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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

最近の拾い読みから(173) ―『幕末の毒舌家』

2007-08-14 07:36:04 | Book Review
同著者の『幕末バトル・ロワイヤル』(文春新書)でも、かなり引かれていた大谷木醇堂(おおやぎ・じゅんどう、1838 - 97) の厖大な著作から、拾い出したトピックスを選んで紹介した歴史エッセイです。

さて、それでは、大谷木醇堂とは、どのような人物だったのか。
それが分らないと、なぜここまで雑多な著作を残し、毒舌を振り撒いたのかが理解できにくいと思います。

著者の「あとがき」によれば、
「前半生を下積みの幕臣として苦労して過ごし、その幕府も瓦解して、三十そこそこで明治の世に放り出された」「要するに、一生を失意のうちに送った人物」。
その経歴から、
「自分の不幸を呪い、失敗を社会の責任にし、他人を恨み続け」「書くことで意趣を晴らした」
ということになります。

その意趣の深さは、著作の多さにも現れています。
『公私雑録』『醇堂叢書』『醇堂漫抄』『醇堂手抄』『醇堂記抄』『醇堂雑綴』『醇堂雑録』『醇堂一家言』『醇堂一見識』『醇堂間話』などなど。

次に、なぜ著者は、この妙な人物に興味関心を抱いたか。
それを端的に示しているのが、次のような一節です。
「全篇を貫いて音楽のように流れるテーマがある。暗い片隅から眺めた幕末日本史である。(中略)通常の歴史だったら正面から照明を浴びる有名人も、ほんの傍役を演ずるにすぎない知名度ではマイナーな人士も、まったく無名の人間たちも、ひとしくゴシップの平面に押し下げられて奇妙な平等性のもとに登場してくる。」
からに他なりません。

ここでは、その一例として、鳥居耀蔵でも取り上げてみましょうか。あまりマイナーな人物だと、知る人が少なくて困るので。
「醇堂は、蘭学弾圧(=「蛮社の獄」)そのものは非難しない。かえって維新後も依然として『攘夷』と言い続けた耀蔵をエライものだと支持している。時勢をしらぬバカモノではあったが正しかった、幕府が潰れたのも耀蔵の言葉どおりだった言うのである。」
この辺りの評価は、勝海舟と共通するところ。
むしろ、醇堂らしいのは、話題がゴシップ、あるいはスキャンダルになってからでしょう。
「醇堂が語るところでは、耀蔵の最初の妻は旗本鳥居一学の長女であったが、耀蔵はこの妻が妊娠中だったのを二階から突き落とし、胞衣が胎児にからみついて母子共に死んでしまったというのだ。それだけではない。今度はその妹にあたる次女を妻にして、一時の怒りに任せて死なせてしまった。妊娠の身に踏み台を投げつけられたのでは堪らない。かっとなると暴力的になって手がつけられなくなる。その報いを受けて死んでも不思議はない男だったと醇堂は言うのである。」
本当か、噂があったのか、定かではありませんが、まるで岩井志麻子の世界ですな。

こんなオドロオドロしい話だけではなく、「江戸から狸が消えた日」「阿呆の鳥好き」などのような、お伽話めいた江戸の「ちょっといい話」も紹介されています。

江戸ファンの方は、一度目を通されても宜しいのではないでしょうか。

野口武彦
『幕末の毒舌家』
中央公論新社
定価 2,100 円 (税込)
ISBN 978-4120036026

最近の拾い読みから(172) ―『未完の明治維新』

2007-08-13 07:39:37 | Book Review
「元治元年(1864)から明治13年(1880)にいたる16年間の幕末・明治史を分析」
したのが、本書です。
二百数十ページにわたり、さまざまな史料を元に分析がなされているのですが、基本的なところは巻末「エピローグ」にまとめられていますので、時間のない方は、そこだけを読んでも、著者の意図は分るようになっています。

