隊員NO.6れいなで~す(^_^)v
6月6日(木)の加賀市観光ボランティア大学第5回講座 「加賀の古代をウォッチング
-古墳は語るいにしえの加賀-」で、加賀市教育委員会文化課課長の田嶋正和先生
から教えていただいたことをもとにレポートさせていただきます。
大聖寺の藤ノ木町で発見された「藤ノ木遺跡」からは、縄文時代中期の「縄文式土器」が
たくさん見つかりました。その縄文式土器の数はしっかりと復元作業をすれば、約300個にも
及び、石川県内一の多さです。
土器の発明は人間の歴史に大変革をもたらしたのだそうです。土器が発明されるまで
人間は食べ物を生で食べるか、焼いて食べるしかありませんでした。しかし、土器が生まれて
人間はものを煮て食べることができるようになりました。ものを煮ることによって栄養分を
無駄なく摂取することが可能になり、野菜も多く食べられるようになったのです。
その結果、人口が爆発的に増加するようになりました。
そして今から5~6000年前頃、日本に朝鮮半島ないしは沖縄から稲作が伝わり、
九州地方から東へ東へと広まります。弥生文化のはじまりです。人びとは定住生活をはじめ、
生活はより安定したものとなりました。
今の加賀市にも稲作が伝わったことが、弥生時代後期の「猫橋遺跡」で確認できます。
縄文時代までは食べ物の保存が十分できませんでしたが、米の生産によって、
食べ物の備蓄が十分可能になりました。そして食べ物の備蓄が当たり前になると、
人びとの間に「持てるものと持たざるもの」の差、すなわち貧富の差があらわれます。
さらに「持てるもの」は権力者として、それぞれの地域の人びとを支配する力をもちはじめたのです。
加賀市においては、古墳の分布をみると、大菅波・吸坂・山代・片山津・分校などに
古墳時代初期の権力者があらわれ、豪族として活躍していたと考えられます。