アイ!サラマッポ in バギオ

フィリピン人介護者のケアを受けながらの、フィリピンでのインディペンデント・リヴィング…、心の赴くまま、ここに記します。

マニラ大聖堂でアキノ元大統領追悼ミサが…。(国葬)

2009-08-05 19:03:58 | フィリピン-バギオ

SALAMAT, PRESIDENT CORY - A PEOPLE’S FAREWELL
 今朝は、9時頃からマニラ、イントラムロスのマニラ大聖堂-Manila Cathedralで「コリー・アキノ元大統領追悼ミサ-Huling misa para kay pangulong Cory Aquino」という儀式がしめやかに行われました。
(一昨日の大統領令で今日は休日になりました。)
 シンボル・カラーの黄色を基調とした花々(菊やバラ、ユリ、ひまわり)に囲まれた棺が祭壇の手前中央に置かれ、ミサが始まりました。
 
26年前、夫のベニグノ・アキノ氏が、亡命先のニューヨークからマニラ国際空港に到着し、タラップを降りた瞬間に銃で暗殺された時も、死を悼んだ多くの国民(約2百万人)が沿道に詰めかけたそうですが、ほとんどのマスコミはマルコスの反感をかうことを恐れて中継しなかったのです。
 
今回のコリー氏の国葬にあたっては、フィリピンのほとんどのテレビ局が生中継で、丸一日その模様を伝えていました。
 
マニラ大聖堂でのミサの最後、親族一同を代表してあいさつをしたのは、長男の上院議員ベニグノ・アキノ3世氏ではなく、末娘のクリス・アキノさんでした。そして、お兄さんのベニグノ氏に「私とあなたとで両親の後を受け継いで…。」と呼びかけ、近い将来政界へデビューをもにおわせる様な場面もありました。クリスさんの息子で、おばあちゃん似のジェームスくんのあどけない表情が人々の涙を誘っていました。
 
G線上のアリア(バッハ)が流れる中、大きな拍手で送られ、カテドラルの外に出ると、雨の中最後のお別れに集まった多くの人々に迎えられた後、ロハス大通りをゆっくりと進んで、夫の眠るパラニャーケ市のマニラ・メモリアル・パークへ(現在夜7時、すごい民衆が見守るなかようやく到着です)。そして、1983年8月21日、飛行機から降りる時に「必ず何かが起きるから、カメラを回し続けておいてくれ。」という言葉を最後に暗殺された夫の横に埋葬されます。フィリピンの国会の中では、コリー・アキノ元大統領の誕生日をフィリピンの祝日に…、という意見もあるそうです。

 
http://www.youtube.com/watch?v=e9nnGXDg9ok&hl=ja
(マニラ大聖堂のパイプオルガン)

 天国での安らかなお眠りをお祈りします。(キリスト教における人の死は、終わりでなく神の元に召されて天国で永遠の命が授けられる、と考えられ、葬儀は神に対する感謝、故人を懐かしみ感謝する儀式といった意味合いが強いようです。)

 今日のマニラ大聖堂のミサを見ていて、ふと高山右近のことを思い起こしていました。↓
「最後に、フィリピンで名の通った日本人の一人『高山右近』について触れておきます。前田家の保護の下、その半生近くの二十六年間を金沢で過ごした高槻のキリシタン大名右近は、家康のキリスト教追放令により1614年に金沢からフィリピンに渡りましたが、悲運にもマニラ到着後わずか四十日余りで熱病にかかり、その生涯を終えました。しかし、その時のフィリピン人による右近追悼のミサは九日間にも及び(サンタ・アナ教会)、当時としては異例の待遇だったといいます。その右近が、『剣を取るものは皆、やがて剣によって滅びん。』という言葉を残しています。イスラム教徒とキリスト教徒が共存を模索し続ける、ここミンダナオ島で生活している私の心に、今、その普遍的なメッセージが強く響いてきます。」
(以前機関誌に投稿した記事より・2006年ダバオ市にて)

 今日は、アメリカのビル・クリントン元大統領(民主党)が電撃的に北朝鮮を訪問、拘束されていた二人のアメリカ人女性記者を連れて帰る、という劇的なニュースもありました。3時間以上の話し合いの中では、日本の拉致問題にも触れられたそうです。クリントン氏の行動は、膠着している6か国協議が再開され、核や拉致の問題等、懸案事項の解決に向けて前進するきっかけにもなりそうな希望を抱かせる、大変勇気あるもののように思えました。大統領経験者としては、94年のジミー・カーター氏(民主党)訪朝以来のことだそうです。
 
その後の北朝鮮国営放送では「今後、対話に応じる…。」と!
「武力では何も解決しない、できない。」ことは、みんなが知っているはずなのに…。



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