原発問題

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11091原子力産業勃興期に暗躍した人々の人脈伝‥‥広瀬隆著『持丸長者・戦後復興編』より抜き書き

2012-09-26 00:46:46 | 未分類

11091原子力産業勃興期に暗躍した人々の人脈伝‥‥広瀬隆著『持丸長者・戦後復興編』より抜き書き

11091原子力産業勃興期に暗躍した人々の人脈伝‥‥広瀬隆著『持丸長者・戦後復興編』(ダイヤモンド社2008年刊)より抜き書きhttp://homepage.mac.com/netslave/iblog/B136738049/C2009140142/E766441165/index.html より

 2012年度予算案への原子力発電関連予算盛り込みを阻止しなければならない。
 1954年、この島国の原子力発電、核開発政策への第一歩は、’科学振興費に原子炉建設費などを付け加える予算修正’から始められている。

 再稼働阻止、気になる放射能能拡散、’除染’とかいうまやかし、拡散濃縮してできた高濃度放射性物質汚泥の処理問題。つべこべ言いたいことには事欠かない。しかし、その影で来年度予算案作りは密かに水面下で行われている。ツーカー官僚の仕事は原発関連予算を作ることだ。’あの人たち’のやり方は、一にも二にも既成事実の積み上げだ。原発関連予算さえ通りさえすればよいのだ‥‥

 110914付け毎日JPに’中川文科相、もんじゅ経費、来年度予算計上へ’と出ている。福島第一原発事故以来、文科省というものも原発利権団体の一部だったんだねと気付かされる今日この頃・・・
 ”福井県の西川一誠知事は15日、中川正春文部科学相を訪ね、昨年8月に燃料交換用機器の一部が炉内に落ちるトラブルで試運転が中断した高速増殖原型炉「もんじゅ」(同県敦賀市)について、早期復旧や大地震・津波による電源喪失に備えた安全性強化などを求めた要請書を提出した。これに対し中川文科相は、もんじゅ運営に必要な関連経費を来年度も予算計上する方針を提示。「電源喪失への対応を徹底的に検証し、試運転を再開するかどうか詰めていく」と述べた。今年度のもんじゅ関連経費は約216億円。”
 無駄金216億!‥‥‥‥‥‥

(110926追記 せっかく見出しをつけるなら、’文科省、来年度(2012年)予算案、もんじゅ関連の予算には手をつけず’のほうがわかりよい。
 ”増殖炉の開発費7割削減へ、もんじゅ経費は維持”‥と読売新聞にでてた。内容はというと、今年2011年度には100億あった研究開発費のうち7~8割、2012年度予算から削る予定。しかし‥‥‥
 ’一方、高速増殖炉「もんじゅ」の維持費など(同210億円)はほぼ継続。結果、研究開発費、もんじゅの維持費、燃料の製造技術開発費などを合わせた同技術の推進費(同400億円)は全体で2割程度の削減となる’
 

 3.11福島第一原子力発電所の事故以来、’げんしりょく村’というほのぼのとした言葉がはやってたりして、やな感じ。広瀬さんが『持丸長者・戦後復興編』の中でこの島国への原発導入の経緯を簡便に書いておられたので、そこに出てくる人物や文献に、とりあえずwikiなどからリンクをとってみた。

 官僚の姿が見えない。リンクをとる作業をしてみると、官僚という人たちは本来裏方であるからかもしれないが、簡便な人物紹介などが見つかりにくかった。現在、官僚という人たちは、新政権のもと、来年度2012年度予算の策定に大わらわなはずだ。
 本質からそらさせる、公正明大を装ったマスコミのリークや、脱原発に向けた玉虫色の政治家の発言には、’気をつけなければならない’。現実には、’原発関連予算が付くか付かないか’によって、現政権は本当に何をしようとしているのかが、見えてくるというものだ。

 (*以下、興味深かった点を列挙、青い文字クリックにて広瀬さんの御本でそのあたりが書かれてる部分へジャンプします)

