散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

3月14日 戸川幸夫の持ち帰った猫の毛皮がイリオモテヤマネコと認定される(1965)

2024-03-14 03:13:49 | 日記
2024年3月14日(木)

> 1965年(昭和40年)3月14日、日本哺乳動物学会の例会で、西表島で発見された猫の二枚の毛皮と頭骨の標本が、今まで知られていない種類の山猫のものであると認定された。20世紀半ば、未到の地などほとんどない日本でのこの発見は、まさに奇跡的であった。
 発見者戸川幸夫は、動物文学で知られる作家である。取材のために石垣島に向かう途中、那覇で琉球大学農学部教授の高良哲夫に会い、かねて興味を持っていたヤマネコが西表島に生息している可能性があることを知る。
 高良教授のもとには、山猫に関する情報と、後には毛皮が集まるのだが、当時は沖縄も西表島も石垣島もアメリカの統治領だったため、自由に調査に入ることができなかった。戸川も限られた時間内に苦労して山猫を探索し、1965年2月、地域の協力を得て毛皮と頭骨を持ち帰ったのである。
 1967年には、生きているイリオモテヤマネコが捕獲された。雄雌二匹の山猫は国立科学博物館で飼育されることになるが、受け入れ態勢が整うまでの間、戸川宅で保護された。日本哺乳動物学会の今泉博士はこの猫をまったくの新種として報告したが、現在ではDNA鑑定の結果、ベンガルヤマネコに近い種とされているようだ 。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.79


イリオモテヤマネコの発見と戸川幸夫 

 戸川幸夫:1912年(明治45年)4月15日 - 2004年(平成16年)5月1日
 日本の小説家、児童文学作家。動物に関する正しい観察・知識をもとに動物文学を確立させ、日本においては椋鳩十と並ぶ第一人者。

 そうそうそう!と身を乗り出すところ、しかしイリオモテヤマネコの発見に寄与したとは知らなかった。
 もともと佐賀の生まれとあるのが意外で、てっきり東京の人と思っていた。というのも、下掲書に面白い話が載っているからである。


戸川幸夫『イヌ・ネコ・ネズミ: 彼らはヒトとどう暮してきたか』中公新書 1036(1991)

 なんでも戸川氏が10代の少年だった頃、飼っていた犬を連れて夜の散歩に出かけたことがあった。畑や雑木林の間の、シンと静まりかえった真っ暗な夜道。人影さらになく、さすがに心細くなってくる。
 と、突然、犬が何かに怯えて地べたに這いつくばったかと思うと、一目散に駆け出してしまった。戸川少年、ぎょっとして辺りを見回すと、
 「出た!」
 青白い燐光に包まれた幽霊がふわふわと闇に浮かんで…
 このあたりの正確な描写は記憶にないが、ともかく肝を潰して逃げ帰ると、一足先に戻っていた愛犬が申し訳なさそうにすごすご近寄ってくる。
 ポカリと一発、「飼い主を置いて自分だけ逃げ出す犬があるかっ」と、お怒りごもっともである。
 60年以上経って記された逸話のポイントは、犬も人並みに幽霊が恐いのだろうかという点にあったのだが、読んだこちらは別のことに「へぇ」と目を丸くした。その夜の舞台が「柿ノ木坂」だというのである。
 現在は東京都目黒区柿の木坂、環状七号線と目黒通りが交差する小高い丘から駒沢方向に広がる住宅街で、我が教会の在所でもある。目黒・世田谷がもともと田舎なのは承知しているが、1920年代に、これほどのどかだったとは。
 そのことがあるので、戸川幸夫氏は近辺の御出身と決め込んでいた。年譜を見れば「父の仕事の都合で東京に移り、私立高千穂中学を卒業」とある。それで話がつながった。

 椋鳩十に戸川幸夫、この国に生きてくれて良かったと素直にありがたい人々である。

椋 鳩十(むく はとじゅう)
1905年1月22日 - 1987年12月27日
 
Ω