散日拾遺

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「法王選び」に関する付記 / あらためてジューコフ

2024-03-17 07:42:07 | 日記
2024年3月17日(日)
 直前のダライ・ラマ14世の記事に関して、本筋からやや外れるが、指摘を受けて付記。

> ローマ法王のように民主的に選びだす方法も検討しているという。

 指摘者はプロテスタントの信徒で、カトリックのことを十分理解しているとはいえないがと断ったうえで、教皇選びを「民主的」と評するのは誤りだとする。
 カトリック教会の非民主性を非難しているのではない。単純な多数決による平べったい互選などではないことを、義憤をもって指摘しているのである。曰く、教会にはキリストという絶対君主があり、コンクラーベにおける投票は枢機卿たちの祈りと霊的確信を通して、主の意のあるところを問うものである、と。
 おっしゃる通り。ただ、民主主義における投票も、それを通して主権者の一般意志を問うものであるとルソー流に解釈するなら、両者の隔たりはぐっと小さくなりそうだ。「民主主義は手続的正義である」という言葉があわせて想起されるが、それもこれも今ではそれこそ「おとぎ話」のようである。
 なお「ローマ法王」は「ローマ教皇」とすべきだが、記事の書かれた時点ではこの記者だけでなく、メディア全体がまだ「法王」を使っていた。ずっと昔からカトリックの信徒たちは「教皇さま」とこそ言え、けっして「法王さま」とは言わなかったのに、なぜかメディアはつい最近まで「法王」を使い続けた。主権者不在のもう一つの例。

***

 まるで別の話だが、思い出した時に。
 だいぶ前にジューコフについてとりあげ、人員の消耗をまったく顧みないロシア/ソ連軍の恐るべき伝統について書き留めた。

 ソ連の戦術は基本的に、圧倒的な兵力と物量で戦場の制圧を狙うもので、その勝利の基準は損害の寡多ではなく、目的を達成できたかどうかであった。ジューコフは全軍歴を通じ指導した作戦のほぼ全てで勝利を収める輝かしい戦績を持っている一方、彼の作戦ではソ連軍はほとんど常に敵の数倍の死傷者を出し、第二次大戦におけるソ連軍の死傷者数は、ドイツ軍の5倍に達する。ジューコフは、ソ連軍が戦闘技術や兵員の基本的資質では敵より劣っていること、一方で強みは物量にあることを認識していた。そして勝利のためには、敵の数倍の自軍兵士の人命を消耗する必要があることを、最初から必須の前提と考えていた。自国兵士の膨大な死傷者数に動じないジューコフの冷酷さには、スターリンですら感銘を受けるほどだった。

 他でもない、いまウクライナとNATO諸国が直面しているのは、この「伝統」を継承する軍隊である。

Ω

3月17日 ダライ・ラマ14世がラサを脱出(1959年)

2024-03-17 03:15:07 | 日記
2024年3月17日(日)

> 1959年3月17日の夜、チベットの首都ラサ、ノルブリンカ離宮から、一兵卒に変装したダライ・ラマ14世が闇に紛れて脱出した。すでにラサには大量の中国軍が駐留しており、宮殿とダライ・ラマを守ろうとする多くのチベット人民と睨み合っている状態だった。ダライ・ラマは人々に顔が分からぬように眼鏡を外し、儀礼の行列もお付きの人々もなしに宮殿の門を潜った。徒歩で、あるいは乗馬で苦しい旅を続け、ルンツェ・ゾンに達したところで、ダライ・ラマ健在を示すため臨時政府の樹立を宣言する。しかし、身の安全を確保するため、インドへの亡命を決意し、国境を越えるのである。ダライ・ラマは翌年、インド政府の保護を受けて、ダラムサラにチベット亡命政府を樹立した。
 中国によるチベット進駐が始まったのは1950年のことだ。チベット政府の代表者が「チベット解放十七か条協定」に調印したから軍を駐留させたというのがその理由だった。しかし、ラサで起こった住民と中国の対立は、中国軍が歓迎されたわけではないことを物語っている。
 ダライ・ラマ14世は1989年にノーベル平和賞を受賞している。「チベットの自由を求める戦いにおいて、常に平和的解決を提唱してきた」というのが受賞の理由だった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.82



ダライ・ラマ14世
(1935年7月6日〈チベット暦5月6日〉- 在位:1940年 - )
法名はテンジン・ギャツォ(チベット文字:བསྟན་འཛིན་རྒྱ་མཚོ་; ワイリー方式:bstan 'dzin rgya mtsho)


 命懸けで宮殿を脱出した時、ダライ・ラマ14世は満23歳8ヶ月の若者だった。その判断と決断を誰がどう支援したのか、あるいはしなかったのか。そもそもなぜこの若さで、チベット一国の聖俗全権を担うダライ・ラマの地位にあったのか。
 彼はチベット北部の農家の第9子として生まれ、5歳の時、第14世ダライ・ラマに推戴された。その驚くべき仔細

