散日拾遺

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3月29日 ベートーベンの葬儀にシューベルトが列席(1827年)

2024-03-29 03:10:23 | 日記
2024年3月29日(金)

> 1827年3月29日、オーストリアの作曲家フランツ・シューベルトは、尊敬するベートーヴェンの葬儀に、棺の周りで松明を掲げる38人の中の一人として列席した。葬儀の後数人で居酒屋に行き、故人を偲び、ワインで乾杯したという。この時のシューベルトの暗示的な乾杯の言葉が伝えられている。「われらの中で最初にベートーヴェンに続く者のために!」。
 翌年11月19日、シューベルトは腸チフスのため三十一歳のあまりにも短い生涯を閉じることになるのである。シューベルトの亡骸は彼の希望通り、ベートーベンの隣に埋葬された。
 シューベルトは生涯に交響曲八曲を含むおよそ千曲の作品を残している。現存する最も古い曲は十三歳の時の作品である。十五歳からサリエリのレッスンを受け、十七歳で父親の営む学校の助教員となるが、あまりにも作曲への熱が強すぎて教員生活は長くは続かなかった。次々と浮かぶ楽想を書きとめるために、夜寝る時も眼鏡をかけたまま、枕辺には五線譜を置いていたという。
 彼の生活を支えていたのは友人たちであった。住居、食物、そして大量の五線紙をシューベルトに与え、天才が作曲に専念できるよう援助してくれた。こうして次々と出来上がる曲を、彼らはサロンコンサートで楽しんだのである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.94

Franz Peter Schubert
1797年1月31日 - 1828年11月19日

 先にメンデルスゾーンが満38歳で他界したことを見たが、モーツァルトは35歳、シューベルトは31歳である。その生き急ぎ方を見ると、彼らは自分に与えられている時間が分かっていたのではないかと思われてくる。
 一方、上掲の簡単な記述の中で、まったく違う意味で強く注意を引かれる人物がサリエリである。

Antonio Salieri
1750年8月18日 - 1825年5月7日

 映画『アマデウス』での敵役ぶりが、マーリー・エイブラハムの名演技もあって歴史的事実であるかに思われてしまうが、現実のサリエリは凡庸でもなければ悪人でもなかった。むしろモーツァルトの方が、才気と若さにまかせて面倒の種をふりまいた形跡がある。
 オーストリア宮廷楽長として楽壇に君臨したなどはむしろどうでもよいことで、教育者としてベートーヴェン、シューベルト、リストらを育てたとあっては、音楽史における殊勲は燦然として隠れもない。これら恐るべき麒麟児らをどんなふうに指導したのか、こわごわ見てみたかったものだった。

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