日本のイスラーム (Islam in Japan)

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日本でのイスラーム学習、イスラーム教育の充実を目指すブログです。

時間と礼儀の大切さ~「神助受けし明証」より 

2010年07月28日 | ウラマーゥ(学者先生たち)に学ぶ



時にかけて。
まことに人間は皆、損失の中にある。
ただただ、信じ、善行をなし、お互いに真理を勧め合い、お互いに忍耐を勧め合う者たちを除いては。
(聖クルアーン第103章)




アッサラーム アライクム。

皆さんに平安あれ。


さて、アハマド・アッリファーイー師(ヒジュラ歴578年/西暦1181年没、アッラーのお慈悲あれ)の
『アルブルハーン・アルムアイヤド(神助受けし明証)』より、
第22項目「時間と礼儀の大切さ」についての拙訳です。

             ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

慈愛あまねく慈悲深きアッラーの御名において
我らが主アッラーにこそすべての称讃あれ。
我らが指導者ムハンマドさまとそのご家族、ご教友全員に最高の祝福と平安がありますように。

筆者たるアハマド・アッリファーイー師(アッラーのお慈悲あれ)は、
『アルブルハーン・アルムアイヤド(神助受けし明証)』という著作の中で言われました。
願わくは至高のアッラーがかの先生を通して私たちにとって役立つものをお恵みくださいますように。
そして学びの友として共に学ぶ皆さんを通しても、役立つものをお恵みくださいますように。アーミーン。

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أهمية الوقت والأدب
أي إخواني، لا تخجلوني غدا بين يدي العزيز سبحانه وقد سبقكم أصحاب الأعمال المرضيات. كل نفس من أنفاس الفقير أعزّ من الكبريت الأحمر.
إياكم وضياع الأوقات، فإنّ الوقت سيف إن لم يقطعه الفقير قطعه.
قال تعالى: ﴿وَمَنْ يَعْشُ عَنْ ذِكْرِ الرَّحْمنِ نُقَيِّضْ لَهُ شَيْطَانًا فَهُوَ لَهُ قَرِينٌ﴾ (الزخرف 36)
عليكم بالأدب، فإنّ الأدب باب الأرب. حكي عن سعيد بن المسيّب أنه قال: "من لم يعرف ما لله عليه في نفسه، ولم يتأدب بأمره ونهيه، كان من الأدب في عزلة".
قال الله تعالى: ﴿إِنَّمَا يَخْشَى اللَّهَ مِنْ عِبَادِهِ الْعُلَمَاءُ﴾(فاطر 28)
سئل الحسن البصري رضي الله عنه عن أنفع الأدب فقال: التفقّه في الدين، والزهد في الدنيا، والمعرفة بحقوق الله تعالى على عبده.
وقال سهل بن عبد الله رضي الله عنه: "من قهر نفسه بالأدب عبد الله بالإخلاص".
ومن الأدب أيضا الأدب مع المشايخ، فإن من لم يحفظ قلوب المشايخ سلّط الله عليه الكلاب التي تؤذيه.
أدب صحبة من فوقك الخدمة، ومن هو مثلك إلا الإيثار والفتوة، ومن دونك الشفقة والتربية والمناصحة.
صحبة العارف مع الله بالموافقة، ومع الخلق بالمناصحة، ومع النفس بالمخالفة، ومع الشيطان بالعداوة.


時間と礼儀の大切さ

わが兄弟たちよ、諸君が善行の人たちに先んじられて遠く先を行かれてしまうことで、
至高にして威力並ぶ者なき御方の御前に立つ明日にどうか私に恥をかかせないでいただきたい。
困窮者(ファキール:アッラーを常時必要とする人)の呼吸はその息すべてが赤い硫黄(キブリート・アハマル…非常に稀有な存在の譬え)よりも尊いのである。

時間の無駄には、くれぐれも気をつけることだ。
まことに時間は剣であり、困窮者がそれを切らねば、時間に切られてしまう。
至高なる御方の仰せられるとおりである。
『慈悲深き御方を思い起こすことから遠ざかる者には、シャイターンを友としてあてがおう。』(ズフルフ章36節)

