原発問題

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自然医学が被ばくを軽減する「鍼灸、薬草ハーブ、マッサージ、栄養のある食べ物と、新鮮な空気・・」

2013-12-10 00:30:35 | 放射能汚染

自然医学が被ばくを軽減する

ベラルーシでの経験談から>

・・汚染区域から170人の子供達を、シベリア東部のバイカル湖へ連れて行きました。 「子供達は、様々な自然療法従事者による治療を受けました。」

「鍼灸、薬草ハーブ、マッサージ、栄養のある食べ物と、新鮮な空気・・」 

「被曝による病気の歴史上初めて、自然医学が大規模に使われました。」

クリフさんは、ベラルーシ東部のグロドノ医科大学で医師の研究グループの筆頭に立っているラリッサ・エベッツさんを招待し、バイカル湖に行く前と、行った2ヶ月後に科学的テストをしました。

「エベッツ教授は、子供達の免疫システムがかなり改善され、血液も改善され、放射線物質の内部被曝量が減った事を発見しました。」

 

ベラルーシでの経験談 (アメリカの医師 (平沼百合))
2011-08-31 11:25:13
以前にコメントで言及していた、ベラルーシで被曝した女性の経験の和訳がやっと終わりました。 諸事情で、リンク先を貼るのではなく、ちょっと長くなりますが、全体をコピペさせて頂きました。 これは、1993年に、英国紙に載ったインタビューです。 長くて一度のコメントでは投稿できないようなので、2部に分けます。


「放射線障害に対してのキャンペーンが、クリフ・サンダーソン氏と妻のガリナさんの人生を変えました。」 英国インディペンデント紙、1993年3月31日  スーザン・デ・マス

http://deepfieldrelaxation.com/independent-uk-it-impossible-forget-children-chernobyl-0  


皆、奇跡を待っていたようでした。 どこかの誰かが助けてくれるような奇跡です。 でも、それは起こりませんでした。 その時、私は、自分達で何とかしなければならないと決心したのです。

1986年4月26日に起こったチェルノブイリ原子力発電所事故から3年後に、ベラルーシの公営テレビ局の番組制作者であったガリナ・サンダ-ソンさんは、チェルノブイリから約200マイル(320km)離れたミンスクの病院で、白血病の子供達の映像を撮っていました。 「1人の小さな女の子は、私が病院に着いた3日後に亡くなりました。 毎週、10人から15人の子供達が亡くなり、子を持つ母である私にも、それはとても辛い事でした。 私の6歳の息子、ディミトリも病気でした。 息子は、もともと健康な子でしたが、事故後は、ずっと体調を崩していました。」

「医師達は最善を尽くして努力は、していましたが、何が起こっているのか分かっておらず、どう対処して良いかなど、具体策が見つからないままでした。病院にいる子供たちの母親達は、絶望的でした。」

ロンドンの南西にあるケンシントンの友人宅の、ウェッジウッド・ブルーのカーテンとアンティーク家具の中にいる、小奇麗な、暗い色彩の服を着たガリナさん(35歳)の周囲は、その日の午後に予定されている、チェルノブイリの子供達についてのスピーチの資料でいっぱいでした。 彼女は、彼女の人生に革命をもたらした男性と一緒でした。 この男性は、ニュージーランド出身のヒーラーであり、現在の彼女の2度目の夫でした。

そのクリフ・サンダーソンさんは、私達にハーブティー、ナッツとレーズンを持って来るのに、階段をドシンドシンと上がって来ました。 彼は、ニューエージのモーゼのような風貌でしたが、現実的な物腰でした。 彼は、一般的な医学というものが役に立たず、人々が危険に対して情報不足の立場におかれていた際、チェルノブイリの子供達に、驚くべき結果をもたらした人でした。

ガリナさんは思い出しました。「事故から4日後、手をいつもより注意深く洗うようにと言われました。 ただ、それだけでした。 私の息子と他の子供達は、皆、外で遊んで、汚染された食べ物を食べ続けていました。 そしてディミトリは、わずか2-3週間後に病気になり始めました。 最初、風邪やインフルエンザにかかり、そして腎炎、肺炎と、終わりなく続きました。 肌は黄色っぽくなり、目の下には大きなクマができました。」

「これが何年も続きました。 私の友人の子供達も同じでした。 医者達は説明ができず、当局は放射線からの健康被害を否定していました。 私達は皆、恐怖におびえて、私は、猛烈に怒っていました。」

