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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

最近の拾い読みから(145) ―『裏表忠臣蔵』の巻末解説を読む。

2007-05-10 05:04:09 | Book Review
埒もない解説が多い文庫本ですが、この巻末解説は、なかなか読ませる小林信彦論となっています。
筆者は山田正紀。
さすがに実作者としての「目」が光っています。この点、評論家のものとは一味違っている。

評論家諸氏の解説となると、書誌的事実/文学史的位置づけあるいは理論的分析となりがちですが、山田正紀の解説では、なぜ人が文学作品を書くか、ということを、自分の例を裏に潜めて述懐しているのが、なかなか興味深い点であります。

まずは、カフカの作品を例に挙げ(これは小林作品に、カフカについての言及があるからでもありますが)、
「『変身』でしか、あるいは『城』でしか、表現することのできない状況があり、カフカが一連の作品を執筆して初めて、その状況が人々の目にあらわになったのである」
としています。
これを小林作品に当てはまると、
「小林信彦は自分が文学表現の新たな発明をなしとげたことに気がついている」
となります。
また、
「おそらく、小林信彦は『ぼくたちの好きな戦争』を書いたとき、これこそが自分が追及したかった、本当のテーマだ、とそんな手ごたえを覚えたはずなのだ」
としていますが、この辺りの表現論は、やはり実作者のものでしょう。

ここで『ぼくたちの好きな戦争』が、この『裏表忠臣蔵』の先行作品と位置づけられていることは、妥当でありましょう。

両作品を読んだ方には、「舌足らず」と山田が限定を付けて述べている、次のような説明を諒解することができることでしょう。
両作品は、
「事実を事実として書き、事実のはらんでいるグロテスクさ、黒い笑いを、その事実をして語らしめる」
方法論の小説であるということを。

表現論に続いて、小林の「違和感」「不機嫌さ」を指摘した点は、ことさらオリジナリティのあるものではありませんが、それでも大事な特徴ではありましょう。

ということで、小林作品の解説として、かなり図抜けた出来と言えるでしょう。本編と併せて、一読をお勧めします(『ぼくたちの好きな戦争』もね)。

小林信彦
『裏表忠臣蔵』
新潮文庫
定価:378円 (税込)
ISBN978-4101158235

*文春文庫版もありますが、山田正紀解説は、新潮文庫版です。

最近の拾い読みから(144) ―『鉄道ひとつばなし2』

2007-04-25 09:35:34 | Book Review
本書の著者・原武史は、
「本職は私立大学の教員で、日本の政治思想史、特に近現代の天皇や皇室」
の研究者で(このジャンルでは、2000年刊行の『大正天皇』で話題を呼んだ)、
「鉄道の専門家ではない。」

したがって、鉄道専門誌に掲載されているようなエッセイとは、一味違ったものとなっている(前著の『鉄道ひとつばなし』や『「民都」大阪対「帝都」東京――思想としての関西私鉄』をも参照)。

ここで、原の鉄道エッセイものに流れている基本的な考え方/感じ方をいえば、それは「文化的保守性」であろう(歴史研究者は、政治的な考えとは別に、文化的に保守的になる傾向がある)。
それを端的に示しているのは、「第三章 日本の鉄道全線シンポジウム」に引かれている三島の次のようなことば、
「すべてが明るくなり、軽快になり、快適になり、スピードを増し、それで世の中がよくなるかといへば、さうしたものでもあるまい。(中略)いつかは人々も、ただ早かれ、ただ便利であれ、といふやうな迷夢から、さめる日が来るにちがいない」(三島由紀夫『汽車への郷愁』)
であろう。

