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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

最近の拾い読みから(155) ―『安徳天皇漂海記』

2007-06-08 00:56:06 | Book Review
小生が読んだ宇月原作品の中では、もっとも分りやすい、整理されたものではないかと思います。

というのは、ほぼ時代どおりにストーリーが進んでいくことと、作品のナラティヴが、第1部は源実朝の側近の若武者の第一人称、第2部はマルコ・ポーロを中心に描く第三人称と、複雑ではないからでしょう。
従来の作品ですと、『黎明に叛くもの』では、明智光秀の第一人称での語りが挿入される意味を理解するのに、なかなか難しいものがありました。
したがって、以上のようなストーリーやナラティヴが整理されていることにより、全体に前に進むドライヴ感が生まれています。

描かれた世界は、例によって「歴史ファンタジー」とでも言えるものです。
第一部と第二部と通じた存在は、安徳天皇を封じた琥珀のような「玉」です。
ご承知のように、『平家物語』によれば安徳天皇は壇ノ浦で入水して死んでいます。
その存在が、琥珀の「玉」に封じられて、「現在」(=文永・弘安年代)へも影響を与えている、というのが、この小説の基本設定。そして、平家政権が滅亡したように、第二部では南宋の滅亡が、マルコ・ポーロの目を通して語られます。

この小説の特徴の、もう一つは抒情性でしょう。
その叙情性の頂点を形づくっているのは、安徳天皇と南宋最後の少年皇帝との「夢」の中での交情です。この部分の描写には、なかなか美しいものがあります(「第2部第2章 うつろ舟」末尾から「第3章 二天子」にかけて)。

ただし、小生は、一点だけ納得できない部分があります。
この小説は「高岳(高丘とも。たかおか)親王伝説」を踏まえているために、最後の部分で、どうしても高岳親王を登場させなければならなかった。それを導くために「水蛭子(ひるこ)」が出てくる。
この辺に、ちょっと無理があって、最後の開放感(=カタルシス)が今一つとなっています。
第1部と第2部とが、より高いレヴェルで統一される、アッと驚くような結末がほしかった、と思うのですが。

宇月原晴明
『安徳天皇漂海記』
中央公論新社
定価:1,995 円 (税込)
ISBN978-4120037054

最近の拾い読みから(154) ―『怪物科学者の時代』

2007-06-06 14:37:38 | Book Review
「仏教的宇宙観にたって地動説をくつがえそうとした」佐田介石(さだ・かいせき)、「近代科学と伝統的宗教世界をあわせて一元論的に体系化」する電気神道を唱えた明石博高(あかし・ひろあきら)、千里眼研究の福来友吉(ふくらい・ともきち)、などなど、という人物ラインナップをみると、近代日本の「トンデモ」科学者列伝のように思えます(著者の最初の興味・関心は、そんなところにもあったのでは?)。

けれども、読んでいくと、だんだんに著者の意図が分かってくるような気がします。というのは、日本近代での「科学」のもう一つのあり方が見えてくるからです。

「日本人の科学」や「東洋科学」というと、橋田邦彦(はしだ・くにひこ)が誤解されたように、「日本人・東洋人による独創的な研究」をすることのように思われがちです。
また、そこには夜郎自大な「愛国的科学」の臭いもします。

しかし、本書に取り上げられた寺田寅彦(てらだ・とらひこ)や南方熊楠(みなかた・くまぐす)の項を読めば、著者言わんとしているのは、そのようなものでないことはハッキリしています。
「寅彦は生物の物理学的研究の必要を説きながら、生命の物質的説明とは生命を抹殺する事ではなくて、逆に『物質の中に瀰漫する生命』を発見する事でなければならない、と書いた。現代の科学は、そのようなものではないだろう。」

