goo blog サービス終了のお知らせ 

都立上水高校 第1期社会科部OB・OG会公式ブログ

第1期社会科部は平成21年3月12日消滅。本ブログは現在活動中の新生「社会科部」様や都立上水高校とは一切関係ありません。

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 最終回(第26回)

2006年03月07日 16時05分45秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
波乱の旅終了す
 そして「奥多摩駅行」のバスがやってきたので、私どもは乗車した。定刻より1分遅い3時53分に出発した。座席が空いていたので、私どもは前から順に座った。
雨の勢いが強くなる中、バスはどんどん進んだ。このバスは西東京バスであったが、天井を見ると吊り皮が両窓側と真ん中の、合わせて3列分もあったので驚いた。西武バスなどは真ん中の列には無い。又、途中の停留所で、雨に濡れた方々が大量に乗車して来られたため、バス内は混雑した。
 4時8分、奥多摩駅停留所に到着。わずか15分しかかからなかった。渋滞しなくて良かったよ。
 雨脚は激しかったが、構成員Bは「奥多摩温泉 もえぎの湯」へ行くということだったので、ここでお別れした。後日感想をお聞きしたが、なかなか良かったとのことである。
 さて、私どもは奥多摩駅の改札へ向かった。切符を買ったが、自動改札で無いのでどうすれば良いのか困ったが、駅員がそのまま通過しろという合図を出していたので、改札を通過してホームへ向かった。

 すでに『ホリデー快速おくたま号:新宿行』は到着していた。私どもはホームで集まり、会長から今回の研修旅行のまとめのお言葉を頂き、4時10分ごろ解散した。もちろん皆電車に乗るので、さっそく乗車した。席が空いていたので、ドアの横から私・顧問・副代表が座り、反対側の座席にドアの横から会長・構成員A・出納担当が座った。全権代行はお隣の車両へお行きになり、その後、姿を見ることはなかった。
 発車まで時間があったので車両やホームの写真撮影をし、4時23分より若干送れて発車した。
 5時9分に拝島駅に到着した。顧問・会長・出納担当と別れ、構成員Aと共に西武拝島線ホームへ向かい、5時19分発『各停:西武新宿行』に乗車した。構成員Aとは途中で別れた。
こうして、これまでの特別研修旅行で最も波乱に満ち溢れた、第5回特別研修旅行は終了した。奥多摩研修を、あきらめなかった。(完)

※4ヶ月間に渡ってのご愛読、ありがとうございました。この連載は、さらに内容を向上させた上、4月発行の「部報 JS社会」第3号に掲載される予定ですので、お楽しみにお待ち下さい。
 近日中に、新連載「川越をゆく ~特別研修旅行の原点~(仮称)」を開始します。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)


奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第25回

2006年03月04日 21時20分32秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
奥多摩水と緑のふれあい館
 2時43分、予定より42分早く奥多摩水と緑のふれあい館に到着した。予定より大幅に早いため、今後の動きを検討することになった。その結果、3時52分発のバスで奥多摩駅へ戻り、4時23分発『ホリデー快速奥多摩4号:新宿行』に乗車することが決定。3時50分に奥多摩湖バス停に集合することになり、一時解散した。
私どもは奥多摩水と緑のふれあい館に入り、各自見学した。
 1階ロビーは吹き抜けの開放的なつくりになっており、インフォメーションカウンターがあり、又、奥多摩についてのビデオが流れていた。
 まずは、「水のふるさと-歴史・文化の旅-」コーナーに入った。ここは、奥多摩水と緑のふれあい館の前身・奥多摩郷土資料館の要素を残していると見られる。資料を展示して奥多摩の歴史・民族文化を紹介していた。ここは少々内容が薄いが、まあ面白かった。
 続いて「水が生まれる-緑のダムの秘密-」。魚の冒険・虫の冒険・鳥の冒険の3つのセクションに分かれている。なにやら、魚・虫・鳥の視点から小河内ダムを見るという設定の映像が流れていた。
 今度は「水が集まる-小河内ダムと自然-」。ここでも色々な映像が流れていた。
 さらに「水が輝く-奥多摩3Dシアター」。立体映像がシアター上映されているようだが、私は鑑賞しなかった。それよりも、3Dシアター入口のロビーで展示されている、小河内ダムの建設時からその後の写真パネル展示が面白かった。
 そして「水が広がる-はるかな水の旅-」。「館のマスコット“くりん”と一緒に水の旅を体験し、水に関する問題を考えます。」(「奥多摩水と緑のふれあい館」パンフレットより)。どうも全体的に見て、ここの博物館の展示内容は対象年齢が低めの設定であるようだ。これなら、前身の奥多摩郷土資料館を残しておいた方が良かったのではないだろうか。
 こうして展示の鑑賞は終了し、「パノラマショップ「ブナの森」」に到着した。ここは奥多摩の名産品売り場である。私は色々と見て回った後、家族から要求されていたわさび漬けを購入した。
 又、窓に面した休憩用の椅子では、すでに会長・構成員A・出納担当・全権代行・副代表が見学を終えて休憩なさっていた。顧問もショップに現れ、携帯電話でどなたかに売っているものを紹介しながら、お土産を検討している様子であった。さらに構成員Bは、となりの「パノラマレストラン「カタクリの花」」でラーメンを召し上がっていた。ちょっと驚いたものの、私もお腹がへっていたので何かを食べたくなったが、値段が高いので控え、ショップでラムネを買って休憩用の椅子に座って飲むことにした。出納担当も購入なさっていた。
 ラムネを飲んでいると、隣に顧問が着席なさった。そして、1階のインフォメーションカウンターで売っていたという、「奥多摩むかしみちパンフレット」を見せて下さった。本日通ったむかしみちのイラストマップが載っていて、細かく解説等があり、顧問は「記念になって良いと思いますよ。」とおっしゃっていた。さらに裏面には「奥多摩むかしみちの昔話」が紹介されていて、槐木の項では「さいかちの木」さんが昔話をなさっている。値段をお聞きすると100円とのことで、せっかくなので後で購入することにした。
 そして3時40分頃になり、そろそろバス停に向かうことにした。1階のインフォメーションで受付の方に「奥多摩むかしみちパンフレット」の購入を申し出ると、少々お待ち下さいと言って裏の別室へ入りすぐ戻ってきた。そして、その別室から男の人がやってきて、パンフレットを渡して下さった。それを目撃していた会長は「何でわざわざ運んでくるの?」と驚いた様子であった。恐らく、めったに売れないのであろう。パンフレットを見ると、奥多摩水と緑のふれあい館の文字がシールで貼られて奥多摩郷土資料館の文字を隠してあった。どうやら、相当前に印刷したものが残ったままであるようだ。
 こうして、私どもは3時45分頃に館の外へ出た。またも雨が降ってきており、傘をさしてバスを待った。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第24回

2006年03月03日 12時46分07秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
小河内ダム展望塔
 仮面ライダーと蜘蛛男が戦った道をさらに歩き続けた。そして2時21分、小河内ダム展望塔入口に到着した。中に入り雨に濡れた傘を置き、階段で3階まで上がった。雨天のため遠くまでは見渡せなく、雨に打たれる湖面をみつめた。又、床は小河内ダム周辺イラストマップになっており、しばらく鑑賞した。又、先ほどのおばさんがいらっしゃり、顧問に「あ!先生!!先ほどはどうもありがとうございました。」とお礼をされていた。
 2階はダム建設時や、奥多摩の自然についての写真パネルが展示されていた。又、クイズもあった。
 1階へ降りる途中に「小河内ダムのしおり」などのパンフレットがあったので頂き、外へ出た。幸いなことに雨がやんでおり、予定より41分早い2時34分に出発した。
 私どもはもと来た道を引き返し、奥多摩水と緑のふれあい館へ向かったが、この頃からたびたび副代表が行方不明となった。正しく言えば、ビデオ撮影のため、私どものはるか後方を歩く機会が多くなっていた。これもまた、副代表の熱き「カメラマン魂」である。

 さて、仮面ライダーと蜘蛛男の戦った道を歩き終わり、管理事務所を越えた頃から何やら怪しい音楽が響き始めた。顧問や会長が怪訝な表情を浮かべていると、音楽に乗って小河内ダムについての解説放送が始まった。顧問や会長はその解説放送の内容について、いちいちご自分の意見を表明されていた。
2時42分、左手に小さな小屋が現れた。そこの窓には、電光掲示板でダムの現在の状況が表示されていた。以下に記す。
  貯水位:95.64m
  水量:161171×103㎥
  放流量:8.16㎥/秒
  貯水率:87.0%
 なるほど。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第23回