そのような観点から書かれている本書には、「迷夢から、さめる日」を決して迎えていない現状への苦々しさが、随所に読み取れる。
その苦々しさは、たとえば、小田急「ホームウェイ71号」に関して書かれた、
「『成長する郊外』(東急田園都市線沿線・引用者註)では、定員の多い通勤型の車両に客を無理に押し込むのが精一杯で、座席指定の特急を走らせるだけの余裕がない。この贅沢な通勤は皮肉にも、『上質な暮らし』などという不動産会社の広告に惑わされず、流行に背を向けて決然と『衰退する郊外』(多摩ニュータウン・引用者註)に住み続けることを選んだ人々にこそ赦された特権なのである。」
や、ロンドン市内および近郊の電車事情を述べた「ケンブリッジで電車通勤を考える」「鉄道から見た倫敦」によく現れている。

ということで、一般の鉄道マニアではなく、むしろ、
「鉄道を通して見えてくる日本の近代や、民間人の思想や、都市なり郊外なりの形成や、東京と地方の格差」
などに興味をお持ちの方にお勧めできる書籍であろう。

それにしても、この市場経済絶対主義の下で「迷夢から、さめる日」などは来るのでしょうかね。

原武史(はら・たけし)
『鉄道ひとつばなし2』
講談社現代新書
定価:777円 (税込)
ISBN978-4061498853

最近の拾い読みから(143) ―『島津奔る』

2007-04-23 07:05:12 | Book Review
「恋というものは相手をわがものにしたい。躰だけでは無うして、心も何もかも残らず奪いとってしまいたいと思う事でございます」
(中略)
「愛というものは、その逆でござります。相手に身も心も捧げ尽くす。おのれの欲も何も打ち棄てて、相手に与えて悔い無い心でござります。相手がわがもんにならんでもよか……倖わせになってくれればよか……それがおのれの喜びじゃと思う事でござります」
はたして、この台詞、何世紀頃の人のものだと思います?
何と、これが17世紀末、島津家の家臣・長寿院盛淳(1548? - 1600) が、島津義弘(1533 - 1611)に対して言ったことばなんですね。
ああ、もちろん小説中の台詞ね。

違和感を覚えませんか。
これ、キリスト教的なエロス(=人間の利己的な愛)とアガペー(=自分中心ではない利他的な恋愛関係・自己犠牲を厭わない献身的で純粋な恋愛関係)じゃあありませんか。

いくらフィクションの世界でも、「恋」と「愛」についての16世紀日本人の概念とは思えません。

本書には、これ以外にも、違和感を覚える表現・概念が出てきます(一つは、戦国バブル経済を「戦の景気」とするもの。まあ、これは許容範囲でしょうか)。

「恋」と「愛」については、本書の主人公・島津義弘の私生活に関する重要なキーとなるので、ちょっと見のがすわけにはいきません。

以前に大岡昇平の「歴史小説の2類型」を御紹介しました。この説によれば、歴史小説には、「A.過去の再現という、歴史の線に沿ったもの」と「B.現代社会の諸条件では不可能な状況を、歴史をかりて設定し、人間のロマネスク衝動を満足させるもの」との2類型があり、実際には、その中間の位置にさまざまな具体的な小説がある、とするものでした。

その考えを援用すれば、本書は、〈類型A〉に近い線を目指しながら、ついつい〈類型B〉が紛れ込んでしまっている、という気がします。
普通、このようなケースを「破綻」と称します。
ストーリー自体も、長いわりには起伏の付け方が今一つ。
ということで、お勧めできない歴史小説であります(関ヶ原の戦いの描写が司馬遼太郎作品に似ていたとの理由にて絶版)。

池宮彰一郎
『島津奔る(上)(下)』
新潮文庫
定価:各667.円 (税込)
ISBN978-4101408163/978-4101408173

最近の拾い読みから(142) ―『江戸東京〈奇想〉徘徊記』

2007-04-17 06:18:24 | Book Review
全30編の東京町歩きなのだが、今出来の小洒落た町などが出てこないのが、いかにも種村調。
では、どのような町が出てくるかといえば、
「一種廃物のようななつかしい気分を感ずることが出来る」(田山花袋『東京近郊一日の行楽』)
街々である。
上野、浅草、神楽坂などの有名どころは別にして、碑文谷、森ヶ崎、立石、大塚坂下町、というのだから、これはもう末枯れた風景が目に浮かぶようだ。
もうこうなると、懐古趣味ですらない。