礼儀を重んじることだ。まことに礼儀こそは、目的到達の門である。

サイード・ブン・アルムサイヤブに伝わるところでは、曰く、
「自らにおけるアッラーのために課せられたことを知らず、かの御方のご命令と禁止に則って礼儀正しくしない人は、独居したほうが礼儀に適っていよう。」とのことであり、
至高のアッラーが『まことにアッラーを畏れる者こそはかの御方のしもべたちの中でも知者である。』(ファーティル章28節)と仰せられているとおりである。

アルハサン・アルバスリー(アッラーのご満悦あれ)はあるとき最も役立つ礼儀について尋ねられたという。
すると曰く、「宗教における理解、この世での禁欲(無頓着)、しもべたる者に課せられた至高のアッラーの権利を知ることである。」

サハル・ブン・アブドッラー曰く、「礼儀によって自我を制圧した人は、純真にアッラーに仕えるであろう。」

礼儀には、マシャーイフ(導師たち)への礼儀もある。
マシャーイフの心を守るべく礼儀正しくしないようであっては、アッラーが獰猛な犬どもにその者を支配させてしまわれるであろう。
自分より目上の人と接する際の礼儀は奉仕(ヒドマ)であり、
同等の人には利他の精神(イーサール)と寛大さ(フトゥーワ)、
目下の人には思いやり(シャファカ)と教育(タルビヤ)、助言(ムナーサハ)である。
アーリフ(真知を知る人)のアッラーとの同行は調和(ムワーファカ)により、
生きとし生けるものとは助言(ムナーサハ)により、
自我とは対立(ムハーラファ)、悪魔とは敵対(アダーワ)によるのである。



《訳者のつぶやき》
「時は剣の如し。切らねば、切られる。」とは、アラブの有名な格言ですが、
物理的には万人平等の時間とはいえ、その生産性や実質濃度は千差万別です。
イスラームの文脈では、いかにアッラーが私たちの時間にバラカ(恩寵、祝福)をくださっているか否かで時間の質に違いが出てくると言われます。
そしてそのバラカをいただけるかどうかの鍵となるのがイフラース(純真さ)の有無とも。
加えて今回アハマド・リファーイー師(アッラーのお慈悲あれ)が教えてくださっている「アダブ(礼儀)」もまた、至高のアッラーの寵愛を願うには必須のものと言えそうです。
アッラーフ アァラム。

幸いアルハムドゥリッラー、私たちは礼儀を尊び重んじる国、日本で生まれ育ちました。
つまりある程度の型と器は用意できているわけですので、
あとはその中身を至高のアッラーへの純真な気持ちとラスールッラー(アッラーの祝福と平安あれ)をお慕いする気持ちで満たして、
型や器で矯正が必要なところは適宜矯正をすればよいでしょう。

私も今月初旬で35歳を迎えました。
残り時間がいかほどのものかはアッラーのみぞ知ることですが、
願わくは自分の1日24時間、一週間7日がバラカで満たされるものとなるよう
日々精進の志を改めたいと思います。

願わくはお優しきアッラーが皆さんの時間をバラカで満たしてくださいますように。
アブー・ハキーム


北海道出張講義(2010.7.17-18) エピソード2

2010年07月27日 | イスラーム講義活動(ボランティア)
アッサラーム アライクム。

皆さんに平安あれ。



私の大好きな神威岬からの眺め
マーシャーアッラー、アイヌ語由来の名前がまた素晴らしい。まさに神の威力を実感させられる岬です。



アルハムドゥリッラー、札幌二日目の朝は、早朝夜明け前のファジュル礼拝と北海道大学キャンパスの散歩で幕を開けました。


大学構内を横断した先のトンネル出口



スブハーナッラー、北海道はファジュルが午前2時で(札幌マスジドでの集団礼拝は2時半)イシャーゥが21時過ぎと関東よりも早くて遅いので驚きました。

それから北海道大学の広いこと!半周して戻るだけで約1時間の散歩となりました。


先の見えない北海道大学キャンパス内道路


スブハーナッラー、前日の到着時には「明日の天気予報では雨ですからダメですね」と望み薄だった積丹の神威岬行きでしたが、
アルハムドゥリッラー、晴れにしてくださいというドゥアーをアッラーが受け入れてくださり、
散歩のあと仮眠をとったら起きられなくなるでしょうからこのまま行きましょう!と札幌を発ちました。
私は助手席で少し寝られましたからよかったですが、須見さんは寝不足での運転で大変だったかと思います。
同胞のためにご奉仕くださった須見さんに、アッラーが素晴らしき報奨をお恵みくださいますように。