著者の分析の主たるテーマは、政策目標としての「強兵」「富国」「立憲制」「議会制」が、それを担った勢力によって、どのように具体的な政治行為に表されてきたか、という点にあります。
「西郷隆盛のグループは、日本を東アジアの最大強国にすることをめざした。」
これが「強兵」ですね。
「大久保利通の下に集まった者たちは、政府の手で日本に近代的工業を起こし、鉄道や港や道路などのインフラストラクチャーを整備しようとした。」
これは「富国」路線。
「長州の木戸孝允を中心とするグループは、一方で堅固な中央財政を確立し、その中央集権政府の恣意的な権力行使を抑制するために、憲法の制定を最重視した。」
もちろん「立憲制」を目標とするグループ。
「板垣退助が率いる土佐の政治家たちは、中央集権政府の抑制を憲法にではなく議会に求めた。」
「議会制」を目標とするグループです。

これらのグループが、互いに拮抗し、あるいは妥協を重ねながら、それぞれの目標を達成しようとした。それが、明治政治史の基本的な流れだというのが、著者の見解です。
ただし、
「この四つのグループに共通するのは、自己の路線を実現していくために、租税負担者である農民の力を借りようとはしなかった。」

さて、個々の事件(例えば「民撰議院設立建白書」の提出、「大阪会議」の開催など)は、直接、この本に当たっていただきたいのですが、一点だけ、小生が「目から鱗」状態になった指摘があります。
それは「国民皆兵」制度を採り入れることによって、民衆から徴募された兵士たちだけが鎮台兵になったわけではない、ということです。

著者は、この時期の「官軍」を3種類に分けています。
「第一官軍」(後の「近衛兵」)は、明治4(1871)年に、薩摩・長州・土佐の3藩から献兵された「御親兵」、歩騎砲兵合わせて約6,300人。
「第二官軍」は、「江戸無血開城以後の東北戦争で政府側に付いた諸藩兵」を、政府軍として再編したもの。こちらは、廃藩置県後の4鎮台合わせて、1万5,000人ほど。
「第三官軍」が、「明治6(1873)年の徴兵令施行により集められようとしていた農民兵約3万人」(6鎮台制)。

しかも、「第三官軍」が、外戦用と考えられていた、という指摘は、実に意外な点。
「それ(=「第一官軍」「第二官軍」)を皇居守護と国内治安に当てて、主としてロシアを仮想敵とした外戦用の軍隊を、主に農民から徴兵される徴募兵で組織しようというのである。」

これ以外にも、「征韓論」(「明治6年の政変」)が巻き起こった時点で、薩摩軍団が目指していたのは、台湾出兵による日中戦争だった、という指摘など、なかなか論議を呼びそうな意見が盛りだくさんです。

刺激的な説が説かれている本書は、明治初期の政治史にご興味のある向きには、ご自分での検証も含めて、面白く読むことができるではないでしょうか。

坂野潤治
『未完の明治維新』
ちくま新書
定価 777 円 (税込)
ISBN 978-4480063533

最近の拾い読みから(171) ―『ジャズで踊ってリキュルで更けて―昭和不良伝 西條八十』

2007-08-07 07:33:32 | Book Review
「歌は世につれ、世はつれ―『唄を忘れたカナリア』から艶歌と軍歌と演歌へ、『吹けば飛ぶような』唄の道を歩んだ巨人の泣き笑い人生。流行歌を作り出した舞台に、名もなき人々のエレジーが流れる。中山晋平、古賀政男、サトー・ハチロー……つわもの共の夢の跡。歌に映る時代のいびつな顔を描きとる『昭和への鎮魂歌』」
というのが、出版社サイドの謳い文句。

さて、著者によれば、
「時代時代の『大衆の気分』を嗅ぎ取り、半世紀にわたってヒット曲を量産した作詞家西條八十の評伝がないのはなぜだろう。」
とのことですが、実は評伝小説がありますね。
吉川潮『流行歌(はやりうた)―西條八十物語』(新潮社刊)です。

吉川は、西條が疎開先・下館で入門した長唄三味線師の息子です。そういったつながりから書かれた評伝小説ですが、こちらは小説としてなかなか面白かった記憶があります(現在、手許に見当たらないので、引用などできない)。