しかも、そのような街々の現状や、著者の直接の記憶にダブって、例えば碑文谷の場合では、「蓮華往生」などという江戸時代の怪しげな宗教儀式が紹介される。
「信者に即身成仏を願うものがあるとしよう。まず希望者を募ったうえで、その人に経帷子(かたびら)を着せ、唐金(からかね)の八葉(はちよう)の蓮華の台にすわらせて葉を閉じる。坊主どもが蓮華台を囲んで木魚や鉦(かね)をジャンジャンたたき、耳を聾(ろう)せんばかりに読経の声を上げる。と、そのすきに蓮華台の下にもぐりこんだ黒衣の男が、犠牲者の肛門を槍先(焼け火箸とも)でエイヤッとばかりに刺しつらぬくのである。
ギャ、ギャッーと断末魔の叫びもものすごく、と思いきや、読経の合唱にかき消されて叫び声は周囲を取り巻く信者たちの耳には届かない。やがて蓮華の葉がおもむろに開くと、往生した信者がうっとりと安らかな死に顔を浮かべているという寸法。」

立石の章では、もっと古い「石」の正体。
「武蔵野研究でも知られた考古学者の鳥居龍蔵博士は、アイヌの建てた古代のメンヒル(巨石遺蹟)という説を提唱している。半村良の『葛飾物語』もこれを踏襲してストーン・ヘンジ説だ。もっとも、これはかならずしもそうと決まったわけでなく、現在はあまたある説の一つとされている(『葛飾の歴史と史跡・名所・文化財』葛飾区教育委員会)。
なにしろ奇怪である。石が生きて伸び成長するのだ。しかし石が生きているあるいは成長する、という考え方は、なにも立石の石、あるいは日本の石だけ(『君が代』の「さざれ石の巌となりて」は石が成長することを意味する)の特性ではない。古代ヨーロッパでも、石は生きて成長すると考えられた。しかしキリスト教が到来すると同時に石は成長をやめた。おそらく万物が生きているというアニミズム的世界観が一神教によって淘汰されたからだろう。」

街々には、地層のように、古くからの記憶が層をなして堆積している(それを「ゲニウス・ロキ」: Genius locii=genius 〔精霊〕of placeという)。
本書は、東京の各地の「ゲニウス・ロキ」を文章で呼び出す「マギ」、種村季弘の試みの一つであろう。

種村季弘
『江戸東京〈奇想〉徘徊記』
朝日新聞社
定価:1,680円 (税込)
ISBN978-4022578891

最近の拾い読みから(141) ―『幕末バトル・ロワイヤル』

2007-04-12 07:08:15 | Book Review
週刊誌(「週刊新潮」)への連載をまとめたものであるためか、文章には感心しません。いつもの野口氏らしい「詩情」や「想像力の切れ」が感じられないからです。

とはいっても、中味には、他書を圧倒する情報量が含まれています。その情報の多くがゴシップだというのが面白いところ。
氏は本書の「まえがき」で次のように述べています。
「さきに『大江戸曲者列伝』で筆者が唱えたゴシップ史観は、その項目(=史観の元になる、歴史を動かすとされる要因/評者註)を空欄にしておいて何も代入しない。永遠に x のままにしておこう。歴史という暗流は、何か不可視の力が人間を引っ張り回している光景としか思えない。」
ある意味で、歴史に対するニヒリズムと言ってもいいのかもしれない。
そのような目から見た場合に、歴史がどのような光景に見えるのか、その解答の一つが本書でありましょう。