早朝の札幌マスジド


道中、日本の民謡や童謡のリズムに詩作をしたナシード(イスラームの歌)をいつくか披露しましたが、
やはり家内にダメ出しをくらったのと同様、須見さんにもやんわりとお蔵入りを示唆されました(涙)

神威岬入口に到着したのは7時頃。開門まであと1時間持て余した私たちは、引き戻って朝食にありつけるお店を探しました。
「朝食定食」の旗をなびかせていたお店に入りましたが、宿泊客で一杯とのこと。
道すがら営業中の札が目にとまったもう一軒のお店に期待して入ったら、アルハムドゥリッラー、やっていましたし、席がありました!
しかもアルハムドゥリッラー、そこは生うに丼の専門店。アッラーに感謝し、アッラーを讃えつつ、至福のひとときを味わいました!


見てください!これぞアッラーがお恵みくださった海の幸!
先日エジプト出身の同胞に生牡蠣をご馳走したら、彼も無理して食べてくれたのですが、
一言「タアーム(食べ物)だね」とコメントをくれたのを思い出し、
しみじみとアルハムドゥリッラー、日本に生を受け、これが堪能できてよかった!とアッラーに感謝しました(笑)





訪問できただけ幸いでしたが、三度目の訪問にしてまたも岬の端へ行くことはできませんでした。
インシャーアッラー、また次回の楽しみとしておきましょう。



スブハーナッラー、魂が喜びはしゃぐ…そんな光景がここにはあります。



アルハムドゥリッラー、曇り空で顔を出した太陽…こんなとき私はいつにも増してアッラーのお優しさを感じます。




午後2時からは札幌マスジドで模擬土曜学校(日曜でしたので日曜学校ですね)かつ「日本での子ども教育という課題にどう取り組むか」という講話の予定でした。
が、エジプト出身でハーフィズの方が付き合いで来てくださっている以外は閑古鳥の鳴く模様。
日本でのダアワについてのお話でやり過ごし始めたら、アルハムドゥリッラー、子どもたちがお父さんたちと一緒にちらほらと集まり始めてくれました。


週末学校始まりの模様




まずは子どもたちの気持ちをほぐすため、イスラームの歌を歌うことから始めました。
歌ったのは、「アッラーとラスールッラーに捧げる歌」
詳しくは、こちらをご覧ください。http://www.youtube.com/watch?v=x2wjM3K4AiQ




アダブ(礼儀)を教わるサークルです。



クルアーンを教わるサークルです。




ハディースを学ぶサークルです。




アルハムドゥリッラー、一緒に来れなかった家内ウンム・ハキームの仕事が役立ちました。ジャザーハッラーフ ハイラン!




さあ、お勉強のあとはみんなでお楽しみの時間です。2チームに分かれてミニ運動会に興じました(^.^)



お父さん、がんばれ!



ساعة فساعة
真面目なときもあれば、愉快なときもあっていい…イスラームという教えの奥深さです(^_^)



タルハくん、後ろ走り上手上手!



負けるな、走れ~!




スブハーナッラー、子どもたちはいつまでも元気ですが、お父さんたちが汗だくになって疲れてきましたので、
ミニ運動会を終えてイスラーム・クイズを始めました。
リレーと同様、勝ったチーム、問題に答えられたチームにはチョコレートが賞品です(^.^)



中にはお父さんが張り切りすぎて自分で答えてしまうところもありましたが、
お父さんと子どもたちのチームワークが光りました(^_^)



最後はドゥアーで締めくくり。アッラーに感謝しましょう♪



以上、駆け足での写真報告でした。

加えて嬉しい後日談をご紹介いたします。
最良の世話役となってくださったタウフィーク須見さんが教えてくれたお話です。(ご本人の了解を得て、転載いたします)

