新渡戸稲造記念 さっぽろがん哲学外来

さっぽろがん哲学外来の活動予定や活動の様子などを
皆さんにお伝えします。皆さんの参加をお待ちしています。

二俵のお百姓(0032)

2014年02月15日 | 外来待合室
吉川英治の小説宮本武蔵は下手な人生論よりよほど為になりますね。私はだいたい世の中のテンポに遅れること300歩ぐらいですが、NHKBSで中村錦之助主演の映画宮本武蔵5部作を連続放映しているのを第4作目から知りまして、慌てて録画しました。

なので、手元にある録画は2本しかありませんが、今回のテーマの「二俵のお百姓」というのは、武藏が京都から関東に修行の度に出て伊織という侍の孤児と一緒には百姓仕事を始めた時のシーンで映画に登場した台詞です。

荒野の畑に二人で鍬を入れ、地元のお百姓に石ころだらけの土地での耕作をひやかされながら秋の収穫を迎え、村の名主?に収穫したたった二俵のお米を収めに行った時に名主が武蔵達の苦労を労って皆の衆に向かって「二俵のお百姓の宮本さん!」と言い、皆が歓声を上げるちょっといいシーンでした。二俵でも作る苦労をよく知っているお百姓達の武蔵達への慰労の言葉であると同時に仲間であると認めた言葉なのだと思います。

もちろん映画ですし原作も小説なので、結局は吉川英治の創作であるのですが最初は冷やかし半分で傍観していたお百姓達が無言で努力している武藏たちを見続けているうちに素人の彼らを応援するようになった姿は素朴であるけれどある意味厳正で公平な見方ではないかと、そしてそれが世間というものであるのだろうとも。そして自分にとっての二俵のお米は何だろうと思いました。(J)

がん哲学校たより・14(0031)

2014年02月15日 | 樋野先生からのメッセージ
樋野先生からのおたよりです。(2014.2.15配信)
第46回「がん哲学学校」
「いのちの言葉」~「奇蹟の人」~

2週間続けて、東京は大雪に見舞われた。交通も乱れ、講演も2週連続キャンセルとなった。Wifeは、近所の人々と、同様に雪かきに励んでいる。筆者は、今回は、2人の人物について、さりげなく学んだ。1人は、ヨハネス・クヌドセン(Johannes Knudsenr、1917-1957)である。「1957年2月10日、神戸港へ向かう貨物船エレン・マースク号(Ellen Maersk)は、航行中、機帆船「高砂丸」が炎上しているのと遭遇。風速20mを越える強風の中、エレン・マースク号は「高砂丸」乗組員の救助作業に当たる。機関長として乗り組んでいたクヌドセンは、高砂丸船員を救うべく海中に飛び込み、そのまま波間に没した。」とのことである。クヌドセンの「勇敢な行動と無私の人間愛」の根拠に感動した。

もう1人は、有名なヘレン・アダムス・ケラー(Helen Adams Keller、1880 -1968)である。3重苦(聴力、視力、言葉を失う)を背負いながらも、世界各地を歴訪し教育・福祉に尽くした。ヘレン・ケラーとアン・サリヴァンとの写真を見ながら、静思した。「ヘレン・ケラーは、2歳の時に高熱にかかり、聴力、視力、言葉を失い、話すことさえ出来なくなった。両親から躾けを受けることの出来ない状態となり、家庭教師として派遣されてきたのが、当時20歳のアン・サリヴァン (1866 -1936) であった。サリヴァンはその後約50年にも渡って、よき教師として、そして友人として、ヘレンを支えていくことになる」。ヘレン・ケラーは、3度 (1937、1948、1955) 来日している。ヘレンとサリヴァンの半生は『The Miracle Worker』(日本語『奇跡の人』)として映画化されている。英語の『「The Miracle Worker」には「(何かに対して働きかけて)奇跡を起こす人」といった意味があり、本来はサリヴァンのことを指す』とのことである。ヘレン・ケラーが「人生の眼」を開かれたのは「いのちの言葉」との出会いである。

学びは、『I am only one, but still I am one. I cannot do everything, but still I can do something; And because I cannot do everything I will not refuse to do the something that I can do.「私は一人の人間に過ぎないが、一人の人間ではある。何もかもできるわけではないが、何かはできる。だから、何もかもはできなくても、できることをできないと拒みはしない」』(ヘレン・ケラー)であった。

がん哲学外来について

患者さんが抱える悩みは病人としての悩みではない。人間としての悩みです。 がんという大病を得たとき、それを背負って人間としてどう生きるかという深い悩みです。それは「心のケア」というレベルではなく、自分という存在そのものを問う領域なのだと思います。ですから、「がん哲学外来」では、来られた方を「病人」の側面だけではなく、ひとりの人間としての悩みに焦点を合わせます。同じ人間として、対等の目線に立って、人間を学ぶ「人間学の場」でありたいと考えるのです …(提唱者であり当会の顧問である順天堂大教授・樋野興夫先生の著書より)

札幌の「がん哲学外来」(開設趣旨)

私達は樋野興夫先生の志に賛同し、車座になって意見交換をする運営をめざします。講演会スタイルではありません。参加者全員が同じ立場、同じ目線で耳を傾け、縁のあった方々に寄り添うことを願っています。