さて、「ゴシップ史観」のため、本書では、かなり変った文献が随所に使われています。
『明良帯録(めいりょうたいろく)』(これはかなり固い資料)『浮世の有様』『燈前一睡夢(とうぜんいっすいむ)』などなど。
特に、幕末から明治に生きた漢学者大谷木忠醇(醇堂。1828 - 1897)の記した随筆『燈前一睡夢』は、かなり頻繁に引かれています。
この本、どうやらかなりのゴシップやスキャンダルが載っているらしく、面白い書物のようです(その筋には、結構知られているらしい。野口氏もかつて『江戸の毒舌家』で紹介している)。

それでいて、本書第二部の「嘉永外患録」では、水野忠邦、土井利位、安部正弘といった政界権力の推移と、ペリー来航への対応のしかた、などがきっちりと抑えられてもいる。

「歴史に対するニヒリズム」とはいえ、端倪すべからざる複眼視覚ともいえるでしょう(大人向きの歴史観。受験生にはお勧めできません)。

これから幕末維新期にかけての記述で、どのような視点を著者が提示してくれるのか、なかなか期待できそうです。

野口武彦
『幕末バトル・ロワイヤル』
新潮新書
定価:756円 (税込)
ISBN978-4106102066

最近の拾い読みから(140) ―『丘の一族―小林信彦自選作品集』

2007-04-09 07:01:58 | Book Review
本書に収められているのは、「丘の一族」「家の旗」「八月の視野」「みずすましの街」の中短編4編です。
自伝的な要素が強い点が、この4作に共通しているのですが、その主な舞台となった時代は、ちょうど収められた順番とはほぼ逆になっています。

つまり、「丘の一族」は敗戦直後から朝鮮戦争にかけての時代、「家の旗」はほぼ現代(執筆時点での)と思われる時代、「八月の視野」は敗戦直後、
「みずすましの街」は戦前から戦争中にかけて、ということになります。

本書末尾の解説(坪内祐三執筆)には、
「それぞれに独立した秀作であるが、それが、一つにまとめられると、しかもこの順番でまとめられると、それ自身で一冊の見事な長編小説になっているのだ。」
とありますが、それにこだわることは一切ありません。
一編一編を楽しめば、それでよろしい。

しかも、前3編と「みずすましの街」とでは、微妙に色彩が違っています。
というのも、この作品だけが「オール読物」という「中間小説」雑誌が初出なのね(他は「海」と「文学界」であり、芥川賞候補作品)。

そのせいもあってか、他の3編は、失われた「わが町/一族」に対する哀惜の情の他に、現代に対する作者の違和感や苛立ちのような感情が露になっているのに対して、「みずすましの街」はやや異なっています。

大きな相違点は、そこはかとないユーモラスな感覚のようなもの。
この小説の主人公である「清さん」は町内の遊び人です。
「苦み走ったという形容がぴたりと嵌」り、「笑みを漂わせていたとしても、目だけが笑っていない」ような、一種の威圧感のある男。
けれども、博打場に警察の手が入ったときには、戸棚の中に隠れたものの、中でしゃがんで煙草を吹かしていたような、すっとんきょうなところもある。

結局のところ、
「旋毛曲り、はぐれ者のようにみえて、けっこう順応性があり、時代の表面を、まさにみずすましのように遊泳できる」
存在なのです(これは、中年になって振り返ってからの「語り手」の感想)。

そのような微妙な世間様とのずれが、本書にユーモラスな感覚をもたらしているのでしょう。

小生が笑ってしまったのは、次のような部分。
英米語を店名に使うのはまずいから改名しようと、「清さん」と語り手の父親とが相談するシーンです(八路軍を「清さん」が誉め讃えるシーンも傑作!)。
「で、『コロラド』をやめにして、何と名乗るの』ときいた。
「さいですねえ」
 清さんは俯いて、
「まあ、『東條』でしょうかねえ」
「極端過ぎやしないか、そりゃ……」
 父は驚いたようだった。
「……いえ、東條てえのは、てまえの苗字なので」

その他、桂文楽を思わせる、隣家の印刷屋の老人も「いい味」を出しています。

さて、映像化する場合、「清さん」や印刷屋の老人を演じられる役者さんが、今いるでしょうか?