「そのうち、私は自分の考えが当局と矛盾しているのに気付きました。 政府は、人々に、何も起こっていないと信じさせたかったのです。 私は、真実を、あらわにしたかったので、自主映像作家として、ベラルーシがチェルノブイリから受け継いだものについて、映画を作りました。」

http://www.youtube.com/watch?v=pi8aC9Knwb4

http://www.youtube.com/watch?v=B2dV_hHNLO8

「チェルノブイリ原発から30km(18マイル)の区域しか避難対象になりませんでした。その他の区域の人々には、汚染状況は、4年後まで知らされませんでした。 映画を撮影していた時、ガイガーカウンターをいつも持ち歩いていました。 私が撮影した子供や妊婦は、汚染のひどい環境に住んでいながら、何もアドバイスを受けていませんでした。」

「子供は放射線への感受性が高いので、モルモットになっていました。 社会的にも、差別を受けていました。 夏休みのキャンプでは、汚染区域から来た子供達は、他の子供達に避けられて、「被曝したやつら」と呼ばれました。 放射線の長期的な影響についての学問的論争は続いてますが、病院で、毛が抜けてしまって、次々と死んでいく子供達を腕に抱きしめる人にすれば、そんなことは、恐ろしく的外れで無意味です。」

「医療物資が不足していただけでなく、方法もありませんでした。 医師達は、ほとんどの症例で、どう治療していいのか分からない、と認めていました。 ディミトリは、他の子供達のように、明らかに、よくある被曝の影響のひとつ、免疫システムへのダメージを受けていました。 私は、ディミトリのために、そして他の全ての人のために、他の治療法を見つけたかったのです。」

「そうすれば、高額な薬や医療に頼らず、自分で自分を助ける事ができます。 しかし問題は、ベラルーシ共和国では、誰もそういった事について、知識を持っていなかったのです。」

 

ベラルーシでの経験談・続 (アメリカの医師)
2011-08-31 11:26:47
(続き)
1990年に、ガリナさんはアメリカ合衆国へ行きました。 「ニューヨークで、サラ・シャノンさんの、Diet for Atomic Age(核時代のダイエット)と言う本を見つけました。 この本には、広島と長崎でマクロビィビィオティック食が効果をもたらしたと言う証拠に基づいて、放射線汚染を受けた時にどういう食べ物を食べると良いか、と言う事が書いてありました。」

「私は、ベラルーシに帰国後すぐに、ミンクスで、この本を翻訳して自費出版しました。 また、藍藻類の錠剤を持ち帰って、適切な科学的テストを手配し、体内から放射線を除去するのに役立つ事を証明しました。 この、やっと得た小さな進歩と引き換えに、私はCIAのエージェントであると言うレッテルを貼られました。 でも、私は、まだ探索を続ける決意をしていました。」

ガリナさんがクリフ・サンダーソンさんの事を知ったのは、アメリカにいる時でした。 彼は既にモスクワにいて、大病院のガン病棟で、医師や専門家と一緒に治療していました。

彼の、全ての段階で適切な臨床検査を行うと言う主張は、衝撃的な結果をもたらしており、主流派も無視する事ができませんでした。この結果は大変に優れていたため、クリフさんは、1992年に、代替医療者では初めて、栄誉ある、アルベルト・シュヴァイツァー補完医学賞を授与されました。

「最初にクリフの事を聞いた時、直感を感じました。」とガリナさんは思い出します。「他の全てが役に立たない状況下で、やっと、運命は、ディミトリと他の子供達を助けてくれるかもしれない人を、私達の元に連れて来たのだと思いました。」

ガリナさんは、話すのをやめ、細い指にはめている結婚指輪を触りました。「彼が将来私の夫になる人だとは、夢にも思いませんでした。 特に、ミンスクの住宅不足はとてもひどく、3年前に離婚した前夫とまだアパートで同居していたからです。」

床に座っていたクリフさんは、物柔らかに言いました。「ガリナから手紙をもらって、ミンスクの血液学センターに招待された時は、すぐに行く決心をしました。」

「とてもロマンチックな状況で出会ったわけではありません。」 とガリナさんは言います。「病院は混雑しており、設備は充分に備わっていませんでした。 複数の海外医療チームが来て、独自の種類の化学療法を施していましたが、あまり効果が出ていませんでした。 状況は、完全に悲惨でした。」

「医師達は、クリフの事をどう思っていいか、困惑していました。 昔のソ連では、“スピリチュアル”と名が付くものは完全に非常識で、バカげていると認識されていた事を理解して下さい。 でも、医師達は、クリフに一任してくれました。」

クリフさんは、彼のヒーリングを、「サイコ・リズミック法」(訳者注:現在は、Deep Field Relaxation又は「ディープ・フィールド・リラクセーション」)と呼びます。 本質的には、手を置く事により、身体的改善と他の癒しをもたらします。

「ミンスクで、クリフは、苦しみもだえていた、多くの病状末期の子供達を治療しました。」とガリナさんは言います。「あまりの痛みに、モルヒネカクテルさえ効果を出していなかった、小さな男の子がいました。 クリフが大きな手を、この男の子の痩せ細った肩に置いたとき、どういうわけか、この子は痛みを忘れたのです。」