「熊楠は、自らを科学者と見られることを恥じた。そして自らは『本草学者』と称した。標本を集めたり、その生理を研究したりするだけでなく、伝承や民俗など、一つの存在にかかわるあらゆる知識を集めることは、その存在を『萃点(すいてん)』として宇宙を探求することだ。熊楠の文章自体も、萃点をやりあてながら記された。移動する文体である。それは、熊楠が幼い頃から親しんだ江戸時代の知の方法でもあった。」

明治維新後の外来思想の導入によって、東京帝国大学を主としたアカデミズムが発生します。どうしても「追いつけ追い越せ」という傾斜による、「直輸入科学」が主流となるわけです。

そこでは、政治的に否定されたのと同じように、明治維新以前の「知」のあり方は、「遅れたもの」として完全に否定されてしまいました。
つまり「普遍的法則の追及に絶対的な価値」を置く近代科学を、どのような形にしろ乗り越える可能性を自ら潰してしまっていたわけです。

本書で紹介されている人々は、そのような近代科学を乗り越える方法を、自分なりに追及した、といえるでしょう。
もちろん、今考えると、それは「トンデモ」にしか見えない部分もありますが、その思考過程には、まだまだ汲むべきものがある、というのが著者の基本的な立場だと思います。

田中聡(たなか・さとし)
『怪物科学者の時代』
昌文社
定価:2,415 円 (税込)
ISBN978-4794963468

最近の拾い読みから(153) ―『千本桜―花のない神話』

2007-06-05 17:45:18 | Book Review
言うまでもないかもしれませんが、『千本桜』とは、人形浄瑠璃や歌舞伎の三大名作の一つと称せられている『義経千本桜』のこと。

その『義経千本桜』の台本には、桜が一切現れてこない、というのが、話の発端。舞台は、京と吉野、大物浦(現在の尼崎市)、季節は旧暦1月(遅くとも月末)ですから、桜は表には登場しない。
「文楽の舞台あるいは歌舞伎の舞台の吉野山の道行にしても、四の切の御殿にしても、舞台は桜の満開ではないかといわれるかも知れないが、すでにふれたように実は浄瑠璃の本文では、花は一輪も咲いていない。現在の舞台の桜は、文楽でも歌舞伎でも初演の舞台にはなかったものなのである。」
それが、満開の絵面を連想するようになったのはなぜか、ということをフックとして、著者は、6つの謎を解明していきます。
その謎とは、
 (1)判官贔屓(義経)
 (2)天皇制
 (3)鮓
 (4)桜
 (5)狐
 (6)吉野
の6つ。

お分かりのように、これらのテーマを見ただけで、人形浄瑠璃や歌舞伎だけの世界で解明できるものではありません。
そこには、歴史学あり、民俗学あり、文化人類学あり、動植物学あり、などなど、多様なアプローチが必要になってきます。

そして、著者が述べているように、
「おそらくこの六つの謎について考えることは、『千本桜』について考えるというよりも、日本について、日本人について考えるということなのである。それも、あまり意識されない日本の民衆の嗜好について考えるということだろう。」
となります。

ですから、著者の他の作品と同様な「歌舞伎評論」を期待する方には、ちょっと記述の方向が違っているかもしれません。
逆に、歌舞伎に関しては、さほどの知識や興味・関心がなくとも、このような「日本の民衆の嗜好」について考察を深めたい、という人には向いているのでしょう。

さて、本書で、どのような地平が、アナタの前に開けるでしょうか。

渡辺保(わたなべ・たもつ)
『千本桜―花のない神話』
東京書籍
定価:2,039 円 (税込)
ISBN4-487-75236-1

最近の拾い読みから(152) ―『ハイドン ロマンの軌跡』

2007-06-04 16:06:11 | Book Review
アマチュア弦楽四重奏団で第二ヴァイオリンを弾いている著者の経験を元にした、ハイドンの弦楽四重奏曲の楽曲分析とともに、ハイドンの精神生活を中心とした生涯をたどったエッセイ集。

