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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

最近の拾い読みから(183) ―『廃帝』

2007-09-25 00:20:12 | Book Review
南朝後醍醐帝によって廃帝とされ、明治以降は南北朝正閏論で南朝が正統とされたために歴代天皇から抹殺された、北朝の天皇・光厳帝を主人公にした長編小説。

珍しい人物を主人公に据えてはいるのですが、明らかに失敗作と評せざるを得ません。

その理由の第1は、何をテーマにした小説か、その全体構成の上から読み取れないことです。
推測するに、おそらくは「武」によって立った後醍醐帝に対して、別の原理で対峙しようとした光厳帝を示したかったのでしょう。
本書での光厳帝の科白に、次のようなものがあります。
「なぜわれらは弓矢を取らないか。武器は、勝敗を決するものだからだ。だが帝の座とは勝敗を超えた聖なるところにある。そうでなければ武門と変りはしない。『荒ぶる者どもには負けよ、武を以て侵し得ぬ場こそ王者の座である』……そう花園院は教えて下された。愚直のようだが私はそれを信じる。この座にいて、もし賊に首を斬られるなら、それが神意なのだと思う」
これが本作品の、もっとも中心になるテーマであると思われます。

しかし、光厳帝(もう「院」ではあったが)は結局世を捨てて、常照寺で仏道修行に勤め、世を去ることになるのね。
これは、光厳院の路線が、有効ではなかったことを示すエピソードではないのでしょうか。ですから、テーマをはっきりさせるためには、ラストの部分を別の形とする必要があったでしょう。

また、語り口としては、光厳院の日記の残欠からのパートと、後醍醐帝の命令により光厳院を襲撃し失敗した源鬼丸の回想のパートに分れています。
日記残欠の部分は、第一人称の語りですから、光厳院の内面に関して触れることができます。
そして、源鬼丸の回想の部分では、第三人称の語りとなり、当時の政治情勢を語り、かつ、後醍醐帝と光厳帝との両者の違いを語ることもできるわけです。
けれども、この回想部分が中途半端なため、そのテーマを立体的に浮き彫りにすることに失敗しています。

第2には、時代考証がちゃんと出来ていないことが、テーマを曖昧にすることにも繋がってきています。
というのは、この時代、後醍醐帝によって「異類異形」の徒が、歴史の表面に登場してくるわけですが、時代考証がいい加減なため、せっかく源鬼丸や「陀羅尼助」という「異類異形」に属する架空の人物を登場させたのに、それが十分には生きてこない結果に終わっている。

以上のような理由から、本作品を失敗作と断ずるわけです。
後醍醐帝vs.光厳帝など、せっかく面白い素材を選んだのにね(小生なら、網野史学の結果をもっと生かして、この2人の帝の対立を、「異類異形」=「非正統」vs.「正統」という形で描きますけれども)。

森真沙子
『廃帝』
角川春樹事務所
定価 1,890 円 (税込)
ISBN978-4758410298

最近の拾い読みから(182) ―『風の群像―小説・足利尊氏』

2007-09-19 10:35:42 | Book Review
以前にご紹介した吉川英治『私本太平記』とほぼ同じ時代を描いた作品です。

したがって、どうしても先行する吉川作品と比較してしまう(黒須紀一郎に『婆娑羅太平記』があるが、これは伝奇小説なので視点が異なる)。
まあ、長編小説としての長さが違うので、作品の濃密が異なることは、言うまでもありませんが(目安として、吉川作品が全8冊なのに対して、杉本作品は2冊)。

その違いの、一番大きな点は、足利尊氏兄弟に焦点を絞ったことでしょう(文庫化するに当たって「小説・足利尊氏」と付け加えられた)。
吉川作品では、足利兄弟だけではなく、新田義貞と脇屋義助兄弟、楠木正成・正季兄弟、および後醍醐帝について、かなりの記述を採っていたのに対し、こちらは彼らの扱いのみならず、小説上の時期からして違っています(杉本作品は、後醍醐帝の隠岐脱出の時期から、尊氏の死亡の時まで)。

尊氏兄弟に記述の的を絞ったことによって、ある一定の方向から見るために、時代相が分り易くなったことは確かでしょうが、全体像を把握するためには、欠ける部分もでてきます。

