隊員NO.1いぶで~す(^_^)v
6月4日(火)の課題研究の時間、大聖寺城跡が残る錦城山を見学しました。
講師を加賀市教育委員会・戸根比呂子さんに務めていただきながら、錦城山を
歩いてきました。
錦城山は標高約70m。古くは「古城山」と呼ばれていました。戦国時代より歴代の武将が
この山に城を築いたそうです。初めて歴史にあらわれるのは南北朝時代の『太平記』で、
鎌倉方の残党・名越氏を地元の土豪・狩野氏がこの城で迎え討ったという記述です。
その頃の城郭は錦城山の背後にある津葉城も含めた広い範囲だったといわれています。
錦城山はとっても低い山ですが、越前・加賀国境の重要な軍事拠点でした。
実際に錦城山に登って、周りの景色をながめると、「なるほどここが軍事拠点になるのは
わかるなぁ」って実感できました。
また戦国時代末期には加賀の一向一揆の拠点として、越前朝倉氏とたびたび激しい戦いが
繰り広げられました。
織田信長による一向一揆制圧の後、天下を取った羽柴秀吉は、大聖寺を丹羽長秀に与え、
その与力であった溝口秀勝が1583(天正11)年に4万4千石で大聖寺城主になりました。
現在錦城山に残る城跡や大聖寺城下町の原型はこのときにできたといわれています。
その後溝口秀勝がいまの新潟県・新発田に転封し、1598(慶長3)年に、小早川秀秋の
家臣であった山口玄蕃宗永が7万石で入城したのです。
1601(慶長5)年、石田三成と徳川家康の対立が激化すると、徳川方についた前田利長は
大聖寺城を守る山口玄蕃を攻め、「関ヶ原の戦いの前哨戦」といわれるほどの
熾烈な戦(いくさ)が、この錦城山で繰り広げられたのです。
錦城山には「骨ヶ谷」と呼ばれる場所も残っていて、そこを掘れば今でもたくさんの人びとの骨が
出てくるだろうといわれています。
このときの戦いについては、昨年の先輩が書かれた記事をご覧下さい。
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この戦い以後、大聖寺には前田家の城代がおかれましたが、徳川幕府の一国一城令により、
大聖寺城は廃城になってしまいました。
大聖寺藩の成立後も城は再建されず、錦城山の麓に藩邸屋敷が構えられただけでした。
錦城山は江戸時代を通じて、一般庶民は立ち入り禁止の「お留め山」になりました。