〈原発国家〉中曽根康弘編(1)(2)(3)(4)(5)/朝日新聞

2011-07-21 07:59:31 | 社会
原子力、米国を追いかけて〈原発国家〉中曽根康弘編
 米国の原爆投下で敗戦を受け入れた日本は、今日の「原発国家」に至る道を米国に付き従って歩いた。その先に、最悪の原発事故があった。菅政権は米国人の専門家を首相官邸に招き入れ、対応策を練り上げた。日本が頼ったのは、やはり米国だった。


 ●「長期的国策を」

 原発国家・日本を振り返るに欠かせない中曽根康弘(93)の政治人生は、米国抜きには語れない。

 米大統領アイゼンハワーが国連総会で「アトムズ・フォー・ピース(原子力の平和利用)」を唱えたのは1953年。ソ連が水爆実験に成功し、米国は慌てていた。原発を積極的に輸出して経済支援することで米国の「核の傘」を広げる世界戦略への転換だった。

 衆院当選4回、35歳だった中曽根はアイゼンハワーに魅せられた。「原子力は20世紀最大の発見。平和利用できなければ日本は永久に4等国に甘んじると思った」と著書やインタビューで繰り返している。

 この年、中曽根はハーバード大学の国際セミナーに招かれた。主催はのちの国務長官キッシンジャー。22カ国から45人が集まった。

 その後、中曽根はサンフランシスコに寄り、カリフォルニア大バークリー校の原子力研究者、嵯峨根遼吉に出会う。そこで最先端の原子力技術に触れた。「長期的な国策を確立しろ」と説かれ、「日本もボヤボヤしてはいられないと痛感した」と述懐している。

 吉田茂が講和条約に調印し、日本が独立を回復して2年。軽武装・経済優先の吉田は、憲法改正や再軍備を唱える中曽根の目に「対米従属」と映った。

 一方で米国から期待されることを喜んでもいた。中曽根は96年の著書で自らを招請した米国の狙いについて「吉田的なものにこのまま日本が流れていってはいけない。新しい政治家を育てなければと考えたんだと思う」と分析し、吉田的政治への対抗心をみせた。

 対米従属を嫌いながらもどこかで米国に認められたい。戦後日本の「二面性」にもがく姿がそこにある。


 ●「キノコ雲見た」

 「原発」にこだわる原点は「原爆」のキノコ雲を見たことだ――中曽根はのちに何度も公言している。

 45年8月6日朝。中曽根は海軍軍人として広島から150キロの四国・高松にいた。「西の空にものすごい大きな入道雲がもくもくと上がるのが見えた」「この時私は、次の時代が原子力の時代になると直感した」

 その「原点」を裏付ける材料は乏しい。高松で約600人の戦争体験談を集めた喜田清(78)は「キノコ雲を見た人に会ったことはない」。市にも記録は残っていない。

 54年3月に提出された日本初の原子力予算も、野党改進党の予算委理事だった中曽根が主導したと言われる。中曽根は国会で原子炉調査費2億3500万円の積算根拠を問われ、「濃縮ウランはウラニウム235だから」と爆笑を誘った。少数与党の吉田政権が修正要求を丸のみして予算は成立。中曽根は「原子力の重要性を考え、断固として邁進(まいしん)した」と胸を張った。

 だが、実は中曽根は中心人物ではなかった。原子力予算の構想は、直前にあった改進党秋田県連大会から帰京の車中で、TDK創始者の斎藤憲三や、のちに法相となる稲葉修らが描いたものだった。中曽根はそこにいなかった。

 「自分がやったみたいなことばかり言ってるが、うまいことしたんじゃないか」。原子力行政の重鎮である島村武久は、歴史検証を目的に官僚らの証言を集めた「島村研究会」で中曽根をそう評している。

 政界の階段を駆け上るにつれ、中曽根は原発推進でも絶大な影響力を振るっていく。原子炉技術も原子力行政の制度も当初は米国からの借り物だったが、「自立した国家」を掲げるには原発を主体的に導入したとみせる必要があった。いつしか、日本社会は自力で原子力を制御できると過信した。私たちがそれに気づくのは、初の原子力予算から57年後の3月11日である。

 =肩書は当時、敬称略

 (冨名腰隆)

 ▼1面参照


1945年

  8月6日 広島に原爆投下

    9日 長崎に投下

   15日 ポツダム宣言を受諾、日本敗戦

1947年 

 4月25日 中曽根、総選挙で初当選

1951年

  9月8日 対日講和条約、日米安保条約調印

12月20日 米国が世界初の原子力発電に成功

1953年

  7月3日 中曽根、ハーバード大のセミナー参加で渡米

 8月12日 ソ連が水爆実験に成功

 12月8日 米大統領アイゼンハワーが「アトムズ・フォー・ピース」演説

1954年

  3月1日 米国水爆実験で第五福竜丸が被曝(ひばく)

