散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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なだいなだの筆法/忘れっぽいのは素敵なこと

2024-03-06 23:28:50 | 日記
2024年3月4日(月)

 なだいなだ『いじめを考える』を往路に再読。
 ソクラテスの問答法は「産婆法 μαιευτική」と呼ばれる。プラトンの『対話編 Θεαίτητος』の中に描かれたソクラテスが、自身の方法を有名な産婆であった母親の方法になぞらえたことに由来するという。なださんの筆法はさしずめ現代の産婆法で、気がつかないうちに大いに影響されてきたようである。
 もっとも、いま若い人々の間で「なだいなだ」が誰か何か、わかる人がどれだけあるだろうか。価値あるもの/人が忘れ去られる速さに、また一つ落胆の口実を見出す。
 末尾近くで、ゾラとセザンヌの友情について知った。たぶん前にも「はじめて」知って感動しているのである。
 
 「セザンヌという画家は知っているだろう」
 「ええ、リンゴの静物や、トランプをする人々の絵で有名な、フランスの画家ですね」
 「ま、日本でもよく知られた画家だ。彼はエクス・アン・プロヴァンスという南仏の町で生まれ、その周りの風景もよく絵に描いた人だよ」
 「ええ、その絵も複製ですけど、見たことがあります。サン・ヴィクトワール山の絵でしょう」
 今の高校生は、絵の歴史をよく知っているので驚いた。
 「そのセザンヌが中学に通っていた頃だ。クラスに転校生が入ってきた。父親がダム建設の技師で、仕事場に近い学校に移ってきたんだ。エミール・ゾラという名前だった。」
 「えっ、あの小説家のゾラですか」
 「知っているかね」
 「名前だけは。ドレフュス事件で活躍した。作家と政治のテーマで彼についての話を聞きました。その彼がセザンヌの同級生だったんですか」
 「中学のね。ところがゾラは、クラスの全員から<いじめ>にあったんだ。無視され、誰にも声かけてもらえなかった」
 「なんだ、フランスでも同じようなことをやっているんですね」
 「しかも、百年も前にね」
 ぼくたちは笑った。笑うことじゃないのだが、笑いたくなったのだ。
 「それで、セザンヌはどうしたんですか」
 「もちろん、彼もクラスの中の一員だ、<いじめ>に加わっていた。しかし、気の毒になって、クラスの禁を破ってゾラに口を聞いたのだね。そして彼もまた、皆から<いじめ>にあうことになった」
 「そうですか、そういうことがあったのですか」
 「というわけで、この有名な画家と小説家は、一緒にいじめられて、それからずっと親友になったのだね。ま、人生の終わり頃、二人はつまらないことが原因で仲違いするんだけれど」
 「そうだったんですか。すると<いじめ>と闘いながら、そこから友情が生まれたというわけですね」
 「その話を聞くと、<いじめ>を人生の物語の中に取り込んで、一人ひとりは人間的な成長をしていることがわかるだろう」
 「そうか、人生の物語の中に組み込むのか。<いじめ>というのはいいか悪いかを越えたところで、それが人生の中でどういう意味を持つか考えなければいけないのですね」
 山田君はそう結論を出した。
なだ いなだ『いじめを考える』岩波ジュニア新書 P.188~190

***

 建設技師の父親に連れられて転校してきたというゾラの身の上は、まるで『風の又三郎』のようである。しかしこの又三郎はあっという間にいなくなりはしなかった。
 セザンヌの絵は好きである。同じ絵の具を使っていて、なぜあんなに美しいのかと思う。ゾラは恥ずかしながら読んだことがない。しかし尊敬すべき人物であることを知っている。
 この二人の交流をテーマにした映画がつくられている。
 『セザンヌと過ごした時間』(2017)https://bijutsutecho.com/magazine/insight/6583

    
Paul Cézanne,
(1839年1月19日 - 1906年10月23日)


Émile Zola
(1840年4月2日 - 1902年9月29日)

