日本のイスラーム (Islam in Japan)

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アッラーの超越性について 『神助受けし明証』より

2010年02月22日 | ウラマーゥ(学者先生たち)に学ぶ
アッサラーム アライクム。
皆さんに平安あれ。

アハマド・アッリファーイー師(ヒジュラ歴578年/西暦1181年没、アッラーのお慈悲あれ)の
『アルブルハーン・アルムアイヤド(神助受けし明証)』より、
第3項目「至高のアッラーの超越性(タンズィーホッラーヒ タアーラー)」についての拙訳です。

             ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

慈愛あまねく慈悲深きアッラーの御名において
我らが主アッラーにこそすべての称讃あれ。
我らが指導者ムハンマドさまとそのご家族、ご教友全員に最高の祝福と平安がありますように。

筆者たるアハマド・アッリファーイー師(アッラーのお慈悲あれ)は、
『アルブルハーン・アルムアイヤド(神助受けし明証)』という著作の中で言われました。
願わくは至高のアッラーがかの先生を通して私たちにとって役立つものをお恵みくださいますように。
そして学びの友として共に学ぶ皆さんを通しても、役立つものをお恵みくださいますように。アーミーン。

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تنزيه الله سبحانه وتعالى
至高のアッラーの超越性

諸君、アッラーを生起するものの特徴や被造物の性質から遠ざけなさい。
至高なるかの御方の権利において
「イスティワーゥ(水平着座)」が意味するところの解釈を、
物体が物体に着座するといった
発生(フルール: 物質が空間を占拠すること)を必然とする
定着(イスティクラール)から諸君の信条を清めるのだ。
それから上や下、場所や手、身体器官としての目、
到来や移動としての降下といった言葉には、くれぐれも気をつけなさい。
上記を表面的に示すもので聖典とスンナに来たりしものはすべて
意図されしところを擁護する同様のものが聖典とスンナで言及されており、
残すは先達の中でも正しき人たちが言ったことに従うほかはない。
すなわち、それらすべての表面を信じ、
真意認識をアッラーとその御使いに戻すことであり、
同時に至高なる創始者を形容や生起の特徴から超越させることである。
イマームたちはそうした道を行ったのだ。
したがってアッラーが聖典にてご自分を表現されたものはすべて
その解釈はその読誦と沈黙であり、
至高のアッラーとその御使い以外にそれを解釈することは誰一人できないのである。

なお、比喩的表現は明確な断定表現(ムフカム)の基本に沿って理解することも
可能である。なぜならそれ(明確な断定表現)こそが聖典の基本であり、
比喩的表現は明確な断定表現に矛盾しないからである。

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それでは、皆さんにアッラーのご加護と祝福を。
アブー・ハキーム


比喩的表現について 『神助受けし明証』より

2010年02月19日 | ウラマーゥ(学者先生たち)に学ぶ
アッサラーム アライクム。
皆さんに平安あれ。

アハマド・アッリファーイー師(ヒジュラ歴578年/西暦1181年没、アッラーのお慈悲あれ)の
『アルブルハーン・アルムアイヤド(神助受けし明証)』より、
次の項目「比喩的表現(ムタシャービフ)」についての拙訳です。

             ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

慈愛あまねく慈悲深きアッラーの御名において
我らが主アッラーにこそすべての称讃あれ。
我らが指導者ムハンマドさまとそのご家族、
ご教友全員に最高の祝福と平安がありますように。

筆者たるアハマド・アッリファーイー師(アッラーのお慈悲あれ)は、
『アルブルハーン・アルムアイヤド(神助受けし明証)』という著作の中で言われました。
願わくは至高のアッラーがかの先生を通して
私たちにとって役立つものをお恵みくださいますように。
そして学びの友として共に学ぶ皆さんを通しても、役立つものをお恵みくださいますように。アーミーン。

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比喩的表現(ムタシャービフ)

 比喩的表現において諸君および責任能力ある者(ムカッラフ)すべてにとっての義務とは、
それがアッラーの御許よりかの御方のしもべにして我らが指導者たる
ラスールッラー(アッラーの祝福と平安あれ)に下されたものであるということを信じることである。
至高にして荘厳なるかの御方はその解釈を詳しく知ることを我々に課してはおられない。
その偉大さが崇高なものとなりし御方の仰せの通りである。
『その解釈を知るのは、アッラーのほかにはなく、知識の深い者たちは言う。
「我々はそれを信じます。すべて我らが主の御許からのものです。」と。』(第3・イムラーン家章7節)