 ・この島国への原発導入の直接の第一歩は、1954年中曽根康弘、斎藤憲三の両代議士の、’科学技術振興費に原子炉建設費など合計3億円を求める予算修正案’に始まっている。このことは今も昔も変わらないはずだ。

 

 ・「地震国のノウハウを結集して」「ニホンのゲンパツは安全ですっ」って?散々聞かされた宣伝文句‥‥‥今では誰もが認める地震理論、プレートテクトニクス理論が出始めの時代に、「そんなアホな理論問題になりません」として大地震の備え無しで初期の原発は設計されてる。

 ・本来は建設地が地震に対して安全であることを確認してから建設予定地を決定し、建設にかかるのが手順というものだろう。しかし、現実は違う。この島国では建設地を決定してから安全性を調べるのである。(柏崎刈羽原発の例)

 

 ・電力会社が、電気を私物化し、電力の自由化を妨害しながら電力機器ばかりを宣伝し、地元交付金のために馬鹿高い電気料金をとって、巨額投資した危険な原子炉を運転するのでは、戦時中の軍需産業と変わらない。

  
 それでも希望は残されている。
 

<111003追記> たまたま、このごろ読んでいた『つぶて』中沢厚著、『持丸長者・国家狂乱篇』に、原子力発電所をこの島国へ誘致した最初の人物として有名な正力松太郎が、警視庁方面監察官として米騒動にまきこまれ負傷した話や、正力が関東大震災後どのようないきさつで読売新聞社を買い取ったのかなどについてあったので、加筆した。

 

 以下2008年刊、広瀬隆著『持丸長者・戦後復興編』より抜き書き

 

p421‥‥‥‥原子力時代と土地騰貴‥‥‥‥

 通産大臣・田中角栄が、政権構想の目玉として「日本列島改造論」を発表したのは、総理大臣就任の一ヶ月前、72年6月11日、オイルショックの前年であった。角栄曰く、日本列島は狭いのだから、農村の過疎や都市の過密が起こるのはおかしい。工業地帯を大規模に配置し直し、これをテコにして、列島の過疎・過密を同時に解決したい。それを公共投資が主導して、福祉重点路線を実施しようではないか。こう改造を宣言したのである。東京や大阪・名古屋ばかりに人間が集まるのはよくないとは、誰の耳にも心地よい言葉であった。日本中の企業が動き出した。

 ‥‥‥‥(中略)

p424 しかし国民はこの親分の正体に気付かず、大学卒でない人物が総理大臣に上り詰めたので、太閤秀吉の再来とばかり、角栄の登場に拍手を送った。ここで国民が、最大の詐欺にあったのが、原子力発電所の建設であった。なにしろ1基建設するだけで数千億円という巨大プラントである。政治家へのリベートはたちまち百億を越える。

 第一次オイルショックでぐんぐん原油価格が上昇する中、「石油火力から原子力へ」と脱石油を宣伝しながら、実においしい話であった。これを支える集金システムとして、74年6月6日に電源開発促進法が公布されたのである。これは、発電所の建設を促進するためと謳って、電力を使用する量に合わせて電力会社が消費者から金を集めて、建設予定地周辺の市町村に交付金として配分しようと、錬金術師・角栄が悪知恵を絞った法律であり、関連二法とあわせて電源三法と呼ばれ、10月1日に施行された。危険な原発の建設に対しては、全国で猛烈な反対運動が起こっていたので、事実上は、原発導入のための「消費税」導入であった。電源開発促進法は、税率が変更され、2007年度以降、1000キロワット時あたり375円が徴収されている。

