新渡戸稲造記念 さっぽろがん哲学外来

さっぽろがん哲学外来の活動予定や活動の様子などを
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「する」ことより「いる」こと(0016)

2013年11月14日 | 外来待合室
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高齢になって夫婦のどちらかががんになるというケースは、これからますます増えていきます。長年連れ添ってきた伴侶が、がんになった。自分は何をしてあげられるのか。何をすればいいのか。懸命に考えそれを実行する。けれども、何をしても、これでいいとは思えない。そんな悩みを持つのは、男性のほうに多いようです。

見ていると、亭主関白的なスタイルをつらぬいてきた男性ほど、それまでの罪滅ぼしのように、かいがいしく妻の面倒を見ようとする傾向があるようです。診察の時には付き添いもする。何か食べたいものはないかと聞き、それを買ってくる。家事もできる範囲でやる。けれども妻がそれでほんとうに喜んでくれているという実感を得られない。(中略)

「何もせずに、ただ、そばにいてあげれば、それでいいんです」あるとき、私がそうアドバイスすると、男性はほっとしたような表情になり、奥さんはしずかに微笑んでいました。きっと、その男性は、何かを「する」ことでしか妻へのやさしさを表現できないと思っているのでしょう。しかし、「いる」ことこそがやさしさであったりするものです。

「いてくれるだけで充分」という患者さんの言葉は、遠慮でも何でもなく、本心なのだと思います。もちろん、患者さんのために何かをしてあげることはだいじです。しかし、患者さんはそんなことよりも、家族がそばにいてくれることがうれしく、家族の「存在」に大きな安心を感じているのです。

がんになった妻に、何を言えばいいのか分からないという男性も少なくありません。適切な言葉、気の利いた言葉が見つからないというのです。
これも同じです。何も言わずに、ただ、黙っていっしょにいてあげれば、それでいいのです。寄り添ってあげるだけで、患者さんは安心し、家族の優しさを感じ取れるのです。
(「がんと暮らす人のために・樋野興夫」P136~137より抜粋 文責J)

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これもまさにわが家の物語です。カミサンは時々、「もう充分」と言っておりました。充分してもらったということかな、と思ながらも、もう少し他の言い方もあるだろうになあ、などと思ったりもしてました。

「いる」だけでいい、というのはその通りだろうけど、それだけだと不安でしかたがない自分がいるのでは、と思います。私の場合は、カミサンが入院中は毎日会社帰りに病院に通いました。これが日課でした。でも病室にいる時間は長くはありませんでした。話すことも当たり前の話だけ。「どう?」「うん、今日は気分がいいの」とか。今思うと「いる」だけの沈黙の時間に耐えられなかったかも知れませんし、そっと頭でも撫でてやっていれば良かったか、などと思っています。やっぱり何かしていないと自分が不安だったのでしょう。結局、何かしてなかったら自分が持たなかったのかも知れませんね。(J)

がん哲学外来について

患者さんが抱える悩みは病人としての悩みではない。人間としての悩みです。 がんという大病を得たとき、それを背負って人間としてどう生きるかという深い悩みです。それは「心のケア」というレベルではなく、自分という存在そのものを問う領域なのだと思います。ですから、「がん哲学外来」では、来られた方を「病人」の側面だけではなく、ひとりの人間としての悩みに焦点を合わせます。同じ人間として、対等の目線に立って、人間を学ぶ「人間学の場」でありたいと考えるのです …(提唱者であり当会の顧問である順天堂大教授・樋野興夫先生の著書より)

札幌の「がん哲学外来」(開設趣旨)

私達は樋野興夫先生の志に賛同し、車座になって意見交換をする運営をめざします。講演会スタイルではありません。参加者全員が同じ立場、同じ目線で耳を傾け、縁のあった方々に寄り添うことを願っています。