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副会長その他、感激しております!
今まで子供達は「モスクに行くよ」といっても嫌々だったようですが、土曜学校を境に「モスクに行きたい!」って子供にいわれて
親御さん達は涙涙..だったようです。

副会長は毎週金曜日の子供向けクルアーン教室に、奥さんと子供をなだめながら連れて行っていました。
たまにはぐずる事もあったようで、彼自身、どうすれば...と悩んでいたようです。
そんなおり、「モスクに行きたい!」「前野先生はいつくるの?」と子供からせかされ、彼は本当に涙したそうです。

また、Hさんの娘さんも、なかなか言う事を聞かず、こんな私にまで「須見さん先生になって教えてあげて」と相談していたぐらいでした。
娘さんもあの後は「前野先生に会いたい」「モスクに行きたい!」と言われ、心から嬉しかったと言っておりました。

全国展開して行けたらどんなにすばらしいでしょうね。

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アルハムドゥリッラー、感無量です。
ただただ、アッラーのお力添えとお導きに感謝いたします。

願わくはこれからも至高のアッラーが子どもたちの心を守り、
両親や各地域の父兄が子どもたちにとってよき教育を与えられるようお助けくださいますように。

北海道出張講義(2010.7.17-18) エピソード1

2010年07月22日 | イスラーム講義活動(ボランティア)
アッサラームアライクム。
皆さんに平安あれ。

アルハムドゥリッラー、アッラーのおかげ、そして協力者たちのおかげで、
7月17日から18日にかけて予定通り無事に北海道は札幌と小樽への出張講義を果たすことができました。


以下はその写真報告です。


開始時間を14時からとしたこともあり、最初は2、3人しか人が集まりませんでした。ただこれをいいことに、私としては全然期待していなかった一般の方が一名
参加してくださいましたので、その方の疑問にお答えするというかたちで座談会を始めました。





ひとしきりの質疑応答を経て、本題のダアワ、すなわち伝教の方法論について、レジュメを元に解説しました。
無論、結論から先にお断りし、私がお伝えしたいのは、イスラームを伝える方法に王道マニュアルはなく、
基本かついちばん確かなのは個人的なつながりの中でいかに信頼され、好かれるか、いかに近しい人間
関係を築くかということであって、しいてマニュアルを挙げるならその最善のものはラスールッラー(アッラーの祝福と平安あれ)のやり方であり、
そのラスールッラー(アッラーの祝福と平安あれ)が個々人との接し方を非常に大切にされた、だから私たちムスリムはかの人の生き方をこそよく学ぶべしと力説しました。

そうした大前提の上で、自分を顧みるよりもまず周りの日本人へイスラームを伝えることに大きな関心を寄せる外国出身の同胞たちに
一日本人として想像し得る一般的な日本人へのアプローチの仕方をお伝えした次第です。
詳しくは、英語になりますが別トピックでご紹介しましょう。





アルハムドゥリッラー、アスルの礼拝をしにやって来た同胞たちにより、ようやくディスカッションも賑やかになってまいりました。
このほか、日本人ムスリマの姉妹たちが6名ほど、インドネシア出身の姉妹たちが2、3名参加してくれました。





プログラム終了後の懇親会模様です。
やばい…私はかなり猫背ですね^_^;





こちらは所変わって小樽マスジドの2階礼拝堂。
模擬土曜学校ということで、10名ほど集まってくれたお父さんやお兄さんたちに説明して、6人ほどの子どもたち相手にサークル学習を始めました。
中央のイマームさんにはクルアーン読誦指導をお願いし、私はミニ・ハディースを担当しました。





ほかのサークルを周り終えた子どもたちと大人が、最後はハディースを解説する私のところに集まって賑やかになりました。

アルクルアーヌ フッジャ(クルアーンは証)
القرأن حجّة





さあ、一通りお勉強を終えた後は、クウェイトの先生から学んだ「教養とチョコレート」で楽しみましょう♪
相変わらず臨機応変に空気の読めない私は、大人も答えられないようなクイズを出してしまいましたが…^_^;





