三河屋幸三郎の実家の商売がなんだったかは、はっきりしませんが、どうやら「口入れ屋」(「桂庵(けいあん)」、「人宿(ひとやど)」とも。奉公人の就職斡旋業)だった節がある。
それに、特に人足などの土木作業員の斡旋を行なう「口入れ屋」は、「組」を名乗って集団で作業員を派遣していたといいますから、かなり「侠客」との親和性が高い。
ですから、前回「幸三郎は、家を飛び出して、お決まりどおり、博徒の仲間に入る。」と書きましたが、「博徒」ではなく「任侠」とした方が良いかもしれない。
いずれにしても、正業に就け、と意見した人があって、横浜で雑貨商になった、との資料がありますが、これも、父親から家業に身を入れろと言われて、とりあえず家業「口入れ屋」の手伝いを始めた、とすると、あるエピソードが生きてくるのです。
というのは、横浜が開港して、土地の埋立が盛んに行なわれていた頃の出来事です。
人足頭をしていた幸三郎が、腰に付けていた根付に、ある外国人が目をつけ注目した。幸三郎は、根付が外国人に受けることを知り、大量に仕入れて大儲けをした、というエピソードが残されています。
だとすると、「口入れ屋」の人足頭から雑貨貿易商、美術貿易商へ、という道筋が出来てくる。
ということで、幸三郎の転身は、家業の口入れ屋が契機となった、ということにしておきます。
こうして美術貿易商となった幸三郎は、その仕事を通じて、「その1」で触れたように高村光雲や、絵師の河鍋暁斎とも近しくなります。
特に河鍋暁斎とは気が合ったらしく、義兄弟にもなっています。
証言者は、三宅雪嶺の妻・三宅花圃(小説家。旧姓は田辺、本名は辰子/龍子。幕臣田辺太一の娘。中島歌子の歌塾「萩の舎」では、樋口一葉の姉弟子に当たる)。
横浜で貿易商をしていた時のエピソードとしては、文久1(1861)年5月28日の「東禅寺事件」(水戸浪士らによる英国公使館襲撃事件)で、たまたまその場に居合わせた幸三郎が浪士を捕らえ、オールコック公使がそれを絶賛して外国人社会に伝えたため、商売繁昌に繋がった、との話があります。
けれども、公式の「東禅寺事件」関係の史料に、幸三郎の名前は見当たらないので、真偽は不明です。
いずれにしても、30歳代の終りから40歳代にかけて、幸三郎は貿易商として、それなりの地位を築いていたのです。
それに、特に人足などの土木作業員の斡旋を行なう「口入れ屋」は、「組」を名乗って集団で作業員を派遣していたといいますから、かなり「侠客」との親和性が高い。
ですから、前回「幸三郎は、家を飛び出して、お決まりどおり、博徒の仲間に入る。」と書きましたが、「博徒」ではなく「任侠」とした方が良いかもしれない。
いずれにしても、正業に就け、と意見した人があって、横浜で雑貨商になった、との資料がありますが、これも、父親から家業に身を入れろと言われて、とりあえず家業「口入れ屋」の手伝いを始めた、とすると、あるエピソードが生きてくるのです。
というのは、横浜が開港して、土地の埋立が盛んに行なわれていた頃の出来事です。
人足頭をしていた幸三郎が、腰に付けていた根付に、ある外国人が目をつけ注目した。幸三郎は、根付が外国人に受けることを知り、大量に仕入れて大儲けをした、というエピソードが残されています。
だとすると、「口入れ屋」の人足頭から雑貨貿易商、美術貿易商へ、という道筋が出来てくる。
ということで、幸三郎の転身は、家業の口入れ屋が契機となった、ということにしておきます。
こうして美術貿易商となった幸三郎は、その仕事を通じて、「その1」で触れたように高村光雲や、絵師の河鍋暁斎とも近しくなります。
特に河鍋暁斎とは気が合ったらしく、義兄弟にもなっています。
証言者は、三宅雪嶺の妻・三宅花圃(小説家。旧姓は田辺、本名は辰子/龍子。幕臣田辺太一の娘。中島歌子の歌塾「萩の舎」では、樋口一葉の姉弟子に当たる)。
「この人と暁斎先生は、兄弟の契約をしたとあって、それは親密に交際しておられました」(河鍋暁斎記念美術館学芸員・加美山史子の第13回河鍋暁斎研究発表会での発表による)ちなみに、花圃は暁斎の絵の弟子でもあります(その他、暁斎の弟子には、鹿鳴館の設計者 J. コンドルがいる)。
横浜で貿易商をしていた時のエピソードとしては、文久1(1861)年5月28日の「東禅寺事件」(水戸浪士らによる英国公使館襲撃事件)で、たまたまその場に居合わせた幸三郎が浪士を捕らえ、オールコック公使がそれを絶賛して外国人社会に伝えたため、商売繁昌に繋がった、との話があります。
けれども、公式の「東禅寺事件」関係の史料に、幸三郎の名前は見当たらないので、真偽は不明です。
いずれにしても、30歳代の終りから40歳代にかけて、幸三郎は貿易商として、それなりの地位を築いていたのです。