日本のイスラーム (Islam in Japan)

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日本でのイスラーム学習、イスラーム教育の充実を目指すブログです。

正道を望む者たちの書(試訳第2回) Risaalah Al-Mustarshideen

2011年10月25日 | ウラマーゥ(学者先生たち)に学ぶ

 

وخف اللهَ في دينك، وارجُهُ في جميع أمورك، واصبر على ما أصابك،

قال علي رضي الله عنه: لا تخف إلا ذنبك، ولا ترجُ إلا ربّك،

ولا يستح الذي لا يعلم أن يسأل حتى يعلم،

ولا يستح من يُسأل عما لا يعلم أن يقول: لا أعلم.

    

お前の宗教(信仰生活)において、アッラーを恐れよ。

万事において、かの御方を願い、お前に降りかかった災難を耐え忍べ。

アリー(アッラーのご満悦あれ)は言った。

「そなたの罪のほか恐れてはならない。

そなたの主のほかに願ってはならない。

知らない者はわかるようになるまで聞くことを恥じてはならない。

そして知らないことを尋ねられた者は、

『私は知りません』と答えることを恥じてはならない。」

 

واعلم أنّ الصبر من الإيمان بمنزلة الرأس من الجسد، فإذا قطع الرأس ذهب الجسد كلّه.

فإذا سمعت كلمة تغضبك في عرضك فاعف واصفح، فإنّ ذلك من عزم الأمور،

قال عمر بن الخطاب رضي الله عنه: من خاف الله لم يَشْفِ غيظَه،

ومن اتقاه لم يصنع ما يريد، ولو لا يوم القيامة لكان غيرَ ما ترون.

   

そして知るがよい。

信仰のうちの忍耐は、身体のうちの頭に位置づけられるものであるということを。

それゆえ頭が切られてしまっては、身体全体も台無しとなってしまう。

よってもしお前の名誉を汚すような腹立たしい言葉を聞いたとしても、

赦し、水に流してやるがよい。それこそ立派な行いの一つである。

ウマル・ブン・アルハッターブ(アッラーのご満悦あれ)は言った。

「アッラーを恐れる者は、怒りにまかせることはなく、

かの御方を恐れてそのお怒りに触れまいと善行で己の身を守ろうとする者は、

己が欲するものをすることはない。

もし万一審判の日がなかったならば、

(この世界は)お前たちの見知っている(良心の残った秩序ある)ものとは

異なって(弱肉強食の無法地帯となって)いただろう。」

 


写真で綴る第61回行徳ムスリムファミリー週末学校(61st Weekend School)

2011年10月22日 | イスラーム教育

アッサラーム アライクム。皆さんに平安がありますように。

先日2011年10年16日(日)開催の第61回行徳ムスリムファミリー週末学校の模様を

ざっと写真で綴ります。

Assalaamu 'Alaykum, my dear and respected brothers and sisters,

Here are some photos taken at the occasion of

our 61st Gyotoku Muslim Family Weekend School which was held on Sunday,

October 16, 2011.

 

 Seerah class 預言者伝の授業

Acting one episode of Sayyidunaa Az-Zubair

bun Al-'Awwaam (May Allah be pleased with him)

 アッズバイル・ブン・アルアウワームさま(アッラーのご満悦あれ)のエピソードを

女の子たちがミニ演劇

Boys acting

男の子たちも 

 

 これは二人を見てくれていたMさんの趣味でしょうか?(笑)

Seerah class 預言者伝の授業

Another episode of Sayyidunaa Az-Zubair

bun Al-'Awwaam (May Allah be pleased with him)

アッズバイル・ブン・アルアウワームさま(アッラーのご満悦あれ)のもう一つのエピソードを

息子が熱演?(いじめているわけではありません)

 


正道を望む者たちの書(試訳第1回) Risaalah Al-Mustarshideen

2011年10月19日 | ウラマーゥ(学者先生たち)に学ぶ

『リサーラ・アルムスタルシディーン(正道を望む者たちの書)

イマーム・アルハーリス・アルムハースィビー(H.243)

 

 

慈愛あまねく慈悲深きアッラーの御名において

 

アブー・アブドッラー・アルハーリス・ブン・アサド・アルムハースィビー(アッラーのお慈悲あれ)は言った。

最初(アルアウワル)にして時を越え古き御方(アルカディーム)、唯一(アルワーヒド)にして荘厳なる御方(アルジャリール)、似たものも類するものもなき御方、アッラーにこそすべての称讃あれ。かの御方の御恵みに報い、その恵みの数々がおよぶところに達するほどの称讃でもって私はかの御方を讃えよう。