特に、吉川作品では、身体障害者である盲目の琵琶法師や、後の観阿弥につながるような「の民」などの動きが描かれているのに対して、杉本作品はどうしても大所高所からの上からの見方に偏りがちです(政治史的な記述が多い。下からの目線は「二条河原の落書」についてぐらいか)。

また、杉本作品では、佐々木道誉がほとんど登場しないので、時代風潮としての「婆娑羅」に触れられていないのも、やや物足りない気がします。

本書のタイトルにある「群像」劇としての面白さは、吉川作品に負けているところ。

また、興味深いのは、文体がまったく違っていること。
もちろん作者が違うので、ある程度文体が異なるのは当たり前ですが、それ以上に、時代の違いというものを感じさせます。
2作品が書かれた時期の差、片方が1950年代後半に対して、もう一方は1995年と、四十数年で、日本語はこれだけ違ってきた、というサンプルになります(ともに新聞の連載小説)。

まずは、会話の書き方。
吉川作品は、いかにも昔からの歴史小説という文体になっています。
適宜抜けば、
「はて、介(すけ)はどうしたのだ。介はまだ見えんではないか」
「お備えに、抜かりはなきや」
といった具合。
一方、杉本作品は、ぐっと口語化されて、
「お、おい直義、冗談じゃないぞ」
「光厳上皇がお優しいからこそ、実現できる案じゃないか。人間らしい血を一滴でもお持ちなら、後醍醐院は持明院統の皇族がたに、手をついて感謝すべきところだよ」
となります。

同様の口語化は、地の文にも現れてきますが、こちらはさほど目立つほどではなく、むしろ用語の現代的な点に気づくことの方が多いでしょう。

このような色合いのかなり異なる「太平記の世界」、アナタはどちらを選ぶでしょうか。

杉本苑子
『風の群像―小説・足利尊氏』(上)(下)
講談社文庫
定価(上巻) 700 円 (税込)
ISBN(上巻)978-4062649957

最近の拾い読みから(181) ―『政治家の文章』

2007-09-17 05:11:42 | Book Review
政治家と日本語という話題を語る上で、武田泰淳の著書『政治家の文章』は欠かすことのできない基本的な書物でしょう。

もちろん、初版発行が1960年と古く、扱われている政治家が、宇垣一成、浜口雄幸、芦田均、荒木貞夫、近衛文磨、重光葵、鳩山一郎、徳田球一といった、昭和戦前期から敗戦直後にかけ活躍した人たちですから、時代色を感じざるを得ない。

けれども、その本質的なものは、なぜか今日の政治家でも変っていないところがあります。
それが、社会にとって幸福なのか、不幸なのかは、実際に本書を読んで御判断ください。

さて、本書のトップ・バッターは宇垣一成(うがき・かずしげ。1868 - 1956) です。
軍人ではあるのですが、「政界の惑星」と呼ばれた独自の政治家でもあります。

本書の冒頭にあるのが、『宇垣一成日記』からの一節(大正13年1月1日)。
「光輝ある三千年の歴史を有する帝国の運命盛衰は繋(かか)りて吾一人にある。親愛する七千万同胞の栄辱興亡は預りて吾一身にある。余は此の森厳なる責任感と崇高な真面目(しんめんもく)とを以て勇往する。余は進取、積極、放胆、活発、偉大の精神意気を以て驀進する。世態人情の趣向は余に此の決意を一層鞏固ならしめたり。」
如何でしょうか。今は、文章の巧拙は問いません。
著者の感想は、こうです。
「おそらく、鴎外も漱石も荷風も龍之介も、このような文章は書けなかったであろう。ぼくらの先輩の文学者には、この種の自信はなかった。むしろ宇垣のここに示した如き自信が持てなかったこと、それが彼らが文学者となった出発点であった。彼らには、このような文章の書けるはずがなかった。どのようなことがあっても書けない。書きたくない、書いてはならぬという自覚と信念があったればこそ、彼らは、全く別種の文章を書きつづけることができたのである。」
小生も同感ですが、今日の状況を考えると、それは文学者だけではないでしょう。一般の人びとも、日記とはいえ、とてもこのような表現はできないではないでしょうか。