2006年02月28日 13時47分08秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
さらばむかしみち(2)
 さて青梅街道を横断し、さらに進むと水根ロータリーに到着した。ここには木製の大きな看板があり、それの指す方向へ歩いて行った。この頃雨は一時的にやみ、49分早い2時2分、遂に奥多摩水と緑のふれあい館に到着した。我々は一旦館内に入り、トイレへ行った。そして再び外に出て、2時9分、小河内ダム展望塔へ向けて出発した。
仮面ライダーと蜘蛛男
 再び雨が降り始め、強くなってきた。そんな中、私どもは進んだ。歩きながら、顧問が小河内ダムについてのガイドを始めて下さった。小河内ダムは戦前から工事が続き、戦後になって昭和32年(1957年)にようやく完成した。又、ダムに沿った直線道路(堤頂の道路部)では映画等の撮影がよく行われ、仮面ライダーと蜘蛛男が戦った場所もここであるそうだ。このようなことを顧問が流れるようにお話なさっていると、私どもの後方にいたおばさん2人組も熱心に聞いておられ、私どもとその場の雰囲気を共有していた。顧問のガイドが終わると、おばさん方は顧問に「もしかして、学校の顧問ですか?」と尋ねると、顧問は「ええ、まあそういう者です。休日は一般人なので。」と曖昧にお答えなさっていた。
 ちなみに、私は帰宅後、仮面ライダーと蜘蛛男についてインターネットで調べた。何と、仮面ライダー第1回が蜘蛛男との対決で、タイトルは「怪奇蜘蛛男」だったそうだ。
 「ダムトリビア」というページには第1話の様子の他、小河内ダムをはじめとした諸ダムでの仮面ライダーロケについて書かれている。第56話「アマゾンの毒蝶ギリーラ」ではギリーラの毒をダムの貯水池に混入する計画があったそうで、執筆者が「※注意!貯水池に毒を混入するなどの行為は重大な犯罪です。絶対にしてはいけません。」と警告なさっている。丁寧だ。
 さて、私どもは管理事務所前に到着した。いよいよダムであるが、雨脚が一段と強くなってきたため、一旦管理事務所の軒下に退避することにした。色々と確認事項をチェックし、少々そこにいると、若干雨脚が弱くなったので、私どもは再び出発した。そして2時15分頃、小河内ダムに到着した。堤から下を見ると、発電所がはるか下へ見える。

高さ149mあるそうで、その高さが実感できた。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第22回

2006年02月27日 19時07分48秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
水根での行軍
 斜面を下り、歩いて行った。この辺りの道はうっそうとした木々に囲まれ、もはや山道である。私は後ろから2番目を歩き、1番後ろは副代表が歩いた。私どもはどんどん進んだ。
繰り返すが、まさしく山道である。登りが続き、なかなかきついものがあった。しかし、そんな状況でも副代表は時たま立ち止まってビデオ撮影をし、走ってやってくるということを何度もやっていておられた。
途中で本来の「奥多摩むかしみち」に合流し、引き続き歩いて行った。前をゆく会長や出納担当、構成員A、構成員Bはどんどん歩いていく。だいぶ疲れてきた。息が切れてきた。ちょっと前をゆく全権代行なども疲れてきたそうで、顧問が「ここを登ったら休憩しましょう。」とおっしゃり、そこを登りきってちょっとスペースのある場所にたどり着いた(1時32分)。しかし、前をゆく会長・出納担当・構成員A・構成員Bは既に先へ進んでしまった。全権代行が「まだ行くんですかぁ?」とまいっておられ、副代表が会長らの所へ駆けつけて停止させたようである。
本当に疲れた・・・。汗をかいて暑かったため、着ていた上着を脱いだ。後日会長に、何故あんなに歩いて行ったのかと尋ねた。すると、会長からは「何だかジャングル道のように思えて、行軍しているという感覚に襲われて気合が入った。」という答えがあった。ちなみに、当日会長が着用していたズボンはインターネット販売で買った、旧東ドイツ軍の軍服だったそうである。彼にとって神秘的なエネルギーを受けておられたのであろう。
さて、私どもが休憩していた所は青目立不動堂の前だった。顧問は見てみようとしたが、公開をしていなく、残念そうであった。
10分ほど休憩をし、再び出発することにした(1時40分)。小さな階段を登ると、右手に会長らが座っておられ、合流して歩いて行った。
さらばむかしみち(1)
遠くには奥多摩湖が見えるようになった。道は車道となり、急カーブを曲がりながら歩いて行ったが、遂に雨が降り出した。私や出納担当など一部の方は折り畳み傘やカッパを取り出し、着用した。顧問は「もうここまで来てしまったので、このまま行きましょうね~。」とおっしゃっていた。「奥多摩研修を、あきらめない。」
そして水根休憩所が右手遠方に現れ、奥多摩むかしみちが終了した。但し旧青梅街道はここで終わるのではなく、この先は大菩薩峠を越えて甲府まで続くそうである。
雨の中、下り勾配の道を進んだ。水根沢遊歩道は狭い川の上にこれまた狭い橋がかかっており、雨の中そこを通るのは「いとをかし」の世界であった。
そしてさらに進むと、右手で道が枝分かれしていた。右手の道は急な斜面になっており、このまま直進すべきか右手に進むべきか判断がつかず、地図を参照した。しかし、このような分岐点は地図に載っておらず、大変迷った。紛糾した末、副代表などから直進すべきとの答申が出され、そうすることにした。すると、青梅街道に出た。これで良かったようである。
尚、後日東京都水道局発行の「ようこそ 水源地ふれあいのみちへ」パンフレットを見ると、右手のみちは「見晴らしの丘歩道」の一部で、登山道チックな道であったようだ。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第21回

