散日拾遺

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3月1日 溥儀 満州国の帝位につく(1934年)

2024-03-01 03:37:00 | 日記
2024年3月1日(金)
 
> 1934年3月一日、愛新覚羅溥儀は満州国の帝位についた。
 皇帝になるべく生まれついたために、溥儀ほど一生翻弄された人物も珍しい。溥儀は三歳の時に、西太后の死去に伴い、清朝最後の皇帝として即位する。しかし、四年後の辛亥革命によって、あっという間に退位した。この後、中華民国を樹立した袁世凱との取り決めで、紫禁城に留まったまま、大清皇帝の尊号を名乗ることになる。
 1924年。今度は憑玉祥のクーデターによって紫禁城を追われ、翌年天津の日本租界で匿われる。ここで日本から進攻した関東軍と関係が深くなり、満州事変の後、満州国が設立されると、傀儡政権の皇帝として帝位につくのである。満州国が設立されたのは1932年3月1日だった。そして2年後の同じく3月1日に溥儀は満州国皇帝、康徳帝となった。二度目の皇帝即位である。
 しかし、皇帝とは名ばかりで、何を決めるにも関東軍幹部の承認を必要とする、あからさまな傀儡政権であった。終戦によって、溥儀は自ら満州帝国解体を宣言し、皇帝の位を退いた。
 中華人民共和国の設立後は、再教育を受けた後、一般人として生活したが、文化大革命時に元皇帝であることから癌の治療を受けられず、亡くなった。まさに歴史に翻弄された人生であった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.66

 

愛新覚羅 溥儀
満洲語:ᠠᡞᠰᡞᠨ ᡤᡞᠣᠷᠣ ᡦᡠ ᡞ、転写:aisin gioro pu i
(1906年2月7日 - 1967年10月17日)、清の第12代にして最後の皇帝(在位:1908年12月2日 - 1912年2月12日)、後に満洲国執政(1932年3月9日 - 1934年3月1日)、満洲国皇帝(在位:1934年3月1日 - 1945年8月18日)。1960年から中華人民共和国中国人民政治協商会議(政協)文史研究委員会専門委員、1964年から政協全国委員を兼任。 
 中国の歴史上、離婚歴を持つ唯一の皇帝である。 また、唯一火葬された皇帝のため「火龍(龍は皇帝を指す)」とも呼ばれる。

 溥儀が歴史にとことん翻弄されたことは事実だが、しかし歴史の荒波に受動的に流されただけの人物ではなかった。
 溥儀の善良で優れた素質に目を留め、これを伸ばしたのはイギリス人レジナルド・ジョンストンである。溥儀はわずか2歳で清国皇帝として即位させられたが、辛亥革命によって満6歳で退位、5年後にいったん復位するもわずか12日間で再度退位する。ジョンストンに出会ったのはその2年後の1919年、溥儀13歳の時だった。
 李鴻章の息子であり、清国の駐英全権大使を務めた李経方の勧めによってジョンストンが帝師に選ばれ、ヨーロッパ人として初めて紫禁城の内廷に入った。少年溥儀は見ず知らずの外国人に会うことを拒んでいたものの、初対面でその語学力と博識に感心し、一転、受け容れ傾倒するようになる。その後ジョンストンは溥儀の成長と人格形成に大きな影響を与え、1925年に帰英した後も生涯にわたって交流を続けた。
 1919年3月3日、溥儀と初めて面談した際の様子をジョンストンは次のように報告している。

 この若い皇帝は、英語も、その他のヨーロッパ語もまったく知らないけれども、学習意欲は極めて高くて、知的関心も旺盛である。(中略)シナの政治的地位や他国との比較における重要度についても、誤った考えや誇張された考えに囚われていないように見受けられる。(中略)とても「人間味のある」少年で、活発な性質、知性、鋭いユーモアのセンスの持ち主である。さらに礼儀作法がすばらしく立派で、高慢心とは無縁である。環境が極端に人為的であったことや仰々しく見せかける宮廷日課を考慮すると、これはむしろ驚くべきことである。
— レジナルド・ジョンストン、『完訳 紫禁城の黄昏』第11章(中山理 訳)

Sir Reginald Fleming Johnston, KCMG, CBE, 
(1874年5月21日 - 1938年12月10日)

 溥儀の人柄の一面を表すものとして、熱心に慈善を行ったことが知られている。中国国内における洪水や飢饉、生活困窮者に対する支援などに多くの義捐金を送り、しかもすべて匿名で行った。
 1923年9月1日、ジョンストンを通じて関東大震災の報に接するや、直ちに義捐金送付を表明するとともに、紫禁城内にある膨大な宝石類を送り、大日本帝国側で換金して義捐金とするよう芳沢謙吉公使に伝えた。これに対して日本政府は、換金せず評価額に相当する金額を皇室から支出し、宝石などは皇室財産として保管することを申し出た。その後日本政府は代表団を溥儀のもとに送り、この恩に謝している。溥儀はこれを「何ら政治的な動機を持たず、純粋に同情の気持ちによって行った」とジョンストンの回想にある。事実であろう。

 こうした溥儀に暗い野心を抱かせるきっかけとなったのが、1928年の東陵事件であった。この年、国民党の軍閥・孫殿英の軍が河北省にある清の東陵を略奪するという事件が起きた。なかでも乾隆帝と西太后の陵は墓室を暴かれ、遺体から宝飾品のみならず衣服もはぎとられるなど屈辱的な扱いを受けたという。溥儀は憤慨して国民党政府に抗議したが、孫殿英は国民党の高官に賄賂を贈っていたため処罰されることはなかった。溥儀は「この恨みに報いずば、愛新覚羅の子孫にあらず」と誓い、清朝復活の志を強く燃え立たせることになる。
 遡って1924年に溥儀が紫禁城を追われた時、イギリスやオランダの公使館は内政干渉となるのを恐れて受け入れを拒み、最終的に日本租界に保護されることになった。前年の関東大震災に対する莫大な援助がこの判断に影響を与えたとすれば、結果的に情けがわが身を救ったことになる。
 ただし、この時点では日本公使にも本国政府にも溥儀を政治的に利用する発想は皆無であり、むしろ内政干渉と非難される口実を生じるお荷物を抱えたとの認識であった。やがてこの荷物の活用法を関東軍が見出し、清朝回復への執念を温めていた溥儀との間に利害の一致が生じることになる。

 第二次世界大戦を経て満州国崩壊後の溥儀の足跡は、この人物の一個人としての能力を示すとともに、文革以前の中共の意外な寛容を示すものともいえそうである。周恩来などは多分に溥儀の境遇に同情的であったらしいが、それにしても再教育後に政協全国委員という要職を長く務め得たのは、溥儀自身の能力あればこそだった。かつ、清朝の皇帝であったことは、中共における要職歴任を妨げなかったのである。
 波乱の最終幕を穏やかに全うできたはずの溥儀が、引用文にあるような末路をたどることになったのは、そこにある通り文化大革命の煽りである。紅衛兵たちが騒ぎ立てて病院に露骨な圧力をかけたため、医者たちは治療を断念せざるを得なくなった。報告を受けて立腹した周恩来が、直接院長に電話で厳命して治療を再開させたともいう。1967年当時がんの治療法はごく限られていたから、いずれにせよ余命は限られていたであろうが、文革なかりせば地上で最後に見る風景は随分違ったものになったはずである。

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