 先人の中でもムッタクーン(アッラーを恐れ、自ら身を守ろうとする者たち)の道は、
その(比喩的表現の)字面(表面)が示すところより
至高のアッラーに似つかわしくないものを遠ざけ、
それが本当に意味するところを至高にして聖なる真理の御方に委ねることである。
これによってこそディーン(宗教)の平安があるのだ。

 神を知る人たちのうちある人が創造者にしてその御名の神聖なる御方について尋ねられた。
すると彼はこう答えたという。
 「そなたがもしかの御方の本質について尋ねたいのであれば、
かの御方に似たものは何一つない(ライサ カミスリヒ シャイウン)。
そなたがもしかの御方の属性について尋ねたいのであれば、
かの御方は唯一(アハド)にして誰もが必要とし
常に自らあり続ける御方(サマド)であり、
産みもしなければ、生まれもしない御方であり、
誰一人として等しいものなどいない御方である。
そなたがもしかの御方の御名について尋ねたいのであれば、
『かの御方こそはほかに神なきアッラーであり、
目に見えない世界と見える世界を熟知する御方にして、
かの御方こそは慈愛あまねく慈悲深き御方である。』(ハシュル章22節)。
そなたがもしかの御方の御業について尋ねたいのであれば、
『毎日かの御方は事にあらせられる
(訳注: アッラーの創造の御業は原始に一度きりではなく、
日々新たに繰り返されるの意。アッラーフ アァラム)。』(アッラハマーン章29節)。


وقد جمع إمامنا الشافعي، رضي الله عنه، جميع ما قيل في التوحيد بقوله

مَن انتهضَ لمعرفة مدبره، فانتهى إلى موجودٍ ينتهي إليه فكره فهو مُشبِّه
وإن إطمأن إلى العدم الصرف، فهو مُعطِّل
وإن اطمأن لموجود، واعترف بالعجز عن إدراكه فهو موحِّد

 我らがイマーム・アッシャーフィイー(アッラーのご満悦あれ)は
タウヒード(一化・純粋な唯一神信仰)について語られしものをすべてまとめて次のように言われている。
 曰く、「自らのムダッビル(計画者)を知ることから始めようとする者は、
自らの思考の限界にある存在で終わるためムシャッビフ(アッラーに類似物をあてがう偶像崇拝者)である。
完全な無に行き着くことで安心する者はムアッティル(怠惰な者)であり、
実在者に安心し、その御方を理解し切ることは不可能だと認める者はムワッヒド(唯一の神にのみ仕える者)である。」

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スブハーナッラー、このイマーム・シャーフィイーのお言葉は
私の力量では訳すのが難しいです。
含蓄に富むお言葉であることはわかりますが、なんとなく感じられるのは、
三通りの人を描く中で、最初の人は自らの知識や思考に頼りすぎて、
アッラーがどんな御方かを考え抜くことで知り得ると思い込んでしまう人を指し
(そうすると人は何かに譬えないと理解できないので、
超越されたアッラーまでもこの世のモノに譬えてしまうといった偶像崇拝を犯してしまうことになる)、
真ん中の人は日本仏教に例えれば思索・問答の末に禅哲学が「無」に辿りついたように
結局はその先を見ずに思考放棄してしまう、「自力で終わる人」を指し、
最後の人は自分で考えられるまでは考えるといった自助努力によって実在者を認知するまでは辿りつけたけど、
その御方を完全に把握して理解し切ることは限界ある己には無理だからと委ねる、
「他力に救いを見出す人」を指しているような気がします。
アッラーフ アァラム。

皆さんはどんな受けとめ方をなされるでしょうか。


それでは、皆さんにアッラーのご加護と祝福を。
アブー・ハキーム


「ズフド(自制)とは?」 アハマド・アッリファーイー師の『神助受けし明証』より 

2010年02月18日 | ウラマーゥ(学者先生たち)に学ぶ
アッサラーム アライクム。
皆さんに平安あれ。

本日は【ウラマーゥ(学者先生たち)に学ぶ】から
『アルブルハーン・アルムアイヤド(神助受けし明証)』拙訳を一部ご紹介いたします。

これはヒジュラ歴578年(西暦1181年)に亡くなられた、
イラク出身のアハル・ル・バイト(預言者ムハンマドさまのご家族)かつ大学者、
イマーム・アハマド・アッリファーイーの著作として知られるものです。