そして私は証言する。アッラーのほかに神はなく、かの御方は唯一にして並ぶものなき御方であるということを、かの御方こそが主であることを知る者かつかの御方はあくまでも唯一であることを知る者の証言で。さらに私は証言する。ムハンマドがかの御方のしもべかつ使徒であり、啓示のために選び抜かれ、数々の預言者の封緘とされ、生きとし生けるものすべてに対する証とされたお人であるということを。『それは死にゆく者を明らかな証によって死なせ、生き長らえる者を明らかな証によって生き長らえさせるためである。まことにアッラーはすべてを聞き、すべてを知る御方』(8戦利品(アンファール)章第42)

 

さて、知るがよい。威厳かつ荘厳さに満ちたアッラーはそのしもべたちの中でも「思慮のある信徒たち」、「かの御方を知り、そしてかの御方の命を知る者たち」を選び抜かれ、忠誠さ、高い仁徳、恐怖と畏怖で描きながら、威厳に満ちいと高くおわすかの御方は仰せられている。『思慮ある者だけが、訓戒を受け入れることができよう。それはアッラーの約束を守り、契約に違反することなき者たちで、結ばれるようアッラーが命じられる者とつながり、己の主を畏れ、悪しき清算を恐れる者たちである。』(13雷電(ラアド)章第19-21)

 

よってアッラーがその胸を信仰へと広げてくださり、信じて疑念なく受け入れる気持ち(タスディーク)が自らの心へと達し、かの御方へ近づくための手段(ワスィーラ)を欲するようになった者には、至高のアッラーの書とかの御方の預言者の道(スンナ)‐祝福と平安あれ‐かつ指導者(イマーム)たちのうち正しく導かれた者たちが合意するシャリーア(イスラームの教え)の枠組みをわきまえながら、思慮ある者たちの道(ミンハージュ・ザウィ・ル・アルバーブ)が不可欠である。

これこそがまっすぐな道であり、威厳と尊厳に満ちたかの御方御自らが、『本当にこれこそわたしの正しい道。それに従うのです。ほかの様々な道に従ってはなりません。それらはかの御方の道からあなたたちを離れ離れにさせるでしょう。このようにかの御方は命じられます。きっとあなたたちも恐れ畏むでしょう。』(6家畜(アンアーム)章第153)との言葉でそのしもべたちをいざなわれたものである。

 

アッラーの御使い(アッラーの祝福と平安あれ)も言われている。

「皆さんは私の道、そして私の後正しく導かれし後継者たちの道を大切にしなさい。奥歯で噛みついてでもです。」(イマーム・アハマド、アッティルミズィー、イブヌ・マージャが教友アルイルバード・ブン・サーリヤ・アッスラミー(アッラーのご満悦あれ)の伝えるハディースとして伝承)

 

 そして知るがよい。アッラーの書が義務づけるものとは、命令と禁止といったその定めを実践し、その警告を恐れ、その約束を期待し、その比喩を信じ、その物語と例えを考慮することであると。もしそれらを果たしたならば、無知の闇から知の光へ、疑念の懲罰から確信の魂へと抜け出せるであろう。語るに荘厳なアッラーは仰せられている。『アッラーこそ信じる者たちの友であり、暗闇から光へと導き出される御方。』(2:257)

 

    そうしたことにおいて際立ち、意欲をもって臨む者たち、それはアッラーについて理解する理性の人たちに他ならない。すなわち表面的なことを制御し、疑わしいものからは身を遠ざける者たちである。アッラーの御使い(アッラーの祝福と平安あれ)は、「ハラール(許されたもの)は明らかであり、ハラーム(禁じられたもの)も明らかだが、その間には曖昧なものがある」と言われている。それを放っておくことは、得ることよりも素晴らしいのだ。

 

ニーヤ(心持ち)を見極めよ。そして本望を知るのだ。報われるのは、あくまでも気持ち次第である。アッラーの御使い(アッラーの祝福と平安あれ)は言われている。「まことにあらゆる行いは心持ち次第である。すべての人は、自らが意図したものを得るだろう。」

 

タクワッラー(アッラーの畏れ)を常とせよ。ムスリムはムスリム皆がその人の舌先と手から安全でいられる者であり、ムゥミンとは人々がその人の害から安んじていられる人だからである。アブー・バクル・アッスィッディーク(アッラーのご満悦あれ)は言った。「アッラーを畏れよ、かの御方に忠実であることで。アッラーに従え、かの御方を畏れることで。ムスリムたちの命からは己の手を、財産からは己の欲を、名誉からは己の口を遮るのだ。」

 

思うたびに、自分を省みよ。

息を吐くたびに、アッラーに見られていることを自覚せよ。

ウマル(アッラーの祝福と平安あれ)は言った。

「裁かれる前に、自らを裁け。(行いを天秤に)量られる前に量れ。お前たちの秘密も何一つ隠し通すことのできない日、最大の見せ場(審判の日)のために、しかと着飾るがよい。」

 


第60回イスラーム週末学校(60th Weekend School in Gyotoku)