 角栄はこれを自分の郷里・柏崎刈羽原子力発電所建設の大きな利権の目玉とし、自分の懐にどんどん税金が流れ込むようにしたのである。角栄の後援会・越山会は最盛期に10万人近い会員数を誇り、選挙区の新潟3区では「越山会員にあらずんば人にあらず」と、最盛期の平清盛のごとき勢力となり、71年1月に東京電力が、柏崎刈羽原発建設のための用地買収を進めると、そこに飛び出したのが、越山会幹部で新潟県議の木村博保であった。木村は、角栄と示し合わせて5年前に買い取っていたさ旧知の山林52ヘクタールを10月に17倍の4億円で東京電力に売却し、新潟県内所得番付でトップになった。買値が坪150円の土地を坪2500円にしろと、この法外な売値を決めたのは角栄先生だった、と木村は証言している。っその金は何に使われたか。翌72年7月5日、田中角栄、福田赳夫、大平正芳、三木武夫の4人が出馬して、佐藤栄作の後継者を決める三角大福戦争と呼ばれた自民党総裁選前に、ほぼ4億円の重たい現金をボストンバックや大きな手提げ袋に入れて、木村が東京・目白の田中角栄邸に運び、これをばらまいて総理大臣に就任したのである。(数字は新潟日報による)。この土地売買は、角栄にとっては未だ手付金程度のものであった。

 74年7月4日に、電源開発調査審議会が柏崎刈羽原発の建設を許可すると、直後に電源三法が施行され、最終的に97年7月2日に7号機が運転を開始するまで23年間、地元には建設のための大金(消費税)が落ち続け、総出力821万キロワットという世界最大の原子力基地が、柏崎市と刈羽村にまたがる地域に誕生したのである。2007年7月16日に、新潟県中越沖地震で内部が大きく破壊されたのが、この原子炉群であった。しかし、いかに総理大臣であっても、角栄の采配だけでは、原発建設を許可することはできない。柏崎原発にゴーサインが出た当時、原子力委員長代理として原子炉建設の最高実権を握っていたのが、中部電力初代社長で動燃(動力炉・核燃料開発事業団)初代理事長を務めた井上五郎(*父・井上角五郎 )であった。この男は、戦後の金融を牛耳った日銀総裁・一万田尚登の近親者であった。それも東京電力に入社した息子・井上啄郎が一万田尚登の女婿となり、もう一人の息子井上安城も一万田尚登 の入り婿・一万田安城になるという念の入れようであった。

 

 一体そこにどんな戦後史が横たわっていたのか。

 戦後の電力業界は、前章で述べたように、最大の資本金を謳歌する産業であった。(*1955年当時「産業別総資産額順位」での製造業部門と公益事業部門をあわせた順位で、1~4位までが電力会社で20位以内に9電力会社がすべて入っている)

 しかし、そこに至るまでに大争議があったのだ。敗戦翌年の46年5月に、日本電気産業労働組合が結成され、これが「電産」と呼ばれる日本最強の労働組合となったからである。彼らは会社の枠を超えて、産業別の完全な全国単一組織の組合として、電気事業の民主化と大幅賃上げ、統一労働協約の締結などの要求をかかげて、労働組合運動の主導的役割を果たした。

 しかし労組内部は、国家の体制を変えようとする共産党派と、労働者の生活改善や社会問題の解決を目的とする民主派が対立するようになり、48年2月には民主派が産別会議民主化同盟(産別民同)を結成して、共産党はと完全に分裂した。50年6月の朝鮮戦争勃発後は、7月11日に泯同派が総評(日本労働組合総評議会)を結成すると、51年1月に電産が総評に加盟して「松永安エ門が構想する九電力体制への分割案は、電産の全国組織の基盤を崩す」として猛烈な反対運動を展開した。

 しかし国策は松永案に従って進められ、51年5月1日に九電力体制が発足した。この年にサンフランシスコ講和条約と日米安保条約が締結され段階になると、総評は米ソの両陣営との講話を求めて条約に反対し、再軍縮にも強力に反対して激しい労働運動を展開したため、経営者側は、労働者を保護する生活保障級を切り棄て、弾圧に踏み切った。こうして52年9月24日から起こったのが、全国を揺るがす電源ストであった。電産委員長が総評の新議長に選ばれ、11月には停電スト、十二月にもたびたびの長時間ストを決行したため、日本経済に甚大な影響を与え、生活に支障を来す停電に対して国民の反発が起こったのは当然である。

