散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

3月15日 ハッブルが「ハッブルの法則」を発表(1929年)

2024-03-15 03:17:41 | 日記
2024年3月15日(金)

> 1929年、アメリカの天文学者エドウィン・ハッブルは、米国科学アカデミー会報に「銀河の後退速度は、地球からの距離に比例して増加する」というハッブルの法則を発表した。宇宙の膨張の可能性を示唆したのである。
 ハッブルはその6年前、ウィルソン山に設置された大望遠鏡で、赤方偏移(光のドップラー効果)を用いてアンドロメダ星雲までの距離を測定した。その結果、「アンドロメダ星雲は我々の銀河とは別の銀河で、しかも地球から遠ざかりつつある」という驚くべき事実がわかった。
 ハッブルは次々に銀河を観測し、そのほとんどが遠ざかりつつあり、しかも遠い銀河ほど大きな速度で遠ざかっていると言うことを確認した
 これによって導き出される結論が「ハッブルの法則」だった。アインシュタインが一般相対性理論を用いて宇宙モデルを考えたとき、「宇宙項」を挿入してわざわざ宇宙を不変であるとしたのは有名な話だ。しかしハッブルの発見によって、宇宙は不変ではなく膨張しているという可能性がはっきりと示されたのである。なお、1990年、NASAによって地球の周回軌道に打ち上げられた大望遠鏡には、ハッブルの名が冠せられている。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.80

Edwin Powell Hubble
(1889年11月20日 - 1953年9月28日)

 業績も業績だが、この人の人生が興味深い。Wikipedia の「経歴」欄をそのまま転記する。
***
 1889年11月20日、ミズーリ州マーシュフィールドで保険会社役員の家に生まれる。1898年にイリノイ州ウィートンに移る。若い頃は学問よりもスポーツの才能で知られていた。1906年に行なわれた高校の大会の7種目で1位、1種目で3位を獲得した。この年には走り高跳びでイリノイ州の州記録も作っている。
 シカゴ大学に入学、有名な物理学者ロバート・ミリカンなどの影響を受けた。大学でもヘビーウエイト級のボクサーとして有名で、あるプロモーターは世界チャンピオンのジャック・ジョンソンと戦ったらどうかと勧めたほどであった。学部では数学と天文学を主に学んで1910年に卒業。続く3年間、ハッブルはイギリス・オックスフォード大学の初代ローズ奨学生の一人に選ばれて法学を学び、修士号を取得した。オックスフォード時代にも大学対抗のトラック競技に出場したり、フランスのチャンピオンとボクシングの試合をしたりしていた。その後アメリカに戻り、法律事務所に勤めたり、インディアナ州ニューアルバニーで高校の教員やバスケットボールのコーチをしていた。
 第一次世界大戦が始まると軍隊に入隊し、間もなく少佐となった。戦争が終わるとシカゴ大学のヤーキス天文台で天文学の研究に戻り、1917年に博士号を取得した。1919年にハッブルは、ジョージ・ヘールからウィルソン山天文台職員の職を紹介され、その後の一生をこの天文台で過ごした。1938年、ブルース・メダルを授与される。1940年、王立天文学会ゴールドメダルを授与される。
 第二次世界大戦の間はやはりアメリカ陸軍に入隊した。1946年、「弾道学の研究での優れた貢献」に対してメリット勲章を授与される。ハッブルの死の4年前の1949年にはパロマー天文台の200インチヘール望遠鏡が完成し、ハッブルはこの望遠鏡の最初の利用者となった。
 1953年9月28日、心不全のためカリフォルニア州サンマリノで没した。妻のグレースは葬儀を行わず、遺体の埋葬先についても決して明かさなかった。これは、葬儀をせず、墓標のない墓に埋葬するようにというハッブルの希望によるものとみられている。現在でも、ハッブルの遺体の所在は不明となっている。
 LIFE誌が1999年に選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれている。

 ハッブルはノーベル賞を受賞していない。1953年の物理学賞の候補に上がっていたが、他界したため間に合わなかったということらしい。
 墓標を遺さぬよう、足早に旅立ったようにも思われる。

Ω