小林信彦
『丘の一族―小林信彦自選作品集』
講談社文芸文庫
定価:1,365円 (税込)
ISBN978-4061984240

最近の拾い読みから(139) ―『たまには時事ネタ』

2007-04-08 10:32:23 | Book Review
小生、斎藤美奈子さんの作物のファンであります。
なにせ『戦下のレシピ―太平洋戦争下の食を知る 』(岩波アクティブ新書)や『冠婚葬祭のひみつ』(岩波新書)のような、文藝評論・書評以外のものまで目を通してしまっているくらいですから。

というのも、以前に書いたように(〈『物は言いよう』を読む。〉)この人の書くものには「藝」があるからです。

『物は言いよう』(平凡社)では「韜晦」という「藝風」を見せてくれましたし、「アマチュア目線」という「藝風」もあります。
いずれにしても、一筋縄ではいかない変化球が持ち味のようで、それが小生好きなところ。

けれども、本書では、なぜか変化球を捨て、真っ向から直球で勝負という路線が多いのね。
これ、なぜなんでしょう。

考えられる一つの理由は、ネタが「時事」、しかも当初のねらいのような、
「新聞でいえば社会面の片隅にひっそりと咲くバカ話。ニュース番組でいえば天気予報の前後に流れる箸休めのトピック。そんなネタを拾い、あくまでアマチュア目線で料理するつもりでいた」
のが、「大ネタ」が主になってしまったことにあるようです。

それだけ、社会が大きく変な方向に流れている時期(「婦人公論」2001~2006年連載分)だったのでしょう。
つまりは、斎藤姐も、危機感を強く感じて、おちゃらけたり、ひねったりしているわけにいかなくなった、というわけ。
その典型が「自民党憲法草案のキモはここ」や「教育基本法の焦点は『愛国心』だけ」のような、新旧の比較記事でしょう。

もう一つは、メディアの特性ということ。
月刊誌とはいえ、定期刊行物にはかなり厳しい〆切があります。それに次々に応えていくためには、原稿を吟味している時間がやはり足りないのね。
そのような面からすれば、単行本書き下ろしのようなわけにはいかない。したがって、ストレートな表現が多くなる、ということになります(書評なら刊行から1、2か月遅くなっても腐らないけれど、時事ネタは腐りやすいからな)。

うーむ、同じネタを、斎藤姐のひねりの利いた「藝風」全開の文章で読みたかった、残念。

斎藤美奈子
『たまには時事ネタ』
中央公論新社
定価:1,365円 (税込)
ISBN978-4120037979

最近の拾い読みから(138) ―『名主の裔(なぬしのすえ)』

2007-03-31 02:12:08 | Book Review
人間の矜持(プライド)ほど厄介なものも、そうはありません。
弱った心を支えてくれる場合もあれば、そのために身を滅ぼしてしまうこともある。

本書に収められている2つの中編は、そのようなプライドの物語ともいえるでしょう。

表題作『名主の裔』は、江戸草創名主二十四家九代目斎藤市左衛門幸成(ゆきなり)の、名主としてのプライドの物語、もう一編の『男の軌跡』は寺門弥五左衛門の、幕府と対峙する物書きとしてのプライドの物語ということができます。

斎藤幸成、号は月岑(げっしん)は、『江戸名所図会』『東都歳時記』『武江年表』などのの著者として知られています(ただし、『江戸名所図会』は祖父・父と三代に亘る著作)。
また、幕末から明治初年にかけて、「名主」から「年寄」「戸長」と役名は変ったものの、江戸/東京の地方自治を末端で担った存在でした。
そのプライドが、本書では、次のように表現されています。
「早晩、江戸の名主だった者は新しいお上の手によって篩い尽されてしまうだろう。だがお役御免を申し渡される日までは、江戸の名主の残党として、町方の世話をする仕事に少しの変りもない。」
「わたしが仕えているのは、新しいお上でもなんでもない、町方の人々なのだ。」