ハイドンの生涯に関しては、史料が乏しいようです。
そこで、著者のように楽曲分析から逆算して、作曲された当時の精神状態を推定していくという手法が、役に立ってくるわけ(著者は音楽史家ではないから、そのような方法が成り立ちうる)。

したがって、取り上げられている弦楽四重奏曲は、それぞれハイドンのポイントとなる時点で作曲されたものになります。
第1番から始まり、第22番、第32番、第38番『冗談』、第39番『鳥』、第45番、第67番『ひばり』、第74番『騎士』、第77番『皇帝』、第78番『日の出』、第79番『ラールゴ』、第81番に終わる、といった具合です。

それでは、著者は、ハイドンにどのような音楽を聴いているか。

キー・ワードをいくつか挙げれば、「単純明快」「庶民的センチメンタリズム」「爽やかさ」「淡(あわ)やかな叙情性」そして「ロマンティシズム」といったところでしょうか。

ここで一番問題になるのが、最後に挙げた「ロマンティシズム」ということになるでしょう。
これは、特に、最近よくいわれている、ハイドンの「シュトゥルム・ウント・ドラング」期(1766年頃 - 73年頃)とも関わってくる問題です。
通説では、「強い感情表出」がハイドンのこの時代に作曲したものには聴き取れるということなのですが、著者は、このような見解には異論を述べています。詳しくは、本書を読んでいただくとして、その点で、次のようないい方もできるでしょう。
「ハイドンとはまったく関係がなかった文芸運動の時代様式であるシュトゥルム・ウント・ドラングの名称を、ハイドンの1766年頃から73年頃までの様式時代に適応(適用?)する慣習は、そろそろ改められてよいのではないだろうか。むしろ、ハイドンの独創性がひときわ顕著なこの時期にかんしては、〈実験の時代〉といった新しい名称を、筆者は提唱したい。」(中野博嗣解説。『ハイドン シュトゥルム・ウント・ドラング期の交響曲集 III』所収) 

さて、それでは著者は「ロマンティシズム」について、どのように考えているのか。
「ロマンとは(中略)現実と対決して、精神が己れの願望を、そのかけがえのないリアリティを歌いあげることだと思う。しかも精神が己れの願望とかけがえのないそのリアリティを鋭く自覚するのは、その願望がかなえられない時であり、不幸とか悩みとか呼ばれるような現実が、精神の願望を打ち砕く時である。」
そして、ハイドンにおいては、
「ハイドンが不幸でなかったなどとは、とんでもない話である。にもかかわらず彼は嘆かなかった。人に不幸が訪れるのは当然のことなのだ。彼は不幸をじっと噛みしめながら、ロマンを謳ったのである。ハイドンのロマンは嘆きに捉われているのではない。それは自由に漂う精神であり、溌剌と動きまわる精神の躍動であり、安らぐ心地よさを愉しむ精神である。」

このような引用をすると、やけに小難しい理屈を述べた本だと誤解されてしまうかもしれません。
むしろ、メインになっているのは、主な弦楽四重奏曲の楽曲分析です。
しかも、実践を通じてのそれですので、説得力があります。また、その説得性は、感性のみならず、著者の論理的な考えに負うところも大でしょう(ちなみに、著者は神戸商船大学経済学教授)。

ハイドンの室内楽だけではなく、彼の音楽に心惹かれるところのある方に、お勧めの一冊です。

井上和雄
『ハイドン ロマンの軌跡』
音楽之友社
定価:1,890 円 (税込)
ISBN978-4276201064

最近の拾い読みから(151) ―『聚楽 太閤の錬金窟(グロッタ)』

2007-06-03 16:54:01 | Book Review
前回とはうってかわって「しかけ」(しかも「大じかけ」)のある小説です。

舞台としては『信長公記』と『太閤記』の世界ですから、歴史小説ということになるのでしょうが、そう簡単には言い切れない。

まずは、「大じかけ」から説明すると、『信長公記』と『太閤記』の世界(しかも、戦闘中心ではなく、安土桃山文化中心)に、グノーシス主義および錬金術とを結合させてしまった(あるいは「趣向」として盛り込んでしまった)、ということでしょう。
どなたもご存知の名前で言えば、ジャンヌ・ダルク、「青髭公」ジル・ド・レなどが、重要な役割(といっても直接登場するわけではありませんが)を果しています。

