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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

最近の拾い読みから(135) ―『円を創った男 小説・大隈重信』

2007-03-20 07:14:25 | Book Review
シュテファン・ツヴァイクは、
「世界史の中で一つの天才の意思が白熱化して決定的になるとき、それはしばしば一分間に圧縮されるような劇的な緊密な時間が、数十年数百年のための決定をする、あるいは全人類の運命の径路を決めさえもする」
と述べ、それを「人類の星の時間」と呼びました。

同様に、個人の一生にも「星の時間」があるようです。
著者は、大隈重信における「星の時間」を、
「慶応4年(1868年)正月から明治4年(1871年)5月にかけての三年余の時」
に見ています。

著者は、それを、
「人の一生には、その才能手腕が最も輝いて力を発揮し、またそれを生かす時と場に恵まれた時」
があると言っています。

大隈重信、満29歳から33歳。
この間に、
「明治政府の中枢に躍り出て大蔵省を率い、〈円〉を基本とする統一幣制を創りあげた」
というわけです。

伝記小説の場合、その生涯を、生から死まで、ことごとく辿るという方法もあります。けれども、この著のように、個人のポイントとなる時期に記述を絞って描く方法もあります。

本書の場合は、後者の方法が成功した一例と言えるでしょう。
その理由の一つは、この時期の大隈の活動が、即、近代国家としてのこの国の
「幣制と財政を一刻も早く確立せねばならない」
という課題と一致していたことです。
つまりは、大隈という個人を描くことによって、近代日本のある側面をヴィヴィッドに描けるわけですね。

同著者の『われ沽券にかかわらず』が、テーマが生(なま)に出ている点や、小説中の会話が「らしくない」(登場人物にそぐわない)という欠陥があったことに比べると、本作は、よく書けていると思います。

このような場合、担当編集者の力量の相違であることが多いのですが、本作の場合はどうだったのでしょうか(ちなみに、『われ沽券にかかわらず』は講談社刊、本作は文藝春秋刊)。

渡辺房男
『円を創った男 小説・大隈重信』
文藝春秋
定価:1,995 円 (税込)
ISBN978-4163246604

最近の拾い読みから(134) ―『女たちの江戸開城』

2007-03-11 00:22:11 | Book Review
タイトルから、よくある「女たちの~」もの、つまり女性からの視点で描いた歴史上の大事件もの、と思うと、ちょっと違ってきます。

確かに、そのような側面がないわけではない。
というのは、
「慶応四年、鳥羽伏見の戦いに敗れた十五代将軍徳川慶喜が江戸へ逃げ帰って来た。慶喜追討令が出され、江戸へ向かって官軍が進発しようとしている。このままでは、江戸が火の海に包まれる。慶喜から朝廷との仲立ちを頼まれた皇女和宮の密命を受けた大奥上臈・土御門藤子は、一路京へ向かうが…。 」(「BOOK」データベースより)
という内容なのですから。

小生、この著者のものは初めて読むのですが、今引いたような内容を、史料に基づいて縷々述べている作物(さくぶつ)なら、ご紹介しませんでした。
それでは、なぜここで取り上げたのか。

というのは、これ、実は「冒険小説」なんですね。
そうです、ギャビン・ライアルやアリステア・マクリーンなどの、幕末版と考えると分りやすい。

著者自身は、別の表現で、そのことを語っています(「冒険小説」とは言っていないけれど)。
「ハリウッド映画が好きだ。それも大がかりなしかけで、ハリウッドでしか作れないような超大作がいい。ゴージャスな舞台設定で、はらはら、ドキドキ、わくわく、うるうる、命がけの使命、身分違いの恋、男同士の友情、大切な人との別離。
そんな感じの歴史時代小説が書けないものかと、ずっと考えていた。(中略)できばえはハリウッド映画の足下にも及ばないけれど、そんな意図をもって書いた。」(本書「あとがき」)