一方、斎藤著は、時代順に、西條、野口雨情、北原白秋などと歌謡曲の歴史とその背景をたどっていきます。しかし、テーマ主義なので、小説的な面白さにはいささか欠けるものがあります。
また、そのテーマの展開のしかたが若干生硬なので、やや柔らかめの論文を読んでいる印象です。
「軍歌と革命歌・反戦歌は似ている。皆で一緒に歌うので、まず威勢がいい。
(中略)
軍歌や戦時歌謡の中には、天皇陛下のために死ぬのは日本人としての務めであるという建前とともに、仲間の死は悲しいという本音が同居している。だから『暁に祈る』のメロディーには哀調があるが、革命歌にはそれがなく、歌詞にも悲哀が含まれていない。
(中略)
だが、〈踏みにじられし民衆に、命を君は捧げぬ/プロレタリアの旗のため、同志は今や去り行きぬ〉の赤旗を日の丸に、プロレタリアを大君に替えると、そのまま『海行かば』になる
というような一節が、その例です。

ここは一つ、「昭和不良伝」としての流れを保ってもらいたかったところ(その点では、倉場富三郎と藤原義江を描いた『ピンカートンの息子たち―昭和不良伝』の出来の方が良い)。

また、巻末に多量の参考資料が並んでいますが、その割にはずっこけた事実誤認があるのは、いかなる事情によるものでしょうか(特に例は挙げないけれど、再版の時に直した方がいいよ)。

理屈で昭和歌謡史を捉えたい人には、まあよいのでしょうが、「時代時代の『大衆の気分』」の歴史を振り返りたい人には、若干不満の残る作品でありましょう。

斎藤憐(さいとう・れん)
『ジャズで踊ってリキュルで更けて―昭和不良伝 西條八十』
岩波書店
定価 2,520 円 (税込)
ISBN 978-4000234047

最近の拾い読みから(170) ―『偽偽満州(ウェイウェイマンジョウ)』

2007-08-06 00:00:08 | Book Review
いやあ、実に巧いですねえ。

特に岡山弁が効いています。これが共通語だったら、あるいは東京方言だったら、やたらキツい感じになっているところ、岡山弁なので、何となくゆったりしたところがある。
深刻な内容も、この方言による会話や独白で救われている。
また、悪女でしかない主人公が、コケティッシュに見えてくる。

例によって、まずはストーリー紹介から。
「昭和初期の岡山。美貌と巧みな嘘で男たちを虜にする売れっ子女郎・稲子。客の中西に世間を騒がすピストル強盗・通称ピス完の面影をみた稲子は、商売を忘れてこの悪漢に惚れ込んだ。ともに大陸へ渡ったが、大連で遊廓に売られ、中西を追う旅が始まる―。見知らぬ異国で、人を殺め、金を奪い、男を騙しつつ、思う男に抱かれたい一心の逃避行。赤い大地を破滅へと疾走する女が見た夢の果てに…。」(BOOKデータベースより)

満鉄の疾走感が、主人公の逃避行の疾走感に重なり、実に快い。
大連、奉天、新京、そして幻のハルピン。
それぞれの都市で、季節とともに不思議な体験が主人公を待ち受けている。
この辺の描写も巧いものです。サッと一筆書きに近い筆致で、鮮やかに描かれている。筆力がなければ、これだけの描写は難しい。
実に勉強になります。
「そう、大連の光は白い。朝も昼も。夜でさえ漆黒の中に虚しく清い白さがある……。」

「『奉天は……青いんよ』
稲子はただ何もない眠りに溶けていきながら、呟く。」

「両手に、鉄道がある。終着駅はあるのに、永遠に続いていくかのような線路が延びている。右手と左手、別々に満鉄の列車が滑り込み停車し、また轟音を立ててそれぞれの行き先を目指して出て行く。降りる人に乗る人に彷徨う人。」

「露西亜の駅舎かと見紛う、異国情緒と異郷の美しさと哀しみに模(かたど)られた建物。正教会とは違い、天空にではなく横に、地に沿わせて造られた東支鉄道の拠点駅。どれほど黒煙を吹き上げる機関車が行き来をしても決して汚れることのない、白い壁もある。」

