9月1日が近づくと、毎年のように地震の解説記事が新聞に掲載されるようになる。
特に、今年は中規模な地震が例年より多発していることから、その数も増しているようだ。ちょうど、8月30日「朝日新聞」夕刊の科学面にも、「首都圏のプレート新説も」という見出しの記事が載っていた。
「マグニチュード(M)7級の地震がいつ起こっても不思議はないとされる首都圏。その地下のプレートについて、新しい見方が次々と出てきている。……」
とのリードで、首都圏地下でのプレートに関する、もっとも新しい像を紹介するものである。
小生には、プレート像や説の適否は分らないが、過去の歴史に関することなら、多少の知識はある。首都圏直下型地震が起こった時、どのような事態が生じるか、過去に遡ってみたい。
今からちょうど150年前(安政2(1855)年)の10月、江戸を直下型地震が襲った。
「安政の大地震」である。
もちろん、現在とは経済規模も、都市構造も違っているので、被害に関する参考にはならないが、そこに生きる人々の運命に関しては、昔も今も変りはない。
まず、簡単に「安政の大地震」に関して知識を整理しておこう。
地震の規模を示すマグニチュードは6.9、「新潟県中越地震」がM6.8とされているから、ほぼ同規模とみていい。「安政の大地震」の震源は、江東区から葛飾区にかけての断層とみられ、地下に4つの断層が見つかった「新潟県中越地震」とよく似ている。
家屋倒壊などの被害があったのは、東西約25キロメートル、南北約80キロメートルと「関東大震災」に比べると、かなり範囲が限定されている。
『安政見聞集』や『安政見聞誌』によると、家屋倒壊による死者・負傷者がほとんどで、倒壊100軒に25~26人の死者が出た計算になる(関東大震災の場合は、この数字が100軒に3人の割合)。
昨年の専門調査会発表によれば、死者の合計は東京、埼玉、神奈川で1万3,000人。「安政の大地震」とはオーダーが1桁違う(それでも推定で4,700人もの死者を出している)。
家屋倒壊に関しては、現代では率はかなり少ないものとは思われるが、老朽住宅や地盤が悪い(東京湾沿岸の埋立地や、江東区・江戸川区のかつて「ゼロ・メートル地帯」と呼ばれた荒川・利根川水系河口)地帯ではどうなのだろうか。何しろ、絶対数では、江戸時代とは比較にならないほどの家屋が倒壊するだろう。
「安政の大地震」で、不幸中の幸いだったのは、風が弱く火災がそれほど広がらなかったこと。それでも江戸市中37~38カ所(小川町、深川、本所、浅草、吉原など)から火の手が上がり、殊に吉原では多くの死者を出した(行方不明を含めて1,074人。江戸市中全死者の22.8%に当たる)。
地震後の火災に関しては、現在の方が多発する可能性が強いし、延焼する範囲が広くなると思われる。そのための「防災拠点づくり」が行なわれていたはずなのだが(例えば「白髭地区防災拠点」)、その後、進展しているのだろうか。
その他、現代では帰宅困難者、避難者が700万人に達するというのも、大きな問題となるだろう。
さて「安政の大地震」を見てきて思うことは、地震の予知は不可能であったとしても(直下型地震の場合、現時点では不可能とされているが、小生には、科学的な当否は分らない)、被害を少なくするための方策はできるということだ。
例えば、江戸時代においても、町火消の制度があったため(定員は1万人超)、彼らが地域を分担して消火に当たったため、延焼が食い止められた、というケースもある。また、逆に、吉原での大量死は、廓の女を自由に行動させないため、閉じ込めた状態にあったことに原因する。
経済損失112兆円と試算した中央防災会議は、早急に対策をまとめるとのコメントを昨年発表したが、対策の発表もないようであるし、それが実施されるまでには、まだまだ時間が掛かるものと思われる。
いつ起きても不思議はない、首都圏直下型の地震である。
一時も早く対策を立て、速やかに実行してもらいたいものである。
*江戸時代の「鯰絵」。鹿島の大神が〈要石(かなめいし)〉で鯰の頭を押さえているから地震が起きないとされていた。安政の大地震が起きたのは神無月(10月)で、たまたま大神が出雲大社へ出掛け留守だったといわれた。
