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真理伝教の指導者たち~「神助受けし明証」より 

2012年09月01日 | ウラマーゥ(学者先生たち)に学ぶ



アッサラーム アライクム。

皆さんいかがお過ごしでしょうか。


以下、アハマド・アッリファーイー師(ヒジュラ歴578年/西暦1181年没、アッラーのお慈悲あれ)の
『アルブルハーン・アルムアイヤド(神助受けし明証)』より、
第26項目「真理伝教の指導者たち(アインマトゥ・ダアワティ・ル・ハック)」についての拙訳です。

             ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

慈愛あまねく慈悲深きアッラーの御名において
我らが主アッラーにこそすべての称讃あれ。
我らが指導者ムハンマドさまとそのご家族、ご教友全員に最高の祝福と平安がありますように。

筆者たるアハマド・アッリファーイー師(アッラーのお慈悲あれ)は、
『アルブルハーン・アルムアイヤド(神助受けし明証)』という著作の中で言われました。
願わくは至高のアッラーがかの先生を通して私たちにとって役立つものをお恵みくださいますように。
そして学びの友として共に学ぶ皆さんを通しても、役立つものをお恵みくださいますように。アーミーン。

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"أئمة دعوة الحق"
أقامنا الله أئمة الدعوة إليه بالنيابة عن نبيه صلى الله عليه وسلم، من اقتدى بنا سلم، ومن أناب إلى الله بنا غنم،
الحق يقال: نحن أهل بيت ما أراد سلبنا سالب إلا وسلب، ولا نبح علينا كلب إلا وجرب، ولا همّ على ضربنا ضارب إلا وضرب، ولا تعالى على حائطنا حائط إلا وخرب:
((إِنَّ اللَّهَ يُدَافِعُ عَنْ الَّذِينَ آمَنُوا))(الحج 38) ((النَّبِيُّ أَوْلَى بِالْمُؤْمِنِينَ مِنْ أَنْفُسِهِمْ))(الأحزاب 6).

إنكار بوارق الأرواح جهل بمدد الفتاح، لا تعطيل لكلمة الله
((إنّ وليّي الله الذي نزّل الكتاب وهو يتولى الصالحين)) يتولى أمورهم وأمور مناديهم،
ومن ينزل بناديهم، حال حياتهم وبعد مماتهم، بلحوق علم منهم وبغير لحوق علم منهم.
العبد إذا كان راحما يستر النائم ولا يذكر له ذلك، يوصل الخير إلى الفقير ولا يعرفه الخبر.
الله الرحمن الرحيم، العظيم الكريم، ينتصر لعبده الولي من حيث لا يدري، يرزقه من حيث لا يحتسب، تعصمه جبال عنايته من ماء غرق الأكدار والاقتدار،
تدفع عنه وعن محبيه الأقدار بالأقدار، لا به، ولكن له التنزلات المحكمة، ((ليس لها من دون الله كاشفة))
من اعتصم بالله عُصِم، ومن وقف مع الأغيار ندم.
قال سيدى الشيخ منصور الرباني رضي الله عنه: الاعتصام بالله ثقتك به، وتنزيه خواطرك عن غيره.
القوم أرشدونا، دلونا على الطريق، كشفوا لنا حجاب الإغلاق عن خزائن درر الكتاب والسنة، عرفونا حكمة الأدب مع الله ورسوله،
هم القوم لا يشقى جليسهم من آمن بالله وعرف شأن رسوله أحبهم واتبعهم.