 その中で52年11月20日に設立されたのが、現在までつづく九電力会社の電気事業連合会(電事連)であった。これは電産と団体交渉してきた電気事業経営者会議を解散して、労働組合の交渉相手をこの世からなくしてしまう経営者側の戦術であった。電事連は団体交渉権を持たない九電力経営者の連絡協議会だったからである。こうして世論の批判を浴びた労働組合運動は敗北し、マンモス組織の電産が崩壊してしまったのである。さらに53年8月5日に吉田茂内閣によって成立したのが、「電気事業および石炭鉱業における争議方法の規制に関する法律」(スト規制法)であり、以降日本では、停電ストや電源ストが禁止されることになった。労働組合の主張は正しかったが、運動の戦術をあやまったために、国民感情を保守側に大きく傾かせてしまったのである。

 日本の軍国主義復活をもくろむ集団はこれに勢いづいて、その53年12月8日にアイゼンハワー大統領が国連総会で「原子力の平和利用(Atoms for Peace)」演説を行ったことにかこつけて、原子力発電を行う具体策を練り始めた。無論、平和利用を看板にして、日本の原爆開発へと、パンドラの箱を開こうと一歩を踏み出したのだ。すでに、経団連では11月15日にGM懇談会を発足させ、三菱重工を中心に動き出していた。国民の間では再軍備反対の声が強く、誘導弾という言葉を使うことさえタブーだったために、彼らは誘導ミサイル(guided missile)の頭文字をとり、密かにGM懇談会と称して、ミサイルの研究に取りかかった。

 翌54年3月1日に、ビキニ環礁で史上最大の水爆実験が行われて第5福竜丸被曝事件が起こった(第4章参照)。その翌日野党改進党の中曽根康弘斎藤憲三 の両代議士が学会や世論を無視して、科学技術振興費に原子炉建設費など合計3億円を求める予算修正案を衆議院に突如提出し、与野党三党(自由党、日本自由党、改進党)の共同修正案として衆議院を通過して日本の原子力開発がスタートを切った。しかしこの時代は未だ水力発電と石炭火力の時代であり、ようやく石油火力に向かおうとしていた時期なので、電力会社は電力需要の急拡大をまかなうことに必死で、原子力には関心のない存在であった。

 

 これを動かしたのが、児玉誉士夫の闇資金で誕生した鳩山内閣時代の通産省であった。製作を主導した通産事務次官は、敗戦直後に白洲次郎の息がかかった経済安定本部(安本)で働いた平井富三郎石原武夫 であった。55年に原子力発電の製作を打ち出した彼らは、11月にワシントンで日米原子力協定に調印して、アメリカからの濃縮ウラン導入に踏み切ると、原子力研究所を設立して電力会社に号令をかけた。かくて、その月に東京電力が電力会社の中で先頭を切って、社長室に原子力発電課を設置し原子力発電の基礎的調査研究の推進に着手すると、海外原子力産業調査団に参加し、アメリカ・ヨーロッパの原子力発電実情を視察して、各国の原子力発電所に社員を派遣した。

 総理府に原子力局と原子力委員会が設置されたのは翌56年元旦で、原子力委員長・正力松太郎 (読売新聞社社主)のもとで、3月1日に日本原子力産業会議(原産会議)が発足して原料ウランの確保に乗り出した。これら一連の政策を取り仕切った通産省事務次官・石原武夫は、62年に東京電力に天下って電事連理事長となり、71年には東京電力副社長にまで成り上がる。広島県出身の石原は、鉄鋼産業に君臨した新日本製鉄会長・永野重雄 の永野五兄弟と義兄弟であり、その一人が東芝原子力本部長・永野治 であったから、大量の高額所得者に囲まれていた。しかも弟・石原周夫 (かねお)が大蔵事務次官だから、金融会で最大の金を動かせる「日本一の資産家」だったわけである。(*読売新聞のワタナベ記者と児玉誉士夫の関連について2005年韓国の外交文書に書かれていたと発表があり話題になったことがある。