ダマスカス留学時代の後期にムハンマド・タウフィーク・アルブーティー博士(ムハンマド・サイード・ラマダーン・アルブーティー博士のご子息)が
マスジドで講義してくださった日々が懐かしく、また各項目も比較的短めなため、
これなら私にも少しずつ訳せるかもと思ってこの本を選びました。

念のために申し上げておきますが、私は決してリファーイー教団の回し者ではありませんし、日本でタリーカを広めるつもりは毛頭ありません。
ただ願わくはスーフィーと呼ばれる先達が(似非スーフィーではなく本物であれば)いかにまともで
むしろ私たちムスリム皆が見習うべき道を歩んでおられたかの一端を少しでもご紹介できたらと思っております。

では、前置きはこれぐらいで。一回の訳文は短いですが、気長にお付き合いください。

           ☆   ☆   ☆   ☆   ☆


慈愛あまねく慈悲深きアッラーの御名において
我らが主アッラーにこそすべての称讃あれ。
我らが指導者ムハンマドさまとそのご家族、ご教友全員に最高の祝福と平安がありますように。

筆者たるアハマド・アッリファーイー師(アッラーのお慈悲あれ)は、『アルブルハーン・アルムアイヤド(神助受けし明証)』という著作の中で言われました。
願わくは至高のアッラーがかの先生を通して私たちにとって役立つものをお恵みくださいますように。
そして学びの友として共に学ぶ皆さんを通しても、役立つものをお恵みくださいますように。アーミーン(そうありますように)

↑これは古来よりイスラーム学のキブラとされしシャーム(狭義ではダマスカス、広義ではシリア地方)で教わった伝統的な学習スタイルで、
勉強会にてテキストとする書物を読む前に至高のアッラーへ捧げる祈りとなっています。
無論これはいわゆるアダブ(礼儀)とされるもので、義務ではないですので誤解なされませんように。


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慈愛あまねく慈悲深きアッラーの御名において

アッラーに讃えあれ。かの御方の本質に相応しき称讃を十分満足されるほどに。祝福と平安がかの御方の創られしものたちの指導者にありますように。
ご教友やご家族、そしてシャリーアとハールの徒(表面的にも内面的にもイスラームの教えに則ろうとする人たち)として彼ら先達に従った者たちアッラーのご満悦がありますように。
さらには私たちおよびアッラーの敬虔なしもべたち皆に平安がありますように。


ズフド(自制)、ニーヤ(意思)の解放、内面の純化


諸君、自制こそ至高のアッラーを目指す者たちの最初の一歩である。
その基本はタクワーであり、それはアッラーを恐れることであり、英知の頂に掲げられるものである。
そしてそれらすべてを集約するもの、それこそは霊魂の先導師かつ高貴なる指導者であるラスールッラー(アッラーの御使い)~アッラーの祝福と平安あれ~によく従うことなのである。

従順の道はじめは、「まことに行いはすべて気持ち次第である」とのお言葉(訳注:ハディース 教友ウマル・ブン・アルハッターブに遡るイマーム・アルブハーリーとムスリムの伝承)の実践として、良き模範を示すことである。
ラスールッラー(アッラーの祝福と平安あれ)がある人にどのように言われたかを思い返されるがよい。

「アッラーの使徒よ、この世の利益を求めつつジハードを望む人はいかがでしょうか。」とその人が尋ねたところ、
ラスールッラー(アッラーの祝福と平安あれ)は、『その人に報奨はありません。』とお答えなされた。
人々はどよめき、「アッラーの使徒さま(アッラーの祝福と平安あれ)のもとへ戻って(もう一度尋ねて)ください。きっとあなたは誤解したのでしょう。」と言った。
その人が(戻って)、「アッラーの使徒よ、この世の利益を求めつつ、アッラーの道におけるジハードを望む人はいかがでしょうか。」と言ったところ、
ラスールッラー(アッラーの祝福と平安あれ)は、『その人に報奨はありません。』とお答えなされた。
また人々はどよめき、「アッラーの使徒さま(アッラーの祝福と平安あれ)のもとへ戻って(もう一度尋ねて)ください。」と言った。
その人が(戻って)、「アッラーの使徒よ、この世の利益を求めつつ、アッラーの道におけるジハードを望む人はいかがでしょうか。」と三度目の質問をしたところ、
ラスールッラー(アッラーの祝福と平安あれ)は、『その人に報奨はありません。』とお答えなされた。
これは信頼に足る伝承者たちが伝え、正しき伝承と判断したものである。
(訳注: ハディース 教友アブー・フライラさまに遡るものとしてイマーム・アハマドとアブー・ダーウード、アルハーキムが伝承)

