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都立上水高校 第1期社会科部OB・OG会公式ブログ

第1期社会科部は平成21年3月12日消滅。本ブログは現在活動中の新生「社会科部」様や都立上水高校とは一切関係ありません。

小平市の歴史 最終回(第10回)

2005年11月05日 15時43分52秒 | 【連載】小平市の歴史(完結)
3章:「小平」誕生の章(つづき)
4、字名整理
 市制施行とともに、字名の整理が行われた。
 実をいうと、市制施行まで、小平の地理区分はほとんど享保年間の新田開拓で生まれた村のままであった。
 このため、次のような弊害があった。
  ・長く、しかも似ている字名がある
    野中新田与右衛門組・野中新田善左衛門組など。こんなのが住所だったら、書くのが大変である。
  ・区域が大きい
    最も面積の大きい小川は、小平町の約三十八%を占めていた。
  ・飛び地がある
    野中新田善左衛門組の最も離れている所は、約三・五キロ。
 このような理由から字名整理が行われ、小平の地名は現在あるとおりの区分けとなった。小平の町名を、次に挙げておく。

・小川町
・小川西町(にしまち)
・小川東町(ひがしちょう)
・大沼町
・学園西町(にしまち)
・学園東町(ひがしちょう)
・喜平(きへい)町
・栄町
・上水本町(ほんまち)
・上水南町
・上水新町(しんまち)
・鈴木町
・たかの台
・津田町
・天神町
・中島町
・仲町
・花小金井町
・花小金井南町
・美園町(みそのちょう)
・御幸町(みゆきちょう)
・回田町(めぐりたちょう)

 
 平成十七年七月一日現在、小平市の人口は十七万六七〇七人である。
 このように、小平市は着実に発展してきた。現在、小平は大きく開発され、地名も抜本的に変更されたため、かつての面影は薄くなった。しかし、玉川上水や小平グリーンロードなど、かつてをしのぶことの出来る場所は、今も残されている。<完>

【参考文献等一覧】
大日本印刷株式会社CDC事業部年史センター・編「小平市三〇年史」小平市(1994)、大場磐雄・監修「多摩の歴史3」武蔵野郷土史刊行会(1975)、郷土こだいら編集委員会・編「郷土こだいら 第三版」小平市教育委員会(1971)、上田正昭他・監修「講談社版日本人名大辞典」講談社(2001)、平凡社・編「日本史事典」平凡社(2001)、ウエストタウンズ、『週刊朝日百科日本の歴史新訂増補 第十一巻「醐醍醐と尊氏」』朝日新聞社(2002)、埼玉県立歴史資料館「古道を歩く―鎌倉街道歴史探訪―」奥武蔵古文化研究会(2000)

※ご愛読ありがとうございました。11日(金)ごろから、新連載「奥多摩をゆく(仮称)」をはじめます。(執筆:研究関連担当代表)


小平市の歴史 第9回

2005年11月03日 16時42分46秒 | 【連載】小平市の歴史(完結)
3章:「小平」誕生の章(つづく)
2、小平町
 小平村に町制が施行されたのは、太平洋戦争終盤の昭和十九年(一九四四年)二月一一日だった。当時、人口は一万五六〇〇人。まだ人は少なく、町の中心地というものが無かった。
 東京府から視察に来た役人を迎えるにも、一台の乗用車のない村では、二台あったオート三輪車を急ごしらえの「乗用車」にしたてたほどであった。府の役人も小平に中心がないので「一体どこが町になるのだ」と皮肉を言ったと伝えられるほどであった。(「郷土こだいら」より引用)
3、小平市
 町制執行の翌同二十年(一九四五年)、太平洋戦争が終結した。戦後、小平は急激に変化する。町制執行から昭和三十七年(一九六二年)に市になるまでの十八年で、小平の人口は三・八倍の四万四千人に増えたのである。
 一時は国分寺町・小金井町との合併を模索するも果たせなかった。だが、昭和三十五年(一九六〇年)十月一日現在の国勢調査で人口五万二九二三人、三多摩各町では一位、全国の町では二位という記録を出した。
 その二年後の昭和三十七年(一九六二年)十月一日、小平町は市制が施行され、全国で五五八番目、東京都下十一番目の市として「小平市」が生まれた。(つづく)(執筆:研究関連担当代表)