ミッションは、「徳川家と朝廷との仲立ちを帝に訴える密書」を、その筋に届けること。
敵は、まずは分りやすい「薩摩の倒幕派」。次に、味方の中の敵ともいえる「幕府内武闘派」(どちらも戦争で決着をつけようとする勢力であることが、一つのミソ)。
これらの敵からのさまざまな妨害を躱しながら、東海道を西に進む主人公・土御門藤子一行と、それを剣の腕で助ける伊賀者の仙田九八郎。

また、どこまでがフィクションか、どこまでが史上の事実か分らないのも、先が読めない原因となっています。
良い所に目をつけたものです。

けれど、史上の事実にこだわったために、瑕疵となっている部分がないわけじゃあないのね。
大きいのは、このミッションが2パートに分かれてしまうこと。
一つは江戸から京へのミッション、もう一つは江戸から沼津へのミッション。
まあ、主要な妨害勢力が違ってはいるのですが、事実は事実として置いておいて、小説としては、これは一つにして盛り上げたいところ。

とはいうものの、期待しなかっただけに、なかなか楽しめる一冊でありました。

植松三十里(うえまつ・みどり)
『女たちの江戸開城』
双葉社
定価:1,785 円 (税込)
ISBN978-4575235647

最近の拾い読みから(133) ―『ムーン・リヴァーの向こう側』

2007-03-09 11:44:34 | Book Review
雑誌「文學界」4月号に、小林信彦の『日本橋バビロン』が掲載されていたので、早速読んでみました(この作品に関しての感想や評は、また改めて)。

『日本橋バビロン』自体は、『和菓子屋の息子―ある自伝的試み』の系列にある作品なのですが、ちょっと思いついたことがあったので、『ムーン・リヴァーの向こう側』を再読してみました。

作風は、まったく違うのですのが、その根底に流れているものは、両者共通。それが何かを探るのが、今回のこの記事です。

定石どおりに、まずは、あらすじ紹介から、ということになるのでしょうか。
「男は39歳、辛口で知られるコラムニスト。離婚歴あり。東京・山の手に、今は独り住まい。内省的な性格。性的な悩みを抱えている。そんな男の前にあらわれた女は27歳、古めかしい言葉をさらりと使う。六本木や西麻布の喧噪が苦手。新潟の出身だというが、その挙動はいたって不可解…。かくて、瀕死の巨大都市「東京」の光と影とに彩られた、物哀しくもユーモラスな恋愛譚が始まる。 」(「BOOK」データベースより)

基本的には、この謎の女性・永井理佳へ惹かれていく主人公が、彼女の失踪と真相の究明を通して、新たな(真の)「セルフ・アイデンティティ」を再発見するという、ミステリイ・テイストな作品。

問題は、この「セルフ・アイデンティティ」が、東京の地域性と密接に関わっているということ。
詳しく書くと、ミステリイ的な楽しみを削ぐことになるので、ちょっとだけ触れると、主人公の「セルフ・アイデンティティ」は、下町と山の手、隅田川の「こちら側」と「向う側」、という東京における地域の区分け(主観的な分節化)と関連していたのです。

作品の主人公=語り手は、山の手出身(生まれ育ちは青山、現在は松濤住い)
として自己を形作ってきたのですが、その自己が危うくなってきた時期(「ガラスの中にいる」という離人感・非現実感)に、謎の女性に出会います。
しかし、お約束どおりの "A boy meets a girl" ストーリーが始めるわけではなく、いかにも小林信彦の作品らしい屈折のしかたをしていく。
女性の失踪や、謎の電話、都政をめぐっての陰謀らしき出来事(執筆当時は、「都市博」推進の鈴木都政)などなど。

その過程で、主人公は真の自己を取り戻していく、というわけです(主人公のED:Erectile Dysfunction とその治療過程が象徴している)。

この辺りの、「セルフ・アイデンティティ」は、生まれ育った地域性と密接に関わっている、という確信が、『日本橋バビロン』との共通性なんでしょうね(ピエール・プルデューなら「文化資本」とか「ハビタス」という概念で説明するところ)。

だからこそ、高校時代の著者(東京高師附属高校出身)は、
「春日町めがけて都電がぐっと下ってゆく時、私は軽いうつ状態になった。うつ状態などという言葉は知らなかったが、自分が落ちていく気分はいやなものであった。
はっきりいえば、自分が山の手の〈文化的環境〉から、下町という〈非文化的環境〉に吸い込まれてゆくことへの抵抗感である。」(『日本橋バビロン』「第四部 崩れる」)
と感じたのです。