したがって、一種のブラック・ファンタジーとしても読めるし、ゴシック・ロマンとしても読める、という内容になっています。

以上が「大じかけ」である由縁。

このような小説の場合、ストーリーを説明しても意味があまりないのね。
ちなみに、「BOOK] データベースのように、
「秀吉による天下統一もなって数年、秀頼誕生から人の出入りもめっきり減った聚楽第。“殺生関白”の噂も立つ主・秀次は、都の地下に広がる暗黒世界で異端の伴天連と錬金術に身を捧げる。禁じられた秘儀に隠されたある企て―。秀次の出生の秘密も絡まり、服部党・蜂須賀党を巻き込んだ闇の闘いがはじまる。大胆な発想、圧倒的な筆力で描き出す異形の戦国史。豪壮なる戦国伝奇小説。」
ということになるのでしょうが、これでは、この小説の半分も述べたことにはなりません。

グノーシス主義などの「異端」に関して、また「しかけ」のある小説について興味のある人にのみ、お勧めです。
間違っても、小説に「教訓」や「知識」などを求める向きは、お読みにならない方がよろしい。

宇月原晴明(うつきばら・はるあき)
『聚楽 太閤の錬金窟(グロッタ)』
新潮社
定価:2,200 円 (税別)
ISBN978-4104336029

最近の拾い読みから(150) ―『本能寺』

2007-06-02 09:46:28 | Book Review
小生、「しかけ」のない小説は、読むのも書くのも嫌いです。

それでは「しかけ」のある小説とは、どのようなものでしょうか。

代表的なものを挙げれば、隆慶一郎『影武者 徳川家康』のような作品ですね。これは、村岡素一郎の『史疑 徳川家康事績』を元ネタに、〈徳川家康=世良田二郎三郎〉という「しかけ」を導入した歴史小説です。
また、山田風太郎などは、「しかけ」の作家といっていいでしょう。
つまるところ、広い意味での「伝奇小説」といってもいいのかもしれない。

このような大「しかけ」ではなくても、子ネタ、中ネタ取り混ぜた作品はいくらでもある。

ところが一方では、「しかけ」のない歴史小説を書く人もたくさんいます。
司馬遼太郎などは、初期には「しかけ」のあるものを書いていましたが、後には、史料解釈の独自性はあるものの、ストレートな歴史小説になっています。

この『本能寺』も、「しかけ」のない小説。
しかも、近年疑問視されている「鉄砲三段撃ち」や「武田騎馬軍団」などの従来の説をそのまま踏襲している。また、偽書であることがほぼ明らかになっている『武功夜話』などの説も登場、という点では、かなり問題が残る書き様です。

それに、著者がご老人であることもあって、現在の社会情勢に対する批判が散見するのも、鼻白むところ。
「公費は飽くまで納税者の金であり、公のためのものである。費消するに当たっては、天地神明に背かず、納税者を納得させる理がなければならない。些かも私心があってはならないのである。」
は、ストーリーと多少の関係があるから、まだいいにしても、
「かかる反省なき人心の荒廃は、長い歴史の中で、武力の横行した戦国時代と、廉恥心を喪失し、責任回避に終始した昭和末期から平成に到る拝金狂奔の現代をおいて、他に類例を見ない、その点では日本歴史の中で最大の危機であり、あったと言えよう。」
などは、完全に小説には不要な一節。
言いたければ、エッセイなりで言えばいいことでしょう。

