日本ユーラシア協会広島支部のブログ

本支部は、日本ユーラシア地域(旧ソ連邦)諸国民の相互の理解と親善をはかり、世界平和に寄与することを目的とする。

日本ユーラシア協会広島支部ニュース2022年10月29日

2022-11-24 22:35:23 | 日記
日本ユーラシア協会広島支部ニュース2022年10月29日
【2022年度ロシア語能力検定試験】
第80回が10月29日30日、会場広島市東区民文化センターで実施されました。

【国際フェスタ2022】
「国際フェスタ2022」の公募三事業のうち、国際協力バザー(民芸品)、ひろしま国際村〜世界の屋台の出店に参加します。国際フェスタの開催は、今年23回目で、11月20日(日)に開催されます。

【第18回全国女性集会】
 舞鶴での女性集会は3年ぶりでの対面による女性集会でした。平和の尊さがより深大なものとして意識に上り、平和は、守るものでなく、作るものだとの実感が伴いました。参加者からは引揚記念館を訪問し、藤原先生の講演を聴き、良い刺激になった、旧交を温めたり、新しい友を作ることで、明日への活力が生まれたともかたられていました。
[写真:引揚桟橋での集合写真、映画「ラーゲリより愛を込めて」チラシ]


【初めて地球を一回りした日本人~石巻若宮丸物語:第6話 阿部和夫】
漂流民 首都に呼び出し
 ロシア国内の政変が、漂流民一行に大きな影響を及ぼすことになります。
 一八〇一年、時の皇帝パーベルが、近衛将校達のクーデターにより殺害され、アレクサンドラ一世が即位しました。彼は女帝エカテリーナの孫ですが、祖母が考えていた東方進出を実現させようとして、中断されていた日本との通商交渉の具体化を図ります。その際、漂流民送還を手土産に日本との交渉をしようとしたのです。
 一八〇三年三月六日、呼び出しを受けた漂流民は「都から火急の知らせにより、至急出府せよ。出発は翌日」と告げられ、呆然としながらも、八年の滞在中に世話になった恩人や知人に挨拶を済ませ身辺整理をしました。
 翌日、首都を目指しおよそ五六〇〇キロの馬車の旅が始まりました。漂流民十三人と一緒に行く役人アレクサンドル、そして通訳として同行する信藏を含め十五人が、七台の馬車に分乗します。皇帝の命令による急ぐ旅なので、馬を替える以外は昼夜走り続けで、食事も馬車の中ででした。
 出発した次の日、猛スピードで走る馬車の振動で六一歳の左太夫が乗り物酔いで体調を崩してしまい、体力の限界まできてしまいます。同じく不調を訴える清蔵の二人がブラーツクで降ろされました。その後、銀三郎が麻疹に罹患していることが分かり、ベルミの養生所に収容されます。
 一行は、途中のモスクワに着きました。其処に二日間滞在しますが、その間、イルクーツクとは違った豪華な生活様式に驚いています。また、街の見物をさせて貰いました。クレムリンのイワノフスキ―広場の地下に埋もれていた「鐘の皇帝」と呼ばれる高さ六メートルもある鐘を見て圧倒されています。
 モスクワからサンクトペテルブルクまでは比較的楽な旅でした。道路がモスクワの街の様に敷石が敷かれ、隙間には土が盛られていて馬車の振動も少なかったのです。漂流民は、馬車から外の河や湖の景色を楽しむ程の余裕が出てきていました。
 一行はその年の四月の末、三人の落後者を出しながらも、五十日にも及ぶ旅の末に、美しい白夜が始まる時期の首都サンクトペテルブルクに着きました。(月日は和暦)

【秋の学習会などのご案内】
・11月3日(木)11・3憲法集会14時~16時/広島弁護士会館ほか 講師 有田芳生 参加費500円 問い合わせ090-9060-1809
・11月3日(木)平和のバナーで原爆ドームを囲もう(木)12時~13時/原爆ドーム前(主催 平和のバナーでドームを囲もう実行委員会)
・11月7日(月)広島朝鮮初中高級チャリティーコンサート金剛山歌劇団2022年アンサンブル公演「あの空に거하늘에」17時半開場 18時半開演/JMSアステールプラザ 問い合わせ082-510-1565
・11月12日(土)チムグクル(思いやり優しさ)で考えよう「デニー知事トークキャラバンIN広島」14時~16時/広島市青少年センター&オンライン 講師 玉城デーニー沖縄県知事 トークセッション有 問い合わせ098-800-1438
・11月19日(土)「ノーモア沖縄戦 命どう宝」広島のつどい18時/平和記念資料館地下会議室1参加費無料(主催 広島と沖縄をむすぶドゥシグワー)
・11月23日「後輩たちに伝えたい 広島女学院・安田学園 被曝の記憶と記録 090-7478-7507

【「映画『氷雪の門』への考察(21回目)】
映画『氷雪の門』のシナリオが「『樺太一九四五年夏 氷雪の門』JMP製作作品 一九七三年 シナリオ」です。今回はそのシナリオの原作といわれる「金子俊男著『樺太一九四五年夏 ー樺太終戦記録ー』1972年講談社}を読んでいきます。
●p.7はじめに
”氷雪の門”のある稚内の圧に立つと、鉛色の宗谷海峡のむこうに樺太(サハリン)が見える。望郷の門と氷と雪の中できびしく生き抜いた人びとを表わす女人像-その碑文には「人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここに帰った。戦後はその門もかたくとざされた。それから十八年(建立は昭和三十八年)、望郷の念々みがたく、樺太でなくなった多くの同胞の霊を慰めるべく、肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に……」とある。 樺太-そこは、ある人びとにとって、いつもなつかしく、心を去らないふるさとであり、ある人にとっては、父や母や子供を失った悲しみの土地である。おもえば、昭和二十年の夏の初めまで、樺太は、本土決戦という悲壮感が日本中をおおっていたなかで、唯一の平和な島であった。同年五月、樺太庁警察部長として赴任した尾形半氏は著書「暗い廊下」で、「樺太はまだ静かだった。大阪ね日に五、六度無気味間サイレンをきかされていた私の耳は、樺太にはいったとたん、真空にはいったように澄んできた。……空路海豹島の上空を回って北辺の原始林をみたこともあれば、ソ連と境する一線(北緯五〇度線)の中央半田にも出かけた。どこもここも時代に忘れられたように、ひっそりとしていた」と書いている。(中略)
 だが、この美しい自然に囲まれた樺太国境の平和も、八月九日朝、ソ連対日参戦によって、一方的に破られた。降ろような深い霧のなかから不意に現われた少数のソ連兵は、武意加の国境警察隊にマンドリン銃(自動小銃)をパラパラと撃ち込んで姿を消し、その直後軍の日の丸監視哨付近に砲弾二発が炸裂、これをきっかけにソ連軍は、無気味な進攻を開始したのである。
 当時、樺太には新設の第八八師団、通称要兵団(豊原(とよはら)、師団長峰木十一郎中将)を中心に約三万の兵力がいた。
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