この話や類似のものから我々が知り得るのは、行いの結果は気持ちによって美しくも醜くもなるということである。
だからアッラーとは善なる意思でもって接しなさい。
そして動の状態にあっても静の状態にあってもかの御方を恐れてお怒りをこうむらないように自らの身を守りなさい。
それから聖典(クルアーン)とスンナの中にある、比喩的で幾重にも解釈しうる表現(ムタシャービフ)の字面ばかりにこだわることから、諸君の信条を守るのだ。
なぜならそれこそが不信仰(クフル)の根源の一つだからである。至高なる御方は、このように仰せられている。
『ところが心中に曲がった邪な思いを抱く者たちは、フィトナ(騒乱)を求め、解釈を求めてその(クルアーンの)中の比喩的なものに付き従おうとする。』(第3・イムラーン家章第7節)



富山での日帰り出張講義のご報告(2月6日)

2010年02月09日 | イスラーム講義活動(ボランティア)
アッサラーム アライクム。
皆さんに平安あれ。

アルハムドゥリッラー、先週の土曜日、雪のため一時は行けなくなってしまうかもと懸念された
富山への日帰り出張講義を無事果たすことができましたので簡単にご報告いたします。

日時: 2010年2月6日/H.1431サファル月22日土曜日

場所: 富山県射水市「インターナショナル・イスラミック・スクール」

講義時間:14時20分ごろから礼拝をはさんで17時前まで

講義内容:
【子ども向け】
「なんでイスラームなの?」 
クイズ等を含めて約40分

【大人向け】
「イスラームを子どもたち、次の世代にどうやって伝えていけばよいのか」

講義約30分、質疑応答約70分

参加人数:
子ども→約25名(ほとんどが父親は南アジア出身で母親は日本出身のダブル)
男性→約35名(全員がパキスタンやインドといった南アジア出身者)
女性→約15名(うち5名ほど日本人ムスリマ)

2007年の何月でしたか、確か秋9月か10月にも富山を訪れましたが、
そのときはイスラミック・サークル・オブ・ジャパン協賛ではなく、
サークル・メンバーの友人に助けていただきながら主に日本人ムスリマの姉妹に手配していただいたためか、
男性陣の参加はほとんど得られず、こじんまりとした勉強会でした。
それに比べると(とはいっても決して前回セッティングしてくださった方々を非難したり、悪く言ったりする気は毛頭なく、心から感謝しております。
むしろ「根回し」の大切さを自覚していなかった私自身に苦笑しています)今回の訪問はサークル関係者もタブリーグ関係者もそのどちらとも直接係わっていない人たちも、
富山のムスリム同胞皆が(特に長期滞在者や日本の家族を持つ人たち)歓迎してくれた観がありました。

私も三児の父として大いに共感するところですが、皆さんやはり子どもたちへの教育に腐心しておられるようで、
特にお父さんたちは日本語を母語としない言葉の不自由さを嘆きながら、本当に藁をも掴む思いで私のような者に助言を求めてきました。
中には、そうした言葉の不自由さや仕事で辛い思いをしながらも家族にはそれを見せまいと努力してきたけど、奥さんとの距離が開く中で息子との距離も開いてしまい、
でもきちんとイスラームを伝えたいという気持ちは強くなるばかりといった想いを「代弁してほしい」というお願いもあり、
私自身が思春期のころ父親にどんな気持ちを抱いていてその後どう思うようになったかを絡めながら、涙ながらにお答えしたりと、私の目には皆で一体感を感じられるよい集いになったと映りました。
(女性陣には声がほとんど届いていなかったということを後から知り、とても残念に思いましたが、これは次回の課題としたいと思います)

以上、ご報告まで。
末尾ながら、今回富山で援助、参加してくださったすべての皆さんに、心からお礼申し上げたいと思います。
ジャザークムッラーフ ハイラン!アッラーの素晴らしき報奨が皆さんにありますように!