2006年02月25日 18時56分55秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
迂回路入口
 道幅が広くなり、視界が開けてきた。いかにも山の車道という感じである。傾斜がきつくなり、ヘアピンカーブが続いた。
 12時55分、道の右脇側面が上図のようにコンクリートで覆われていた。しかも、突起がいくつも出ている。これを見て顧問が、「おー、なんだこの形は!何か、怪しい電波を出していそうですね~。」というと会長が「ここから社会科同好会予備隊の攻撃電波が出力しているんです。」と軍事的な戯れを発言していた。ここは「社会科同好会予備隊西久保基地」。
 坂を登りきると分岐点となった。しかし左側の道は工事中のようで通行止めのため、右側へ進んだ。
 すると1時丁度、左手に本来の「奥多摩むかしみち」の道が出てきた。この先で土砂崩れが発生したため、通行止めとなっていたのである。本来のむかしみちはうっそうとした山道で、行かないですんで良かったという声が出た。

 看板の指示通りに、私どもは迂回路を歩いて行った。すると、前方にトンネルが現れた。西久保トンネルである。すると顧問が、「トンネルを2人ぐらいで歩いて、それをバックからビデオ撮影すると、かっこいいシルエットが撮れて、今後の映像番組作りに役立つのでは?」と提案され、やってみようということになった。顧問と全権代行が2人でトンネル内を歩き、副代表と私が撮影を担当した。趣きのある映像が撮れたと思う。
 さて、私どもも西久保トンネルを通過し、中山橋を渡って(1時7分)左へ曲がった。この辺りで構成員Bらは、何やら残虐なゲームのお話を明るくなさっていた。
そして青梅街道を横断。さらにまっすぐ歩き、トンネルをくぐってすぐ右へ曲がった。トンネルの上へ登る道である。そして、例の旧ダム建設鉄道線路上に到達、鉄道トンネル中山口に着いた。
鉄道トンネル
 
 予定より20分早い1時15分頃、いよいよ鉄道トンネルに入った。「むかしみち一部崩落による迂回コース案内図」によると、青梅街道を迂回路にするには車の往来が激しく危険のため、今回この旧ダム建設鉄道線路のトンネルを整備し、これを迂回路としたそうだ。長さが440mあり、電灯を設置するなどしたという。長年放っておいた廃線トンネルが今回、思わぬ形で役に立ったということであろう。しかし、長年利用していなかったようなので、1ヶ所、壁から滝のように地下水が落ちてきていた。なかなか怖いトンネルである。
 先述のように440mもあり、線路と砂利はそのまま残っていた。そして1時24分、ようやく出口の滝のり沢口に着いた。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第20回

