新渡戸稲造記念 さっぽろがん哲学外来

さっぽろがん哲学外来の活動予定や活動の様子などを
皆さんにお伝えします。皆さんの参加をお待ちしています。

がんは人生の「WHY」を考えるきっかけ(0014)

2013年11月11日 | 外来待合室
晩秋の札幌中島公園 画像をクリックすると拡大します

(中略)人ももっぱら「HOW」に関心を寄せます。週末をどのように過ごすのか。いかにして志望の学校に入り、いかにして就職するか。どうすれば幸せになれるのか。生きることは「HOW」の積み重ねです。「HOW」について考え、「HOW」を実践していくのが人生であるかのようです。(中略)

自分がなぜ存在するのかがわからなくても、いろいろな「HOW」を知っていれば、充分に暮らしていけます。ところががんのような病気になると「HOW」だけでは生きていけなくなります。残された時間がかぎられたものであることを知ると、自分という存在のそもそもの意味に思いが至ります。そのとき「WHY」が必要になってきます。この「WHY」について考えることこそが、私の言う「哲学」です。

なぜ自分がここにいるのか。自分とはいったいどんな存在なのか。人は人生の最後になってようやく、こうした究極的なテーマについて静かに深く考える時間をもてるようになります。
(「がんと暮らす人のために・樋野興夫」P74~75より抜粋 文責J)
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わが家の場合は、いかにがんを直すか、言い換えれば、いかにがんからおさらばするばかりを考えてきました。なぜ生きるのか、というのは理性を司る新しい脳の発想であり、いかに生きるかは古い生存脳の発想です。

なので、いかに生きるかはまさに我々が生存をしていく上での最優先事項なのです。しかし、どうあがいても、がんにならなくても、あらゆる生き物には死がやってきます。そしてその逃げようのない死に我々は自分が死にゆくための大義名分をほしがります。その大義名分を求めることを「WHY」と称するかも知れませんが、やはり自分の死の意味を求め、納得しようとします。

禅では死ぬ時がきたらさっさと死ね、みたいなことを言うようですが、凡人にはそこまで「悟る」のは難しいです。WHYを求めるのは哲学であると同時にごく自然な欲求でもあるので、何も難しく考えることもないかも知れません。
ただし、自分にとっての死の意味が誇大妄想的になるのか、静かなる受容となるのかは、やはり哲学をしたか、しなかったかの違いかも知れませんね。(J)

がん哲学外来について

患者さんが抱える悩みは病人としての悩みではない。人間としての悩みです。 がんという大病を得たとき、それを背負って人間としてどう生きるかという深い悩みです。それは「心のケア」というレベルではなく、自分という存在そのものを問う領域なのだと思います。ですから、「がん哲学外来」では、来られた方を「病人」の側面だけではなく、ひとりの人間としての悩みに焦点を合わせます。同じ人間として、対等の目線に立って、人間を学ぶ「人間学の場」でありたいと考えるのです …(提唱者であり当会の顧問である順天堂大教授・樋野興夫先生の著書より)

札幌の「がん哲学外来」(開設趣旨)

私達は樋野興夫先生の志に賛同し、車座になって意見交換をする運営をめざします。講演会スタイルではありません。参加者全員が同じ立場、同じ目線で耳を傾け、縁のあった方々に寄り添うことを願っています。