や部誌を発行するなど、さまざまな活動を精力的に展開なさっていることが分かりました。こうした活動に興味のある将来の上水生の皆様は、入会して頂ければ楽しい高校生活を送れるのではないかと思います。

 不死鳥の如く蘇った新生社会科部。展示を拝見して旧社会科部での活動の日々を思い出すと同時に、新生社会科部の皆様がこれからも楽しく活動を展開して頂ければと感じました。


―――

※お知らせ

 上述の通り、現在東京都立上水高等学校で活動を展開する『社会科部』様と『平成21年3月12日に消滅した旧社会科部』との間には直接の関係はありません。そのため、本ブログは現在の『社会科部』様とは一切関係がありませんので、本ブログの記載内容について現在の『社会科部』様や東京都立上水高等学校へ問い合せることはお控えください。

 また、これまで『平成21年3月12日に消滅した旧社会科部』については「旧社会科部」と表記して参りましたが、混同・誤解を防ぐため「第1期社会科部」へと表記を改めます。これに伴い、平成23年9月11日付で「東京都立上水高等学校旧社会科部OB・OG会」(平成21年3月20日設立)は「東京都立上水高等学校第1期社会科部OB・OG会」に、本ブログ名称は「都立上水高校 旧社会科部OB・OG会公式ブログ」から「都立上水高校 第1期社会科部OB・OG会公式ブログ」へとそれぞれ改称し、「社会科部の集い」は次回から「第1期社会科部の集い」に改称します。


(執筆:1期生 社会科同好会第3代会長)

第2回社会科部の集い挙行される

2011年03月28日 22時47分06秒 | Weblog
 3月27日(日)、高田馬場のシェーキーズ高田馬場店にて「第2回社会科部の集い」が挙行されました。これは、2009年に実施された、「平成20年度 旧社会科部卒業祝賀会兼社会科部廃部記念式典」以来のOB・OG会による行事となりました。3期生卒業後2年が経過し、旧社会科部員の近況を報告する機会となりました。

(投稿:2期生 元研究関連担当代表)

行け!上水健児

2010年07月14日 22時44分30秒 | Weblog
こんにちは。旧社会科部第3代会長を務めた者です。上水高校1期生であり、今は大学4年生であります。

現在、夏の甲子園に向けて野球部の地区大会が行われておりますが、上水高校硬式野球部が西東京大会(参加校119校)において活躍しています。

◎2回戦〔7月9日(金)〕 八王子市上柚木公園球場
 都上水 8-0 和光 ※7回コールド

上水高校にとっては初戦です。見事快勝しました!読売新聞の報道によると、平成16年の創部以来、夏の大会では初めての勝利だそうです。


◎3回戦〔7月13日(火)〕 市営立川球場
 都上水 13-3 都井草 ※5回コールド

2戦目の対東京都立井草高等学校戦。前回に引き続いてコールド勝ちです!

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2試合連続コールド勝ちで、波に乗っている東京都立上水高等学校硬式野球部。只、我々OBは勝利を信じて応援するのみであります。

次の試合は7月17日(土)10:00より、市営立川球場にて対堀越高等学校戦であります。みなさま、応援しましょう!


ちなみに、同日12:30より同球場にて、先日応援団がテレビ出演をしてた明治大学付属明治高等学校と、明治大学付属中野高等学校が対戦します。明治対決ですね!

社会科部廃部記念式典挙行さる

2009年03月23日 18時18分15秒 | Weblog
 前回の記事について、旧社会科部の事実上の廃部日は平成21年3月12日でした。訂正します。なお、旧社会科部は旧社会科部OB・OG会へ発展的改編のため廃部となりました。

 3月20日(日)、吉祥寺の鍋ぞう吉祥寺サンロード店にて「平成20年度 旧社会科部卒業祝賀会兼社会科部廃部記念式典」が挙行されました。最後の卒業生となった3期生の卒業を祝福すると同時に、社会科部4年半の歴史について回顧する良い機会となりました。


 OB・OGが関与する行事は、昨年3月30日の「平成19年度卒業祝賀会」、同年9月27日の「第1回社会科部の集い」以来3回目の開催となりました。(執筆:1期生 第3代社会科同好会会長)