  4月3日 日本初の原子力予算が成立

12月25日 政府、原子力平和的利用海外調査団を派遣

1955年

 7月20日 海外調査団が報告書提出

  8月8日 ジュネーブで第1回原子力平和利用国際会議

1956年

  1月1日 原子力委員会が発足

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大衆の懐柔に奔走〈原発国家〉中曽根康弘編2
中曽根康弘と二人三脚で原発を導入した人物がいる。33歳年上の正力松太郎だ。読売新聞と日本テレビを率いた戦後復興期の「メディア王」が担った役割は、日本社会の原子力への抵抗感をやわらげる「世論対策」だった。

■湯川博士を起用

 中曽根は1955年10月、国会の原子力合同委員会の委員長に就任した。一方、翌年1月に発足した政府の原子力委員会の初代委員長に就いたのが、55年2月の総選挙で69歳で初当選したメディア界の大物、正力である。ふたりは、ノーベル物理学賞を受賞して国民的人気の高かった湯川秀樹を原子力委員会の委員に起用するため奔走した。

 正力は当時、朝日新聞のインタビューに「できるだけ大物ばかりを入れる」と表明。中曽根は日本学術会議会長で東大総長となる茅誠司の自宅に赴き、湯川起用に理解を求めた。

 国内は朝鮮戦争の特需景気にわく一方、54年3月の米国の水爆実験による第五福竜丸の被曝(ひばく)事件で反米感情は高まり、原水爆禁止世界大会が東京で開かれ、原子力へのアレルギーは強かった。国民が納得する「原子力の顔」をふたりは探し求めていた。

 正力の秘書だった萩山教厳(79)は「中曽根さんは正力先生を訪ねては『正力閣下』と呼んで慕っていました」と言う。中曽根は自らの国会演説がソ連を批判したと社会党から批判を浴びて議事録から削除されると、正力に頼んで読売新聞に全文を掲載してもらったと著書で明かしている。

 正力は戦前、警察官僚だった。共産党員の一斉摘発を指揮したこともある。原発による経済発展で共産主義の拡大を防ぐ思想も持っていた。米国は、正力が米国の専門家を招いて原子力をアピールした「原子力平和使節団」や、読売新聞主催の「原子力平和利用博覧会」に協力した。読売新聞は、原子力の将来性を訴える連載「ついに太陽をとらえた」などのキャンペーンを展開した。


   

■昭和天皇も視察

 正力には、政治への野望があった。高齢を跳ね返して政界を駆け上がるために「原子力」を旗印にしようと考えた。55年2月に故郷の富山2区から立候補した時の公約は「原子力の平和利用」。秘書の萩山は「田舎の支持者はピンと来なかった」と振り返る。巨人の選手も動員したが、次点と271票差の初当選だった。

 原子力委員長の執務室は首相官邸に構えた。窓ガラスは汚れ、じゅうたんはほこりっぽい。職員の庄子小枝子(89)はビール会社の景品をコップとして使っていたと振り返る。正力はそれでも「官邸」に固執したが、首相の座は遠かった。

 科学技術庁長官の正力は57年8月、日本初の原発運営会社の形態を巡って民間主導を主張し、国家主導を唱える経済企画庁長官の河野一郎と対立した。中曽根は河野派だった。「風見鶏」と呼ばれる中曽根がこのとき、正力に肩入れした形跡はない。

 正力は民間に原発の運営を任せることで押し切ったが、実力者に刃向かった代償として政治的立場を弱める。一方の中曽根は59年に初入閣。やがて河野派の大半を引き継いで中曽根派を旗揚げし、首相への足がかりをつかむ。

 59年6月、正力は昭和天皇を後楽園球場に迎えた。長嶋茂雄がサヨナラ弾を放つ天覧試合で、プロ野球は黄金時代を迎える。

 その前月、昭和天皇は東京での国際見本市で米国製の研究用原子炉を2メートルの階段を上ってのぞきこんだ。経企庁長官の世耕弘一は「陛下もご覧になったんだから大丈夫だよ」と言って自らが総長を務める近畿大にこの原子炉を購入した。