特に、今年は中規模な地震が例年より多発していることから、その数も増しているようだ。ちょうど、8月30日「朝日新聞」夕刊の科学面にも、「首都圏のプレート新説も」という見出しの記事が載っていた。
「マグニチュード(M)7級の地震がいつ起こっても不思議はないとされる首都圏。その地下のプレートについて、新しい見方が次々と出てきている。……」
とのリードで、首都圏地下でのプレートに関する、もっとも新しい像を紹介するものである。
小生には、プレート像や説の適否は分らないが、過去の歴史に関することなら、多少の知識はある。首都圏直下型地震が起こった時、どのような事態が生じるか、過去に遡ってみたい。
今からちょうど150年前(安政2(1855)年)の10月、江戸を直下型地震が襲った。
「安政の大地震」である。
もちろん、現在とは経済規模も、都市構造も違っているので、被害に関する参考にはならないが、そこに生きる人々の運命に関しては、昔も今も変りはない。
まず、簡単に「安政の大地震」に関して知識を整理しておこう。
地震の規模を示すマグニチュードは6.9、「新潟県中越地震」がM6.8とされているから、ほぼ同規模とみていい。「安政の大地震」の震源は、江東区から葛飾区にかけての断層とみられ、地下に4つの断層が見つかった「新潟県中越地震」とよく似ている。
家屋倒壊などの被害があったのは、東西約25キロメートル、南北約80キロメートルと「関東大震災」に比べると、かなり範囲が限定されている。
『安政見聞集』や『安政見聞誌』によると、家屋倒壊による死者・負傷者がほとんどで、倒壊100軒に25~26人の死者が出た計算になる(関東大震災の場合は、この数字が100軒に3人の割合)。
昨年の専門調査会発表によれば、死者の合計は東京、埼玉、神奈川で1万3,000人。「安政の大地震」とはオーダーが1桁違う(それでも推定で4,700人もの死者を出している)。
家屋倒壊に関しては、現代では率はかなり少ないものとは思われるが、老朽住宅や地盤が悪い(東京湾沿岸の埋立地や、江東区・江戸川区のかつて「ゼロ・メートル地帯」と呼ばれた荒川・利根川水系河口)地帯ではどうなのだろうか。何しろ、絶対数では、江戸時代とは比較にならないほどの家屋が倒壊するだろう。
「安政の大地震」で、不幸中の幸いだったのは、風が弱く火災がそれほど広がらなかったこと。それでも江戸市中37~38カ所(小川町、深川、本所、浅草、吉原など)から火の手が上がり、殊に吉原では多くの死者を出した(行方不明を含めて1,074人。江戸市中全死者の22.8%に当たる)。
地震後の火災に関しては、現在の方が多発する可能性が強いし、延焼する範囲が広くなると思われる。そのための「防災拠点づくり」が行なわれていたはずなのだが(例えば「白髭地区防災拠点」)、その後、進展しているのだろうか。
その他、現代では帰宅困難者、避難者が700万人に達するというのも、大きな問題となるだろう。
さて「安政の大地震」を見てきて思うことは、地震の予知は不可能であったとしても(直下型地震の場合、現時点では不可能とされているが、小生には、科学的な当否は分らない)、被害を少なくするための方策はできるということだ。
例えば、江戸時代においても、町火消の制度があったため(定員は1万人超)、彼らが地域を分担して消火に当たったため、延焼が食い止められた、というケースもある。また、逆に、吉原での大量死は、廓の女を自由に行動させないため、閉じ込めた状態にあったことに原因する。
経済損失112兆円と試算した中央防災会議は、早急に対策をまとめるとのコメントを昨年発表したが、対策の発表もないようであるし、それが実施されるまでには、まだまだ時間が掛かるものと思われる。
いつ起きても不思議はない、首都圏直下型の地震である。
一時も早く対策を立て、速やかに実行してもらいたいものである。
*江戸時代の「鯰絵」。鹿島の大神が〈要石(かなめいし)〉で鯰の頭を押さえているから地震が起きないとされていた。安政の大地震が起きたのは神無月(10月)で、たまたま大神が出雲大社へ出掛け留守だったといわれた。