OB・OG会ブログに改装

2009年03月12日 23時35分48秒 | お知らせ
 東京都立上水高等学校社会科部は、平成21年3月11日をもって構成員が0名となり、事実上の廃部となりました。本ブログは本日より、「都立上水高等学校 旧社会科部OB・OG会ブログ」に改装しました。

 本ブログは東京都立上水高等学校とは一切関係がありませんので、予めご承知の上ご覧下さい。


 東京都立上水高等学校旧社会科部は、平成16年10月21日の「社会科同好会」としての設立以来、平成18年5月1日の「社会科部」昇格を挟み約4年5ヶ月の歴史に幕を閉じました。その間、ご支援・ご協力を賜りましたみなさまに深く御礼申し上げます。(執筆:1期生 第3代社会科同好会会長)

今こそ…。

2007年06月21日 21時49分26秒 | Weblog
 今日、久しぶりにまともな活動が出来ました。今までは、部員が集まることが出来ず、結局は何も出来ない状態が長く続いてしまいましたが、これからは最低週1回の活動はしていきたいと計画しています。一年生部員がひとりもいなく、いまだに危機的状況であることは変わりませんが、とにかく今は、研修旅行と文化祭展示を中心に企画を練り、いち早く本格的な活動が出来るようにしていきたいところです。

 一昨年度前のキャッチフレーズにこのようなものがあります。
 「社会科部 新世紀への一歩 今こそ立ち上がるときだ!」
 このキャッチフレーズのように社会科部の復権?を目指して、小さな一歩を重ねていきたいと思います。
(おわり)
著者:研究関連担当代表

PS:壁紙を変更しました。今までは桜の写真でしたが、もうそろそろ夏なので、それらしいものにしました。

危機的状況

2007年04月17日 23時15分12秒 | 上水高校ニュース
 4月10日に我々は部活紹介オリエンテョーションを開催し、それより現在、即ち1週間経ったのだが、如何せん仮入部者が0という状況が続いている…。入学式が6日、その日から口頭による宣伝を行ったつもりだったのだが、やはり中学校に存在してないであろう部活の為、活動状況が見えにくいなどの理由から敬遠されがちなのだろうか?
 私は4月の終わりごろ、仮入部期間も終了した頃にギリギリ入部であり、活動内容も殆ど知らなかったのだが入ってみると実際とても楽しい放課後を過ごしている
 今年度で同好会格下げなど我々は望んでおらず、全く以ての外の話でありたいが為、何とか新一年生を獲得出来ないものだろうか…

 次回、連載「鎌倉街道を歩く」再開致します
 執筆:社会科部初代部長

鎌倉街道を行く~文字でふり返る研修旅行~(その5)

2007年04月07日 11時40分04秒 | 【連載】鎌倉街道を歩く第2区
第3話:鎌倉橋と玉川上水
 青梅街道を渡り、南へと歩く。周囲の景色は・・・やはり家と畑。しかし、このあたりの土地は細長いところが多い。先生の話によれば、このあたりは、玉川上水の開削の後に新田開発をしたからだそうだ。なるほど・・・。ただし、新田といっても畑だが。
 再び通りと交差する。この先に道がなく行き止まりになっている。通りの向こう側の左右に道が1本ずつあった。さて、どっちに行けばよいのだろうか。地図によると右側の道に行くことになっているが、先生は、「そっちの道に鎌倉街道の標識があるじゃないか。」と左側の道を示した。おかしいなと思って再び地図を見ると・・・。地図を反対にしていたようだ。こりゃ失敬(笑)。
 気を取り直して南へ進む。このあたりの地区は津田町である。その通り、津田塾大学の裏側を歩いていた。この日はセンター(試験)2日目であり、津田塾大学も試験会場になっていた。ところで、先生は、3年生の担任である。さて、こんな日に部活動に連れ出してよかったのだろうか。(ちなみに上水生は中央大学で受験していた。)
 目の前には雑木林が見えてきた。この奥が玉川上水である。玉川上水は昨年の研修旅行のテーマであり、この辺りも研修先となっていた。ここで鎌倉橋を渡るのだが、この橋を目にするのは、私と先生は2回目だった。なので先生が、「この橋ありましたね~。」とおっしゃっていた。実は、地図上にはこの橋があったりなかったり(縮尺によって表示されない)とよく分からなかったので、この前日にここまで来てチェックをしていた。もしこの橋がなかったら・・・。大迂回を迫られていたのだろう。
 私たちは鎌倉橋を渡って、玉川上水をあとにした。
(つづく)