 原爆投下から14年、第五福竜丸事件から5年。日本の大衆社会の原子力アレルギーはかなり払拭(ふっしょく)された。その後、正力が入閣することはなかった。

 50年余が過ぎ、原発事故による電力不足でプロ野球や巨人は節電対策のやり玉に挙がった。東京ドームの巨人戦は例年より2割ほど暗い。一角にある野球殿堂の一番手前に掲げられた正力のレリーフも、以前より陰っている。=肩書は当時。敬称略(山岸一生)

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中曽根康弘賞論文を15~25歳対象に募集 9月30日締め切り /群馬県
中曽根康弘元首相が創設した公益財団法人青雲塾(高崎市)は、3回目の青雲塾・中曽根康弘賞論文を募集している。

 応募できるのは15~25歳で、テーマは「私の政策提言」「震災で考えたこと」「科学と人類」「若者が今なすべき事」のいずれか。5千字以内で、締め切りは9月30日。最優秀賞1人(賞金10万円)、優秀賞2人(賞金5万円)を選ぶ。11月27日にJR高崎駅前のホテルメトロポリタン高崎で開く作家曽野綾子さんの講演会場で表彰する。問い合わせは青雲塾(027・320・1000)へ。

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カネで推進、転換点〈原発国家〉中曽根康弘編
 菅政権が浜岡原発の運転停止を要請した中部電力には、もう一つの原発立地計画があった。2000年に白紙撤回された三重県の芦浜原発計画だ。1960年代、国策・原子力を推進する中曽根康弘に、漁民の反対運動が立ち向かった。

    ◇

■漁民から海水

 東京五輪から2年後の66年。人口が1億人を突破し、「鉄腕アトム」が流行していたこの年、茨城県東海村で日本初の商業用原発が営業運転を始めた。

 中曽根は48歳。閣僚を経験し、自民党で頭角を現していた。9月、衆院科学技術振興対策特別委員会の理事として、社会党議員ら3人と三重県・芦浜の原発予定地へ視察に向かった。真珠の養殖を営む漁民が反対の声を上げていたからだ。

 中曽根らを乗せる海上保安庁の巡視船が停泊していた長島町の港で、ヘルメットや鉢巻きをした漁民約300人が待ち構えた。養殖で生計を立てていた南元夫(86)は「原発ができれば海が汚れる。許せなかった」と振り返る。水俣病や四日市ぜんそくなど公害が社会問題化し、漁民は原発からの排水で海が放射能に汚染されると恐れていた。

 三重県副知事らが岸壁で小突かれる間に中曽根は巡視船に乗り込み、出航して約150メートル進んだ。そこで港内に集まった漁船約300隻に取り囲まれた。「中電の者が乗っとる」「バカにするな」。漁民たちが怒号を浴びせて巡視船によじ登ってきた。海上保安官は羽交い締めにされ、中曽根もひしゃくで海水をかけられ、びしょぬれになった。

 中曽根は巡視船長に「船を出しなさい」と命じたが、漁民たちは「視察を中止するまで居座る」と甲板で寝転んで対抗。中曽根はやむなく中止を決め、漁民1人ずつの手を握って「社会党ばかりひいきせず、自民党も大事にしてくれ」と声をかけた。

■「反対」先鋭化

 だが、中曽根は怒っていた。宿泊先を訪ねてきた三重県漁連常務の宮原九一(93)に「ここまでくると事件だ」とぶちまけた。三重県警には当時の幹部が中曽根から「国会議員が視察するのに、なぜ排除できないんだ」と問い詰められたという逸話が残る。

 三重県警は3日後に捜査本部を設置。事件当日に海保が撮影した写真から特定した30人を公務執行妨害容疑などで逮捕した。

 帰京した中曽根のもとに三重から釈放を陳情する人が続いた。県漁連の山下健作(84)は中曽根から「原発を受け入れなさい。そうすればすぐに解き放してあげる」と告げられた。間柄侃也(かんや=75)は取り調べの検事から「中曽根さんは罪を軽くしてやってくれと言っているぞ」と原発容認を迫られたと証言する。

 結局、25人が起訴されて有罪判決を受けたが、反対運動は立地計画の白紙撤回までやまなかった。全国の漁民にも原発への怒りが広がり、宮城県の女川原発計画、青森県から出航した原子力船「むつ」への反対闘争に飛び火した。

    


 中曽根が20年後、「ちょっとやりすぎたな」と旧制高校時代の親友に語ったことを、元社会党参院議員の山本正和(83)はこの親友から聞いた。事件が原発政策の転換点となったのは間違いない。政府は「カネ」で原発立地を推進し始める。

 68年度の原子力関係予算に初めて「広報啓発費」約1千万円を計上。74年には立地地域に多額の交付金を投入する「電源三法」が成立した。中曽根は通産相として「地元住民の反対で着工できない例もある」と説明した。芦浜の地元、紀勢町だけで7億円が20年間にわたって交付された。