「しかけ」なし、「お説教」あり、という、この手の小説、小生が最も嫌うタイプのものでありました。

池宮彰一郎
『本能寺』(上)(下)
角川文庫
定価:660/660 円 (税込)
ISBN978-40436870157/978-4043687022

最近の拾い読みから(149) ―『天皇と東大―大日本帝国の生と死』

2007-05-24 01:25:53 | Book Review
日本近代史を「天皇」および「東大」という窓から観察したノンフィクション。

したがって、上下巻併せて1,400ページを超える分厚さがありますが、日本近代史の流れが、とりあえず頭に入っている人には、さほど苦労せずに読み通すことができるでしょう。

著者ご本人は、結構楽しんで書いているとみえて、読んでいてもそれが感じられます。
その楽しさというのは、おそらく新しい史料を目に通すことによる「発見」の喜びによるのでしょう。しかし、特に目新しい史料が「発掘」されているわけではありません。
それは、巻末の参考文献を見れば分る通りです。

普通、日本近代史のノンフィクションの場合には、「聞き書き」の対象者の名前が出ているものですが、ここにはそれがありません。おそらく、すべての史料は、刊行された書籍や雑誌を元にしているのでしょう。

実は、そこに問題点があるような気がします。
結論から言えば、本書の場合、著者は「啓蒙家」であっても、「思索家」ではありません。
となった原因は、やはり厖大な史料を読むことによる「発見」に目が奪われ、それを咀嚼して論理的な筋を作ることには、はっきり言って成功しているとはいえないからです。

タイトルは「天皇と東大」ですから、東大が持つ構造が、教師や学生に、天皇制を批判したり(数が少ない)、支持したり、どっちつかずの態度を採るようにさせていることを示さねばなりません。
つまりは、天皇制と東大という大学制度が、絡み合って、このような近代をつくってきた原因を追及しなければならないわけです。

ところが、本書では、その原因を個人の問題や、時代の風潮に還元してしまっている気味が強い。
例えば、矢内原忠男が一環して天皇主義、国家主義を批判している態度を採ってきたことを、彼のクリスチャンとしての経歴に還元してしまっています。
また、矢内原とは逆に、天皇崇拝者である歴史学者の平泉澄(きよし)の場合にも、
「平泉が神官だったことがわかると、彼がなぜあれほどの天皇崇拝者だったかがわかる。」
と書かれているだけで、なぜ「東大」なのか、大多数の人には日本最高のインテリゲンチアの集まりであると思われた「最高学府」に、このような人間が教授として留まり得たか、については、ほとんど触れられていません(一つのポイントとして指摘されているのは、『大学令』の「国家二須要ナル学問ノ理論及応用」という規定。これを軸にして記述すれば、また見えてくるものが違ったはず)。

小生が、本書に期待していたのは、戦前における教育制度の問題点と、天皇制との関係だったのですが、それには裏切られた気がします。
もっとも、エピソードは盛りだくさんですから、近代史の読み物としては、それなりに楽しむことはできるでしょうが。

立花隆
『天皇と東大―大日本帝国の生と死』(上)(下)
文藝春秋
定価:2,800/2,800 円 (税込)
ISBN978-4163674407/978-4163674506

最近の拾い読みから(148) ―『小説の技巧』

2007-05-20 02:19:56 | Book Review
まだ、全編に目を通し終わっていないのですが、御紹介はできるだろう種類の本だと思います(図鑑や事典を紹介するのに、全部を読む必要がないように)。

世の中には、小説を書く方法など教えられるものか、という立場の人と、いや、小説を書く方法は教えられる、という立場の人とがいます (本書の「訳者あとがき」では、前者にヘンリー・ジェイムズがいることが紹介されている)。
しかし、このような本を書いた以上、著者のロッジは、後者の立場からといえば、必ずしもそうとは言い切れないところが面白い。
むしろ、
「『修辞的』な、言い換えれば技巧上の、『何を書くか』ではなく『どう書くか』に関する諸要素が、このロッジ版 The Art of Fiction に凝縮されて詰まっているわけである。小説を読む上でも、また書く上でも有益な情報が、きわめて能率よく収められている。」(本書「訳者あとがき」)
のです。