しかし、政治家諸公の中には、「光輝ある三千年の歴史」や「進取、積極、放胆、活発、偉大の精神意気を以て驀進する」に類することを臆面もなく書く人が、まだまだいそうな気配がする。
ある意味で「美しい国」とか「戦後レジームからの脱却」などというフレーズも、そうではなかったか。

自己批判や省察などいうものは、政治家は語る必要はないのかもしれませんが、そのようなものすら持ち合わせていないような「顔」をした人を、宰相に据えることは、社会にとって大なる不幸だと思います。

武田泰淳
『政治家の文章』
岩波新書
定価 819 円 (税込)
ISBN978-4004140382

最近の拾い読みから(180) ―『私本太平記』

2007-09-13 06:54:49 | Book Review
「たとひ我もろもろの国人の言(ことば)および御使(みつかい)の言を語るとも、愛なくば鳴る鐘や響く鐃鉢(にゅうはち)の如し。」(「コリント人への前の書」第13章)
最初から最後まで「ことば」に力のない方が職を辞しましたが、こちらは「ことば」に力を持たせるためにはどうしたらよいかを考えてみましょう。

そのための今回の題材は、吉川英治の『私本太平記』(1958年からの「毎日新聞」連載。1991年、NHK大河ドラマ『太平記』の原作)。
別に長編小説なら何でも良かったのですが、今ちょっと読み直しているところなので、これを題材とします。

何しろ長い長い。この文庫で全8冊となります(『宮本武蔵』も全8冊)。
これだけの大長編小説を、破綻なく展開するのは、力のある人でなければ難しい(体力、文章力、精神力、その他もろもろ)。
しかも、新聞の連載だったのに、その継ぎ目が分らないのは、なかなかの技です。

語り口から見ていくと、当然のように「三人称小説」ですね。
これだけの長編は、他の人称では難しいでしょう。
小生の経験からすれば、一人称で持たせるには最大で300枚程度がせいぜい。それでも語り口が単調になってしまい、一工夫が必要でした(一人称で書かざるを得ない「自伝」は、書くのが難しいと思います。だから、日本人の「自伝」は、お説教くさくなるんですね)。

次の問題は、主人公の立て方。
本書では、足利尊氏を主軸に、佐々木道誉、後醍醐天皇、楠木正成といった人々が、章ごとの主人公になっていく形となっています。
そして、それぞれの人物相互をつなぐように、サブ主人公が登場する、といったしかけ。
この辺りは、長編小説を組み立てる上での定石かもしれませんが、それぞれの出し入れを含めて参考になります(一人だけを何章も続けて登場させると、読んでいる方も単調に感じられてくる)。

どうしても執筆された時代を感じてしまうのは、文章のリズム。
映画に典型的に現れるように、40年以上も前の作品となると、テンポやリズムがどうしても「とろく」感じられてしまう。
最初は、吉川英治に文章のリズム感がないのか、とも思っていましたが、そのリズムに慣れてくると、やはり時代の制約、と感じられてきました。
その点、司馬遼太郎のテンポは、まだまだ通用していていますね。詳しく調べたわけではありませんが、おそらく1文の長さなども関係しているのでしょうね。
できるだけ1文1文を短くする必要が、今後もあるでしょう(谷崎のように、わざと1文を長くして、その効果を使うという「技」もありえますが、それは例外としておいた方がいいでしょう)。

その他、時代考証的には、若干疑問に感じる点もありますが、それは置いておきましょう。
ともかくも、かなり長きに渡って読まれる長編小説を書くのには、それなりの工夫が必要、というのが今回のとりあえずの結論です。

どうでもいいけど、今回辞任することになった宰相は、そういった工夫や、受け手に対する配慮が、ほとんどなかったように思えます。

吉川英治
『私本太平記』(1)
講談社(吉川英治歴史時代文庫)
定価 714 円 (税込)
ISBN978-4061965638

最近の拾い読みから(179) ―『史疑 幻の家康論』

2007-09-04 04:42:33 | Book Review
『史疑 徳川家康事績』という書物があります。
著者は村岡素一郎(1850 - 1932)、明治35(1902)年、民友社の刊行です。
内容は、
「驚天動地の家康論である。ごく簡単に紹介すれば、『後の世に知られる家康は、ホンモノの死に乗じて入れ替わったニセモノであり、そのニセモノはの出身であった』とする異説が説かれている。」
というもの。