最後はみんなでナシードです。
アッラーとラスールッラーの歌をみんなで歌いましょう♪

クルアーン読誦と第6回ICOJメンバーズ講座(2010.07.11)

2010年07月22日 | イスラーム講義活動(ボランティア)
アッサラーム アライクム。

皆さんに平安あれ。

去る7月11日(日)の午前10時より、広尾のアラブ イスラーム学院にてアラブの詩にまつわるシンポジウムが開かれました。

アルハムドゥリッラー、私はなんと幸運かつ名誉なことに、開会式冒頭のクルアーン読誦を依頼され、
午後から担当授業もあったゆえにただそのためだけに行徳から麻布十番まで足を運びました。

以下は学院の指示により当日読み上げたクルアーンの聖句です。



まことに、諸天と地の創造、夜と昼の移り変わり、人に役立つものと共に海を行く船、
アッラーが空から降らせ、それによって死んだ大地を生き返らせ、その中であらゆる動物を拡げさせ給う雨水、
風向きの変更、空と大地の間を駆使させられる雲のうちには考える者たちへの印がある。(聖クルアーン第2章164節)




だが人々の中には、アッラーをさしおいて幾つもの同位者を奉り、アッラーを愛するようにそれらを愛する者がいる。
信仰する者たちはさらに激しくアッラーを愛する。
不正をなす者たちが懲罰を見るとき、力はすべてアッラーに属し、アッラーが懲罰に厳しい御方であることを知りさえすれば。(聖クルアーン第2章165節)






上手な読誦ではなかったかもしれませんが、心を込めて読誦しました。
少しでも、たとえ一人にとってであれ、クルアーンに惹かれ、イスラームに惹かれるきっかけとなったことを祈ります。
分不相応な願いかもしれませんが、そもそもそのために引き受けたお役目なのですから…。



学院でのシンポジウムはまだこれからというところでしたが、
担当授業を控えた私は、とんぼ返りで帰宅しました。
午後からはイスラミック・サークル・オブ・ジャパンのメンバー育成講座として今年の2月から月一で始めた勉強会です。
今回で6回目を数えた本勉強会では、イマーム・ナワウィーの「アルマカースィド(目標)」というイスラームという教えのエッセンスを簡潔にまとめた本を解説を交えて読み進めています。
これまでに、第一の目標「イスラームの信条と規範の諸原則」および第二の目標「タハーラ(浄化)の諸規定」を学びました。
次回からは第三の目標「礼拝の諸規定」を習います。

アルハムドゥリッラー、幸いなことに貴重な本書はわれらがハサン中田先生によって日本語に訳されておりますので、
興味のある方はご参考まで一読をお勧めいたします。

「スンナ派イスラーム伝統教義学入門」←「目標」はP.11~26に収録されています
http://opencourse.doshisha.ac.jp/open/shingaku/06102110000/06102110000.pdf



愛息子シャイフ・アミ―ンが授業にバラカを添えてくれました(^.^)



皆さんにアッラーのご加護と祝福を。

アルハッラージュのあやまち~「神助受けし明証」より 

2010年07月16日 | ウラマーゥ(学者先生たち)に学ぶ


まことに汝らのもとに使徒がやってきた。汝ら自身の間からである。
その使徒にとっては、汝らを悩ませるものが大事な気がかりであり、
その使徒は汝らのことを気遣い、信徒たちに思いやり深く、情け深い。(クルアーン第9タウバ章128節)



アッサラーム アライクム。

皆さんに平安あれ。


さて、アハマド・アッリファーイー師(ヒジュラ歴578年/西暦1181年没、アッラーのお慈悲あれ)の
『アルブルハーン・アルムアイヤド(神助受けし明証)』より、
第20項目「アルハッラージュのあやまち」についての拙訳です。

             ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

慈愛あまねく慈悲深きアッラーの御名において
我らが主アッラーにこそすべての称讃あれ。
我らが指導者ムハンマドさまとそのご家族、ご教友全員に最高の祝福と平安がありますように。

筆者たるアハマド・アッリファーイー師(アッラーのお慈悲あれ)は、
『アルブルハーン・アルムアイヤド(神助受けし明証)』という著作の中で言われました。
願わくは至高のアッラーがかの先生を通して私たちにとって役立つものをお恵みくださいますように。
そして学びの友として共に学ぶ皆さんを通しても、役立つものをお恵みくださいますように。アーミーン。