『ダライ・ラマの後継者選び。驚くべきその方法とは?』

 ダライラマの後継者選びは世襲制でも民主的な投票によって行われるのでもない。というのもチベット仏教の世界では、高僧の死後、その魂が転生し(生まれ変わり)、そのことがごく少数の僧侶たちに直感的に伝えられることが「常識」になっているからだ。先代が死ぬと高僧らが観たビジョンをもとに方角、地域を特定し、捜索隊の僧侶たちが派遣され、誕生時の特徴的な出来事や幼少時の癖などをもとに候補者が絞り込まれる。次に真の化身であることを見極めるために前世の記憶を検証する。具体的には先代の遺品に対する反応や、側近しか知らないはずの癖を引き継いでいるかが判定の目安となる。
 ちなみに現在のダライラマ14世は、小さな農家に生まれた九人目の子供であったが、三歳の頃、いくつかのお告げ(安置されていた13世の遺体が14世の住む地域の方角に首をかしげたこと等)に導かれた捜索隊に会うと、隠されていた彼らの素性を見ぬき、セラ僧院の僧を「セラ・ラマ」(ラマは教師、指導者の意)と呼んだ。さらに判定のために用意された先代の遺品とそれにそっくりな模造品との真贋をことごとく見分け、「これ、ぼくのだ」と言ったという。
 このような輪廻転生の生命観が実際に後継者選びのシステムとして機能していることにまず驚いてしまうが、このおとぎ話のような制度ももはや終焉を迎えつつある。

 中国政府は89年1月、ダライ・ラマに次ぐチベット仏教第2の指導者、パンチェン・ラマ10世がに死去した際、ダライ・ラマ側が認定した転生者を正統と認めず、独自に探し出した少年を後継者として擁立した。さらに正統なパンチェン・ラマ10世を拘束し、現在も解放していない。これはダライ・ラマ14世が死去した場合、中国が認めたパンチェン・ラマ10世により、中国政府の傀儡的なダライ・ラマ15世を擁立するための布石とみなされている。そうした事情を考慮してか、近年ダライラマは転生による後継者選びは自分の代で終わりになると明言しており、ローマ法王のように民主的に選びだす方法も検討しているという。
【参照サイト:NIKKEI NET】


 わかりやすい説明と思って転記したが、よく見ると間違っている。
 最後の段落の「さらに正統なパンチェン・ラマ10世」と「中国が認めたパンチェン・ラマ10世」は、いずれも「パンチェン・ラマ11世」の誤りで、そうでなければ意味を為さない。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/パンチェン・ラマ
 ↑
 このサイトの下の方の「2人のパンチェン・ラマ11世」という項目が明快。

 もう一つ、これを「おとぎ話のような」と評するものだろうか。控えめに言っても他文化に対する敬意と礼節を欠くものであり、さらに言うなら理解し難いものに出会った時、自分の方を正しい標準と考えそれに照らして相手を値踏みし価値下げする ego/ethnocentrism の見本のようなものだ。ヨーロッパ人がアジア人に対して見せるその種の傲慢には敏感でも、いざ自分の番になるとわが目の梁は見えないものである。
 確かに驚くべきやり方ではあるが、このやり方が14世にわたって立派に機能してきた事実に、まずは注目したい。徳川幕府15代に匹敵する安定度は、このやり方が立派に成立する第一の証左である。
 次にこの筆者は、転生方式は得体の知れないおとぎ話であるのに対して、世襲制はより確かな根拠があると考えているようである。現実の例が多いからそう見えてしまうが、よく考えた時、いったい世襲がそんなに確かな制度だろうか。実子への世襲なら先代の遺伝子を引き継いでおり、帝王学的な教育を受けてもいるだろうから、偉大な創始者のエートスが伝わるだろうとまずは思うが、歴史の実例はこれでもかというぐらいこの思い込みを裏切ってきた。成功例もあるが、失敗の方がはるかに多い。そもそも二世議員たちの実情を見れば、世襲の愚は一目瞭然ではないか。
 僕は輪廻転生を信じないが、信じる文化を共有する人々の間では、こうした方式は立派に成立するだろうと思う。入念な候補者選びのプロセスの中で、幼子はある種のスピリチュアルな選抜にかけられ、それに合格している。選ぶ側もいわばスピリチュアルな波長を合わせてじっくり合意を形成しているのだ。この人々から見れば、呆れるほど投票率の低い怪しげな選挙で選ばれ、派閥の力動を制する手腕で勝ちあがった人々に国の命運を任せる「民主主義」が、「実際に指導者選びのシステムとして機能していることに大いに驚く」ことだろう。
 ダライ・ラマが凡人でないことは、中国の介入を正しくも警戒し、14代続いた転生方式の後継者選びを自分の代で終わりにすると決断していることからも十分わかる。この賢人を選び出したシステムを「おとぎ話」などとどの口で言えるものか。
 日本の伝統の中でユニークであり賢明でもあると思うのは、血筋によらず資質によって後継者を選び、跡目に据えるというやり方である。養子を迎える習慣もこれに通じるもので、とりわけお隣の韓国と比べた場合、血筋についての潔い淡白さは際立っている。それはダライ・ラマの選ばれ方にも通じるものだ。本因坊家なら碁の技量と品格で跡目を選ぶところ、ダライ・ラマは霊的な資質で選ばれるという、それだけの違いである。
 このことの終わりを心から惜しむ。覇道中国のもう一つの悪事、孫文が見たら何と嘆くだろうか。

Ω