この書物を基にして、南條範夫『三百年のベール』、榛葉英治『異説徳川家康』などのフィクションが描かれています。また、隆慶一郎『影武者徳川家康』も、この書物からヒントを得ていることに、まず間違いないでしょう。

小生、この書物の内容の正誤を判断するだけの知識がありませんので、「トンデモ本」なのかどうかは分りません(内容の正誤に関しての考察が、『史疑 幻の家康論』の一つのテーマ)。ただ、刊行当時「話題を集めた形跡がある」そうで、後の世の小説家にインスピレーションを与えるだけの衝撃性は持っているでしょう。

このような書物なのですが、南條範夫が小説という形で紹介するまで、約半世紀の間、「闇に埋もれたまま」となっていました。
その理由を探るのが、礫川作品のもう一つのテーマとなっています。

従来の説によれば、「徳川家妨害説」が根強くありました。
「明治の社会には、貴族院を中心として徳川公爵家を頂上に、旧大名が隠然たる勢力をもっていたからである。そして民友社々長の徳富蘇峰は貴族院入りを望んでいたといわれる。/そんな時勢のなかでは、よくもこの本が出版されたと言うしかないのである。『史疑』が街から姿を消し、奇書あつかいされたのは、こういう経緯で、それは当然ともいえる。」(榛葉英治「明治文学全集77付録月報8。『史疑 幻の家康論』より再引用)

しかし、礫川は、この通説に異論を唱えます。
「一見すればそれは、大胆な家康出自論であり、推理小説顔負けの家康伝の再解釈である。しかし、この本は家康論というよりは、むしろ家康を素材にした『貴賎交替論』なのであり、その射程は、発行当時の『時局』にまで届いているのである。
すなわち、この本が危険な書物であるのは、それが巧妙な形で時局を論じているからである。当時の政府要人の『出自』に触れているからである。」

それでは、「当時の政府要人」は誰でしょうか。
礫川は、伊藤博文と山県有朋の名まえを挙げます。

以下、本論で、その仮説の論証を行なっていくのですが、その部分が結構刺激的です。
特に「中間(ちゅうげん)」という存在が、長州藩の武士の中で、どのような位置づけにあったか、というのは他の書物にはなかなか見られない記述です。

詳しくは、本書を読んで、論証部分をご確認ください。
「家康伝」にご興味のない向きでも、明治維新史に関心のある人には、なかなか興味深く読むことができるでしょう。

礫川全次(こいしかわ・ぜんじ)
『史疑 幻の家康論』(新装増補改訂版)
批評社
定価 1,890 円 (税込)
ISBN978-4826504706

最近の拾い読みから(178) ―『音の影』

2007-08-27 07:21:31 | Book Review
今回のテーマは、ことばによって音楽は伝えられるか、ということになるでしょう。

本書の著者も、
「ベートーヴェンの悲劇的序曲『コリオラン』は、ハ短調である。最初に、Cの音を二小節、弦楽器がユニゾンで強く奏し、それを全オーケストラが四分音符のサブ・ドミナントで断ち切り……。
やはり、やめておこう。
楽譜や音で説明できないので、実にまだろっこしいのだが、要するにこの曲は、しょっちゅう音楽を断ち切るという、劇的な展開の連続で作曲されている、とだけ書く。」
と述べ、別の箇所では、
「指で触ったら音が出る印刷は、発明されないものだろうか。」
とも言っています(まあ、半分冗談でしょうが)。