これは『ムーン・リヴァーの向こう側』での、
「母にとって、ムーン・リヴァーは大川のことだったみたい。幼い私にあの歌をきかせながら、川の向こう側に幸せがあるのよ、とよく囁いてた」
という永井理佳の科白につながってくる。

同様に、ここで賢しら振って、コミュニタリアニズムに強引に持っていくこともできるでしょうが、それは止めておきましょう。
今は、『日本橋バビロン』と本作品との関連性を述べるに留めておきます。

小林信彦
『ムーン・リヴァーの向こう側』
新潮文庫
定価:540 円 (税込)
ISBN978-4101158341

最近の拾い読みから(132) ―『日本を蘇らせる政治思想―現代コミュニタリアニズム入門』【その2】

2007-03-08 09:54:19 | Book Review
この菊池著で、どのようなコミュニティを基礎としていくかが、第5章以降に書かれていますので、まずは具体的な話として、その辺りから内容について触れてきます。

さて、第一に出てくるのが「家族」なのですが、著者は、
「現代のコミュニタリアンは、まずコミュニティとして〈家族〉を重要なものであると考えます。」
と述べています。

しかし、
「家族は自己選択によって加入するのでないコミュニティの典型」
であり、いささかの議論が必要であろうかと思いますので、今少し省略して、次に移ると、「地域社会」ということになります。

ただし、ここで著者は、
「家族と同様に、われわれがどの地域で生まれ、どの地域で育っていくのかは自己選択できるものではありません。」
と、そのゲマインシャフトとしての面を強調していますが、ゲゼルシャフトとしての「地域社会」というのも考える必要があると思います。

著者が、
「拙著『現代のコミュニタリアニズムと〈第三の道〉』でも、このような日本の〈コミュニティ〉(=〈町内会・自治会〉。引用者註)を評価したことが最も批判されました。」
と述べているように、そのゲマインシャフトとしての面を強調することは、いささか論議を呼ぶようです。
その批判に対しては、
「否定的な側面だけを指摘していくかぎり、リベラルや近代主義者が理想とする欧米のような市民社会は日本に成立しないと、いつまでたっても、日本社会への批判を繰り返すしかありません。」
と、その実効性を重視しているようですが、それだけではないでしょう。

というのも、既に江戸時代に巨大都市化していた、江戸や大坂においては、欧米近代社会の理念型とは異なるものの、一種の市民社会が成立していたように思われるからです。また、それは、明治以降に作られた〈町内会・自治会〉的な、官主導的なコミュニティとは異なっていたからです。

この辺りが、一つの論議の中心となることでしょう。
論点を整理すると、
 (1) 欧米の市民社会を理想型とする〈コミュニティ〉論
 (2) 日本近代独自の官主導の〈町内会・自治会〉を基礎とする〈コミュニティ〉論
 (3) 前近代の巨大都市江戸や大坂などに見られる、擬似〈市民社会〉を基礎とする〈コミュニティ〉論
ということになりましょうか。

ちょっと、論議が長くなりそうなので、この続きは、また次回。

最近の拾い読みから(131) ―『うらなり』

2007-03-07 11:53:20 | Book Review
本書の「創作ノート」で指摘されるまで、気にもしなかったんですけど、『坊つちやん』の主人公=語り手である人物は、作品中に苗字も名まえも提示されていなかったんですね。

したがって、『坊つちやん』では「〈不在〉によって〈存在〉を示す人物」だった〈うらなり〉こと〈古賀〉を主人公=語り手とする、小林のこの小説では、彼を示すのに苦労している。
そこで「新任の小作りな男」とか「五分刈り」などと呼ぶしかないのです。
「『あなたが〈あいつ〉と呼んでいるのは、あの小作りで五分刈りの……』
『もちろんです。話が通じるのは、あいつしかいなかった』
『あの方の名前は、なんとおっしゃるんでいたっけ。私は記憶が悪くなってしまって』
『ああ、名前ですか……』
は、は、と笑って、堀田(=〈山嵐〉)は五分刈りの名前を口にした。
『そうでした。どうしても想い出せないので、私は心の中で〈五分刈り〉と呼んでいたのですが』
『いいんじゃないですか、それで。五分刈りにはちがいないんだから。とんがった感じが、本名よりもぴったりきますぜ』」
と本書では、〈坊つちやん〉が「〈不在〉によって〈存在〉を示す人物」となっています。