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خطيئة الحلاج
ينقلون عن الحلاج أنه قال: أنا الحق!
أخطأ بوهمه، لو كان على الحق ما قال: أنا الحق.
يذكرون له شعرا يوهم الوحدة، كل ذلك ومثله باطل.
ما أراه رجلا واصلا أبدا. ما أراه شرب، ما أراه حضر، ما أراه سمع إلا رنة أو طنينا فأخذه الوهم من حال إلى حال.
من ازداد قربا ولم يزدد خوفا فهو ممكور.
إياكم والقول بهذه الأقاويل، إن هي إلا أباطيل.


アルハッラージュのあやまち
アルハッラージュが「われは真理なり」と言ったと伝えられている。《訳注1》
思い込みで間違えたのである。もし本当に正しかったならば、「われは真理なり」とは言わなかったはずだ。
神人合一(ワハダ)を思わせる(アルハッラージュ作の)詩が伝えられているが、その類のものはすべてデタラメである。
(アッラーと)つながりし者(ワースィル)とは思えない。
(真知を)飲み知った者とは思えない。
(アッラーの御前で)臨在を感じた者とは思えない。
(真理を)聞いた者とは思えない。ただ一鳴りまたはノイズを聞いて、ある状態からまた別の状態へと思い込みに心を奪われただけであろう。
近しさが増しながらも、恐れが高まらない者は、欺かれているのである。(マムクール:欺かれし者)
こうした言説にはくれぐれも注意されたい。単なるでっちあげに過ぎないからである。


درج السلف على الحدود بلا تجاوز. بالله عليكم، هل يتجاوز الحد إلا الجاهل؟ هل يدوس عنوة في الجبّ إلا الأعمى؟
ما هذا التطاول؟ وذلك المتطاول ساقط بالجوع، ساقط بالعطش، ساقط بالنوم، ساقط بالوجع، ساقط بالفاقة، ساقط بالهرم، ساقط بالعناء
أين هذا التطاول من صدمة صوت ﴿لِمَنْ الْمُلْكُ الْيَوْمَ ﴾ (غافر 16)

先達は境界線に沿って進み、度を越えることはなかった。
アッラーにかけて諸君に問おう。無知な者のほかに度を越す者があろうか。
目の見えない者のほかに外套を力任せに踏みつけて転ぶ者があろうか。
この横柄さはなんだ?
その横柄な輩は空腹に倒れ、渇きに倒れ、眠気に倒れ、うずきに倒れ、貧困に倒れ、老衰に倒れ、苦しみに倒れるというのに、
『今日この日、王権は誰がためにある!?』(ガーフィル章16節)という声の衝撃を前にこの横柄さがどこにまかり通るというのか。

العبد متى تجاوز حده مع إخوانه يعد في الحشرة ناقصا.
التجاوز علم نقص ينشر على رأس صاحبه، يشهد عليه بالدعوى، يشهد عليه بالغفلة، يشهد عليه بالزهو يشهد عليه بالحجاب، يتحدث القوم بالنعم لكن مع ملاحظة الحدود الشرعية.
الحقوق الإلهية تطلبهم في كل قول وفعل. الولاية ليست بفرعونية ولا بنمرودية. قال فرعون: أنا ربكم الأعلى.

しもべたる者はひとたび同胞とのやりとりの中で度を越してしまえば、復活の日に欠陥のある者とみなされてしまう。
分不相応とは本人が頭に掲げる欠陥のしるしであり、根拠なき我流の言説を説く者であることを証し、不注意な人であること、虚栄の人、覆いをかけられた人であることを証言する印なのである。
人は恩恵を語るが、それとてシャリーアの枠組みに留意してのことである。神の権利がすべての言動において求められるのである。
ウィラーヤ(神に近しき人としての特権)とは、フィルアウンのようになることでもナムルード《訳注2》のようになることでもない。
フィルアウンは「われこそはお前たちの至上の主である」と言った。