2006年02月22日 22時04分28秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
立てば茶屋
 出発するのは良いのだが、しだくら吊橋を折り返さなければならない。今回は特に班編成はせず、準備ができた方から渡っていった。私は最後から2番目となり、殿(しんがり)は顧問が引き受けて下さった。
 心地よい揺れを感じながら、渡っていった。後ろをふり返ると、顧問は顔を下にさげ、肩をすくめながら歩いておられた。そのため向こう岸に着いた際、顧問に「以前、高い所は好きとおっしゃっていましたが、こういうものは苦手なんですか?」と尋ねると、「いや、高所恐怖症なんですけれど展望台とかは登りたがる性格なんです。」という答えであった。
 さて、こうしてしだくら橋を離れ、12時24分頃より私どもは歩いて行った。
すると12時32分頃、馬の水のみ場・立てば茶屋跡が見えた。昔、馬方衆はここで馬を休ませ、自分たちは「たてば」と呼称された茶屋で一服したそうで、しみず・大島屋・ごーろという3つのお店があったそうな。
 ここで顧問が、クイズ形式のガイドをして下さった。青梅街道は内藤新宿を出発し、いくつもの宿場町を越えていくが、新宿の次の宿場はどこかという質問が出されたが、私どもはなかなか答えが出せなかった。中央線沿線というヒントが出され、荻窪とか小金井という答えが出てきた末に、正解の中野という声が上がった。青梅街道の宿場は、内藤新宿→中野→田無→小川→箱根ヶ崎→青梅にあったそうである。しかし、青梅から先にも私どもが歩いているこの道が青梅街道として甲斐国の方へ続いていたが、途中に宿場などはあったのかという疑問があった。が、ここのように、青梅から先には宿場ではなく茶屋などの休憩所がいくつかあったのだろう、ということであった。
道所吊橋
 さて、立てば茶屋跡を出発し、12時39分頃にむし歯地蔵尊を越えながら歩いて行った。すると12時44分、道所(どうどころ)吊橋が現れた。またも吊橋である。しかし顧問などが難色を示されたため、希望者だけが渡ることにした。
 すると突然会長が、吊橋を走って渡りはじめた。これは蛮行である。そのため、顧問などから「走るな、走るな!」と言う声がとんだ。どうも会長は、この行動を軍事演習にタイアップしていたとみられる。
 私も半分ぐらいまで渡り、川の様子を写真撮影した。吊橋を支えるワイヤー部分を見ると、やはり恐怖を覚える。
 さて、こうして吊橋を堪能した私どもは、再び歩き始めた。しばらく登り坂が続いた。

※本連載本文で表記されている役職は、すべて平成17年11月5日現在のものです。現在とは大きく異なっております。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)


奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第19回

2006年02月21日 15時19分39秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
しだくら橋(2)
 さて、そんなしだくら橋前にして、私どもはみんなで渡ってみることにした。しかし、渡れるのは5人で、さらに反対側から渡ってくる人もいるため、私どもは3人ずつで渡ることにした。そのため、顧問の音頭のもとグー・チョキ・パーで3つの班にわかれた。班編成は次の通り。
 1班:全権代行・私・構成員B
 2班:会長・出納担当・副代表
 3班:構成員A・顧問
 早速、私ども1班から渡り始めた。確かにゆらゆら揺れる。これは普段味わう感じではないので、私どもに恐怖心を抱かせる。
 構成員Bは羽黒三田神社で階段降りに恐怖を抱かれていたように、こういった高所での活動が苦手のようで、叫びながら渡っておられた。又、普段は冷静沈着な全権代行も、この時ばかりは普段より甲高い声をあげられていた。橋の真ん中に来た時、私はデジカメで川を撮影したが、構成員Bらに早く渡れと怒られてしまった。
そして、ようやく向こう岸に到着した。私どもの後から、続々とやって来る。出納担当は「こんなの楽勝じゃん。」と言いながら、余裕の表情を浮かべておられた。又、副代表はビデオを回しながら渡っていたそうだ。後日視聴したが、副代表の後を歩いていた構成員Aの叫び声がたくさん入っていた。
昼食とガイドと
 さて、こうしてしだくら橋を渡ったのだが、とくにこちら側に用があるわけではない。また戻らなければならないのである。それを知って構成員Bは「えーっ!又渡るのー!?」と悲痛な声をあげておられたが、ここにはスペースがあるので昼食にしようと顧問が提案された。確かに、ここで昼食を取っている方が前方に見え、私どもも昼食とすることにした。
 しかし、特に椅子があるわけではないので私どもは石組みの上などに座り、各自で昼食を取った。顧問だけが、少し離れた所で食べることになってしまい、大変申し訳ありませんでした。私は今朝ファミリマートで急いで買った納豆巻き(と思われる)とパンを食べた。食べていると、5人までしか渡れないしだくら吊橋をおじさん・おばさん集団が一挙に渡っていた。おそらく10人ほどだったと思われるが、度胸があることよ。
 これまでの研修旅行から分かるように、顧問などは食べるのが早く、私はとても遅い。そこで、この時間を利用して、快速進行のためこれまでの場所で実施を延期してきたガイドを行って頂くことにした。
 まずは出納担当より、「奥多摩ビジターセンターともえぎの湯」。小平グリーンロード研修の時と同じように、原稿をメールで保存し携帯電話に表示しようとしていたが、なかなか電波が受信できず難儀しておられた。ガイドからは「ほっほー、ビジターセンターはそういう所であったのか。」という知識を得ることができた。
続いて、会長による「奥多摩の自然」。奥多摩町役場は海抜339mの所にあり、奥多摩町は東西に19.5km.、南北に17.5㎞で、面積の94%が森林であるそうだ。
 3番目は全権代行による、「奥多摩むかしみち」について。むかしみちは旧青梅街道であるが、その昔青梅街道は「甲州裏街道」とも言われていたそうである。
12時13分より、4番目副代表から「奥多摩町の歴史」について。古代からの歴史を話して下さったが、制限時間6分を越えたため、中断となった。
 尚、ガイドの途中で構成員Aが、吊橋を支える鉄柱にしがみつきぶら下がるという蛮行をなさったため、会長などが遺憾の意を表明し、顧問が「おい、やめろ。」と注意しておられた。
 ガイドが終了し全員が出発の用意ができたため、出発することになった。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第18回