 原産会議に参加した企業は、一挙に350社を越え、日本の基幹産業のほとんど網羅する巨大組織となった。だが、この産業界は一体ではなく、三菱グループ(三菱重工・三菱電機)を筆頭に、三井グループ(東芝・石川島播磨重工業)、日立(日立製作所・日立造船)~昭和電工グループ、住友グループ(住友電工・住友金属工業)、古川(古河電工・富士電機製造)~川崎(川崎重工・川崎製鉄)グループの五大原子力産業グループが結成されることになった。(のち古川グループは原子力産業から撤退する)。原産会議初代議長に就任した東京電力会長・管礼之助 (すがれいのすけ)は、戦時中の児玉機関と活躍した満州の日満鉱業会長であった。またこの年の8月10日に原料ウランの確保のため発足した原子燃料公社の理事長に高橋幸三郎 (*『金よりウランへ八十年のわが歩み』という著書あり)が就任したが、この男も、児玉機関 とともに活躍した三菱鉱業フィリピン幹部であった。電力会社や産業界の目指す原子力発電ではなく、軍国主義集団が別の目的を持って動き出していた。

 

 満州国商工次官として管礼之助と利権を分けあった岸信介の新内閣が発足すると、57年5月7日に岸信介が「日本は核兵器保有が可能である」と発言して、公然とその目的を口にし始めた。ほどなく8月27日に日本原子力研究所の我が国第1号原子炉JRR-1が発の臨界実験に成功して、日本に「原子の火」がともったが、これは熱出力50キロワットで、この熱を発電に使おうとすれば、その3分の1しか電気にならない。一般に出力00ワットと呼ぶのは、電気出力のことである。現在の柏崎7号機や浜岡5号機の電気出力130万キロワット級原子炉からみれば、8万分の1というおもちゃのようなものであった。そこで日本政府は、茨城県東海村に、外国から原子炉を導入することに閣議決定し、57年11月1日に民間が80%出資する国策会社として日本原子力発電株式会社(原電)を設立した。初代社長には、安川電機の創業者・安川第五郎 を引っ張り出したが、70歳の峠を越した安河は飾り職としてそのポストに就き、電力会社と官僚集団が実務を牛耳った。

 

 この年から日本の原子力政策が、国民に対して重大な嘘をつきはじめるようになる。それは、危険性の隠蔽であった。57年にアメリカのブルックヘイブン国立研究所が原子力委員会に対して原子炉事故の大災害を見積もった報告書(WASH740)を提出したが、そこで想定した原子炉は、きしくもこの9年後に我が国最初の商業用原子炉として運転を開始する東海原子炉と同じ出力16,6万キロワットであった。大都市からほぼ50キロメートルで大事故が起こると、風下24キロ以内に居る人が全員死亡して、72キロでも重大な放射線障害を受け、土地が汚染して大災害がおよぶと見積もっていた。しかし翌58年に、このとき東北電力会長となっていた白洲次郎 が、日本原子力発電の顧問としてイギリスに渡って軍用プルトニュームの生産が可能な原子炉導入に動き、悪事に奔走し始めたのである。

 

 すでに第5福竜丸事件後、原子炉の大事故がきわめて深刻かつ危険であることは日本でも議論されていた。100万キロワットの原子炉を1年運転すれば、広島原爆1000発分の死の灰を炉心に蓄積するので、良心的学者がきびしく批判をつづける中、彼らの叫びは政治的に完全に排除されたのである。59年12月1日には、我が国最初の商業用原子炉となる東海村の原子炉建設に対して、電源開発調整審議会が決定のゴーサインを出し、建設が始動すると、国民に対し安全論を掲げる裏では、その危険性が密かに検討された。目的は、保険会社など企業・財界がどれほど被害を受けるかを知ることにあった。60年4月に科学技術庁の委託を受けて、日本原子力産業会議が、「大型原子炉の事故の理論的可能性および公衆損害に関する試算 」と題する。”極秘”報告書を科学技術庁原子力局に提出した。