それでは、ことばによって伝えられる音楽に関する情報とは、どういうことになるでしょうか。

CDの解説書を見れば、お分かりのことでしょう。

一つは、岩城氏の文章の引用にもあったように、「ベートーヴェンの悲劇的序曲『コリオラン』は……」と、音楽展開を文章にしてしまうというもの。

もう一つは、その音楽から受けたものを、感想文的につづるというもの。
その上等なものを、吉田秀和の文章に見ることができます(もっとも、吉田氏の場合は、第一の方法との合わせ技になっているケースが多いのですが)。
「(ベートーヴェンの)『第五交響曲』をきいて、まるで怪物がこちらにむかって歩いてくるような感じをうけた。こう書くと比喩のようにうけとられる恐れがあるが、実際、ここでは〈音楽〉がこちらに向かって歩き出してくるのである。重くて、野蛮な足どりでもって。」(『世界の指揮者』)

そして、以上の二つのケースを諦めて、演奏家や作曲家のエピソードやゴシップを述べるという手段もあります。
本書は、その手段を採っているのね。

しかし、それでも、文章としての「藝」を捨てるわけにはいきません。
まずは、エピソードなりゴシップなりの選択から始まって、それをいかなる構成・文体の文章で読ませていくか、というところまで。

本書では、著者自身の体験を語ったパートが、もっとも出来がいいでしょう。
「アルベニス」の項目の大学時代の恋の話、「メシアン」の項目のメシアンに出会った頃の話など。特に後者は、メシアン作品の本質に触れるものがある。

同様にして、日本人現代作曲家についての記述もほしかったところですが、'06年6月13日の死によって、惜しくも、本書は岩城氏最後の音楽に触れた文章作品となってしまいました。
改めて合掌。

岩城宏之
『音の影』
文春文庫
定価 580 円 (税込)
ISBN978-4167271077

最近の拾い読みから(177) ―『座談会 昭和文学史』

2007-08-26 10:00:12 | Book Review
小生、このシリーズが出た時には、拾い読みしかしていませんでした。
今、つれづれに通読してみると、これが実に面白い。
その面白さを語るのが、今回のテーマとなるでしょう。

おそらく、最初の企画として、柳田泉、勝本清一郎、猪野謙二『座談会 明治・大正文学史』(全6巻。岩波現代文庫)を意識していたと思います。けれども、この『明治・大正』が文芸評論家による分析とすれば、『昭和』はゲストに現役の文学者や、関係者を呼んで発言させているところが、一つのミソでしょう。

第1巻で言えば、「第3章 志賀直哉」における阿川弘之(晩年の弟子だったし、評伝『志賀直哉』の著者でもある)が典型的な事例。
その他、「第2章 谷崎潤一郎と芥川也寸志」では中村真一郎、「第5章 横光利一と川端康成」では川端香男里、保昌正夫など。

したがって、対象となった文学者の「文学」だけではなく、エピソードが入ってくるのも親しめるところ(この点は、伊藤整『日本文壇史』を連想させる)。
この辺りのバランスが、固くもなく、柔らか過ぎもせず、となっているのは、司会役でもある井上ひさし、小森陽一のお手柄でしょう。

もう一つは、定説だけではなく、新たな知見が随所に見られるところ。
小生が弱いところなのですが、「第4章 プロレタリア文学」などは好事例なのではないでしょうか。
例えば、
「小田切(秀雄) (略)プロレタリア文学は、革命運動案内にもなっていたんです。
 井上 そういう意味では、情報小説ともいえますね。
 小森 運動のためのマニュアル本でもあったわけですね。」
これだけだと「思いつき」にすぎないかもしれませんが、その後に、
「井上 (略)一例をあげます。宮本百合子の『舗道』という小説。丸の内の一流会社に勤める女子事務員が主人公ですが、世の中に共産党員というものがいて、なんだかわからないが世の中のために頑張っているらしいことにだんだん気がついてくる。推理小説のような仕立てで、ごくごく身近にいる同僚が活動家らしいとわかってくる。物語性があるのです。文章も、正確でしなやかです。」
などと続くと、説得性が増してくる。

小説好きの方は、そのような面白さのある、本書に一度目を通されてみてはいかがでしょうか。

*なお、これは第2巻に収録されているものですが、「第6章 島崎藤村―『夜明け前』に見る日本の近代」は、文学者の加賀乙彦と歴史家の成田龍一との発言が、噛み合っているようで微妙にずれて、それに加賀が苛立つ部分があり、座談会としても面白いものでした。