2011年10月10日 | イスラーム教育

クルアーン読誦と理解の授業

Class of Reciting Qur'an and mini Tafseer

درس في تلاوة القرآن وتفسيره الميسر

アッサラーム アライクム。

皆さんに平安がありますように。

アルハムドゥリッラー、アッラーの御恵みにより、第60回目を数える行徳ムスリム・ファミリー週末学校を

2011年10月9日(日)午前中に開催することができました。

前回先週より新しい仲間が二家族加わり、さらに賑やかになりました。

まさに驚くべきはインドネシア―日本ファミリーのバラカ(祝福)でしょう♪

間にICOJ(イスラミック・サークル・オブ・ジャパン)の日帰りタルビヤ学校が入ったのと(9/18)、

私の上福で二週間空く前の第58回週末学校より参加してくれるようになった

インドネシア日本ファミリーが二家族あり、おそらくその家族の口コミなのでしょう。

二週間ぶりの再開となった前回はびっくり!

今回数えてみたら、就学児だけで男子10名、女子8名、未就学児8名、父母8名でした!(@_@)

しかも嬉しいのはそのうちの一家族がお父さん(日本人ムスリム)同伴だということです♪

アルハムドゥリッラー、日本のイスラームの未来は明るいかもしれません(^.^)

Assalaamu 'Alaykum.

Alhamdu lillaah, by the Grace of Merciful Allah, we had our 60th Gyotoku Muslim Family Weekend School on Sunday, 2011 October 9.

Subhaana-llaah, how wonderful Indonesian-Japanese Muslim families are!
Probably those new families who started to join us since last time
talked about the school to their friends and some of their friends actually came!
We got 2 more Indonesian - Japanese Muslim families and increased the numbers of students (just students over the age of primary school) up to 18 (10 boys and 8 girls)! Plus, 8 kids under the age of school and 8 parents (fathers or mothers)!
Besides, what made me happier is that one of two new comers were with the attendance of a Muslim Japanese FATHER! Maa shaa Allah, Alhamdu lillaah!
It makes me feel that we can be somehow optimistic to the future of Islam in Japan, In shaa Allah.
 

 

今回のクルアーン読誦は前回に引き続きクルアーン第110(アンナスル/援助)章

別名「別れの章」と呼ばれる本章がどうしてそう呼ばれるのかを

「人々が群れをなしてイスラームへと入っていく、すなわち入信するようになるのを見たならば・・・」

と身振り手振りで解説しているところ。

Explaing to the children how this chapter (Surah An-Nasr) is called (Farewell)

 

2つ目の授業はお話の読み聞かせ。今回は「フラワー」という美しいお花を見て感じるアッラーの恵みから

身の回りのさまざまなものへ目を向け、その与え主、恵み主アッラーに感謝の気持ちを広げていくというお話を読んでくれました。

Second class was story listening - Sister in charge chosed the book of "Flower" from Islamic stories 

 

イバーダ(信仰行為―信仰実践)の授業

今回は食後のドゥアー(祈り)

アルハムドゥリッラーヒ・ッラズィー アトアマナー ワ サカーナー 

ワ ジャアラナー ムスリミーン

私たちに食べさせてくださり、飲ませてくださり、

そして私たちをムスリムにしてくださったアッラーにこそ讃えあれ。

Class of 'Ibaadah

We learned the Du'aa after eating;

"Alhamdu lillaahi-lladhee At'amanaa wa Saqaanaa wa-ja'alanaa Muslimeen."

 

預言者伝の授業

イスラーム史上初のムアッズィン(礼拝告知のアザーンをする人)、

ビラールさま(アッラーのご満悦あれ)のエピソードを演じるにあたり、

その元主人ウマイヤ役と併せて説明しているところ。

Class of Seerah Nabaweeyah

Explaining the roles to act as Sayyidunaa Bilaal (R.A.) and his ex-master Umayyah

 

 どんな責め苦を受けようとも、ただひたすらに

「アハドゥン アハド(唯一なる御方、唯一なる御方)」

No matter what pain he was made to feel,

"Ahadun Ahad, the One, the One"

that's all what he was keep saying...

 

ハディースの授業

今回はアルブハーリーがアナス・ブン・マーリクさま(アッラーのご満悦あれ)によるハディースとして伝えるもの。

預言者ムハンマドさま(アッラーの祝福と平安あれ)曰く、

「(物事は)かんたんにして難しくしてはなりません。そして(人を惹きつけるような)喜ばしいことを伝え、遠ざけるようなことをしてはなりません。」

 

Hadeeth Class

"Yassiruu wa laa Tu'assiruu wa Basshiruu wa laa Tunaffiruu"

"Make things easy and don't make it complicated,

as well as tell the glad tidings and don't make people away and distant"

(Reported by Imam Al-Bukhaariy on the authority of Sayyidunaa Anas bun Maalik (R.A.)