このような斎藤月岑と対照的な人物として登場するのが、仮名垣魯文。

魯文にとって、「世に出ること」が最大の目的で、戯作者も新聞記者も神奈川県庁の雇員も、そのための手段に他ならない。
このように、魯文は、プライドなどは邪魔者にしか過ぎないと、早々と見切っている存在として、本書では造形されています。
そのような存在は、『江戸名所図会』『東都歳時記』などの作物さえ、名主としてのプライドに支えられている月岑には、軽蔑にしか当たらない。
「そりゃ男だから、抱いた望みをきっぱり捨てて、新たな望みにおのれを賭けることもあろう。転身も結構だ。だが、捨てた望みも、一度はおのれを賭けたものじゃないか。それをあざけるのはどういうものかな。わたしはそういう根性の男はすかんのだ。」
との科白が魯文に対して出てくる由縁です。

一方、水戸藩蔵奉行の息子としてのプライドを捨て、「新たな望み(=プライド)におのれを賭け」たのが、『男の軌跡』の寺門弥五左衛門(静軒)です。

その転身は、
「その日(式亭三馬の『浮世床』を読んで)から静軒は、本当に変わった。引きずってきた殻を、たしかに捨てた。
終日部屋に籠って、何かしきりに書いている。」
と表現されています。その「しきりに書いてい」たものが『江戸繁昌記』。
この漢文体の戯作は、幕府に「喧嘩」を売るための作物、
「武士を束ねる幕府相手に喧嘩するために『江戸繁昌記』を書いた。」
のでした。

それを書くことが、静軒にとっての「新たな望みにおのれを賭け」ることでありました(別の意味では、プライドを回復するために)。

さて、それでは静軒のプライドは、彼が生涯を過ごす上で、どのように働いたのでしょうか。
それは、実際に本書を読んで、お確かめください。

小説自体の出来としては、『名主の裔』の方が優れているでしょうが、小生、個人的には、淡々と描かれた『名主の裔』よりも、多少荒削りでも勢いのある『男の軌跡』を採ります。
両編をお読みになって、皆さまはいかが思われるでしょうか。

杉本章子
『名主の裔』
文春文庫
定価:387円 (税込)
ISBN978-4167497033

最近の拾い読みから(137) ―『秋津洲物語』

2007-03-22 07:08:50 | Book Review
この著者、中村隆資(なかむら・りゅうすけ)は、最近作の『出雲願開舟縁起(いずもがんびらきふねえんぎ)』(2005年2月刊行)に到るまで、一風変わった作品を発表している作家です。
なにしろ、この『秋津洲物語(あきつしまものがたり)』(1996年4月刊行)にしても「本邦初の縄文小説」なのだそうですから。

舞台は、米栽培が伝わってくるころの「花綵(はなづな)列島」。
本作品は、そこでの大自然に遍在する「神々」への祈りと、日々のムラのくらし(狩猟採集と粟の焼き畑農耕が主)を、なかなかユーモラスに描いています。

そのような安定したくらしに、米の栽培が入ってきて、どのようにムラは移り変わっていくかを暗示して、全編を閉じることになりますが、必ずしも「エコロジー」的な内容がテーマというわけではないようです(要素としてはあるけれども)。

むしろ、読者に、縄文のくらしを楽しませることが目的みたい。
どの社会でもそうであるように、縄文時代のムラもけっしてユートピアというわけではありませんが、時間がゆったりと流れていることは間違いがない。
そこに住む神覡(かんなぎ)のコノク爺様(じさま。とは言え、40歳代!)の、子どもたちへの「語り」(=「騙り」)から、小説が始まります。
こういった「語り」の数々や、コノク爺様やニハキ村長といったキャラクターがなかなか良い味を出しています。

