新渡戸稲造記念 さっぽろがん哲学外来

さっぽろがん哲学外来の活動予定や活動の様子などを
皆さんにお伝えします。皆さんの参加をお待ちしています。

がん哲学学校たより・1(0015)

2013年11月12日 | 樋野先生からのメッセージ
がん哲学外来提唱者の樋野興夫先生のお許しを得ましたので、樋野先生のお便り「がん哲学学校」を順次掲載していきたいと思います。今回はその第1回目です。
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第32回「がん哲学学校」(2013年11月10日配信)
『ユーモアとは「にもかかわらず」笑うことである』~思いやり~
先週の休日、奈良県 奈良キャンサーネットワーク 若草の会「広げようピアサポートの輪!」で、講演「がん医療の隙間を埋めるもの~がん哲学との出会いと現場から~」する機会を与えられた(奈良文化会館に於いて)。講演に先立ち、がん体験者(サバイバー)3 名の「がん体験を語る」、講演後、『樋野先生を囲んでの「対話と交流会」』が企画され、会場は立ち見席となる程の盛況であった。近々には「若草 がん哲学外来・カフェ」が開設されるようである。久しぶりの歴史ある都:奈良の訪問は、新鮮な、有意義な一時であった。

地域がん診療連携拠点病院「がんの早期診断に関する研修会」で講演「医師の2つの使命~適時診断と的確治療~」をする機会を与えられた(順天堂大学医学部附属静岡病院に於いて)。講演後の職員との会食は、楽しい交流であった。

第23回日本乳癌検診学会学術集会で、特別講演「がん哲学外来」の機会を与えられた(京王プラザホテルに於いて)。座長の外科教授の貴重な的確なご質問があり、いつの間にか、徳島大学に、「阿波踊り がん哲学外来」が開設されることになった。「スケールの大きい、愛情豊かな人物」に接し、大いに感激した。

週末、洗足学園中学高等学校の女中学生750人に大講堂で「医師の2つの使命」で講演する機会を与えられた。熱心に、メモを取りながら、寝ずに聴いている、女生徒の姿には感動した。「洗足」とは「たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」(ヨハネの福音書13章5節)に由来する。企画された先生の「思いやり」には、意気に感じた。

講演後、アルフォンス・デーケン先生〔上智大学名誉教授〕のご講演「だれもが“死”というドラマの主人公」を拝聴した(お茶の水クリスチャン・センターに於いて)。デーケン先生の「こころの絆を結ぶユーモア」に溢れ、且つ人生の核心を突く、ご講演には、大変、感銘を受けた。講演後、お茶を飲みながら、親し く、お話をする機会も与えられ、『ユーモアとは「にもかかわらず」笑うことである』(ドイツの有名な格言)を、深く胸に刻む貴重な日となった。

がんは人生の「WHY」を考えるきっかけ(0014)

2013年11月11日 | 外来待合室
晩秋の札幌中島公園 画像をクリックすると拡大します

(中略)人ももっぱら「HOW」に関心を寄せます。週末をどのように過ごすのか。いかにして志望の学校に入り、いかにして就職するか。どうすれば幸せになれるのか。生きることは「HOW」の積み重ねです。「HOW」について考え、「HOW」を実践していくのが人生であるかのようです。(中略)

自分がなぜ存在するのかがわからなくても、いろいろな「HOW」を知っていれば、充分に暮らしていけます。ところががんのような病気になると「HOW」だけでは生きていけなくなります。残された時間がかぎられたものであることを知ると、自分という存在のそもそもの意味に思いが至ります。そのとき「WHY」が必要になってきます。この「WHY」について考えることこそが、私の言う「哲学」です。

なぜ自分がここにいるのか。自分とはいったいどんな存在なのか。人は人生の最後になってようやく、こうした究極的なテーマについて静かに深く考える時間をもてるようになります。
(「がんと暮らす人のために・樋野興夫」P74~75より抜粋 文責J)
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わが家の場合は、いかにがんを直すか、言い換えれば、いかにがんからおさらばするばかりを考えてきました。なぜ生きるのか、というのは理性を司る新しい脳の発想であり、いかに生きるかは古い生存脳の発想です。

なので、いかに生きるかはまさに我々が生存をしていく上での最優先事項なのです。しかし、どうあがいても、がんにならなくても、あらゆる生き物には死がやってきます。そしてその逃げようのない死に我々は自分が死にゆくための大義名分をほしがります。その大義名分を求めることを「WHY」と称するかも知れませんが、やはり自分の死の意味を求め、納得しようとします。

禅では死ぬ時がきたらさっさと死ね、みたいなことを言うようですが、凡人にはそこまで「悟る」のは難しいです。WHYを求めるのは哲学であると同時にごく自然な欲求でもあるので、何も難しく考えることもないかも知れません。
ただし、自分にとっての死の意味が誇大妄想的になるのか、静かなる受容となるのかは、やはり哲学をしたか、しなかったかの違いかも知れませんね。(J)

がん哲学外来について

患者さんが抱える悩みは病人としての悩みではない。人間としての悩みです。 がんという大病を得たとき、それを背負って人間としてどう生きるかという深い悩みです。それは「心のケア」というレベルではなく、自分という存在そのものを問う領域なのだと思います。ですから、「がん哲学外来」では、来られた方を「病人」の側面だけではなく、ひとりの人間としての悩みに焦点を合わせます。同じ人間として、対等の目線に立って、人間を学ぶ「人間学の場」でありたいと考えるのです …(提唱者であり当会の顧問である順天堂大教授・樋野興夫先生の著書より)

札幌の「がん哲学外来」(開設趣旨)

私達は樋野興夫先生の志に賛同し、車座になって意見交換をする運営をめざします。講演会スタイルではありません。参加者全員が同じ立場、同じ目線で耳を傾け、縁のあった方々に寄り添うことを願っています。