 国民には知られていないこの報告書の内容は、東海村の原子炉が大事故を起こせば、関東・東北地方が壊滅するばかりか、最悪の場合、農業制限地域が長さ1000キロにおよぶ、としていた。東海村から東京駅までは直線で110キロである。本州の青森県最北端から山口県下関までが直線で1257キロだから、列島全滅である。その放射能の100分の一が出ただけで、条件が悪ければ三兆数千億円の被害が出ると見積もっていたが、1960年度の日本の歳入総額は7兆5347億円だから、その半分が吹き飛ぶ。しかもこの見積額は、死亡者の損害は85万円であるとし、被害者への保障をまるで行わないも同然のものであり、現実の被害総額はその10倍にもなるはずであった。(現在主流の100万キロワット級原子炉ではさらにその10倍となる)。この恐ろしい被害が予測されたため、白洲(次郎)らは国家ぐるみで報告書を闇に葬った。こうして戦時中と同じく、国家が国民を欺く作業がスタートしたのである。時まさに、安保反対運動が燃え盛る60年代であった。



p432‥‥‥‥‥大地震がやってくる‥‥‥‥‥

 人間は一度嘘をつくとそれを糊塗するため次々嘘を重ねる。

 1964年5月27日に、原子力委員会によって「原子炉立地審査指針」が策定された。これは、日本国内の何処に原子炉を建設してよいかを定める為の基準であり、科学技術庁長官・佐藤栄作を委員長として、原子力委員会の石川一郎(経団連初代会長)や、有沢広巳 らがこれにかかわった。有沢広巳は経済安定本部(安本)顧問として、吉田茂のブレーンを勤めた東京大学教授であり、政府の石炭調査団団長として一万田尚登や白洲次郎と組んで数十万人もの炭坑夫を失業に追い込んだ男であった。この原子炉指針では、驚くべきことに、地震国・日本で「地震が多発する場所に原発を建設してはならない」とは定めなかった。しかも大事故が起こりうること、その被害は甚大であることを先の極秘報告書で知っているので、原子炉は「低人口地帯であること」と定めた。低人口地帯(過疎地)の人間であれば著しい放射線被害を受けても仕方ない、としたのである。

 これを定めた64年とはどのような時代であったのか。

 今から100年ほど前の1912年に、ドイツの気象学者で地球物理学者・探検家であるあるフレート・ヴェーゲナーガ大陸移動説を提唱した。これは、地球上にある大陸は、地球の表面を浮動しながら動いているというおもしろい仮説であった。その根拠として、北米・南米大陸と、大西洋を挟んで対岸にあるヨーロッパ・アフリカの海岸線がそっくり同じかたちをしていて、しかも両岸で発掘された個性物の化石が一致していたからである。つまり大西洋を挟んだ両岸の大陸は、元は大きな大陸がちぎれてできたものだ、と推定したのである。

 今日では、地球表面を覆っている薄いプレートが移動するために多くの地震が発生することは常識であり、プレートテクトニクス理論として、地震学のもっとも基礎となるのがヴェーゲナーの大陸移動説だが、当時は「大陸が動いている」など突拍子もない考えだとして、これを信ずる人間はほとんどいなかった。日本でも誰も信じなかった。そしてこの学説が各国の学者によって体系的に実証されたのは、ようやく数十年後の、68年であった。だが前述のように、日本はその9年前の59年末に塔会原発の建設にゴーサインを出し、翌60年から建設にかかっていたから、地震発生のもっとも重要なメカニズムを知らないまま設計が行われた。かくて66年7月25日「大事故は絶対に起こらない」「地震に対して日本の原子炉は安全である」と言い張って、我が国最初の商業用発電炉・東海原子炉の運転が開始されたのである。東海村から北へほんの70キロばかり、常磐ハワイアンセンターの営業が開始され、フラガールたちが踊り始めて半年後であった。翌年、67年には広澤克己が中心となって、軍事用プルトニュームの大量生産ができる高速増殖炉の開発計画が国家プロジェクトとしてスタートし、7月20日に原子燃料公社が廃止され、変わって高速増殖炉を建設するための動力炉・核燃料開発事業団(動燃)が発足し、初代理事長に井上五郎(一万田尚登の近親者)が就任したのだ。これが田中角栄の進める柏崎刈羽原発を承認するまでの人脈形成の背景であった。