先の4月15日、MLBで2004年に制定され完全に定着しつつあるジャッキー・ロビンソン・デーが開催された。
ジャッキー・ロビンソン氏の功績、偉業を今更述べるまでもないので、今回はジャッキー同様人種の壁に立ち向かい、さらにNPBとも関わりがあった偉人を少数ながらピックアップしてみた。
●ドン・ニューカム
1944年から1945年までニグロリーグ「ニューアーク・イーグルス」でプレーした後、1946年にブルックリン・ドジャースと契約。1949年5月20日にメジャーデビューを果たし、MLB初の黒人投手となった。同年はリーグ最多の5完封を含む17勝8敗・防御率3.17で新人王に輝いたほか、ジャッキー・ロビンソン、ロイ・キャンパネラ、ラリー・ドビーと共に黒人選手として初めてオールスターゲームにも出場。打撃も良く、MLB10年間の通算成績は878打数238安打で打率.271、15本塁打。
1962年、ラリー・ドビーと共に中日ドラゴンズへ外野手とし入団。81試合に出場、279打数73安打、打率.262、12本塁打、43打点という成績を残した。1試合だけだが投手としての登板もあった。
●ラリー・ドビー
左がラリー・ドビー 右はドン・ニューカム(1962年 中日ドラゴンズ)
1942年から1944年、および1946年から1947年シーズン途中までニグロリーグ・ニューアーク・イーグルスでプレー。同年7月2日にクリーブランド・インディアンスと契約し、7月5日にMLBデビュー。同年4月15日のジャッキー・ロビンソンに次いで黒人としては2人目のMLB選手で、アメリカンリーグではドビーが初めてとなった。
1952年に本塁打王のタイトルを獲得。1954年には本塁打王と打点王のタイトルを獲得し、アメリカンリーグのMVP投票ではヨギ・ベラに次ぐ票を集めた。1956年にシカゴ・ホワイトソックスに移籍するが、1958年にインディアンスに復帰。しかし、翌1959年にデトロイト・タイガースに移籍し、シーズン途中にホワイトソックスに移籍と、晩年は移籍を繰り返し、1959年限りで現役を引退した。
現役引退後は酒類の小売業者として働いていたが、1962年にドン・ニューカムとともに中日ドラゴンズに入団し、日本を訪れた。3年ぶりの現役復帰となり年齢的な衰えは隠せず1シーズン限りで退団したものの、元メジャーリーガーということで話題になった。
ドン・ニューカムやラリー・ドビーのような偉人がかってNPBでプレーしていたことを認識しているファンはどれぐらいいるのだろうか?中日ドラゴンズはこのような偉大なる先人が在籍していたことをもっとアピールしてほしい。
●レオ・ドローチャー
ジャッキー・ロビンソン氏がBROデビュー時の監督。チーム内でも黒人選手と共ににプレーすることに対し拒否反応を示す白人選手に対し、この白人監督は「肌が黄色でも黒でも、シマウマみたいなしま模様でも構わない。オレが監督で、チームのためになる選手を起用する。従えない奴は去ってくれ!」と一喝。ジャッキーのデビューをバックアップした(しかし、このシーズン途中にライバルチームのニューヨーク・ジャイアンツに引き抜かれBROを退団したが…)。
1976年にはNPB・太平洋クラブライオンズが監督に招聘。契約までこぎつけたものの、直後に病気で倒れ、結局来日することはなかった。用意されていた背番号は2。
かってNPB・ロッテに在籍したレロン・リーは来日した1977年の試合後にチームメイトに風呂に誘われ、全員で背中を流し彼にもお湯をかけてくるのを体験し「この国には差別が無い」と感激したというエピソードがあった。
1987年に近鉄に入団したパナマ出身のベン・オグリビー氏も「黒人の自分と差別なくチームメイトは一緒に風呂に入ってくれた」と喜んだという。
15年以上にわたってMLBの第一線で活躍、本塁打王を獲得し、オールスターゲームにも3回出場した名選手である彼でさえ、MLBではこのような経験は皆無だったというから根深い差別には驚きである。
ジャッキーのデビューから40年以上経っても根本的な偏見は根強く残ったMLB。これが世界最高峰の野球リーグだぁ?ちゃんちゃらおかしいわ。NPBで外国人に対し全く偏見がなかったわけではないだろうが…両氏のエピソードのようにNPBはMLBのような露骨な差別は殆どなかったと思われる。これは世界に誇ることができ、更に如何に素晴らしいリーグであるという証であろう。