「2人は、目を見詰め合っていました。 この男の子は、翌日、亡くなりましたが、クリフはその時私に、もう怒りの感情に浸っている事をやめるように教えてくれました。 この男の子は、そしてその子のような他の多くの子供達は、自分達の状況にスピリチュアルな面がある事を理解していたのだと言いました。 その男の子にとっては、死さえも受け入れる事ができる事だったのです。」

クリフさんはまた、ディミトリ君の治療もしており、明らかに効果を出していました。 2週間後、慢性の咳が消え、チェルノブイリ事故後からずっと罹っていた、様々な感染症も消えました。 「頬がピンク色になり、目の下のクマが消えました。 4年間で初めて、また健康になったのです。」とガリナさんは言います。 「やっと希望が持つ勇気が出ました。」

「血液学センターでも、変化がありました。 子供達は、以前よりも楽しそうで、活動的でした。 医師達は突然、クリフの治療法に興味を示しました。 中には、自分の痛みを癒してくれ、と頼む者もいました。」

「話をするうちに、私達は大変気が合う事に気付きました。 私にとって、クリフは魅了的でした。 彼は、20年間、世界中を旅しており、ヒーリングをしたり、伝統的な医療従事者から学んだりしていました。 私は33歳の時にアメリカに行った一度しか、海外に行った事がありませんでした。 自分の人生経験と、ドストエフスキーやチエホフの本から、スピリチュアルな事は知っていましたが、その話を誰ともした事はありませんでした。 スピリチュアルな師を受け入れる準備ができていた時に、クリフと出会ったのです。」

現在53歳であるクリフさんは、20年間、家も車も電話もない独身者でしたが、ぶっきらぼうに説明した「常套の魔法」に負け、プロポーズしました。 ベラルーシの当局との問題を恐れてアメリカに逃避行した時、2人は出会ってまだ3ヶ月でした。

ガリナさんは、1991年1月31日にニューヨークで結婚しましたが、家族も友人も1人も出席しませんでした。 「突然の事でした。」とクリフさんは認めました。 「でも、私達は2人共、それが正しい事だと思っていて、全てはうまくいっていました。」

ガリナさんとディミトリ君が、クリフさんが慣れている放浪のライフスタイルに加わった時、個人的な安定と言う考えは、全て置き去られました。 「家族や友人から離れるのは、辛かったです。」とガリナさんは認めます。 「いつも知らない国や、知らない人の家に居て、よそ者の様に感じるのも辛かったです。 私は、自分のキャリアも捨てました。 でも、私達には、目的があり、私は、ベラルーシで起こっている事の目撃者です。 これは、映画を作るよりも、もっと大切な事です。」

クリフさんとガリナさんは、ベラルーシを助けるための組織を設立しました。 この組織は、代替医療と、人々に食生活や自助の方法を教える事を強調しています。 FOCUS(Friends of Children United to Save)は、去年アメリカで登録され、2人はディミトリ君と一緒に、資金調達のために世界中を旅し、その活動を指導しています。

去年の夏、クリフさんとガリナさんは、汚染区域から170人の子供達を、シベリア東部のバイカル湖へ連れて行きました。 「子供達は、様々な自然療法従事者による治療を受けました。」とガリナさんは言います。 「鍼灸、薬草ハーブ、マッサージ、栄養のある食べ物と、新鮮な空気です。 被曝による病気の歴史上初めて、自然医学が大規模に使われました。」

クリフさんは、ベラルーシ東部のグロドノ医科大学で医師の研究グループの筆頭に立っているラリッサ・エベッツさんを招待し、バイカル湖に行く前と、行った2ヶ月後に科学的テストをしました。 「エベッツ教授は、子供達の免疫システムがかなり改善され、血液も改善され、放射線物質の内部被曝量が減った事を発見しました。」

FOCUSは、バイカル湖に常置の施設を設立する事を目標としています。 すでに、政府の許可は下りていて、企業や、海外の個人からの寄付を募っています。

私達の会話が終わりに近づいた頃、9歳で、顔色が良く健康そうなディミトリ君が、退屈そうに部屋に入って来ました。 「このライフスタイルは、この子には大変なんです。」とガリナさんは、ディミトリ君を抱きしめながら打ち明けます。「明日は、ノルウェイの会議でスピーチをします。 ロンドンにはもう1ヶ月いますが、友人宅から友人宅へと、もう3度移動しました。 ディミトリは、会議に同行して、じっとして静かにしていなければいけません。 この2年間、学校に行ったり、他の子供達と遊んでいる機会もあまりありませんでした。」