وقال قائد الأولياء وسيد الأنبياء صلى الله عليه وسلم "لست بمَلِك"
(رواه ابن ماجه عن أبي مسعود البدري رضي الله عنه قال: أتى النبي صلى الله عليه وسلم رجلٌ فكلّمه، فجعل تُرعَدُ فرائصه فقال له: "هوّن عليك، فأني لست بملك، إنما أنا ابن امرأة تأكل القديد")
نزع ثوب التعالي والإمرة والفوقية. كيف يتجرّأ على ذلك العارفون والله يقول:﴿وَامْتَازُوا الْيَوْمَ أَيُّهَا الْمُجْرِمُونَ﴾ (يس 59)

だがアウリヤーゥ(アッラーに近しき人たち)の指令者にしてアンビヤーゥ(預言者たち)の指導者たるお人はこう言われた。「私は王様ではありません。」
(イブヌ・マージャがアブー・マスウード・アルバドリーさま〔アッラーのご満悦あれ〕によるハディースとして伝える伝承。
曰く、「ある男が預言者さま(アッラーの祝福と平安あれ)のもとにやって来て話し始めたが、身震いしだしたのでかの人がその男に言われた。
『落ち着きなさい。私は王様ではありません。私はあくまでも干し肉を食べていた女性の息子に過ぎません。』」)
かの人は優越の衣、貴族の衣、上位の衣を脱ぎ捨てたのである。
アッラーが『今日は目立つがよい。罪人どもよ。』(ヤースィーン章59節) と仰せられているにもかかわらず、
アーリフーン(真知を知る者たち)がどうしてそれをないがしろにすることがあろうか。

وصف الافتقار إلى الله وصف المؤمنين. قال تعالى: ﴿يَاأَيُّهَا النَّاسُ أَنْتُمْ الْفُقَرَاءُ إِلَى اللَّهِ وَاللَّهُ هُوَ الْغَنِيُّ الْحَمِيدُ﴾ (فاطر 15)
هذا الذي أقوله علم القوم، تعلموا هذا العلم، فإن جذبات الرحمن في هذا الزمان قلّت.
إصرفوا الشكوى إلى الله في كل أمر. العاقل لا يشكو لا إلى ملك ولا إلى سلطان، العاقل كل أعماله لله.

アッラーへの困窮という特徴、それは信徒たちの特徴である。至高なる御方がこう仰せられているとおりだ。
『人々よ、汝らはアッラーを必要とする者だが、アッラーこそは満ち足りた誉れある御方である。』(ファーティル章15節)
私の言うこれこそこの(道を行く)民の学問である。この学問を学ぶのだ。
まことにこの時代における慈悲深き御方を引き付けるものは減ってしまった。
万事において苦情はアッラーに向けるのだ。理性ある者は王様にも将軍にも苦情を訴えはしない。
理性ある者はそのすべての行いがアッラーのためにあるのである。



《訳注1》アルハッラージュとは、アルフサイン・ブン・マンスール・アルハッラージュ、通称アブー・ムギース、あるいはアブー・アブドッラーと呼ばれた異端者のこと。イラン地方のワースィトまたはトゥスタルで育ち、イマーム・アルジュナイドやサハル・アットゥスタリーと交流を持ちながらも正道に定まることはなく、マッカやホラーサーン、インドなど各地を転々とした。インドで魔術を会得し、バグダードにて人心をたぶらかし、聖者の名声を得るようになる。キリスト教信仰に近いこと(神の受肉)を言っているため、オリエンタリストには「無実の罪を着せられた悲劇の聖者」と人気があるが、当時のウラマーゥが一様に認めた不信仰と異端の言説を主張し続けたためにヒジュラ暦309年に処刑された。
アルハッラージュの言説としては、以下のものなどが伝わっているが、いずれもそれが本当なら無知と恥知らずな妄言ばかりである。