小生が目を通した範囲でも、「視点」「名前」「場の感覚」「人物紹介」「複数の声で語る」などの項目は、なかなか示唆的でした。
このように、「文章読本」や「文藝評論」寄りではない、「技法書」も、日本ではあまり書かれていないのではないでしょうか。

著者が、小説を読む上でも書く上でも、ポイントとなる50のテーマが収められていますが、元々が新聞連載ということもあり、例示としての引用が項目の初めにあることも相まって、分りやすく書かれています。

これも「訳者あとがき」を借りれば、
「小説を読む上で絶対のルールなどありはしないのだが、その一方で、ワープロソフトなどでいくつかのショートカットコマンドを知っていると作業の効率がぐっと上がるのと同じように、小説の作者・読者のあいだで従来ある程度の共通理解事項となってきた技法上の概念や手段を知っておいて損はないことも、また確かだと思う。(中略)一般には、健全な技術的知識は、同じテクストから読み取れる情報量を増やしてくれるはずである。」
ということになります(「効率」や「損」などということばは、ちょっと合わないけれどもね)。

小説を、多少なりとも自覚的に読み/書くよう目指している人には、示唆する点の多い書籍ではないかと思います。
ただし、本書を読んだからといって、すぐに小説がすらすら書けるようになるわけではないから、お間違えのないように。

デイヴィッド・ロッジ著、柴田元幸・斎藤兆史訳
『小説の技巧』
白水社
定価:2,520 円 (税込)
ISBN978-4560046340

最近の拾い読みから(147) ―『鉄道忌避伝説の謎―汽車が来た町、来なかった町』

2007-05-17 01:47:15 | Book Review
「鉄道忌避伝説」をご存知でしょうか。

本書の記述を借りますと、
「明治の人々は鉄道が通ると宿場がさびれるといって鉄道通過に反対したり、駅をわざと町から遠ざけたりした」
とか、
「江戸時代に栄えていたわれわれの町に鉄道が通過していないのは、先祖たちが鉄道通過に反対したからである」
という昔話が、一般常識化したものを指しています。また、それらの「鉄道忌避伝説」は、地方史や社会化副読本などの刊行物に書かれ、今でも広い層にも普及していっています。

著者は、地理学の立場から、これらの「鉄道忌避伝説」がまさしく「伝説」に過ぎず、実際に史料的に追認されるものではないことを本書で示しています。

もちろん、鉄道の開通によって、
「在来交通の関係者は生業の基盤を失うことになるから、あわてもしただろうし、将来のことを心配もしたであろう」
ことは、著者も認めるところです(「実際にあった鉄道反対運動」の章に記述あり)。

しかし、だからと言って、その反対運動が、実際の鉄道建設に影響をもったのは、参宮鉄道のケースのみだと、史料面から著者は断言しています。

それ以外に有名なケース、たとえば萩、栃木、出石、伊賀上野、高遠、岡崎、上野原、武蔵府中などの場合は、明治における鉄道建設の技術的限界(勾配をできるだけ少なくする、トンネルの長さをできるだけ短くする、など)や、経済的な効率(市街地の真中に駅を建設するためには、土地の買収や建設にコストが掛かる)で、説明がつくのです。
著者は、いくつかの例を挙げて、地形図などを使用し、その理由を「鉄道忌避伝説」以外の理由によるものだと検証しています。

また、1885年から89年の「第一次鉄道熱」、1894年頃から97年頃の「第二次鉄道熱」の時代には、むしろ、鉄道誘致が盛んになったことが史料的に裏付けられています。

にもかかわらず、「鉄道忌避伝説」が普及していった理由を、次のような点に求めています。

(1)長い間、鉄道史は学問の対象ではなかった(したがって、史料の裏づけがないまま、伝聞を史実としてしまっていた)

