京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

「和」の国、日本国の歴代「天皇」は真に質素・倹約を重んじられましたー9

2013-06-10 00:17:53 | 我が誇れる日本国の事

前記に記載したように、古来日本人は万物に神が宿るとの思想で、大自然を畏れ敬い、自ら神の子孫との思いで、大自然から受ける恵みを大切にして来ました。そこから節制を重んじてきた天皇の生活が見ることが出来ます。

 「古事記」や「日本書紀」に、贅沢を良しとしない「天皇」のお姿が描かれています。「聖帝」(ひじりのみかど)と呼ばれた第16代「仁徳天皇」が、人家から煙が立っていないことから、民の生活が困窮しているとお嘆きになって、三年間すべての課税と役務をやめるように「詔」(みことのり・天皇のおことば)あそばされた有名な逸話があります。このとき宮中では倹約が徹底され、屋根の萱が外れても、天皇はこれを葺くことをお許しにならず、部屋から星が見えるありさまで、雨漏りにも耐えなければならないありさまでし。天皇の衣類や履物も新調することが禁止され、食物も至極質素なものにかぎられたということです。

第16代「仁徳天皇」

16

 有名な「仁徳天皇陵」

Photo

「仁徳天皇」が崩御されてから造営されたもので、この壮大な「御陵」を「仁徳天皇」は天上でどう思われているかと。この「仁徳天皇陵」は、正式には「大仙陵古墳」(だいせんりょうこふん)とよばれ、日本最大の「前方後円墳」で墓域面積は世界最大のものです。宮内庁治定により「仁徳天皇」の陵墓とされており、「百舌鳥耳原中陵」(もずのみみはらのなかのみささぎ)との陵号が与えれており、一般的には「仁徳天皇陵」とよばれています。しかし、審らかではありません。(あくまでも蛇足です)

また他に、朝廷の財政が最も逼迫した「応仁の乱」の後にも、まさに天皇の美しい生きざまを見ることが出来ます。第105代「後奈良天皇」の時代は、御所を囲う築地塀が崩れて修繕できず、三条大橋から内侍所(宮中内の神殿)の灯火が見え、紫神殿(即位礼が行われる宮中の最も重要な建物)近くで茶を売る者がいたほどで、即位礼は挙行されたのも践祚(せんそ・先帝の崩御または譲位の直後の行われる、即位のこと)から十年後だったと伝えられています。

以上のような財政難のなか、「後奈良天皇」は、国難が起きるたびに伊勢の神官などに「宣命」を奉って祈りを捧げたということです。

第105代「後奈良天皇」

105

幕末の第121代「孝明天皇」の時代も、国難が起きるたびに、自らの食膳を減じて祈りを捧げる天皇の姿が記録されています。

第121代「孝明天皇」

121

また「明治天皇」の贅沢嫌いは徹底していらっしゃったということです。軍服や靴が擦り減っても修理を命ぜられるのみで、決して新調をお許しにならず、全国に建てられた立派な別荘を一度もご利用にならず、娘たちにも使わせなかったということです。「昭和天皇」の贅沢嫌いもよく知られています。

「今上天皇」もあの未曾有の東日本大震災でご体調のよろしくないなか、何度も被災地にお足をお運びになられて、被災者にどれほど勇気づけられたのも、記憶に新しいことです。

「天皇」のお気持ちは常に国民と共にあり、天皇だけが特別であることをお好みにならなかったという証がここにみることができます。