-自らが預言者たることを主張し、「われはアッラーなり」と遂には自らがアッラーであることを主張した。息子の嫁にサジダを命じ、「アッラー以外のものにサジダするのですか?」と問いかけた彼女に、「天における神であり、地における神である」と答えたという。
-フルール(受肉)とイッティハード(合一)を説き、自らとアッラーは同一であると説いたという。
-クルアーンの一節を読誦する者の声を聞いたとき、アルハッラージュは「我は同じようなものを作ることができる」と言ったという。
-預言者たちの魂はアルハッラージュの支持者や弟子たちに帰還した。それゆえ彼は支持者に対し、「お前はノーフ、お前はムーサー、お前はムハンマド」と名付けたという。
-処刑される際に支持者に向かって、「騒いではならない。我はお前たちのもとへ30日後に戻るであろう。」と言ったが戻らなかった。


《訳注2》ナムルードとは、「旧約聖書」の登場人物ニムロドのアラビア語名。「旧約聖書」ではノアの子の1人ハムの孫にあたり、地上で最初の勇士とされているが、イスラームの文脈では、ナムルードは預言者イブラーヒームさま(平安あれ)が生まれたころに世界を支配した王とされ、悪魔シャイターンにそそのかされて魔術や偶像崇拝を行っていた。ナムルードにまつわるエピソードは以下のとおり。
占いにより、王に最も近い男からイブラーヒームという者が生まれ、その男が王を破滅に導くとされたため、親族のうち子供が生まれそうな者たちをすべて殺したが、イブラーヒームさまは王の腹心である建築家の子として生まれた。預言者イブラーヒームさま(平安あれ)と神について論争した末、神を殺そうとして天に昇る。その方法は2本の長い棒を付けた球形の乗り物を作り、棒の先に肉塊を、さらに球形の本体に3日間餌を与えていない鷲4羽をつなぐというものだった。空腹の鷲は肉をめがけて飛び上がり、それによって乗り物も宙に浮いたが、途中天使と出会い、最下天にたどり着くまで500年、神のところへ行くにはこの天を7つ越えなければならないと言われて諦め、天に向けて矢を放った。天使が翼で乗り物を打ったためナムルードは海に墜落し、その衝撃のため髪も髭も真っ白になったが、ナムルードは預言者イブラーヒームさま(平安あれ)とその信徒たちに戦いを挑んだ。しかし、神が送ったブヨの大軍のためナムルードの軍隊は壊滅した。さらにブヨの1匹が鼻からナムルードの脳に入ったため、以後は苦しみのため寝ることも食べることもできなくなった。鉄の棒で頭をなぐると、ブヨはしばらく動きを止めたので、家来に定期的に頭を殴らせていたが、あるとき家来が強く打ちすぎたため頭蓋骨が割れて死亡したという。ファラオと並び、傲慢の限りを尽くして自滅した人間の代名詞。



【訳者のつぶやき】

「度を越すな。分をわきまえよ。」

この忠告とは今もそうですが、私はずっと葛藤してきました。

自分が率先してダアワ活動の先陣を仕切る(少なくともその気負いを抱く)のは、分不相応であると知りながらも、
自分の子や孫の代の日本語人ムスリムが胸を張ってダアワ活動に従事できるようになるには、たとえピエロのようであれ今がんばるおじさんが必要だろうと思うからです。
これが独りよがりな思い込みかつ幻想である場合はまさにピエロなわけですが、少なくとも私が上を見て抱く思いから当らずとも遠からじとは言えそうです。

アルハムドゥリッラー、日本にはスライマーン浜中先生が、ヤーセル小杉先生が、ハサン中田先生が、カマール奥田先生が、イブラーヒーム大久保先生らがいる。
でも当然ながらそれぞれのお仕事やご専門、あるいはご方針によってご活動の恩恵を享受できる人は限られてきます。
アッラーの道でのご奉仕を志す人たちは、お互いに補完しあう人たちであって、
至高にして完全無欠なアッラーや選ばれしラスールッラー(アッラーの祝福と平安あれ)ではないのだから、誰かがいればそれで十分ということはないはずです。

だからこそ、「お前も動かなきゃならんのだ!」

そのように自分を叱咤激励しております…。(論理の飛躍は、単細胞ゆえご勘弁ください)

皆さんどうぞ私が少しでも度を越え、分不相応なことをしでかしたときは遠慮なくお叱りください。(すでにしでかしているときは今すぐ!)


皆さんにアッラーのご加護と祝福を。
アブー・ハキーム