井上ひさし、小森陽一
『座談会 昭和文学史』第1巻(全6巻)
集英社
定価 3,675 円 (税込)
ISBN978-4087746471

最近の拾い読みから(176) ―『トンデモ日本史の真相―と学会的偽史学講義』

2007-08-25 07:51:12 | Book Review
「トンデモ」というと理系の言説が注目されますが(「水伝(みずでん)」や「相対性理論は間違っている」など)、文系、特に歴史ものにも多いようです。

その歴史ものの「トンデモ」をあつめて、その「トンデモ」ぶりを楽しもうという趣旨の書物です。
ただ、著者の原田実が、「九州王朝論」の古田武彦の元にいた人物なので、どうしても古代史が話題として多くなるのは、しかたがないでしょう。

それでは、歴史系の「トンデモ」には、どのようなものがあるか。

まあ、有名なところでは、「義経=チンギス・ハーン」説とか、「信長暗殺謀略説」などでしょうか(最近では、ネット上で、「フルベッキ写真」を元に「明治維新はフリーメーソンの陰謀だった」などの言説が盛んなようですが、これらは本書で扱われている)。

この歴史系の「トンデモ」、大きく分けると、偽史偽伝と謀略論になるんじゃないでしょうか。
偽史偽伝の最近の流行は知りませんが、「竹内文書(たけうちもんじょ)」「秀真伝(ほつまづたえ)」などが有名どころで、広い意味では、これに「未来記」や「東日流外三郡史(つがるそとさんぐんし)」「武功夜話」「金史別本(きんしべっぽん)」なんかも入るんじゃないかしら。

小生、前から偽史偽伝そのものより、このようなものを作る人々の動機や心理に興味があったのですが、この本はその趣旨から、それについては少々触れているだけですね。それでも、和田家文書(「東日流外三郡史」もその一部)と朝日新聞の和田シンパ U 記者なる存在について、若干の記述はあります。この辺りは、古田武彦の弟子だった著者の体験が生きていますね。

さて、謀略説に関しては、本書ではあまり触れられていませんが、それは近代史の「トンデモ」への記述が少ないこととも関係しているのでしょう。
というのも、日本近代史については、さまざまの謀略説が多いからです。一番有名なのが、真珠湾攻撃はルーズベルトの謀略に日本海軍がひっかかったからだ、というもの。
もっとも、こういうテーマになると、1冊まるまる使っても足りないかもしれないので、本書では扱わなかったのかもしれませんが。

本書は、ご自分が、どの程度、歴史系「トンデモ」に汚染されているかをチェックするにはいいかもしれません(正直言うと、小生も若干汚染されていました。どの部分かは訊かないでね)。
なお、ルビの間違いが散見されるのは、編集者の責任でしょうが、原田センセーもチェックをしっかりしてよ。

原田実
『トンデモ日本史の真相―と学会的偽史学講義』
文芸社
定価 1,575 円 (税込)
ISBN978-4286027517

最近の拾い読みから(175) ―『信長の棺(ひつぎ)』

2007-08-19 09:29:40 | Book Review
小泉純一郎前宰相が、現職の時に愛読していたということで有名になった歴史ミステリです。

ミステリとしては、
「『本能寺の変』の後、織田信長の遺骸は、忽然と、この世から消えた。明智光秀の娘婿・明智左馬助が寺の焼け跡に残って、数日、くまなく捜索したが、どこからも出てこなかった。」
はたして、信長の遺骸は、誰によって、何のために、どこに隠されたのか、という謎の真相に迫るというもの。

探偵役となるのは、『信長公記』の作者太田牛一。
牛一が『信長公記』を書くための取材・史料集めをしながら、その謎の解決にも当たるという趣向になっています。

牛一は、かなりの理想化された信長像を持ち、それを描こうとするのですが、裏切られる要素も取材過程で出てくる。それが、執筆の苦心のストーリーと相まって、一種の味付けになっています。
おそらく、前宰相が気に入ったのは、この「理想化された信長像」の部分でしょう。
なにせ「世の中の無能者の掃除人たらん」としたのが、本書で描かれる信長なんですから。