そして、著者特有の幻想味。
「添い寝して淫夢を見させて、精を漏らさせる」遊郭「夢中楼」。
最後は、夢の中か、それとも現実か……、満州国がそうであったように。
「すでに秋の気配が忍び寄っている。秋、そして凍える大地の冬。自分はどこで過ごすのだろう。どこでも、いい。終着駅は、すべての終点ではないのだ。乗り換えていけば、また次の新しい街に行ける。」
BGM に流しっぱなしにしている、R. シュトラウスの歌曲が結構合います。

岩井志麻子
『偽偽満州(ウェイウェイマンジョウ)』
集英社文庫
定価 450 円 (税込)
ISBN 978-4087461275

最近の拾い読みから(169) ―『[遺聞]市川・船橋戊辰戦争』

2007-08-05 08:16:56 | Book Review
実にローカルな話題です。

大規模な戊辰戦争も、個々の中小戦闘の積み重ねで、それぞれの地域によってさまざまな戦闘の名前で呼ばれています
結構大きな規模のものとしては「箱館戦争」が有名ですね。

しかし、その地方の人でないと知らないようなものもあります。
東京都では彰義隊の「上野戦争」、埼玉県では「飯能戦争」、そして千葉県では、この本に書かれたような「市川・船橋戦争」がありました。

これらはほとんどが戦闘の行なわれた地域を示すもので、「市川・船橋戦争」も、今日の市川市、船橋市の千葉街道沿いの中心街で行なわれています。
戦闘の主力は、旧幕府側の脱走「撤兵隊」(慶応3年2月に御持小筒組を改称、改組したもの)。

「撤兵隊」は、江戸開城に反対して脱走、まず木更津に集結して「徳川義軍府」を置きます。
その後、大鳥圭介らの「伝習歩兵隊」なども脱走し、関東一円に戦火が広がるわけですが、「撤兵隊」も、
「市川にいると考えられた伝習歩兵隊との連絡を策したうえで、江戸をうかがおうとした」
と筆者は推定しています。

当時、「撤兵隊」第一大隊長の江原素六(当時は鋳三郎と称す)は、中山法華経寺に進出。
閏4月3日には、
「第一大隊は中山法華経寺を出発した。第二、第三、第四中隊約200名が佐倉街道(現在の14号線)を西進して八幡の備前兵を急襲する。鋳三郎は第一中隊100人足らずを率いて木下(きおろし)街道から西へ迂回し、真間山方面に出て敵の背後の市川を衝く作戦」
を採ったのです。
これが「市川・船橋戦争」の発端となります。
その後の戦闘状況は、細かくなり過ぎるので省略しますが、鋳三郎は戦傷を受け、江戸市中に潜伏後、静岡に移り住み、沼津兵学校の設立に尽力します。

今では、麻布中学校(現麻布学園)の設立者、初代校長としての名前の方が有名でしょうが、そのような経歴の持ち主だったわけです。

本書は、教育者としての面ではなく、旧下級幕臣がどのようにして、幕府軍事組織の中堅幹部となり、旧幕府のために戦うことになったかを、主として語っています。

江原素六は、辛うじて名前を残しているわけですが、同様の経歴を持ちながら、歴史の中に埋没してしまった人々が多々あることは、容易に想像がつくところです。
著者には、そのような人物を発掘することを期待したいと思います。
また、それが崙書房(本社所在地・千葉県流山市)のような地方小出版社の使命でもありましょう。

内田宜人(うちだ・よしと)
『[遺聞]市川・船橋戊辰戦争―若き日の江原素六 江戸・船橋・沼津』
崙書房出版
定価 2,100 円 (税込)
ISBN978-4845510627

最近の拾い読みから(168) ―『大江戸歌舞伎はこんなもの』

2007-08-03 04:55:19 | Book Review
著者は「あとがき」で、こう書いています。
「私が好きな江戸の歌舞伎は、『なんだかよく分らないもの』です。なんだかよく分らないくせに、すごく魅力がある。その魅力の根源は、『平気でなんだかよく分らないままにあること』です」
いかにも橋本流の言い方ですね。

「なんだかよく分らないもの」で、「すごく魅力がある」ものを語ったのが、本書です。
ですから、何か歌舞伎について分ろうとして、本書を取ることはお勧めできませんし、そのような入門書は、ほかにたくさん出ています。

