新渡戸稲造記念 さっぽろがん哲学外来

さっぽろがん哲学外来の活動予定や活動の様子などを
皆さんにお伝えします。皆さんの参加をお待ちしています。

「病室に残された詩」と「慈しみ」(0047)

2014年04月04日 | 外来待合室
2つともとてもいい詩(言葉)と思いましたのでお節介ながら紹介いたします。

①病室に残された詩
大きなことを成しとげるために
力を与えてほしいと神に求めたのに
謙遜を学ぶようにと  弱さを授かった

より偉大なことができるようにと
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた

幸せになろうとして 富みを求めたのに
賢明であるようにと  貧困を授かった

世の中の人々の賞賛を得ようとして
成功を求めたのに
得意にならないようにと  失敗を授かった

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと
いのちを授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた

神の意に添わぬ者であるにもかかわらず
心の中で言い表せないものは すべて叶えられた

私はあらゆる人の中で 
もっとも豊かに祝福されていたのだ

       ニューヨーク州立大学病院の壁の落書きより


②慈しみ
一切の生きとし生けるものは
幸福であれ 安穏であれ 安楽であれ
一切の生きとし生けるものは幸いであれ

何人も他人を欺いてはならない
たといどこにあっても他人を軽んじてはいけない
互いに他人に苦痛を与えることを望んではいけない

この慈しみの心づかいをしっかりとたもて

東方学院院長 中村 元 譯
(オリジナル:ブッダの言葉・スッタニパータ 8慈しみ)



初心忘るべからず(0045)

2014年04月01日 | 外来待合室
NHK教育テレビに「100分で名著」という番組があります。古今東西の名著と言われる本の解説を1回25分を4回合計100分でやってしまうという番組ですが、今年の1月は、能楽者の世阿弥が書いた「風姿花伝(1400年~1412年)」という、なんとも優美な名前の本がテキストになりました。

風姿花伝とは何ぞやというと、「日本最古の能楽理論書」ということですが、テキストではそれでは視聴率が稼げないだろうということで、「マーケットを生き抜く戦略論」といったビジネスマンが関心を持つような副題をつけたり、能はコーディネーションの芸術と言ったりしておりまして、能楽にはほとんど縁のないであろう一般視聴者からすれば、能楽理論書と聞くだけで敷居が高くなり、戦略論と言われると、もう頭の中が混乱してきて真っ白状態。まあ、自分には縁のない番組かと思い込み、視聴率も却って下がったのではないか、と縁亡き衆生ゆえの邪推をして番組を見ておりました。でも、だんだん面白くなり、ぐんぐんと風姿花伝の世界に引き込まれていきました。

「初心忘るべからず」とか「秘すれば花」といったことわざ的に聞き慣れた言葉は、この世阿弥の書いた風姿花伝(と花鏡)がオリジナルということでしたので、テキストや風姿花伝の現代語訳などを手元に置き、また放送を録音してMP3プレーヤーで何度も聞くということをやりました。つまり、風姿花伝という優雅であろう本にかなりの関心を持ったということでありますが、正直、能楽と自分とのあまりもの距離感にかなり戸惑っていて、それで何度も録画や録音を見聞きし直すということをしてました。我ながらかなりのしつこさですが、まあ、名前に惹かれてというところはミーハーそのものなんでして、その上に歳を取るとしつこくなるゆえのこと?


さて、本題です。「初心忘るべからず」の初心とは何か、であります。広辞苑では「初めに思い立った心、初一念(最初に思い立った一念、初志)」とあります。
まあ、新人の時の原理原則的な覚悟とか心がけというようなことで、初心忘るべからずとは、要するに、ことの最初に立てた初々しい志を忘れるな、ということではないでしょうか。

ところが、オリジネーターの世阿弥はなんと言っているかというと、①是非の初心忘るべからず、②時々の初心忘るべからず、③老後の初心忘るべからずと人生3つの段階、折々での初心を忘れるな、と言っているのですね。ありゃ、そうなの?

テキストの解説者によると①の是非の初心とは、若い時の初心で周囲にない新鮮な印象でちやほやされるかもしれないが、それは実力ではないとのぼせ上がってはいけない、ということであり、②の是非の初心とはいわば中年の壁、能楽師は30代半ばが頂点でここでトップに立てない人は永久にトップにはなれない。ではどうするか(どうしたら生きていけるか)を考える。で、その考えたことが時々の初心ということだそうです。

風姿花伝は世阿弥が父観阿弥の老いの舞を見て深く感じるところがあった(老木に残る花を見た)とのことですが、その感じたことが③の老後の初心ということになります。つまり、老いてこそふさわしい芸というものがあるからそれに挑むべきである、ということだそうです。

テキストの解説者は初心とは、ということを整理してこう言っています。「世阿弥が言う「初心」とは、今までに体験したことのない新しい事態に対応する時の方法、あるいは、試練を乗り越えていく時の戦略や心構えだと言えるでしょう。」「「初心忘るべからず」とは、そのような試練の時に、自分で工夫してそれを乗り越えよう、あるいはその時の戦略を忘れずにいよう、と言うことなのです。」「毎年新しく増える年齢というものはいろいろな面で壁になるけれど、それを乗り越えていくための何かを発見しなさいということなのです。「世阿弥が言っているのは、老いに向かっていく人生の中で、その時々の工夫をし、自分がどう生きていくのかを考えようということなのです」

どうも歳を取ってくると、遠い昔に立てたはずの初心を忘れてしまい、時の流れの中で漂流してしまいがちになります。なので、この風姿花伝でいう③老後の初心忘るべからず、という物の見方は私にとって極めて新鮮でした。考えてみれば試練というのは、別に若い時だけにあるのではなく、若い時、中堅・中年の時、老いている時それぞれにそれなりに性質の異なる試練が襲ってきますゆえ。

そしてそれぞれの試練への対処方法が初心とすれば、初心とは、まさに生きて共に人生を進んでいる存在であると言えるのではないでしょうか。日々これ初心、その初心忘るべからず、そして襲い来る目前の試練に悠々として立ち向かおうではありませんか。

がん哲学外来について

患者さんが抱える悩みは病人としての悩みではない。人間としての悩みです。 がんという大病を得たとき、それを背負って人間としてどう生きるかという深い悩みです。それは「心のケア」というレベルではなく、自分という存在そのものを問う領域なのだと思います。ですから、「がん哲学外来」では、来られた方を「病人」の側面だけではなく、ひとりの人間としての悩みに焦点を合わせます。同じ人間として、対等の目線に立って、人間を学ぶ「人間学の場」でありたいと考えるのです …(提唱者であり当会の顧問である順天堂大教授・樋野興夫先生の著書より)

札幌の「がん哲学外来」(開設趣旨)

私達は樋野興夫先生の志に賛同し、車座になって意見交換をする運営をめざします。講演会スタイルではありません。参加者全員が同じ立場、同じ目線で耳を傾け、縁のあった方々に寄り添うことを願っています。