2006年02月20日 22時14分10秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
天候危うし(2)
 さらに歩き続ける。11時39分ごろ、又も民家が散見されるようになった。しかし、ここの民家は何となく趣きが違う。かなり古そうな建物であり、軒先で何かを天日干ししているなど、昔からの風習を維持しているかのような感がするのである。顧問も非常に感動しておられた。
 11時41分、惣岳(そうがく)の不動尊の前に到着した。しかし、中は石段があり、木々に囲まれた神秘的な雰囲気で、非常に険しそうな感じがしたため、希望者のみ入ってみることにした。そのため、全権代行は入口で待機することになり、その他のメンバーは中へ入っていった。
 不動明王と書かれた石碑の隣にある鳥居をくぐり、石段を登って行った。すると小屋が現れた。ここで何かを祀っているとは思えないのだが、その小屋の上の方ではおばさん集団が座って弁当を食べておられるだけで、周りには何も建物は見えなかった。ただ、石段がさらに上の方へのびていたが、さすがに登るのは断念した。
顧問が「ここは鳥居があってそれは神社なんですけれど、隣には不動明王とかかれた石碑がありましたよね。あれはお寺なんです。なので寺の本殿みたいなのがあるはずなんですけれども、見当たりませんね~。それに、神仏習合というのは明治時代に廃仏毀釈でつぶされていきましたから、何でここだけ残っているんだろう。」と、解説を交えながら疑問点を出して下さった。
 石段を降り、鳥居をくぐって全権代行と合流。そして11時44分、再び出発した。段々と雲行きが怪しくなり、雨が降りそうな気配がしてきた。

しだくら橋
 雨も気がかりであるが、私どものお腹も又、気がかりである。そのため顧問と相談の結果、12時になったらどこかで昼食を取ることにした。
 そう考えて歩いていると、11時49分ごろ、しだくら橋が現れた(26分早い)。吊橋である。

「この橋を渡る際、五人以上で渡らないで下さい。」という看板のある、いかにも揺れそうな怖い橋である。尚、今私はパソコンでこの紀行文を書いているが、「しだくら橋」という表記を、この項の見出し共々「しだらく橋」と書いてしまった。第5回研修のしおりも見てみたら、こちらも「しだらく橋」となっていた。申し訳ない、完全に私の誤った思い込みによるミスである。私が中学1年生の時、地理の授業で「ヒマラヤ山脈」というのを習った。有名である。しかし、私はこれをどういうわけか「ヒラヤマ山脈」と覚えてしまい、定期テストでもそのように書き、×を受けたことがある。よく考えれば、「平山山脈」なんておかしいなと気づいたはずなのだが、カタカナ語というのは間違えやすいものだよ。(つづく)(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第17回

2006年02月19日 17時57分34秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
白髭神社
 11時12分、白髭神社入口に到着した。白髭神社へは石段を登るようになっていたので、構成員Bが非常に難色を示した。すると、石段の前にいた、例の観光ガイドボランティアと見られるおじいさんが「ここの階段は大したことないよ。」とエールを送ってくださり、私どもは勇ましく石段を登って行った。
 お話の通り石段は非常に易しいもので、11時14分、白髭神社境内に到着した(予定より11分早い)。やはり観光ガイドボランティアご一行がいたが、しばらくしていなくなったので、色々と神社を観察した。
 神社の建物の右横には、非常に大きな石灰岩の断層面が露出しており、壮大な感じがした。高さ約30m、横幅約40mだそうだ。

 顧問が神社の建物のつくりなどについて、いくつか解説して下さった。その後、何人かがお賽銭を入れてお参りされていた。
 19分早い11時21分、白髭神社を出発した。
天候危うし(1)
 しばらく行くと、弁慶の腕抜き岩というものが現れた(11時25分)。高さ3mほどで、腕の通る岩が下の方にあることから弁慶伝説となったようである。試しに私が穴に腕を通してみたが、余裕であった。
 耳神様を越え、どんどん歩いて行った。すると11時29分、お隣に青梅街道が現れた。全権代行が青梅街道の白髭トンネルの方に向けて、携帯電話を構えた。写真撮影をされるようだったが、顧問が驚いて「全権代行どうしたの?トンネルなんかとって面白いの?」と私に耳打ちされた。私は「いや、きっとあれだと思います。」と言って、はるか上の方にある橋梁を指差した。