さて、ミステリとしての出来は如何なもんでしょうか。
どうも、推理小説のヘヴィーな読者の採点には、かなり厳しいものがあるようです。
いわく、
「謎解きのあまりの安直さにミステリファンとしては泣ける。」
いわく、
「歴史ミステリでは断じてない、ここで展開されている「お話し」には何の史料的根拠もない。そういう意味では、歴史妄想小説の典型」
などなど。

これらの驥尾に附すわけではありませんが、牛一が信長から預かった大事な木箱の中味が、単なる金だったというのは、がっかりですね。最後まで読者の興味を引っ張っていってそれはないでしょう、というのが正直なところ(しかも、信長が「決して御帝の地位を奪うなどというお気持ちはなかった」証拠だというのですから)。

さて、文章ですが、地の文に外来語が出てくるなどの目立った欠陥はありませんでした。著者が経営評論家らしいので、ちょっと心配していたのですが。
いわば、ニュートラルで読み易い文章ですが、それでいいかどうかは、また別の問題。

小生の好みでは、会話文、地の文とを合わせて一つの世界を形作るのが物書きのしごとだと思っていますので、そういう意味では、この作者、しごとに手抜きをしている、ということになりましょう(もっとも、最近の著者では、そのレヴェルまでのしごとをしている人の方が少ないのですが)。
少しは文章に気を配ってよ、といいたくなります。

最後に一つだけ気がついたことを。
執筆史料として『武功夜話』が使われているようですが、これは今では偽書説が強く、あまり基本資料として使用しない方がよろしいのではないでしょうか(「参考文献」として麗々しく掲げるのは、論外でしょう)。

加藤 廣
『信長の棺』
日本経済新聞社
定価 1,995 円 (税込)
ISBN 978-4532170677


最近の拾い読みから(174) ―『廃帝綺譚』

2007-08-15 04:45:53 | Book Review
本ブログでかつて触れた『安徳天皇漂海記』の続編です。
もちろん、この手の続編の定石どおり、本書単独でも読めるようにはなっていますが、中心的な設定を詳しく知るためには、やはり前作に目を通す必要があるでしょう。

さて、その点を踏まえて言えば、今回の4作品は読み易くなっているとともに、王朝が滅びるとはどのようなことなのか、また、帝王の死というものが帝国にとってどのような意味を持つものなのか、が大きなテーマになっています。

最後に収められた後鳥羽上皇を主人公にした「大海絶歌―隠岐篇」を除き、他の3編はいずれも、過去の中国が舞台。
「北帰茫茫―元朝篇」は大元大モンゴル国の最後の皇帝トゴン・テムルが、「南海彷徨―明初篇」は大明帝国最盛期の皇帝永楽帝と鄭和とが、「禁城洛陽―明末篇」は大明帝国最後の皇帝崇禎帝が主人公となっています。

いずれの皇帝の最期にも、前作でマルコ・ポーロが南海の島から持ち帰った「水蛭子(ひるこ)」の身体の一部が重要な役割を果たす、という物語構造です。

以上のように、物語構造が前作を踏まえていることの他に、語り(ナラティヴ)がよりシンプルになっていること(基本的に「3人称」の語り)から、通読しやすくなっていることは確かなことでしょう。

ただし、それが裏目に出てしまっているとの感が、小生にはします。

というのは、ゴシック建築めいた複雑な物語構造と、複雑な語りが、宇月原作品の持ち味だと思うのですが、それが薄くなってきている。しかも、1作1作、確実に薄味になってきています。
良く言えば、ごく普通の日本の現代小説(ただし質は高い)に近くなってきているのでしょうが、それでは宇月原作品の独自性はどうなるのでしょうか。

世の中に、発想の奇抜さを誇れる小説は多々あると思います。
しかし、惜しむらくは、それに見合うだけの文章世界を持っていないものが大部分です(最近目にしたものから例を引けば、火坂雅志『蒼き海狼』など)。

そういったことからも、文章力のある宇月原晴明には、奇想に見合っただけの文章世界を形作っていってもらいたいものであります(個人的な好みは別にして、前作の『安徳天皇漂海記』辺りがバランスとしてはいいのでしょうか)。

宇月原晴明
『廃帝綺譚』
中央公論新社
定価 2,100 円 (税込)
ISBN 978-4120038327