このように、『坊つちやん』とはポジとネガとの関係にある本書は、逆に〈坊つちやん〉の本質をも明らかにします。

〈うらなり〉を中心とすれば、
「この事件の中心人物は堀田である。あるいは堀田と教頭である。五分刈りは堀田の助っ人に過ぎない。」
のであるのだが、〈坊つちやん〉は、その名のとおり「世間知らず」(そういえば、小林にも『世間知らず』というタイトルの作品がありました)。
そのような本質を知らぬまま、自分が主人公のように振舞い、
「事件は〈黄色い喜劇(コメディー)〉になってしまった。」

したがって、〈うらなり〉には、最後まで、
「五分刈りのあり方というか、発想が依然として分らない。私に対して一貫して同情的だった理由もわからぬ。」
のでした。

「創作ノート」によれば、〈坊つちやん〉は〈B型ヒーロー〉で、「そそっかしさ」のある、
「育ちの良い都会人の一典型で、立身出世主義にこりかたまった地方出身者から見たら嗤うべきものであるだろう。」
ということなのですね。

「趣向」が、元になった作品の本質をも、より深く理解させることにもなる、という意味で、『坊つちやん』の愛読者にお勧めの一冊でしょう。

小林信彦
『うらなり』
文藝春秋社
定価:1,200 円 (税込)
ISBN978-4163249506

最近の拾い読みから(130) ―『日本を蘇らせる政治思想―現代コミュニタリアニズム入門』【その1】

2007-03-06 09:44:06 | Book Review
まだ、本書に関して完全に理解したとはいえない状態ですので、今回は雑感のみ。
読者諸兄諸姉、よろしくご了解を願う。

さて、近代日本では、「私」に対峙する「公」というものが、常に「国家」とイコールと思われてきたきらいがあります。
これは、この国の近代化が、偏頗だったことにもよるのね。

振り返って考えると、江戸時代、幕府は「公儀」と呼ばれてきました。つまりは、〈幕府=「公」〉という捉え方です。また、各藩では、〈藩政府=半「公」〉という意識もあったようです。
つまりは、政治権力自体が「公」であった。

この図式は、明治維新後も変らず、むしろ強化される形で、そのまま残っていたのではないか。
「強化される」というのは、幕府以上に、中央集権的全国政権としての色彩を深めたからです。それとともに、「藩政府」の持っていた半「公」の部分も、中央政府に吸収されてしまう。
そこには、「公」と「私」との中間的存在がまったくなくなってしまった。
また、自然村を基礎とする村落共同体は、市場原理の元、崩壊の一途を辿る。つまりは、
「村落共同体につながる独自の倫理規範や行動原理が、農業恐慌による貧困と市場の論理に組みこまれて崩壊する」(保阪正康『昭和史の教訓』)
ということで、昭和十年代までに、村落共同体は完全に危機を迎えたわけです。

そうなった時に残るのは、直接、国家に対峙する個人でしかない。
つまりは、国家=「公」、個人=「私」という線引きがなされてしまう。
その状態で、アジア太平洋戦争を迎えたのですから、「滅私奉公」というのは、個人の命まで完全に国家に委ねる、という意味合いをもっていた。

この体制が敗戦によって崩壊しても、国家=「公」、個人=「私」という意識は変わらなかったような気がします。ただ、どちらを重視するかという力点の当て方が変っただけでね。

さて、小生が現在のところ理解する範囲では、そのような図式を覆す原理として「コミュニタリアニズム」が興味を持たれてきたのではないか、と思います。
つまりは、国家と個人との中間に、何らかの「共同体」を置こうという提案ではないか。しかも、それは伝統的な村落共同体ではなく、自発的な個人の集まりとしての中間共同体である、ということです。