小平市の歴史 第8回

2005年11月02日 21時49分47秒 | 【連載】小平市の歴史(完結)
3章:「小平」誕生の章
1、小平村
 江戸幕府が滅亡し明治時代に入ると、小平の村々は二つの県に別々に編入した。しかし、明治五年(一八七二年)、小平の村々は全て神奈川県に編入された。
 明治政府は明治二十一年(一八八八年)四月、市制・町村制 を公布し、近代国家建設のため江戸時代のままの小規模な村を次々と合併させ、財政能力を強め、行政システム向上に努めた。
 このため翌同二二年(一八八九年)四月一日、小川村・小川新田・大沼田新田・野中新田与右衛門組・野中新田善左衛門組・鈴木新田・廻り田新田の各村が合併し、小平村が誕生した。
 「小平」という地名はこの時生まれたのだが、この村名決定は難航した。七村の頭文字をくっつける案、七村のうちいずれかの名を選ぶ案、七村の合併なので「七里村」とする案などが出されたが、次の由来から「小平」と決定した。
  ・「小」・・・最初に開拓された小川村から
  ・「平」・・・平らな地形であることから
 四年後の明治二十六年(一八九三年)四月一日、小平村を含む北多摩郡・西多摩郡・南多摩郡の三多摩は東京都に移管した。(つづく)(執筆:研究関連担当代表)

小平市の歴史 第7回

2005年11月01日 21時38分46秒 | 【連載】小平市の歴史(完結)
2章:開拓の章(つづき)
2、小川村開拓(3)
 小川村の入村はその年十一月から始まり、わずか二ヶ月で四十六人が入った。
 尚、九郎兵衛が一番最初に鍬を下ろした場所と伝えられているのが、小川町二丁目の、青梅街道と鎌倉街道の交差点であり、かつては「石塔が窪(せきとうがくぼ)」という地名であった。江戸時代末期までは大きな石碑があったそうである。
 この後、小川村は多大な苦労の中、開拓が進んだ。九郎兵衛は寛文(かんぶん)九年(一六六九年)十二月七日に没した。
3、享保の新田開発
 小川村の開拓は進み、元禄二年(一六八九年)頃には開墾する所がほとんど無くなっていた。そこで新たに目がつけられたのは、小平村周辺の入会地(いりあいち)(共有の落葉・採草地のこと)であった。
 そんな中享保(きょうほう)元年(一七一六年)、徳川吉宗が八代将軍に就任した。吉宗は享保の改革を進め、財政再建のため幕府の就任を増やすことを目的に、全国的に新田開発を行った。
 享保七年(一七二二年)、新田開発を奨励する高札が日本橋に出され、武蔵野の人々は次々に幕府に許可を申し出た。そして享保九年(一七二四年)、小平でも新田開発が認められ、以後、小川新田、鈴木新田など、小平では次々と新田開発が行われたのである。
 尚、ここまで小川九郎兵衛が開拓した地域を「小川村」と書いてきたが、この地域は開拓当初「小川新田」と呼ばれていた。しかし、今見たように享保年間に新しい「小川新田」が誕生したのに伴い、それまでの小川新田は「小川村」に改称された。(つづく)(執筆:研究関連担当代表<前・会長全権代行>)

小平市の歴史 第6回

2005年10月30日 20時59分54秒 | 【連載】小平市の歴史(完結)
2章:開拓の章(つづき)
2、小川村開拓(2)
 岸村には青梅街道が通っている。先述の通り、当時青梅街道は馬で石灰を運ぶ者(石灰伝馬継)の往来が激しかったが、田無(写真)~箱根ヶ崎間はとにかくつらかった。この間は約二十キロ。この距離を歩くのがどの位大変なのか、現代人の我々には少々分からない。これについて、「郷土こだいら」(この連載の最終回で詳細を記す)におもしろい記述があるので、長くなるが引用する。

 男なら一日四十キロ(十里)女とか老人さえ一日八里とされている。しかし東海道を見てもわかるように、やく八キロ(二里)ごとに宿場がある。その上、宿場と宿場の間に茶店があるというように、休むための場所はいくつかある。
 例えば、川崎から次の宿場神奈川まで十キロ(二里半)あるが、途中の生麦村の所が間宿(あいじゃく)で立場(たてば)となっており、「志がらき」という水茶屋があって梅干や梅漬の生姜(しょうが)を売っていてみんな休んだという。こんなものでも街道ではありがたかったにちがいない。そうすると旅人はやく一里ぐらいで休息する場所があったし、その位が休息する距離であると考えると、先の文書の「五里の間に旅人が行倒れて死ぬ者も多かった」というのは大げさなこ張でないことがわかるであろう。(つづく)(執筆・研究関連担当代表<前・会長全権代行>)

