先月のニュースレターから、
ありのままの私 ---- 園田先生からのメッセージ
今年はオリンピックに続いてパラリンピックがロンドンで開催されました。丁度いい機会なので聖書が身体障害者をどのように扱っているか調べてみました。旧約聖書はネガティブな感じです。レビ記21:17によれば「あなたの子孫のうちで、障害のある者は、代々にわたって、神に食物をささげる務めをしてはならない」 神殿で仕える者、今で言えば牧師は障害者であってはならないことになってしまいます。
昔から目や耳の不自由な人、五体が健全でない人は沢山います。障害がある者は肩身が狭く不自由な生活をしてきました。だから彼らは癒しを求めてイエスのところに来たのです。手の萎えた人、足の不自由な人、体の麻痺した人。。。。
癒しが可能な障害もあるでしょう。しかし、パラリンピックを見ていていると手足がない人も参加して、技術や工学の貢献が大きいことを知りました。癒して下さいと祈った後その境遇をどう乗り越えて生きるかが如何に大切かを教えられました。
勿論彼らには人一倍の困難があるでしょう。しかし『主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。』(2Cor12:9-10)
「車椅子の物理学者」ホーキング教授の合成音声。両腕のない彫像「身重のアリソン・ラッパー」”I am what I am” 「私は私、私は私という特別な存在、だから、来て、御覧なさい」と歌いながら踊りまくる身体障害者のエネルギーに圧倒されました。ありのままの自分を受け入れ、競技に参加する選手たちを見て、私たちも強く生きなければと励まされます。
ヨハネ伝9章の目の見えない人について弟子たちは本人かその両親が罪を犯したからかとイエスに尋ねました。主の答えは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」
手足が無い牧師ニック・ブイチチの朗らかで逞しい生き方にも神の業が現れ,神を信じ、諦めずに希望を持って生きろと語りかけます。http://www.youtube.com/watch?v=oOHD8OqBVYs
次回の集まりは 10月21日 午後3時から5時まで St. Martin's West Acton W3 9SG yuki_yasuko@hotmail.com