『原爆被爆者の症状』(裁判資料から)
咽頭痛、口内炎、鼻血、白血球減少、倦怠、下痢、嘔吐、紫斑・・・
(原爆症認定申請却下処分取消等請求事件)
(3)被爆者の放射線による症状
ア 急性症状
被爆者には、被爆直後から発熱、下痢、喀血、吐血、下血、血尿、吐き気、嘔吐、脱毛、脱力感、倦怠、鼻出血、歯齦出血、生殖器出血、皮下出血、発熱、咽頭痛、口内炎、白血球減少、赤血球減少、無精子症、月経異常などの様々な急性症状が現れた1。
肥田証人は、原爆投下直後から被爆者の治療にあたり、41度を超えるような高熱を発する患者を何人も診ている。熱が出ると、すぐに鼻、口の脇、目尻から出血し、紫斑・脱毛が生じる中で亡くなっていく被爆者を何人も診ることとなった(肥田尋問調書・10頁~11頁)。
原告Aには、下痢、歯齦出血、悪寒、発熱、脱毛が生じた(甲B1・6~7頁)。
原告Dは、被爆した翌日ころから脱毛が始まり、鼻血がなかなか止まらなかった。
また、ひどい嘔吐、下痢、眩暈も生じた(甲E1・7頁)。
原告Fも、大量に頭髪が抜け、出血してから治るまで時間がかかった(F本人調書21~22頁)。
原告Gは、1週間程度、歯茎から出血が続いた(甲H1・3頁)。
原告Hには、ひどい下痢が生じ、また体がだるく何もやる気が起こらない状態が続いた(甲I1・5~6頁)。
イ 慢性症状(長期にわたる後障害)
放射線被曝により、被爆者は、様々な後影響(後障害)に苦しめられることになった。当初は、がん疾患への影響が報告されていたが、現在はがん疾患以外の様々な疾患に対する影響が報告されている。
放射線被曝による後障害としては、白血病を含む癌、白内障、心筋梗塞症をはじめとする心疾患、脳卒中、肺疾患、肝機能障害、消化器疾患、晩発性の白血球減少症や重症貧血などの造血機能障害、甲状腺機能低下症、慢性甲状腺炎、被爆当日に生じた外傷の治癒が遅れたことによる運動機能障害、ガラス片や異物の残存による障害を残している場合などが考えられるが、未解明の点が残されている現在、限定的に捉えられてはならない。
ウ 「原爆ぶらぶら病」(慢性原子爆弾症)
さらに、被爆者は、被爆後原因不明の全身性疲労、体調不良状態、労働持続困難などのいわゆる「原爆ぶらぶら病」に悩まされることになった。
肥田舜太郎証人は、医師として被爆者を診察し続けてきた経験をふまえて、被爆者のだるさは一般的に言われるだるさと全く異なり、働けないだるさであると表現し、男性は仕事との関係で、女性は家族の世話や性生活などで苦労を強いられたと証言している(肥田尋問調書・17~19頁)。
日本被団協の「1985年原爆被害調査」においても、「風邪をひきやすい」「つかれ易い」「無理ができない」「とてもだるい」との回答が、遠距離被爆者及び入市被爆者を含めて、ほとんど50%を超えている(甲A34、なお同43・16頁も参照されたい)。
また、都築正男医師は「慢性原子爆弾症」の中で、自らの臨床医としての体験をもとに、慢性原子爆弾症について以下のように詳細に検討を加え、その実態を明らかにしている(甲A119)。
「原子爆弾の傷害威力の一つである第一次放射能の作用によって、身体の所蔵期にそれぞれ或る程度の影響を蒙りながら、その程度が軽く、中度以下の放射線病症状を現したが、幸いにして回復し、又は放射線病の症状を現さず所謂潜在性の放射線病者として経過した人々は少なくない。これらの人々は、現在においては大体に健康となり、それぞれの業務を営んでいるが、常に疲れ易いことを訴え、業務に対する興味乃至意慾が少く、記憶力の減退を訴え、しばしば感冒や胃腸障害、特に下痢に悩んでいる。いわば健康者と病者の中間に位する人々ともいえよう。これらの人々の状態を、特に臨床医学の立場から、医診又は医療の便宜上『慢性原子爆弾症』(略して「慢性原爆症」といってもよかろう)と仮称したいのである。
慢性原子爆弾症の人々は、常に身体的状況の異常と精神的能力の衰頽とをかこっており、医師に診察してもらっても、他覚的には特に異常な所見は認められない。又、血液や尿その他についていろいろ詳しい診査を受けても得られる検査成績は常に正常値の範囲内である。であるから、検査した医師は異常はないと判断する。しかし彼等はそれでは満足し得ない。そして、何となく身体的或は精神的の違和を訴えて不満である。」(以上、甲A119・430頁)
「私は本編において、医学的には確証を掴んでいないのに拘わらず敢えて『慢性原子爆弾症』という仮称を提唱し、その診断並に治療に関してまで私見を披瀝した。勿論全くの未定稿であることは充分に承知している。しかし、夥しく多数の被爆生存者が、軽重の差こそあれ、いろいろの意味での苦悩を訴えておられる現状を注視するならば、何とかしてあげたいと思うことが我が邦臨床医学の責務ではあるまいか。」(以上、同・442頁)
そして、原告らの供述からも「ぶらぶら病」の実態は明らかになっている。すなわち、原告Aの場合、夫との夫婦生活は、新婚のころから月に一回あるかないか程度であった(甲B1・13頁)。
原告Bには、体が疲れやすい状態がずっと続き、少し長い距離を歩いただけで、疲れてしまうような状態であった(甲C1・5頁)。
原告Cは、だるさが続く中しんどくても我慢していたが、あまりに具合が悪そうなので病院に連れて行かれたこともあった(甲D1・3頁)。
原告Gは、体がだるく仕事ができなくなることがあり、その際は連続して休まなければならないため、定職に就くことができなかった(甲H1・5頁)。
原告Hは、日々の生活で疲れやすい状態が続き、風邪をひいたり病気になることも多く、仕事に支障を来すことが多かった(甲I1・7頁)。
この「ぶらぶら病」については、原因が解明されていなかったことから
周囲からの理解は得られず、被爆者は「怠け者」「仮病」などと非難されることとなり、
「ぶらぶら病」の症状だけでなくこれらの非難によりいっそう苦しめられることになった
(なお、郷地証人は、このような理解のなさなどから、「原爆ぶらぶら病」という呼び方は差別用語的な使われ方をするため、「慢性原子爆弾症」と言うべきと証言している-第15回郷地証人調書・35頁)。
原告Dは、だるいのを我慢して頑張っても周りから理解を得られず、長く勤務できる機会はほとんどなく30年間に10数回も転職することとなった(甲E1・8頁)。
原告Fは、手が抜けそうになるほどのだるさが生じていたため、夫に「横にならせてほしい」と頼んでもにらまれるだけで、ほとんど休むことはできず、つらいのを我慢して必死で生きることとなった(甲G1・5頁、なお甲A20・16頁参照)。
戦争が終わり、全ての人が新たな社会へ希望を持って歩んでいる中で、被爆者は、原爆の影響を引きずりながら生きてきたのである。
(引用終了)
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