 「人生の終わり頃、二人はつまらないことが原因で仲違いする」とあるところ、なださんはどんな解釈をしていたのだろうか。この件には謎があり、通常はゾラの小説に描かれた画家の悲惨な生涯が、自分をモデルにしたものと受けとったセザンヌが怒って絶交したことになっているが、それより後の交友を示す書簡が2014年に発見され、再考が求められているのだそうだ。女性をめぐる軋轢があったとも言われる。
 上掲書に戻っていえば、道徳主義にもとづいて一律に罰する式の予防が無意味であることを説いたくだりが、部分的に『反省させると犯罪者になります』のそれとよく重なっている。分かっている人々は同じところを見ている。

***
 クリニックにて:
 「ともかくよく忘れるようになってしまって。先生の御本も読み直してみるたびに、あら、こんなこと書いてあったかしら、という具合で」
 「そうすると、一冊の本を何度も楽しむことができるわけですね」

 年をとってからでなくとも「こんなことが書いてあったっけ」はよく体験するところである。だから書籍は恐ろしい。
 『宇治拾遺物語』や『徒然草』などその最たるもので、この分だと生涯楽しめてしまうこと間違いない。
 『聖書』も、もちろん。

Ω

3月6日 ヴェルディ『椿姫』初演、大失敗(1853年)

2024-03-06 08:08:12 | 日記
2024年3月6日(水)

> 1853年3月6日、イタリアの作曲家ジュゼッペ・ヴェルディ作曲のオペラ「椿姫」が、ヴェネチアのフェニーチェ歌劇場で初演された。ヴェルディは1842年のオペラ「ナブッコ」の大成功以来、数々の歴史に残るオペラを成功させてきた。しかし、この日の初演は成功とは言いがたかった。
 失敗の直接の原因は、結核で死ぬヒロイン役のソプラノ歌手が太っていて死にそうには見えなかったこと、風邪で声が出ない歌手がいたことなどだったが、音楽的・内容的に当時のオペラとしては斬新すぎたことも一因だったようだ。翌年再び同時で上演した時には、入念なリハーサルの成果もあって、今度は聴衆に支持され、その後は最も上演回数の多いオペラとして不動の地位を獲得している。
 ところで、ヴェルディの成功第一作となった「ナブッコ」は、作曲者だけでなく、イタリア人にとっても歴史的なオペラであった。合唱「行けわが思いよ、黄金の翼に乗って」は第二の国歌と呼ばれ広く親しまれた。多数の小国に分裂していたイタリアが統一への機運を高めた19世紀半ばに、まさに必要な歌だったのだ。
 1901年のヴェルディの葬儀には30万人もの市民が参列し、900人の歌手が並んでこの「行けわが思いよ、黄金の翼に乗って」を合唱したという。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.71


  
Giuseppe Fortunino Francesco Verdi
(1813年10月10日 - 1901年1月27日)


『ナブッコ』  1846年3月3日初演 (ミラノ・スカラ座)
『リゴレット』 1851年3月11日初演 (ヴェネツィア・フェニーチェ座)
『椿姫』    1853年3月6日初演   (ヴェネツィア・フェニーチェ座)
『アイーダ』  1871年12月24日カイロ初演、1872年2月8日イタリア初演(ミラノ、スカラ座)

 「風邪で声が出ない歌手」は論外として、病気で衰弱したような体格ではオペラ歌手など勤まらないから、「ヒロイン役が太っていて」はそもそも無茶な言いがかりである。要は準備不足の初演だったのだろう、聴衆からも批評家からもブーイングを浴びたというから相当なもので、『蝶々夫人』『カルメン』と並んで初演三大失敗などと呼ばれる歴史的事件だそうである。
 原題は「堕落した(道を踏み外した)女」を意味する "La traviata"、『椿姫』はアレクサンドル・デュマ・フィスによる原作小説のタイトル "La Dame aux camélias(椿の花の貴婦人)" の意訳とある。