「真理伝教の指導者たち」

アッラーは我々にダアワ(伝教)のイマーム(指導者)たちを立ててくださった。
かの御方の預言者(アッラーの祝福と平安あれ)の代わりに、である。
われらに追従した者は身の安全を確保し、われらを通してアッラーへと悔悟する者は(恩恵を)勝ち取る。

真理はしかと言及されるべきもの故に言うが、我らアハル・ル・バイト(預言者ムハンマドの家族、末裔)は、
誰であれわれら(の権利)を剥奪しようとする者は皆剥奪され、われらに向かって吠える犬は皆みすぼらしい姿となり、
われらを打とうとする者は皆打たれ、われらの領域を横柄に乗り越えて馬鹿にしようとする者は皆破滅してしまうのである。
『まことにアッラーは信じる者たちを防御される。』(ハッジ章38節)のであり、
『預言者こそは信徒たちにとって自分たちよりも優先すべき存在である。』(アフザーブ章6節)

魂のきらめきを否定するのは、恵みの扉を開く御方(アルファッターハ)のお助けを知らないからである。
アッラーの御言葉を無効にするものは何一つない。
『まことに私の庇護者はアッラーであり、啓典を下された御方。かの御方は、正しき者たちを庇護するのである。』(アァラーフ章196節)

かの御方は彼ら正しき人たちおよび彼らが誘う人たち、
それから彼らの集いに参加する人たちの諸事を見守ってくださるのである。
それは彼らの自覚があろうとなかろうと、生前も死後も変わらずに、である。

しもべたる人は、思いやり深い人であれば寝ている人をそっとしておき本人にそれを告げることはしないし、貧しき人本人の知らない間に善意を届ける。
アッラーは慈愛あまねく慈悲深い御方であり、偉大かつ寛大な御方である。
自らの友たるしもべの知らぬ間に助けてくださり、思ってもみないところから生活の糧を与えられる。
不浄なものや襲いくる障害の水面を目前にして実際に溺れてしまう前に山のようなご配慮かつお助けで守ってくださり、
その人本人やその人の愛する人たちを運命から運命によってお守りくださる。
それ(最初の運命)ではなく、その人のためにほどよく相応しい別の運命が下されるのである。
『それはアッラーのほか誰も明かすことはできない。』(ナジュム章58節)
アッラーにすがった人は守られ、変化するものを前に立ち止まる人は後悔する。

わが師シャイフ・マンスール・アッラッバーニー(アッラーのご満悦あれ)曰く、
「アッラーにすがること、それはかの御方へのお前の信頼であり、かの御方以外のものがお前の心中に去来しないようにすることだ。」
(彼ら真理探究の道を行く)民はわれらを導き、その道をわれらに示し、
聖典とスンナの真珠が眠る宝庫を閉ざす覆いをわれらのために取り払ってくれ、
アッラーとかの御方の御使いに対して礼儀正しくあることの英知を我々に知らしめてくれたのである。
彼らこそ共にいて不幸になることはない民であり、アッラーを知り、かの御方の御使いのなんたるかを知った人は、彼らを愛し、従うであろう。



【訳者のつぶやき】

不浄なものや襲いくる障害の水面を目前にして実際に溺れてしまう前に山のようなご配慮かつお助けで守ってくださり、
その人本人やその人の愛する人たちを運命から運命によってお守りくださる。
それ(最初の運命)ではなく、その人のためにほどよく相応しい別の運命が下されるのである。

日本語では訳しづらく、
ちょっと何を言っているかわかりにくいところを解説します。

至高のアッラーはご自分の友たる敬虔かつ謙虚なしもべに
限りない恩恵をお恵みくださるのですが、その一つが「守護」の恵みです。

「ジバール イナーヤティヒ」すなわちかの御方のケア、ご配慮、
ご高配の山々、つまり山のようなご配慮が
「タアスィムフ」すなわちしもべを守ってくれるわけです。
「ミン マーイ ガラキ・ル・アクダーリ ワ・リクティダール」
すなわち「アクダール」と「イクティダール」に溺れてしまう水面から、
守ってくれるとのこと。
「アクダール(Akdaar)」は「カダル(Kadar: 汚物、不浄なもの)」の複数形で、
物理的かつ精神的な汚物を意味しますが、
ここでは特に精神的に不浄なもの、
つまり嫉妬やねたみ、憎悪や執着などを意味します。


「イクティダール」とは例えば貧困や多忙、抑圧、暴力など
私たちを打ち負かして制圧してしまいかねないものを指し、
そうした内面的な敵とも呼べる悪感情や
外面的な敵とも呼べる危険が目の前に見える、
落ちたら溺れてしまうというときにアッラーはお救いくださる…
いざ落ちて「溺れ死ぬぅ!」ともがく中で助けてくれるのではなく、
「うわぁ、やばい!」と危機を目前にしたところでお助けくださるわけです。