それが当っているかどうか、次回では、本書に即して確認してきましょう。

菊池理夫(きくち・まさお)
『日本を蘇らせる政治思想―現代コミュニタリアニズム入門』
講談社現代新書
定価:756円 (税込)
ISBN978-4061498754

最近の拾い読みから(129) ―『昭和史の教訓』【その4】

2007-03-05 08:55:08 | Book Review
『皇国二千六百年史』などと聞くと、いかにも過去の書物のように思えます。
けれども、そこに書かれている言説は、今でも耳にしたり、目にしたりするものがあったりするのね。

保阪著から孫引きすれば、たとえば次のような一節。
「現国民にとって誇らしき事態は、我国の歴史がかかる長年月に亘って絶えず発展から発展へと、興隆の一途をのみ辿って来た事である。我国に関する限り、歴史とは興亡の跡を伝へるものではなくて何処までも興隆史であった。盛衰の跡ではなく成長の歩みであった。」
このような「皇国史観」を保阪著では、
「ここには独りよがりの強弁や自賛と自己称揚の蔭に見え隠れするコンプレックスとが内在していることが容易に理解できるのである。これほどまでに自己称揚しなければ自らを位置づけることができないという歴史観そのものが、つまり昭和十年代の主観主義に埋没する姿として次代の私たちには見えてくる。」
と総括されています。

けれども、これ、決して「昭和十年代の主観主義」だけではないのね。
現在でも、このような主観主義は依然として存在するし、一部メディアでは主流にまでなっている。
それを克服するためには、改めて昭和十年代を振り返ってみよう、というのが保阪著の目的の一つなのであります。
(昭和十年代の)「こうした状況を吟味することは、私たちに、『では今の時代をどのように生きるか』という問いと結びついていることに気づかされる。この昭和十年代を深く吟味することなしに、そして多くの人びとが本来考えていた思想や理念、信条を放棄、あるいは抑えたまま国家の枠組みに従った様相を見て、その行動のみを容認するかの論はあまりにも浅い見方だと思う。多くの人びとが矛盾に悩み、そしていつかこのような日々から解放されることを願っていたと見るならば、昭和十年代の真の顔が見えてくるはずである。」

この項、了

最近の拾い読みから(128) ―『昭和史の教訓』【その3】

2007-03-04 10:03:13 | Book Review
『国体の本義』なる文書があります。
「昭和11年秋から翌3月まで、文部省思想局が編むことになった」
文書で、
「昭和12年4月に文部省から刊行された」
パンフレット(全文はここで読めます)。

保阪著の表現を借りれば、
「君民一体の国家意識のバイブル」
ということになり、また、前回の話題に関連づければ、
「農村共同体のもっている独自の倫理や規範に対して、それを解体せしめるのではなく、できうるならばそれらの道徳、規範から始まって祭事、生活習慣まですべては、もともと歴史的には『天皇に帰一する』という意味をもっていたと説くのが狙いでもあり、そのことを自覚させるということではないか」
という内容なのです。

つまりは、「愛郷心」が「天皇」という媒介を通して「愛国心」に直結する、という思想構造になっているのね。
これは、明治維新によって、近代国家を創設する際に、国家統合の象徴として「天皇」という存在を必要としたことの強硬な確認でもあるように、小生には思えます(「天皇」存在がないと、「愛郷心」によって「郷土」ごとにバラバラになってしまう、という意味で)。

『国体の本義』のもう1つの特徴は、近代国家の創設を認めた上で、近代思想を否定しようという、実にアクロバティックな論理構成をとっていることでしょう。
「西洋思想を貫く個人主義的な人間解放は、個人である一面のみを解放するのに汲々としており、その『国民性と歴史性』を無視するとの批判を展開していく」
という批判のしかたです。
この辺り、根の部分で、佐久間象山の「東洋道徳西洋藝術(=技術)」、福沢諭吉の「和魂洋才」などということばをも連想させる部分がある(『国体の本義」「緒言」参照。たとえば「極端な欧化は、我が国の伝統を傷つけ、歴史の内面を流れる国民的精神を萎靡せしめる惧れがあつた」などの一節)。