その橋梁は写真のように、異常な高さで架かっていたので、顧問はまたも驚かれて少々感激していた。これも、やはりダム建設鉄道線路のようである。よくこんなものをつくった、と私も感激してしまった。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第16回

2006年01月09日 19時19分35秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
堂々奥多摩(2)
 再び歩き続け、11時4分、山の方に橋のようなものが見えた。山から山をつたうという感じで、非常に高い所にそびえ立っていた。「むかしみち一部崩落による迂回コース案内図」によると、どうやら例のダム建設鉄道線路が通る橋のようである。だが、どう見てもたいそう古く、会長や先生は「連結部分が折れ曲がっているように見えますよね~。」と、少々不安がっておられた。
 そしてその橋の正面辺りに来ると、地上から橋の方へ向かって登っていく、あやしげなパイプのレールが組まれていた。近くにはそのパイプレールを登っていくとみられる、車輪のついた機械がビニールシートに覆われていたので、どうも道路の反対側にある橋本機械株式会社が使っているものだと見られる。橋の向こう側に向けてのびているので、おそらく橋の向こう側で何かをやっていると思われた。

 ここから橋の橋脚をみて見ると、2つあるうちの片方は普通の状態なのだが、もう片方は一面が植物に覆われており、大変古い事が感じられた。(執筆;研究関連担当代表)

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第15回

2006年01月01日 17時42分59秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
不動の上滝
 10時43分、私どもは再び出発し、むかしみちを歩いて行った。となりには川が流れる、木々に囲まれた静寂な道であった。
 そして10時54分、不動の上滝のある小中沢橋に到着した。近くには「大多摩ウォーキングトレイル Cコース奥多摩駅→南氷川 さかい⇔小中沢橋⇔桧村」とかかれた、西多摩地域広域行政圏協議会と奥多摩町の看板があった。「大多摩ウォーキングトレイルCコース」がどのようなルートをたどるのかは不明だが、色々な散策方法があると言うことである。尚、「Bコース」は鳩ノ巣渓谷あたりを散策するそうだ。
 小中沢橋公衆トイレにはだれも寄らず、私と副代表は滝の撮影を行い、先生など他の方々は奥の方の様子を見に行っていた。
 10時57分、小中沢橋を出発した。
堂々奥多摩(1)
 
 この辺りの道はアスファルトであり、道の片側にはガードレールが続いていた。
11時丁度、そのガードレールの外の石の上に、何故かキッコーマンしょうゆのダンボールが置いてあるのを発見した。写真を見ると分かるように、箱はがけに面した所に置いてあり、何故ここにあるのか、大変不可解なものであった。
 さらに歩くと民家がいくつか現れた。そして11時2分、とある民家の家の向かいに、大きなおりの中に入った犬がいた。そして、そのおりには「お願い 手を出すと噛みつく事がありますので手を出さないで下さい 飼い主」という張り紙があった。構成員Aはとても触りたがっていたが、やはり周囲の人がたしなめたため、あきらめておられた。会長は「噛みつくって書いてあるけれど、全然吠えないね。」と仰せになられていた。確かにそうだ。(執筆;研究関連担当代表)

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第14回

2005年12月31日 17時20分01秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
檜村の謎(2)
 整備された階段が下まで続いており、先生や私、会長などから降りて行った。
 そして下に到着し、出納担当らも降りてきた。しかし、何故か全権代行と副代表が降りてこない。恐らく、2人とも猫を撮影しているのだろうと思って待っていると、全権代行だけが降りてきた。そして、「副代表に行こう、といったのですけれど、バスを撮影していて反応がないんです。」と報告して下さった。どうやら、副代表は橋詰バス停に停車中の、西東京バスを撮影していたようである。そういえば、先ほど副代表が「バスの発車する様子を写します。」と言っていた気がしたので、しばらく待つことにした。下からも、バス停に停車中のバスは見られた。会長がバス停の向こうに交番のようなものがあるのを見つけ、「あれは派出所?」と戯れていた。
 しかし、いくら待っても副代表が来ない。バスも降車する客が多いようで、なかなか出発しない。だが、ようやくバスは出発し、しばらくして階段の上の方に副代表の姿を確認した。しかし、それでも降りてこられない。私どもを上空から撮影なさっているのである。副代表の、熱き「カメラマン魂」を実感した。