 「炭鉱でガスにやられることもある。原子炉がよけい危険だというファクターはない」。中曽根は原発の安全性を強調する答弁を続けた。通産省は米ソで原発事故が起きるたびに、日本の原発は安全だと訴えるパンフレットを発行した。

 だが、反対運動は一層先鋭化する。原発は「迷惑施設」の色彩を強め、新規立地は進まなくなった。その結果、60年代に立地を受け入れた地域に集中して増設が進み、古い原発を廃炉にせず使い続けることが増えた。東京電力福島第一原発はその代表例である。=肩書は当時、敬称略(鈴木拓也)

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安全論議を避け同日選に大勝〈原発国家〉中曽根康弘編
ソ連のチェルノブイリ原発事故が世界を震撼(しんかん)させた1986年4月、中曽根康弘は首相になっていた。欧州諸国では原発政策の見直しが始まったが、中曽根は左右のイデオロギー対立に持ち込み、国民の目が「原発の安全性」に向くことを回避する。

■「ソ連での事故」を強調

 日本で事故が報道されたのは、発生から3日後の朝だった。原子炉破壊でヨウ素131など大量の放射性物質が飛散し、日本でも牧草や水道から検出された。

 中曽根は事故直後に離任あいさつに訪れた駐日ソ連大使アブラシモフに「情報を提供してほしい」と促した。目前に迫った5月の東京サミットで事故が議題になることは確実だった。

 中曽根は2年半前の「ロッキード選挙」で敗れ、新自由クラブとの連立で何とか政権を維持していた。サミット議長として存在感を示し、7月に「衆参同日選」に踏み切って政権基盤を固め直す筋書きをひそかに描いていた。

 首相官邸で連日開いた事前勉強会。外務事務次官の柳谷謙介は「事故の問題はなるべく食事の席に限定すべきだ」と進言したことを著書で明かしている。原発事故の話題は極力避け、経済に議題を集中すべきだとの助言だった。

 米ソは前年11月の首脳会談で対話の細い糸がつながったばかりだった。前年9月のプラザ合意以降、為替相場は1ドル240円台から160円台まで急騰し、輸出業界は大きな打撃を受けていた。

 中曽根は助言に従った。原発事故声明を「原子力は将来ともますます広範囲に利用されるエネルギー源」との内容でまとめ、直接的な対ソ批判は避けた。

 だが、中曽根は国内では対ソ強硬派の顔をみせる。

 日本政府は「ソ連とは原子炉の型が異なり、日本の原発は安全性が確保されている」と繰り返した。中曽根も国会で「我が国の原発はまるっきり構造が違っていて心配はない」と断言。政府は7年前の米スリーマイル島事故で国内の同型の原発を停止したのとは対照的に、今回は「再点検は考えてない」と押し切った。

 社会党は原発の是非で党内対立が続いていた。ソ連は事故情報の公開に消極的で、同じく共産主義を掲げる日本の共産党にも批判が集まった。日本では「原発の事故」よりも「ソ連での事故」であることに関心が集まっていく。



■「反原発は左翼勢力」

 中曽根は、衆参同日選なら自民党が勝つという極秘の電話調査を把握。この数字を幹事長の金丸信に伝え、「死んだふり解散」に踏み切る。そこで「原発」を攻撃材料に使った。

 「社会党は原発も(容認に)変わらない。自民党がダメな時に交代するピッチャーが幼稚園。大学生にもなってない」と唱え、原発を認めない政党に政権担当能力はないと主張。実現はしなかったが、野党が提案してきた党首討論会のテーマに「原発の是非」を加えるよう求めた。社会党出身の北海道知事として泊原発を容認した横路孝弘は「ソ連は日本の科学技術より遅れているという国民全体の意識をうまく中曽根さんが使った」と振り返る。

 「反原発」と「革新勢力」を結びつける戦略はあたった。選挙中に茨城県東海村でプルトニウム汚染事故が起きたが、それでも「原発の安全性」は争点にならず、社共両党は防戦一方だった。投票率は71%を超えて自民党は圧勝。中曽根は長期政権を手にした。

 政府の原子力委員会の発足から30年。日本は33基の原発を稼働させ、全発電量の26%を占めて火力を抜いていた。通商産業省の総合エネルギー調査会は衆参同日選の2週間後、2030年に58%まで拡大する構想を発表した。