小平市の歴史 第5回

2005年10月29日 22時49分25秒 | 【連載】小平市の歴史(完結)
2章:開拓の章(つづき)
2、小川村開拓(1)
 小平が開拓されることになったのには、もう一つ要因がある。
 江戸時代の初め、江戸では大規模工事が続き、青梅の石灰が青梅街道を通って次々と江戸へ運ばれた。しかし、箱根ヶ崎(東京都西多摩郡瑞穂町)と田無(東京都西東京市)の間の約五里(約二十キロ)には人家が全くなく、旅人は大変な苦労を強いられ、気候の悪い時は死人も出た。そのため、その中間あたりにある小平の開拓が必要だったのである。
 このような理由、そして条件がそろい、ついに小平は開発の道をたどる。
明暦二年(一六五六年)、多摩郡岸村(東京都武蔵村山市岸)の有力者・小川九郎兵衛(おがわくろべえ)安次という者が自費での小平開発を代官所へ願い出た。この願では許可され、これによって現在の小平市小川町辺りが開拓され、小川村が誕生した。
 では、小川九郎兵衛とは何者であろうか。
 小川氏は代々武士だったようで、戦国時代には小田原北条氏(後北条氏)に仕えていた。しかし、先ほど述べたように天正(てんしょう)十八年(一五九〇年)に豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされた後、小川氏は岸村に土着し、郷士となっていた。そして元和(げんな)八年(一六二二年)に生まれたのが、九郎兵衛であった。(つづく)(執筆:研究関連担当代表<前・会長全権代行>)

小平市の歴史 第4回

2005年10月25日 21時43分05秒 | 【連載】小平市の歴史(完結)
2章:開拓の章
1、玉川上水開削
 先ほどから繰り返し述べているように、小平はとにかく水に恵まれない所であった。そのため、小平は長い間一面に原っぱがあるだけの場所であった。
しかし、天正(てんしょう)十八年(一五九〇年)、豊臣秀吉の命によって徳川家康が江戸に天封となると、江戸は発展の一途をたどり、幕府の成立後は将軍のお膝元として人口は増え続けるばかりであった。しかし、これにともなって、大幅に増加した江戸の人々の飲料水の確保が問題となった。
 その状況を改善するべくつくられたのが、承応(じょうおう)四年(一六五四年)に完成した玉川上水である。
 小平市の中も通るこの玉川上水からは、数多くの分水が引かれ、小平の各地を通った。
  明暦元年(一六五五年) 野火止用水開削
  同二年(一六五六年) 小川用水開削
  元禄九年(一六九六年) 田無用水開削 等
 これが、小平の開拓に大きく寄与したのである。(つづく)(執筆;研究関連担当代表<前・会長全権代行>)

小平市の歴史 第3回(研究成果発表)

2005年10月16日 15時10分28秒 | 【連載】小平市の歴史(完結)
3、中世の小平(2) ~九道の辻~
 西武多摩湖線八坂駅から南西約100メートルの所にある、八坂交差点。木々に囲まれ、交番やダイエーがあり、多くの道が交差していて、独特の雰囲気を醸し出している。ここはかつて、「九道(くどう)の辻」と呼ばれ、鎌倉街道・江戸街道・大山街道・奥州街道・引股(ひきまた)道・宮寺道・秩父道・清戸道・御窪(みくぼ)道という9本の道が交差していた。
 この九道の道に関して、1つの口碑伝説(言い伝え)が残っている。
今から672年前の元弘(げんこう)3年(1333年)5月8日、後醍醐天皇から鎌倉幕府討伐の命を受けた新田義貞は、上野国新田荘の生品(いくしな)明神(みょうじん)(群馬県太田市〈旧新田町〉)で挙兵。鎌倉街道上ノ道を南下し、12日の久米川の戦い(東京都東村山市)で幕府軍を打ち破り、幕府軍は敗走。義貞軍ははこれを追撃したが、いくつもの道に枝分かれした九道の辻に至り、どの道が鎌倉に通じるのか分からず、大変迷ったらしい。
どのようにして正しい道を発見したのかは謎だが、ともかく義貞軍は正しい道を進み、22日、鎌倉幕府は滅亡した。
 その時義貞は、後にまた自分のように道を迷う人が出ないようにという優しい気遣いから、鎌倉街道の一角に桜を植えたと言う。
その後、桜は何度も植え継がれたが、大正時代には完全に枯れ、その大きな根株(ねかぶ)も第二次世界大戦後に消えてしまった。しかし、この「迷いの桜」伝説を後世に伝えるため、昭和55年(1980年)10月、小平市は八坂交差点にある八坂交番の裏に桜の苗木を植えた。
 それから25年経った今、現代版「迷いの桜」はすっかり成長し、毎春見事に桜が咲いているという(私は桜が咲いている様子を、残念ながらいまだ見たことがない)。
 尚、現在八坂交差点を交差する道は、府中街道と江戸街道以外は名称のない道となった。(つづく) (執筆:会長全権代行)