「タドファウ アンフ ワ アン ムヒッビーヒ」とは
善良かつ謙虚なしもべとそのしもべが愛する人たちを
前述の「山のようなご配慮が」防衛して害を防いでくれるということです。

具体的に何から守ってくれるのかというのが
「アルアクダーラ ビルアクダール」で言われています。
これは「カダル(Qadar:運命)」の複数形である「アクダール(Aqdaar)」から
同じ運命の複数形「アクダール」によってお守りくださるということですが、
「運命から運命によってお守りくださる」とはどういうこと?
と思われるやもしれません。
それを解説するのが次のくだり、「ラー ビヒ、ワラーキン ラフ アッタナッズラートゥルムフカマ」という一文ですが、
つまり最初のそれ(運命)が当人にとっての運命として下るのではなく、
「別に相応しい運命」が下されるということ。

例えばそれは「人間万事塞翁が馬」の中国故事に見られるように、
成人男子は基本的に皆徴兵に応じて
従軍しなければならないという「運命」から、
大怪我をするという「運命」によって戦死の運命から免れるということです。
ある飛行機に乗るはずが、
路上アクシデントや突然の事態でキャンセルせざるを得なくなったところ、
その飛行機が墜落事故を起こした、ですとか、
ある町に住んでいる人が
たまたまある日は急な出張が入り留守にしたところ、
大地震がその町を襲いその人は難を免れたとか、
多数を巻き込む基本の「運命」から、
個別の特別な配剤の妙に満ちたもう一つの「運命」によって
至高のアッラーは私たちかの御方のしもべたちをお守りくださるということです。

私自身は「アブド(ゥン)・ワリー(ユン)」すなわち「(アッラーの)友たるしもべ」には
ほど遠いですが、37年の半生を振り返ってみて
「辛かったけど、むしろ救われたのかも」と思うことがいくつかあります。
きっと皆さんにも思い当たるところがあるのではないでしょうか。

アルハムドゥリッラー、われらが主は、誰よりもお優しき御方。
私たちに最大の幸運かつ幸福をお望みくださいました。
イスラームに導かれ、イスラームを生きられるよう日々の歩みを重ねる・・・
これはアッラーが私たちに幸をお望みくださったという
まごうことなき証であり、
願わくはアッラーのお力添えのもと
イスラームで生涯の幕を閉じるという将来への希望の礎です。

そこで今回の主題にからめると、
「イスラームというアッラーから頂戴した幸福の証と未来への希望の礎」は、
「真理伝教の指導者」たるウラマーゥ(学者先生たち)を知り、
その指導を受けることでより確固としたものとなる、ビイズニッラー!
ということが言えるでしょう。

稀には「待っていても」素晴らしい学者先生との出会いに恵まれることもありますが、
基本は自ら求めることにあります。(例えばムスリム世界を訪問するなどして)

イスラーム学徒のことをアラビア語では「ターリブ・ル・イルム」といいますが、
学生とは元々「求める人、希求する人」のことをいいますので、
さしずめ「ターリブ・ル・イルム」とは、
「聖知探求の徒」とでも言えるかと思います。

ここで大切なのは、仕事をやめて、日本での立場を捨てて、
イスラームの学問に専念する人だけが
「ターリブ・ル・イルム」ではないということです。
(無論、そういう人がもっと必要であることは確かですが)
社会人としてであれ、主婦、母親としてであれ、
「タラブ・ル・イルム」すなわち聖なる知識の探求はできるのですから。

大切なのは、日々気持ちを改め、
アッラーのお力添えを祈ること、
そしてこつこつと亀の歩みでいいから継続することと信じます。
アッラーフ アァラム。

↑今の私がこの状態にありますので、これは自分への激励でもあります(笑)


では、皆さんにアッラーのご加護と祝福を。

アブー・ハキーム


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