 1986年10月31日の閣議に「着実に原発を推進する」とする原子力白書が報告された。中曽根はその夜、原子力開発30周年記念懇親会で「原子力はさらに安全に確実に、平和と人類に貢献するよう育っていく」と宣言。チェルノブイリ原発事故直後の衆参同日選で圧勝した自民党は、国策・原子力を続行していく。=肩書は当時。敬称略(松田京平)

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平和利用の陰に潜む核武装論〈原発国家〉中曽根康弘編
核燃料サイクルを核不拡散条約(NPT)の体制下で認められている国家は、国連安保理の常任理事国を除くと日本だけだ。中曽根康弘が首相時代、米国の「お墨付き」を得た。唯一の被爆国・日本はその結果、核兵器に使うプルトニウムを大量に保有する国家となった。

 中曽根は首相就任直後の1982年末、社会党議員から「総理は核武装論者ではないか」と国会で質問され、否定した。「私を核武装論者という人がおったらとんでもない誤解で、勉強してない人の言うことだ」

■専門家招き研究

 だが中曽根は防衛庁長官だった70年、私的に専門家グループを招いて核武装の是非を研究させていた。中曽根はのちに著書で「当時の金で2千億円。5年以内で出来るというものだった」と明かしている。

 中曽根はその研究を踏まえ、直後に訪米して講演する。「日本への核の脅威に対し、米国の抑止力が機能している限り、核武装する可能性はまったくない」

 能力はあるが、つくらない――。中曽根の核戦略について、外務省で初代原子力課長を務めた金子熊夫(74)は「必要なら持てる力が核の抑止力になる。中曽根さんは昔からそういう意見だった」と解説する。

 中曽根自身は核燃料サイクルの狙いについて「日本の自主独立でできる。外国から燃料を輸入しなくてすむ」と月刊誌Voiceの対談で語っているが、真意はむしろ、核武装の潜在能力を残しておくことにあったとの見方は絶えない。

 中曽根は83年11月、米大統領レーガンを別荘の「日の出山荘」で迎えた。そろいのちゃんちゃんこを着て、中曽根はホラ貝を吹くパフォーマンスでレーガンを歓待。この「ロン・ヤス」関係のもとで日米原子力協定の改定を目指した。

 日本は原発導入期に技術と資源を米国に頼ったため、使用済み核燃料からプルトニウムを取り出す際にいちいち米国の同意を必要としていた。この先30年間は同意を要しないように協定を改めることが日本側の主張だった。

■米側に秋波送り続ける

 だが、米国には日本の核武装への警戒感があった。米国務省高官は「30年の間に何が起こるかわからない。日本がNPTを脱退して日米安保条約を破棄する可能性もある」と難色を示した。

 中曽根は米側に秋波を送り続けた。「日本列島を不沈空母にする」と発言。懸案だった対米武器技術供与に踏み切り、たばこ関税引き下げや円高容認など防衛、経済両面ですり寄った。米側は徐々に軟化し、レーガンの決裁を残すだけになった。

 中曽根は87年9月、最後の日米首脳会談で日米原子力協定の改定を求め、レーガンは前向きな姿勢で応じた。両国は2カ月後に調印。日本は2018年までプルトニウムを堂々と大量保有する資格を得た。

■太陽国家へ転換

 だが、核燃料サイクルは技術的トラブルや事故で進まず、日本は国内に10トン、核兵器1250発分に相当するプルトニウムをためこむことになった。国際原子力機関(IAEA)への報告では、米国、ロシア、英国、フランスに次いで多い。エネルギーの自立を飛び越え、日本の核武装への疑念を世界から招きかねない状況にある。

 福島第一原発の事故はこうした中で起きた。政府は使用済み核燃料を保管するプールの冷却に手間取り、政権内にも核燃料サイクルからの撤退はやむを得ないとの声が広がる。それは「自立した国家」を目指す一部の政治家や官僚、学者たちにとって、ひそかに受け継いできた「核武装の潜在能力」を放棄することにほかならない。

 中曽根は原発事故から3カ月たった今年6月、太陽光発電の普及を目指す会議にビデオメッセージを寄せた。「原子力は人類に害を及ぼす面もある」とあっさり認め、こう結んだ。「太陽エネルギーをうまく使う。日本を太陽国家にしたい」。国策・原子力を引っ張ってきた93歳は、自民党に先駆けてエネルギー政策の転換を表明した。=肩書は当時。敬称略(鈴木拓也)
=終わり



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2012-01-09 17:44:59
とても参考になりました。
ありがとうございます。

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朝日新聞が、属国日本の初級編を解説している (いやいや朝起会を続けている妻の夫のブログ)
 今日の朝日新聞で、原発国家田中角栄編が載っている。