研修旅行コラム
玉川上水
玉川上水は、江戸時代に開削された水道用水路である。小平の辺りは、もともと水が出ない土地であり、玉川上水が開削されるまでは人家などほとんどない荒涼とした土地だったそうだ。上水開削後は、新田開発が進み現在に至り、この辺りの土地が短冊状なのは、その名残りである。
(おわり)
著者:研究関連担当代表

鎌倉街道を歩く~振り返ると鎌倉街道~そのよん

2007年04月05日 01時13分45秒 | 【連載】鎌倉街道を歩く第3歩目
第4章 府中郷土博物館内の模型の精密さは異常

 前回の泉があまりに虚しかったため、私は正直博物館にも過度の期待はしていなかった訳である。入口に入り、まず一回から巡る予定も、歩こう会の回覧により、我々は2階から巡る事となった。
 まず飛び込んできたのは、縦に長い地層であった。府中郷土の森だけあって、府中周辺についての歴史が調べられているのか、成る程。そういえば昔来たなぁ・・・なんて思い出しつつ、題名に触れられている模型に辿り着いた。この出来は素晴らしい!と内心叫んでいた。先生もとてもお気に入りらしく、何でも模型だけを見に博物館へ来たこともあるそうである。うーん、確かにその価値はある。昔の府中の町並みを再現している模型なのだが、家の造り、水路の水の様子など細かい所も忠実に再現されていた。これだけを見に来ることも激しくお勧めする
 さて、先に進み1階に戻った。縄文時代に関しての展示だったのだが、縄文時代の遺跡は武蔵野各地に点在しているのだが、弥生時代の遺跡は殆ど武蔵野にも残っていないどころか、東京周辺に存在していないのである。理由としては氷河期に入り、住めなくなった?等の理由が候補としてあるそうだが、ハッキリとした理由は分からない、と先生は仰られていた。太古のロマンの一つを我々は肌で感じたのである。
 博物館見学も終わり、我々は公園内散策へと向かった。

鎌倉街道を歩く~振り返ると鎌倉街道~そのさん

2007年03月29日 15時46分13秒 | 【連載】鎌倉街道を歩く第3歩目
第3章 多摩川採掘の残したモノ

 
 下河原緑道を過ぎた我々は府中郷土の森公園へと辿り着いた。まずは博物館には入らずに、池の方向へと向かった。ここには遙か2000年前に咲いていた王賀蓮の株分けされた物や、多々蓮が植わっていたのだが、何故か全て枯れてしまっていた。蓮も時代の流れから疲れてしまったのだろうか?
 さて、ここに元々このような池になるような穴はなかったのに、どうしてこの場所に池が出来たのでしょう?と先生は質問された。私は答える事が出来なかったのだが、もう一人の彼が、採掘場で掘られたからでは?と答えられた。その答えが正解であったらしく、先生は説明を始められた。
 多摩川採掘場があった為、ここら辺りでも砂利を掘り、それを前回触れた下河原線で運搬、掘られたこの地には池が残ったという訳だ。このような穴は近くにもあるようで、池にはなっていない採掘場の後である穴が残っているそうである。
 この足で我々はそのまま府中郷土の森公園内へと向かった。

執筆:社会科部初代部長

放送部送別会に参加!

2007年03月27日 12時35分52秒 | Weblog
 平成19年3月26日(月)、放送部の送別会に招待され、参加してきました。
 当日は放送部員7名、社会科部員2名と放送部顧問の先生2名の計11名で実施されました。(そのうち2名は放送部と社会科部を兼部どちらも今年度卒)
 式典は10時より行なわれ、まず放送部第2代部長より3本締めと乾杯の音頭がとられ、その後、顧問の先生、新放送部長の挨拶や、卒業された3年生からの挨拶、さらに在校生(私を含む)の挨拶が行なわれました。どの方の挨拶も素晴らしいものでした。
 その後、顧問の先生方は所用の関係で退席され、生徒のみで、送別記念パーティー(1次会)が開かれました。9名が参加して出題者が描いた絵を当てるゲームをしました。お題を考える人と、実際に描く人は違うのですが、お題は各参加者がかわり番こに考え、それを1年生の女子放送部員が描いてくれました。皆さんの絵のうでは私以上でした。(絵画は苦手のもので・・・。)また、当てる人の勘も鋭く、大いに盛り上がりました。
 こうして正午過ぎ、大盛況の中、送別会は終了しました。
(おわり)
著者:研究関連担当代表(2年)

