自己満足的電脳空間

完全自己満足主義。テーマはない。自分の趣味・関心事を偏った嗜好と思考でダラダラと書き綴る自分のための忘備録。

西鉄野武士軍団の切り込み隊長逝く…

2018-02-15 00:05:00 | 野球、その他スポーツの話
星野監督片平晋作さんに続き、球界からまた悲しい訃報が…

プロ野球、西鉄ライオンズ(現埼玉西武)黄金期の1番打者として活躍したライオンズOB会長の高倉照幸(たかくら・てるゆき)氏が12日午前5時半、病気のため福岡市内の病院で死去した。83歳。北九州市出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。


戦時中に熊本へ疎開。熊本商高から1953年に西鉄に入団し、翌54年に中堅のレギュラーに定着。福岡市の平和台球場を舞台に同期入団の豊田泰光や中西太、大下弘らと「流線形打線」を形成し「野武士軍団」の切り込み隊長として56年からの3年連続日本一に貢献した。59、64、66年にベストナインを獲得。67年に巨人に移籍して王、長嶋に続く5番を任された。69年にアトムズ(現東京ヤクルト)移籍後、70年限りで現役を引退。通算成績は1793試合に出場し、1611安打、打率2割7分6厘、168本塁打、640打点、178盗塁。



左から#6 中西太/#7 豊田泰光/#25 高倉照幸

引退後は西日本スポーツなどでの評論家活動や少年野球チーム「福岡南リトルシニア」の指導に尽力し、2016年に西鉄ライオンズOB会の会長に就任。1973年に太平洋クラブとなって以降のライオンズOBにも入会してもらおうと、2017年にOB会の名称から「西鉄」を外し「ライオンズOB会」とした。その直後の訃報だった。

高倉氏はライオンズの黄金期を後世に長く伝えていきたいとの強い思いを抱くとともに、自身が選手として生きた西鉄だけでなく、その歴史を受け継いだ太平洋クラブやクラウンライター、現在の西武・埼玉西武を含めた選手、OBの幅広い交流の場をつくる夢を描いていた。

黄金期の異名は「切り込み隊長」で初球からどんどん打つ、珍しい1番打者だった。当時の三原脩監督に「おまえは1番打者の意味が分かるか。ボールをよく見て、四球での出塁でもいいんだ」と諭されたという。だが、スタイルは変わららず、初球を捉えての通算初回先頭打者本塁打はパ・リーグ史上1位の8本で、ライオンズ通算500号もマークした。三原監督の忠告にも耳を貸さず自身のスタイルを貫き通したエピソードは野武士軍団の切り込み隊長ならではだ。

余談だが西鉄が出場した5度の日本シリーズ全てを経験したのは高倉氏と中西太氏だけであることも追記しておく。

1963年日本シリーズ「西鉄vs巨人」ダイジェスト(平和台球場における最後の日本シリーズ)

引用元はこちら


高校卒業後に巨人、阪神からも勧誘を受けたが愛する地元球団を選び入団した西鉄で大活躍。しかし、低迷期に突入した西鉄は赤字がかさむようになり1967年、遂に球団の経費節減策の一環としてトレードで巨人に移籍。愛する地元球団を離れる心境は察するに余る。

巨人時代 背番号は「10」

1969年に西鉄時代の同僚であった豊田泰光がコーチをしていたアトムズ(1970年にヤクルト・アトムズに改称)に移籍。1970年に現役引退。

1970年ヤクルト・アトムズ時代 背番号は西鉄時代と同じ「25」

晩年はライオンズを離れたが、その後、西鉄の後継球団である「太平洋クラブ」「クラウンライター」「西武・埼玉西武」のかけ橋となり3つの福岡のライオンズ、そして埼玉のライオンズの歴史のつなぎ手であった。

※高倉照幸氏がまとった西鉄ライオンズのキャップ及びユニフォーム等の詳細は下記リンク先から参照
西鉄ライオンズ キャップ(復刻)
西鉄ライオンズ ホーム用ユニフォーム(復刻)
西鉄ライオンズ オリジナルTシャツ(自作)

心よりご冥福をお祈りします。合唱。




NとLの野球帽(エヌとエルのベースボール・キャップ)

もくもくと煙を吐き出す 工場の敷地の裏にある
砂利の山を駈け登りそして滑り落ちる…
でこぼこだらけの空き地で 仲間を待ったんだ

いつも兄貴のお下がりの ぶかぶかの服でバッドを振る
空に突き刺さるあの鉄塔に 狙いを定め…
夢はいつでも どでかいホームラン

1969 光の中生きていた

舵の壊れたこの俺は何処へ行く
迷っては 壁の写真に見つめられる

俺が笑ってる 俺が突っ立ってる
大事そうにシャッターを押す 親父を覚えてる

大人達は働いたんだ 鉄くずにまみれ働いたんだ
豊かな暮らしに憧れて昼も夜も…
咳込みながら俺も大人になったんだ

1969 愛するものが近くにあった

人のすき間からはじかれても もぐり込んだ
孤独なこの瞳を見つめるな

俺が笑ってる 俺が突っ立ってる
不器用そうな親父の背中を おふくろが見ていた

NとLのくたびれた野球帽
失くした物は景色だけさ 一緒に歩かないか

1969 光の中生きてた

1969 愛するものが近くにあった


※この歌の舞台となった1969年当時、高倉照幸氏はアトムズ在籍でしたが、西鉄の象徴的な選手だったということを鑑み、西鉄を象徴するこの歌を貼り付けました。ご了承くださいませ。