 一方『ナブッコ』、これがネブカドネザルのこととは今の今まで知らなかった。だからヘブライ人たちの合唱があったのか。
 ネブカドネザル2世(Nebuchadnezzar II、B.C.642年 - 562年)、アッカド語ではナブー・クドゥリ・ウツウル(Nabû-kudurri-uṣur)という発音になるらしく、それで「ナブッコ」というわけだ。初演時は『ナブコドノゾール』という薬剤名みたいなタイトルで、これが1844年以降『ナブッコ』に短縮されたという。
 大帝国アッシリアがB.C.612年に滅亡後、荒廃したバビロンを再興するとともに外征を行ない、エジプトを除くアッシリアの版図をほぼ回復した。アッシリアが北王国イスラエルを滅ぼしたのがB.C.722年、ネブカドネザルの新バビロニアは南王国ユダをB.C.586年に滅ぼし、エルサレムを徹底破壊したうえ住民をバビロンに強制移住させた。いわゆる「バビロン捕囚」である。
 その後の詳細は旧約各書(『列王記』『歴代誌』『エレミア記』『ダニエル記』など)が記す通りだが、43年に及ぶネブカドネザル2世の治世後半は不明の点が多く、そこに劇作者が奔放な創作を織り込んだ。

 「第二の国歌」と称されるもの、あるいは目されるものはいろいろとある。イギリスでは『威風堂々』(エルガー)、オーストリアなら『美しく青きドナウ』(ヨハン・シュトラウス)、アメリカはいくつか候補が考えられるが、スーザの行進曲『星条旗よ永遠なれ』を挙げるのが常識的だろうか。『フィンランディア』(シベリウス)、『ヴルタヴァ(モルダウ)』(スメタナ)など、19世紀から20世紀にかけての民族主義の高揚と連動するのは当然といえば当然で、『黄金の翼に乗って』もその流れの中に位置づけられる。
 日本でこれにあたるものを挙げるのは難しい。ただ、1980年代にマレーシアでアジアの医学生の集まりに出た時、お楽しみ会の際にタイの学生団が出席各国の歌を順に披露していく中で、日本の順番では「あかとんぼ」を日本語で見事に歌ってくれたことがあった。威勢の良い歌曲で賑わっていた会場が、この時にはしんと静まり返り、思いがけず涙がこみあげてきたのを記憶している。
 「あかとんぼ」や「ふるさと」を「第二の国歌」と呼ぶことはできないだろうが、そうした仰々しいものの不在をこれらの慎ましい名歌が埋めるとすれば、かえって誇らしいことと感じられる。そしてアジアの人びとは、日本の美しい歌の数々を当時から驚くほどよく知っていたのである。

***

『行けわが想いよ、黄金の翼に乗って』
歌劇「ナブッコ」より、テミストークレ・ソレーラ台本

Va pensiero sull'ali dorate;
va ti posa sui clivi, sui colli,
ove olezzano tepide e molli
l'aure dolci del suolo natal!
Del Giordano le rive saluta,
di Sionne le torri atterrate...
Oh mia patria sì bella e perduta!
Oh membranza sì cara e fatal!
Arpa d'ôr dei fatidici vati,
perché muta dal salice pendi?
Le memorie nel petto raccendi,
ci favella del tempo che fu!
O simìle di Solima ai fati
traggi un suono di crudo lamento,
o t'ispiri il Signore un concento
che ne infonda al patire virtù!

行け、想いよ、黄金の翼に乗って
祖国の優しく
柔らかく暖かい風が薫る
あの丘や山道の上に飛んで行け
ヨルダンの川岸を行き
シオンの倒されし塔を見舞え...
おお、なんと美しくも失われた我が祖国
おお、なんと愛おしくも運命的な記憶
運命の予言者の黄金の竪琴よ
なぜ黙して柳に垂れ下がっているのか?
胸に記憶を呼び覚まし
在りし日の事を我らに語ってくれ!
それともエルサレムの運命のように
生々しい嘆きの声を奏でるのか
それとも堪え忍ぶことの美徳を呼び覚まさせんと
神に奏でかけてくれるのか

Ω