(2)地方史誌が町の栄枯盛衰の原因を「鉄道忌避伝説」に求めてしまった。
つまり、
「江戸時代に繁栄し、古い歴史を有する町の中で、幹線鉄道のルートや駅から遠く離れたところでは、なぜ鉄道がわが町を通らなかったか、その理由が模索されるようになったのである。経済的に繁栄していたわが町に鉄道が通らず、経済的にははるかに低いレベルにあった地域に早くから鉄道が通っていたのはなぜか。そのためにわが町は衰微した。この解答として考えられたのが特定の地域で細々と伝承されてきた鉄道忌避伝説ではなかったか。」
というわけです。また、

(3)社会科の副読本が、安易に「鉄道忌避伝説」を扱ってしまったために、
「ますます多くの人々に『常識』となって拡がって」
いってしまったことを忘れるわけにはいきません。

このような経緯を持つ「鉄道忌避伝説」を未だに信じている人、交通史・地方史に興味のある人に、お勧めであります。

青木栄一
『鉄道忌避伝説の謎―汽車が来た町、来なかった町』
吉川弘文館 歴史文化ライブラリー
定価:1,785 円 (税込)
ISBN978-4642056229

最近の拾い読みから(146) ―『鷲と虎』

2007-05-16 07:52:16 | Book Review
日中戦争を舞台にした佐々木譲の航空小説です。
登場する航空機は、と言いますと、まず日本側では、〈九〇艦戦〉(最初にちょっとだけ)〈九六艦戦〉(これが主人公の愛機)〈九四艦爆〉〈八九艦攻〉〈九六陸攻〉というラインナップ。対する、中国側は〈カーティス・ホークIII〉〈I - 16(ポリカルポフ・イ16)〉〈マーティン重爆撃機〉〈ツポレフSB - 2爆撃機〉など(ちょっとだけですが、〈ハインケルHe111〉も登場します)。

つまりは、〈一二試艦戦=零戦〉と〈カーティスP - 40〉とが主力戦闘機になる一世代前の空中戦小説となるわけです。

その時代を、作者は、
「個人の名によって記憶される空の戦場」
の時代としています。つまり、西欧では第一次世界大戦がその消滅の画期となった、古き良き「騎士道(=武士道)が生きる時代」というわけね(ジャン・ルノワール『大いなる幻影』を参照されたい)。

ですから、主人公は、〈一二試艦戦〉の登場によって、次のような感慨を抱くのです。
「終わった。
おれのような飛行機乗りの時代は終わった。すでに空は、おれのような飛行士を求めていない。おれはもう、昔話の中へと引きこもるべきだ。」

それでは、どのような飛行士が登場するのか、といえば、
「搭乗員たちは、きびきびとした身のこなしで地上におり立つと、塚原司令官の前まで駆けて、一列に並んだ。その動作は敏捷そうで、また見事に統制が取れていた。文字通り一糸乱れぬといった様子だった。麻生(=主人公)には、その様子は機械仕掛けの人形を連想させた。」
という具合。
まあ、この辺は、フィクションとしての筋を通すための描写でありますから、実際に日本海軍航空部隊がそうだったのかどうかは定かではありませんが。

ともかくも、この小説は、以上のような世界を舞台にするために、日中戦争を選んだため、非常に日本の航空小説としては特異なものとなっています。

その他、日中双方のヒロインも登場して筋を盛り上げるのですが、やや盛り込み過ぎて、冗長散漫になったきらいがないわけではありません。
また、空中戦描写も、あっさりし過ぎているかな、と思わせます。特に、最後の主人公とライバルとの一対一の空中戦は、もっと書き込んでもいいような気がします。
また、メカ描写が少ないのも、その手のファンには不満が残る所ではないでしょうか。

ということで、お勧めではありませんが、このような作品もあるということの御紹介でした。

佐々木譲
『鷲と虎』
角川文庫
定価:880.円 (税込)
ISBN978-4041998038