本書は、いわば著者の江戸歌舞伎へのオマージュ、あるいはラヴ・レターなのですが、それだけで一冊の書物は成り立ち得ません。
そこで、取りあえず読み手に対して、その魅力を伝えるために、江戸歌舞伎の周囲を巡って、著者に見えてくるものをレポートしてきます。

その第一が「歌舞伎の定式(じょうしき)」ですが、これは「常識」ではありません。
「定式とは『決まったやり方』――即ちルールのこと。」
です。

ここで面白い指摘があります。それは、歌舞伎の舞台には、4種類の高さの「二重」しかないということ。
「『二重』というのは『二重舞台』の略で、舞台の上にもう一つ台が置かれることです。舞台の上に丘や土手、建物などが登場する時、この台が高さを作るのです。」

「『二重』には、四つ種類があります。“尺高(しゃくだか)・常足(つねあし)・中足(ちゅうあし)・高足(たかあし)”の四つです。」
そして、この4種類の「二重」は、その場所の性格を示しています。
「高足=高貴な人々、及び異質な人々の場所。
中足=高貴な人々の生活ドラマ、及び中程度の高貴さ。
常足=一般人のドラマ。」
といった具合に。

このように、以下、歌舞伎狂言の構成原理、二つの時制(「時代」と「世話」)などの話が続きます。

しかし、読後には、「実際に見なくちゃ分らないや」というごく当たり前の感想しか残らないでしょう(それが著者の意図でもあるから)。
ただし、本書で語られているのは「江戸歌舞伎」であって、現在上演されている「歌舞伎」ではないことにご注意ください。
それだけ、我々は「近代」によって「汚染」されてしまっているのですから。

橋本治
『大江戸歌舞伎はこんなもの』
ちくま文庫
定価:735円 (税込)
ISBN978-4480421791

最近の拾い読みから(167) ―『要塞都市・東京の真実』

2007-08-01 04:05:20 | Book Review
宝島社お得意の、何が言いたいか分らない本です。
つまりは編集方針がしっかりしていないのね。

全4章の内、第1章の大部分は、「秋庭史観」(『帝都東京・隠された地下網の秘密』など地下モノ・トンデモ本の著者・秋庭俊の陰謀歴史観)に基づき、「地下の秘密」を解く、という内容になっています。
ただし、従来の秋庭本とは異なり、現在でも地下鉄などの地下建造物は、軍事的利用のためである、という点が目新しいところでしょうか。

ただし、第1章後半からの内容は、完全に分裂しています。
第一、自衛隊の軍事的な行動が、一連の有事立法によって許容されたことを是としているのか、それとも非としているのか。

有事の際には自衛隊は頼りになる、とある部分では述べているように思えます。
「もし、あなたの家のそばに周囲を何かで囲まれた広い平地がある場合、頼りになる自衛隊駐屯地が出来上がるに違いない。」
しかし、一方では、
「敵国のミサイルは自衛隊基地を目がけてきて飛んでくる。かような理由で、首都防衛の楔(くさび)である駐屯地近辺は、かなりの激戦が予想される。」
ともあります(余談ですが、「防衛」を語るのに「楔」はおかしいでしょう。ここは「要(かなめ)」とすべき)。

また、
「空から衛星が監視し、レーダー網が発達したこの時代に、仮想敵国の大艦隊が突然、東京湾に近づくというシナリオは、第2次大戦中の日本海軍が突如、タイムスリップしてやってくるようなSF小説や映画の世界の絵空事でしかない。」
と述べながらも、
「ぐるりと首都・東京を囲む国道16号線は、陸上から敵が攻めてきた際、最初の砦となる。」
とか、
「敵が東京湾から攻めてきた場合だ。この際も環状7号線がもっとも重要な道路となるのは間違いない。」
とか言っているのは、如何なものでしょう(もちろん別のライターが書いているのだとは思いますが、編集部は論旨の一貫性を持たせるように書き直しさせるのが普通です)。

この他、空母に搭載されているカタパルトを道路に設置して滑走路とする、などというまず不可能な想定(道路を掘り返して設置できたとしても、高圧空気などはどこから持ってくるの?)や、都営地下鉄浅草線は狭軌だから、大江戸線とは相互乗入れができない(軌道ゲージの問題ではない)、などの誤解が散見します。