鎌倉街道を行く~文字でふり返る研修旅行~(その4)

2007年03月25日 15時20分33秒 | 【連載】鎌倉街道を歩く第2区
第2話:鎌倉街道突入!
 小平6小を過ぎ再度南に進路をとった。一度路地に入れば、住宅街と畑が広がっている。多摩地区は皆こうなのであろうか。
 するとまたもや交差点に出た。どちらに曲がるか紛糾したのだが、先生が鎌倉街道の標識を発見し、左折。次の交差点を右折し、やっとのことで鎌倉街道に到達した。さすがは古道。住宅街の路地でありながらひたすらまっすぐなのである。この道が、分倍河原を越え町田を越え鎌倉まで繋がっている。
 私たちは鎌倉街道をひたすら南進した。すると気づいたのだが、まっすぐな線形のためか、地元民の抜け道になっているようで、路地のくせにしては車がよく通る。ただし、一方通行のようである。(この先では救急車にも遭遇した。)確かに信号はないし、まっすぐならば、走りやすいといえば走りやすいが。路地裏なので、住宅街のど真ん中。鎌倉街道であるといわれなければ何の変哲もない道である。さすがに集団で歩く人はいなかった。
 次の交差点を直進すると、周囲はいきなり畑になった。奥にはビニールハウスがあり、そのとなりにはプレハブ小屋があった。その小屋には看板がかかっていた。うる覚えで申し訳ないのだが、その看板には以下のようなことが書かれていた。「○○の野菜工場」(○○はよく覚えていない。)すると、「工場だから中でがっちゃんがっちゃんやっているのかな」という話が出た。さすがにそこまではやっていないだろうが、何かしらの青果食品を出荷していることは間違いないであろう。
 さて、私たちの目の前には大きな道が見えてきた。これが青梅街道である。まだ旅は始まったばかりだ。
(つづく)
研修旅行コラム
青梅街道
 青梅街道は、東京都新宿区と山梨県甲州市を結ぶ道路である。この路線は甲州街道と新宿追分で分岐する甲州裏街道とも呼ばれていた。もともとは、成木(青梅市)の石灰を江戸城に運ぶための道路であったが、途中に関所がない(甲州街道には八王子市の小仏峠に関所がある。)ため、旅行客も多く通った道であった。鎌倉街道とは小平市小川町2丁目のJR新小平駅付近で交差している。またこの道は、西多摩、北多摩地区の東西路の大動脈(西多摩、北多摩には国道がほとんどない)ため、多摩随所の渋滞スポットも多い。
著者:研究関連担当代表

鎌倉街道を歩く~振り返ると鎌倉街道~そのに

2007年03月15日 22時17分04秒 | 【連載】鎌倉街道を歩く第3歩目
第2章 廃線跡のロマン

 今回の区域は鎌倉街道沿いに見る物が少ないので、寄り道しつつの鎌倉街道である。
 歩いて数分で下河原緑道に我々は出た。この下河原緑道は1.5km程真っすぐな道筋が続いている。何故このような真っすぐな緑道になっているのだろうか?
 その理由は、昔ここに電車が通っていたのである。写真を良く見てみるとレール跡が確認出来る。この鉄道は元々は多摩川の砂利を運ぶ為に作られたのだが、1920年に国鉄が買収し、下河原線として人々を運ぶために国分寺~東京競馬場前間を走っていた。だが、1973年の武蔵野線完成に伴って廃線となってしまった訳である。
 昔は鉄ちゃんであった私にとってはレールの上に立って前を見てみると感慨深い物があったのは言うまでもない。
 緑道をのんびりと歩き続け、我々は府中郷土の森公園に到着した。

執筆:社会科部初代部長