岩倉具視(いわくら・ともみ、1825 - 83)
戊辰戦争前後の天皇権威に関しては前に触れた。
今回は、権力(特に軍事指揮権)に関して述べておこう。
明治憲法において、天皇の権力には、統治権・国務大権・皇室大権のほかに、統帥大権(統帥権とも)と呼ばれるものがあったことは、よく知られている(軍隊の最高指揮権。1930(昭和5)年、ロンドン海軍条約批准をめぐって、軍部・一部政治勢力により「統帥権干犯問題」が起こったことは有名)。
この天皇の軍隊の最高指揮権に関しては、「尊王攘夷論」の中から出てきた思想を原形にしている。
まずは、岩倉具視の「王政復古」についての考え方を見てみよう(原形は、おそらく垂加神道)。
岩倉の「王政復古」とは、神武天皇の東征にまで遡ることである。
彼の考えによれば、
日本の国ができた時、天皇は三種の神器に基づいて天下の政(まつりごと)をやっていた。鏡は、神々の姿を秘めてそれを映すという、いわば祭政一致という意味である、と。曲玉(まがたま)は、光輝くということで、いわば天皇の明徳、あるいは仁徳を表象するものであり、そういった徳というものを身につけなければいけない。そして剣は、武の統帥を意味する。天皇は、剣を自らおとりにならなければいけない、と」(小島慶三『戊辰戦争から西南戦争へ』)なる。
したがって、この考えによれば、夷を攘(はら)うためには、天皇自らが兵を率いなければならないのである(「攘夷」のための「天皇親征」)。
また、同様の考えは、禁門の変での軍事リーダーの1人真木和泉(久留米水天宮の祀官)の『経緯愚説』には、
天皇親征(天皇自ら攻める)のこと、というのがある。それから天皇の親衛隊の兵、近衛兵の完備、僧侶をみな兵隊にし、寺院は兵舎にしてしまうこと、さらには兵器類の充実などを示して、武という点でも非常に天皇の徳が重視されている(小島、前掲書)
このように、権威と権力併せ持った天皇存在が、倒幕派構想の基底にはあったのである(その反映が、明治憲法第11条「統帥大権」の規定)。