「軍事おたく」が書いたにしては知識不足だし、かといって「陰謀本」でもないし、「初期秋庭本」的なパンチ力はないし、実に正体不明の本ではあります。
このジャンルに詳しくない若手のライター(文章の粗雑さが、そう思わせる)を集めて、無理矢理でっち上げた、との感が強いのですが、如何でしょうか。
まあ、一言で切捨てれば「パチもん」でありましょう。
エンターテインメントとしてもお粗末だしね。

宝島編集部編
『要塞都市・東京の真実』
宝島社文庫
定価:650円 (税込)
ISBN978-4796659598

最近の拾い読みから(166) ―『ミッドウェイの刺客』

2007-07-31 08:08:21 | Book Review
「虚実皮膜の間」ということばを思い出させる戦記小説です。

近松のこのことばには、いくつか解釈がありうるでしょうが、ここでは単純にフィクション(=創作)と歴史的事実の間を縫って作り上げた作品、というような意味で使っておきます。

それでは歴史的事実とは……。

本作で登場する潜水艦〈海大VI型a〉「伊百六十八潜」は、実在の潜水艦です。
手持の資料『写真集 日本の潜水艦』(光人社刊)によれば、「伊百六十八潜」は次のような潜水艦です。
「開戦時、ハワイ作戦に参加し、(昭和)17年6月7日、ミッドウェー海戦において空母ヨークタウン、駆逐艦ハンマンを撃沈した。」
このミッドウェイ海戦での戦いに巻込まれた潜水艦の戦いと、その乗員の心情を描いたのが、本作品です。「巻込まれた」というのは、本来の任務が「敵情の偵察」で、海軍上層部の作戦破綻により、止むなく敵艦との戦闘になってしまったからです。
また、その内面描写はともかくとして、艦長田辺弥八も実在の人物です(先任将校以下の乗員については不明)。

さて、そういったことで、ストーリーのアウトラインは、実際の戦闘経過を描いています(『証言 ミッドウェイ海戦』あり)。
しかし、それを支える潜水艦のディテイルは、必ずしも記録の通りではないかもしれません。しかし、潜水艦の航海において、まず日常ありうることを述べているのでしょうから、必ずしも「嘘」とは言えないわけです。

この辺から、「虚実皮膜の間」が始まってきます。

特に、潜水艦乗りの心理・心情については、著者はいろいろと調べたことでしょう。しかし、個々の潜水艦、個々の乗員に関しての記録があるとは限りません。
ましてや「伊百六十八潜」は、昭和18年7月27日(ミッドウェイ海戦のほぼ1年後)に、消息不明となっているのですから(米軍の発表によれば、同日米潜水艦〈スキャプ〉の攻撃により沈没)。

そこを、いかに必然性・蓋然性(=いかにもあり得ること)のある描写で埋めていくかに、著者の腕が掛かってくるのです。人によっては、その工夫を「嘘へのコーティングのしかた」と言いますが。
そのようなフィクションでの充填のしかたには、なかなかの腕前が見受けられます。

例えば、本田学三等兵曹の森口佳乃への淡い恋情などは、おそらくフィクションでしょう。たとえ、それが事実だとしても、彼女の写真を同室の吉本宏二等兵曹に見せるなどというエピソードは、作者のフィクションとしか考えられません。

そのようなエピソード群と歴史的事実を織り交ぜながら、淡々と戦闘状況を描いていくのが本作品です。
そこに、上層部の安易な作戦の破綻によって、過酷な運命に巻込まれていく「伊百六十八潜」とその乗員との上に、シンボリックな意味が浮き上がってきます。

やはり、この手の作品は、声高にメッセージを語らない方がよろしいようです。

池上司(いけがみ・つかさ)
『ミッドウェイの刺客』
文春文庫
定価:630円 (税込)
ISBN978-4167206031

最近の拾い読みから(165) ―『ドーダの近代史』

2007-07-27 05:33:20 | Book Review
タイトルを見た時には、嫌な予感がしました。
というのは、とてつもない冗談を読まされるのではないかと感じたからです。