小平市の歴史 第2回(研究成果発表)

2005年10月15日 15時39分09秒 | 【連載】小平市の歴史(完結)
2、中世の小平(1) ~まいまいず井戸~
 一面の原っぱであった小平だが、中世になると鎌倉街道が通され、多くの人々が往来した。
 「鎌倉街道」という名称は江戸時代につけられたようで、それ以前は「鎌倉道(みち)」とか「鎌倉往還(おうかん)」などと呼ばれていた。その鎌倉街道の中でも主要な道を「上(かみ)ノ道」「中(なか)ノ道」「下(しも)ノ道」と呼んだ。
その中で小平を通っていたのが、上ノ道である。鎌倉から上野国(群馬県)までを通っており、小平市内では上水本町(ほんちょう)から津田塾大学の東を通り、小川町二丁目辺りかで青梅街道を横切り、ブリジストン東京工場を越えて九道の辻(現・八坂交差点)に入り、東村山市の野口に抜けて行った。
 この上ノ道、当時は上野・下野(栃木県)両国と鎌倉を結ぶ、唯一の道であり、たくさんの人々が行き来したようである。しかし、この頃の街道沿いは一面すすきに覆われた荒野で、人家が一軒もなかったため、旅人は飲み水が得られず相当の苦労があったようだ。
 それを改善するべく、小平市内の街道沿いの二ヶ所には「まいまいず井戸(すり鉢井戸)」なるものがあったと言われ、一ヶ所はブリジストン東京工場内、もう一ヶ所は津田塾大学東側と伝えられている。
 「まいまいず井戸」は武蔵野台地特有のもののようで、二十~三十メートルほどをうずまき状に地下水に至るまで掘り、そこを人がぐるぐる回りながら降りて、水を汲むと言う構造であったようだ。非常に大変な構造である。(つづく) (執筆:会長全権代行)

小平市の歴史 第1回(研究成果発表)

2005年10月12日 15時10分53秒 | 【連載】小平市の歴史(完結)
 社会科同好会では「特別研修旅行」として、頻繁に校外で研修旅行を行い、その研究成果を「部報 JS社会」などで発表しています。
 本ブログでもこのような冊子に掲載した論文や、その他の研究成果の発表を行っていきたいと思います。
 その第1弾として、会長全権代行より、5月に実施した「小平グリーンロード」研修旅行に関する研究の成果を発表します。

序章:はじまりの章
 第3回特別研修旅行で私どもが歩いた道・小平グリーンロードの野火止用水コース(東大和市駅~八坂駅)と狭山・境緑道コース(八坂駅~花小金井駅)。この両コースは市境を通る箇所が多く、一部では東村山市の中に入っているが、「小平」のなを冠していることを考慮し、本稿では小平市の歴史を描くことにする。
 しかし、一口に「小平市の歴史」と言ってもあまりに抽象的であるため、ここでは地名の由来や町の発展の様子などを見て行くことにする。

1章:近世以前の小平
1、水に恵まれない地
 今から約一万年前から約三百万年前に渡って続いた旧石器時代。地質学上の更新世(こうしんせい)(洪積世(こうせきせい))の終盤の頃、関東地方では火山灰が降り積もり、その後風化して赤土となり、関東ローム層が形成されたことにより、武蔵野台地が誕生した。小平は、この武蔵野台地のほぼ真ん中に位置している。そのため、地下水面が深く、特に水に恵まれない場所であったため、人はほとんど住んでいなかった。
 しかし、小平市鈴木町一丁目から旧石器時代の遺跡・鈴木遺跡が見つかったり、同じく鈴木町一丁目にある古代の遺跡・小平八小遺跡からは奈良時代頃の竪穴式住居址(あと)が発見されているが、それはその辺りが石神井川源流の湿地帯に面した、台地の際で唯一水がある所であったため、人がわずかにいたようである。
つまり、江戸時代になって開発されるまで、小平は人の住む所ではなかったのである。(つづく)

※上水高校図書室で配布している「部報 JS社会」第2号では、この内容以外にもたくさんの記事がありますので、ご覧下さい。(執筆:会長全権代行)