そのような内容を持つ『国体の本義』に共鳴する、「臣民」サイドの発言が『『皇国二千六百年史』だったわけです。

詳しくは、また次回に。

最近の拾い読みから(127) ―『昭和史の教訓』【その2】

2007-03-03 13:42:27 | Book Review
その一つは「第二章 混迷する農本主義者たちの像」で紹介されている、権藤成卿、橘孝三郎、加藤完治、口田康信らのナショナリズムのあり方です。
もちろん、彼らの共通点は、「封鎖的共同体」である「自然村」を基礎としていることです。
つまりは、「ネーション」の場に立って、「国家」や「市場経済」を批判するという視点があった。
「農本主義者の橘孝三郎は、まさに村落共同体につながる独自の倫理規範や行動原理が、農業恐慌による貧困と市場の論理に組みこまれて崩壊することへの焦燥感を誰よりも強く感じていた。」
しかし、その批判的視点も、戦争によって
「目の前にある国益・国権のナショナリズムにその差はあるにしても協力、ないし支援という形をとった。その理由は、ひとたび戦争が始まると、敗戦といった事態だけは避けなければならないためであり、その事態は〈国体〉そのものを危うくすると考えたからである。」
と、戦争協力への道へ進んでいった。

ここには、「自然村」というコミュニティーを基にしたナショナリズムの陥穽があったように思われます。

現下の問題に引きつけて考えれば、
「自分が生まれ、育った国を愛するのは『自然な』感情であり、それがないのが『不自然』だと」
する言説がありますが、この陥穽が指摘されているかどうかで、その論者が試されることにもなるでしょう(「愛国」と「愛郷」との原理的な問題に関しては、姜尚中(カン・サンジュン)『愛国の作法』を参照)。

もう1つは「第三章 主観主義への埋没という時代」に紹介されている『皇国二千六百年史』での、
「臣民のナショナリズム観、それも皇紀二千六百年のナショナリズムがより突出していくときの時代認識」
です。

これに関しては、また次回で。

最近の拾い読みから(126) ―『昭和史の教訓』【その1】

2007-03-02 09:44:30 | Book Review
いつも疑問に思うのですが、この手の本の読者はどのような人なのでしょうか。
もちろん、著者が最も読んでもらいたいとしている読者像は、よく分ります。
「過去の歴史と向きあう姿勢をもちあわせていない」人
であり、つまりは、
「昭和史を都合のいいように解釈する」人たち
でしょう。
端的に言えば、
「負の遺産を省いた過去の歴史をすべて容認し、そして開き直」り、「過去の事実を一方的に美化し、賞賛」する人びと
ということになります。

そのような人びとに、「昭和史の教訓を整理」して提示したい、というのが著者のねらいなのですが、想定された読者は、けっして、この本を手に取ることはないでしょう(「自虐史観」と切捨てるだけでしょうね)。
その点で、想定読者層と、実際の読者層とが乖離している気がします。
もっとも、自分の中で、どのような昭和史を描くか分らなくて、参考にする人もいるでしょうが。

そのような読者に、著者が提示する昭和史の「教訓」とは、次のようなものです(著者は「過去の歴史が教えていること」「歴史を綴っている書物から学ぶことやその時代を生きた人たちの記憶や記録から汲みとれること」を「教訓」と呼んでいる)。
 (1) 政党政治の自己崩壊
 (2) 軍人の軍事的冒険主義
 (3) 「天皇を神格化することによって、理性や知性とはかけはなれた空間をつくりあげ、そこで自らの存在を確認する」時代

そこで示されている具体的な事実の多くは、既に著者が他の書物で述べたことや、別の著者が表したことが多いのですが、中には、ちょっと目新しい観点がないわけでもない。
特に「第二章 混迷する農本主義者たちの像」の記述は、小生、知らないことが多く、なかなか参考になりました。

ということで、詳しくは次回に。

保阪正康
『昭和史の教訓』
朝日新書
定価:756 円 (税込)
ISBN978-4022731289