爺様は、
「半端な智恵と薄い情と弱い意志しかない。神に近づくための冷たい頭と熱い胸、どっしりした肚がありません。つまりは掛け値なしのただの馬鹿です。ここまで分っておって手前の馬鹿さを直せないのだからこれは正真正銘の怠け者、つーことになります」
と自分を卑下しているが、
「若い頃からこの秋津洲の内外をほっつき回り……、いンや、勇敢にも危険を冒してあちこちを旅して見聞を広められた、この辺りでも指折りの物識り」
です。

また、村長は、自分から
「酒にも女にも汚ねえただの馬鹿な爺いです」
と言っているが、
「ふだんは石槍も満足につくれない阿呆だけど人や道具の使い方は群を抜いている。大人数の狩りの組み立てが頭の中でできて、風向きやその場の地形に合わせてその都度的確な指示が出せる。」
という指導者振り。

このような、一癖も二癖もある人間臭い人びとが中心になって、ある時は掛け合い万歳のような会話を行なうのだから、なかなか楽しい読み物となっています。

「本邦初の縄文小説」かどうかは別にして、縄文末期の社会をのぞいてみてはいかがでしょうか。

中村隆資(なかむら・りゅうすけ)
『秋津洲物語』
PHP研究所
定価:1,732 円 (税込)
ISBN9784569551012

最近の拾い読みから(136) ―『漱石の妻』

2007-03-21 06:22:21 | Book Review
小生の分類パターンでいけば、「史上の有名人を、その周辺の目から描いた小説」ということになります。

しかし、本書は、それだけに留まっていないのね。
「悪妻」として知られた夏目鏡子の姿が、今までになく克明に描かれているのがミソ(「悪妻」との評価を広めたのは、漱石の「取り巻き連中」。本書にもあるように、漱石の「愛情」をめぐっての確執が原因。「ファン」というのは、どうしても、その対象を独占したいと思うらしいのね)。

だからこそ、漱石像も、従来とはかなり違ったものになってくる。

小生が感心した一節を引きます。
熊本時代の飼い犬クロをめぐるエピソード。
「以前にクロが通行人に噛みついて、巡査が駆けつけて騒ぎになったことがある。
その折、金之助は、鏡子が見たこともないほどの熱弁をふるった。
犬は利口なもので、怪しいと見るからこそ吠えるのであって、家の者や人相のいい者には吠えるはずもない。(中略)屁理屈を言って巡査を呆れさせた。鏡子は唖然としていたが、そのうち、胸に熱いものが込み上げてきた。夫が守ろうとしているのはクロだけではないのだ。
家の内を彼は両腕で守ろうとしている。その中心に鏡子がいた。入水自殺を計り、世間から後指を指される妻を、夫はこうして庇ってきたのか。一家に対する冷ややかな世間に対して、吠え哮りたい金之助の鬱憤を悲しく感じ取ったことが想い出される。」

ここには、漱石と鏡子との夫婦像の原点といえるべきものが、はっきりと描かれているように思えます(本来的には、鏡子はもっとシンプルな人間であったはず。それが漱石との関係で、複雑にならざるを得なくなる)。
漱石の世間(妻のもつ一面も、それに含まれる)に対する鬱憤、そして鏡子の金之助に対するもどかしい感情、などなど。

これは漱石の留学前、熊本時代の挿話ですので、まだまだ、二人の間にはさまざまな感情の齟齬があるのですが、それは、本書をお読みください。

文章も、それなりに上等。
漱石に興味がある方には、一読に値するでしょう。

鳥越 碧(とりごえ・みどり)
『漱石の妻』
講談社
定価:1,995 円 (税込)
ISBN978-4062134491