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第13回

2005年12月30日 18時11分00秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
檜村の謎(1)
 坂道を下り、10時33分、檜村(ひむら)集落入口に到着した。ここは、青梅街道とむかしみちが隣接したところである。
 少し歩くと右手の奥に、学校の校舎のような建物が現れた。3階建てで、建物の前には校庭のようなスペースが広がっている。しかし、門などはないため、どのような建物かは分からない。私どもは建物に近づいた。出納担当らは建物の前まで行き、窓ガラスなどを触っておられたが、結局何の建物かは不明であった。会長は「どこかの会社の、研修施設かなんかだったんじゃないですかね~?」と、自説を展開された。
 再び歩いていくと、道は上り坂となった。前方に果樹園のようなものが現れ、会長は「あれはブドウを栽培しているのかな。確かブドウはこういう気候での栽培は適しているはずだから・・・。」と、地理Bの授業で養ったと見られる知識をもとに、社会科的な推測をなさっておられた。
 またも階段があらわれたため、構成員Bなどは難色を示されたが、大した階段ではなく容易に登った。
 そこは小高い丘になっており、道の向こう側にはお墓がある。そしてその隣に怪しい猫がおり、構成員Aや全権代行はうれしそうに眺めたり、写真撮影を行っていた。私は動物が好きではないので、事務的に写真撮影を行った(10時38分)。
 丘からは青梅街道の橋詰バス停に停車中の、西東京バス(奥多摩湖方面行)が望めた。
 構成員Aが猫に触ろうとしたものの先生などにたしなめられ、10時41分頃に出発した。(つづく)(執筆:研究関連担当代表)
 

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第12回

2005年12月29日 22時15分04秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
むかしみち見聞録
 私どもは道なりに歩いて行った。私は先生や会長、副代表などとともにビデオ番組の大会出場や今後の社会科同好会の未来についてなどを語り合っていた。又、私どもの後方では構成員B・構成員A・出納担当がゲームなどについて議論なさっておられた。そして全権代行だけが、私どもの前方約20mを進行なさっていた。羽黒三田神社通過後は少々苦しそうにしておられたのに、ここに来て私どもを先導なさっている。その理由を後日尋ねてみたところ、「あのような自然の中では、一人で自然の良さを楽しみたいので、ずっと前を歩いていました。」と語っていた。ということは、私どもはしょっちゅうしゃべっていて、さぞかし迷惑だったでしょうと言ったら、「いや、一人一人に別の楽しみ方があると思いますので、いいんじゃないでしょうか。」と、お慈悲の心のこもったメッセージを下さった。
 さて、10時23分頃、これまで木々に囲まれてうっそうとしていた道は、突然視界が開けた。そして左手には民家が登場し、その向こうには青梅街道も見えた。
 この民家がなかなかおもしろい。むかしみちは谷際を通っており、道の外はすぐ標高が下がる。そこに、細い何本かの柱を使って土台をつくり、無理矢理家をたたせているのである。文章だと説明が難しいのだが、京都の清水寺のような感じだと考えてくだされば良い(上の写真)。私どもは「地震の時は崩れないのかね。」と考えながらも、道を歩いて行った。
 10時30分頃、青梅街道の方が騒がしくなった。バイクが次々と疾走していくのである。それも大軍である。先生の見解では「20台ぐらいはあったんじゃないか。」とのことであったが、とにかくこのライダー族の襲来は不気味であった。頑張ってビデオやカメラで撮影しようと企てたが、あまり良いものは撮れなかった。
又、10時31分には出納担当らが道の右手にあるコンクリート壁にあるプレートを見つけた。「この道路は、平成5年度水力発電施設周辺地域交付金により、舗装工事を実施しました。 奥多摩町」というもので、先生が「これは小河内ダムに関連しているのでしょう。」と解説して下さった。
 さらに同じく10時31分、珍しい塗装をしたマンホールを見つけた。そういえば、少し前の朝日新聞に、各自治体が特色のあるマンホール蓋塗装をやっている、という記事があったな~と思っていたら、会長が「こういうのは撮影しておいたほうがいいですよ。」とあまりにも夢中におっしゃるので、デジカメで撮影をした。
 10時32分、左手の民家の塀の、怪しげな置物を見つけた。「千と千尋の神隠し」という変なアニメ映画に登場した、変なキャラクターなどのオブジェであった。

その他にも多種多彩な宮崎駿関連置物があり、「ジブリ天国」と化していた。(執筆:研究関連担当代表)