「そのうち、どこかに落ち着いて、家を持ちたいと思っています。 これは犠牲ですが、私が自分で選んだ事です。 クリフも私も、2人共決心した事です。 一度チェルノブイリの子供達を見たら、決して忘れる事ができないのです。

 


 

<チェルノブイリ­から600Kmのミンスクで、内部被ばく>

最初は、風邪やインフルエンザ。 

そして、尿路感染症・腎臓感染症に、肺炎。 

終わりがなく、繰り返されました。 

顔色が黄色っぽくなり、目の下に大きなクマができました。

"To Whom It May Concern" Part One

http://www.youtube.com/watch?v=pi8aC9Knwb4

.11superchoco 1 年前

この映画を制作したGalinaさんと、2011年6月に知り合­いました。 Galinaさんは、当時3歳だった息子さんと、チェルノブイリ­から600Kmのミンスクに住んでいました。 汚染された食べ物からの内部被曝を経験したそうです。 Galinaさんによると、事故から4日後、ベラルーシ政府は、­「手をちゃんと洗うように」と国民にアドバイスしました。 ただ、それだけでした。 Galinaさんの息子と他の子供達は、外で遊び、汚染された食­べ物を食べ続けました。 息子は、たった2-3週間後に体調が悪くなり始めました。 最初は、風邪やインフルエンザ。 そして、尿路感染症・腎臓感染症に、肺炎。 終わりがなく、繰り返されました。 顔色が黄色っぽくなり、目の下に大きなクマができました。 それが何年も続きました。 友人の子供達も同じでした。 医者は説明ができず、政府は放射能による健康被害は認めていませ­んでいた。(事故後4年経つまで、汚染がどれほどであるかは、国­民に知らされませんでした。) 皆、恐怖におびえていました。 Galinaさんは、怒りでいっぱいでした。

 

  .11superchoco 1 年前

Galinaさんは、元々、テレビ局のプロデューサーでした。 事故から3年後、自分でドキュメンタリーを作る事にし、ミンスク­の病院等で、白血病の子供達を撮影しました。 どこに行くにも、ガイガーカウンターを持っていきました。 非常に高い線量の所で、子供や妊婦が暮らしていました。 病院に着いた3日後、小さな女の子が亡くなりました。 そして、毎週、10人から12人が亡くなりました。
Galinaさんは、その他、放射線汚染対策の食生活の英語の本­を訳して自分で出版したりして、CIAのスパイだと思われ、KG­Bのリストに載せられました。 今でも、ベラルーシには戻ることを許されていません。

 

.11superchoco 1 年前

Galinaさんと、ご主人のCliff Sandersonさんについては、こちらで、Deep Field Relaxationのサイトのニュースレターの和訳をご覧にな­れます。
nihongo.zerorads.com/lessons_b­elarus.html
nihongo.zerorads.com/deepfield­_relaxation.html

 


11superchoco 1 年前

字幕の代わりに、簡単なあらすじをここに書き出します。(Gal­inaさんの許可はあります)
第 1部では、ある村が最初に出て来ます。この村は、1990年の春­まで避難区域になりませんでした。 セシウムの汚染は146Curies/Km2で、事故 後の3年間で、その村の住民は、24.4Rem(244mSv)­の汚染を受けました。 (2分07秒の辺で、黄色のガイガーカウンターが出て来ます。こ­れ は、ロシア製のSosnaと言うガイガーカウンターで、偶然私が­持ってる機種と同じなので知ってるのですが、表示される線量はm­Remです。1mRem = 10μSvなので、この場面での0.206と言うのは、2.06­mSvです。Galinaさんが1990年にこのドキュメンタリ­ーを撮った時の目的は、ど れほどまだ汚染が続いているかと言う事も含まれていたので、ガイ­ガーカウンターを持ち歩いたそうです。) 外で遊んでいる子供達は、聞き取りにくいのでど この村に住んでいるのか分かりませんが、その時点ですでに10R­em(100mSv)の汚染を受けていました。 (つづく)

 

  .11superchoco 1 年前

(あらすじつづき)
病院に居る小さな女の子は、3年間白血病 です。母親は、爆発後すぐに出産し、おそらく新生児黄疸のために­、医者から太陽に当たるようにとアドバイスされ、週末ずっと、日­光浴をしていたそうです。 この子が5ヶ月の時、医者の アドバイスで、母方の祖母の家に静養に行きましたが、そこでの汚­染レベルは35から40キュリーでした。 時間がないため、全部は訳せませんが、病院での シーンは、どれほど薬、医師、食べ物、器具、知識が足りないか、­と言う事です。 血液検査なども、古い検査器具を使用し、時には必要な用具を医師­が手作り する場合もあります。ミンスクの血液センターでは、毎週数人の子­供が亡くなります。最後に出てくる3歳の男の子は、撮影後3日目­に亡くなりました。

 

 


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