何せ「ドーダ」ですからね。
これは東海林さだおが『もっとコロッケな日本語を』で言い出したことばだそうですから、「とてつもない冗談を読まされるのでは」との危惧も当然のことでしょう。

さて、東海林さだおによれば、
「ドーダ学というのは、人間の会話や仕草、あるいは衣服や持ち物など、ようするに人間の行うコミュニケーションのほとんどは、『ドーダ、おれ(わたし)はすごいだろう、ドーダ、マイッタか?』という自慢や自己愛の表現であるという観点に立ち、ここから社会のあらゆる事象を分析していこうとする学問である。」
ということだそうです。

著者によれば、これを敷衍化して、
「定義 ドーダとは、自己愛に源を発するすべての表現行為である。」
となり、この視点から、前半は「水戸学」と西郷隆盛、後半は中江兆民の思想を分析していくことになります。

さて、分析する上で、わざわざ「ドーダ学」を提唱するだけの効果があったでしょう。それが問題です。

ちなみに、7月22日付け「朝日新聞」読書欄の野口武彦書評では、
「ドーダというと語感は軽いが、その言葉を使うことで何かが明瞭に見えてくる《用語視野》が開けているのは間違いない。」
となって、今一つ評者の歯切れが悪い。

であるのも、「ドーダ学」を「近代史を動かした自己愛の研究」(野口氏命名)とすると、さほどの目新しさはなくなるからでしょう。
いわば文学研究の方法論(著者は仏文学専攻)を、社会史に適応しただけという感が強いからです。

文学では「自己愛」あるいは「ナルシシズム」なんて視点は、別に目新しくも独創的でもない。
したがって、個々のエピソード(特に中江兆民のそれ)に、面白いものが紹介されてはいるものの、小生にとって「《用語視野》が開」かれる(普通「目からウロコ」と言う)読書体験ではありませんでした。

養老孟司『バカの壁』以来、ネーミング先行型の書籍が多いように思われるですが、如何でしょうか。

鹿島茂
『ドーダの近代史』
朝日新聞社出版局
定価:1,785円 (税込)
ISBN978-4022503022

婆娑羅の後裔、織田信長

2007-07-20 05:20:08 | Book Review
黒須紀一郎は『婆娑羅太平記』を書いているとき、きっと頭の片隅を織田信長の存在がかすめたことと思います。

この小説の主人公は文観ですが、副主人公として、後醍醐天皇、足利尊氏、楠木正成のほかに、婆娑羅大名の代表として高師直や佐々木道誉がかなりの比重を占めて登場します。

高師直というと、どうしても忠臣蔵で吉良上野介に仮託されているために、イメージがあまり良くないのですが、この小説に登場する彼は、なかなか颯爽としています。

高師直の代表的な名台詞としては、『太平記』にある、
「もし王なくてかのうまじき道理あらば、木を以て作るか、金を以て鋳かして、生きたる院・国王をば、何方へも流して捨て奉らばや」
というものがあります。
実に革命的なのね。
また、役行者を開祖とする山岳仏教の寺院の一つ吉野蔵王堂や、源氏所縁の石清水八幡に放火したのも、高師直だといわれています。

このような既成の権力を認めないこと(特に宗教権力)は、織田信長を連想させはしないでしょうか(比叡山の焼打ち!)。

また、佐々木道誉の美意識に関しては、黒須著にも、
「大原野(おおはらの)での人の度肝を抜くような立花の会、若き世阿弥に芸道に関する助言を与え、茶道、香道に深い鑑識眼を持ち、立花の口伝書である『立花口伝大事』の作者に比定されているほど道誉の働きはめざましい。」
とあるとおりです。

さて、信長が神にならんとして「盆石」を拝ませた、という説がありますが、これには小生、いささか疑問があります。
自ら神にならんとするためには、ナルシシズムが必要だと思うのですが、信長や、これらの婆娑羅大名にはない。それどころか、生き急いでいる気配すらあります(信長の幸若『敦盛』愛好など)。

それはともかくも、南北朝の婆娑羅大名の風が、信長に蘇っていたのではないでしょうか。

黒須紀一郎
『婆娑羅太平記』1~6
作品社
定価:各 840 円 (税込)
ISBN978-487893494(第1巻)