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⚠️ 【逆説の日本史】戦前から連綿と続く「尊い犠牲を無駄にするな!」という「日本教」 202208

2022-08-24 23:15:00 | なるほど  ふぅ〜ん

【逆説の日本史】戦前から連綿と続く「尊い犠牲を無駄にするな!」という「日本教」
  Newsポストセブン  より 220824


作家の井沢元彦氏による📗『逆説の日本史』
 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第九話「大日本帝国の確立IV」、「国際連盟への道2 その6」をお届けする(第1351回)。

 * * *
 読者のなかには、なぜ近代史に入ったのに南北朝問題をこんなに詳しくやるのか、疑問に思っている人もいるかもしれない。だが、それこそまさにこれまでの日本史教育が日本人の頭のなかに刷り込んでしまった、「宗教の無視」という陥穽なのだ。
 人間の心の底には、常に宗教がある。今も昔もだ。それなのに、いまだに「日本人は無宗教」などと主張する人がいる。とんでもない誤りである。本当に日本人が無宗教なら、常に物事を合理的に考えることができるはずである。

 それならば戦前日本が日米戦争に突入することも無かっただろうし、戦後これほど憲法改正が困難になることも無かっただろう。私の作品の愛読者なら、なにを言っているのかわかっていただけるだろうが、新規の読者もいる。なにを言っているのか、まったくわからないという人もいるだろう。念のため説明しよう。

 戦前の戦争は「無謀だった」とされる。いや、うまくやれば勝てたという人もいるが、そんな論者でもかなりの「大冒険」であったことは誰も否定しないだろう。合理的に考えれば、(原爆の出現は予想できなかったとしても)戦争に負け数十万人の犠牲者が出ることも予測できないわけではなかった。
 しかし実際には戦争に踏み切って、結果的に約三百万人の犠牲者が出た。なぜ、戦争回避という合理的な判断ができなかったのか? 歴史学者はさまざまな政治的や外交的な理由を挙げるが、人間不合理な判断をするときは必ずその根底に宗教がある。

 結局、戦争を避けることができなかったのは、日本人が「戦わなければ、満洲を獲得するために犠牲となった十万人の死が無駄になってしまう」と考えたからだ。
 日本人はすべてと言っていいほど、この「尊い犠牲者の死は無駄にしてはならない」という宗教の信者であって、これに抵抗することはきわめて難しい。戦前でも平和第一を主張する人はいた。だが、そういう人はまるで人間のクズのように非難されたのだ。

 それでも口にする人はまだマシだ。多くの人はそういう言葉を口にすればどんな目に遭うか知っているから、口にしない。
 小説や映画や流行歌も、言論ですらその宗教に翼賛する形になるから、思想統制などしなくても「平和第一」などまったく言えない世の中になる。ちなみに、それが完成したのが昭和前期である。だからこそ「無謀な戦争」が実行可能になった。

 だが、その結果満洲を失ったばかりか約三百万人の犠牲者が出た。しかし「尊い犠牲者の死は無駄にしてはならない」という絶対的な「宗教」は変わらない。するとどうなるか? 
 戦後は信仰の対象が一転して「満洲」から「日本国憲法」になった。「日本国憲法を獲得するために犠牲となった約三百万人の死は決して無駄にしてはならない」、だから「憲法は絶対変えてはならない。改憲は悪だ」ということになった。

 合理的論理的に考えてみよう。そもそも憲法とはなにか、国家とはなにか?

 民主国家とは国民を守るための組織であり、憲法とはその使命を果たすために国家が守らなければならない、もっとも基本的なルールだ。しかし、日本国憲法第九条は戦力を持つことすら否定している。
 これも常識だが、政府は憲法を誠実に守る義務がある。しかし、この憲法を日本国政府が誠実に守ろうとすればするほど、日本の国民を侵略者から守ることはできない。戦力すら持てないのだから。

 実際には日常のように日本の領域にミサイルを撃ち込んだり、他国の領域を侵略する独裁者が存在するにもかかわらず、である。つまり日本国憲法は、とくに第九条を持つから欠陥憲法と言わざるを得ない。合理的論理的に考えれば、これ以外の結論は無いはずである。

 しかし日本においては、改憲論者を極悪人のように非難する人がまだまだいる。おかしいではないか、合理的論理的に考えればこれ以外の結論は無いはずの主張を、なぜ倫理的に批判できるのか? 
 それは宗教だからだ。では、なぜ多くの人間が、それが宗教のせいだと自覚できていないのか?

 おわかりだろう、歴史教育がまったくダメだからだ。日本史を教えるなかでこういう宗教の部分を無視しないでちゃんと教えていれば、国民の多くが非合理な判断をすることなど無いはずなのである。
 戦前の教育はそれができなかった。いや、戦後の教育もそれができていない。だからこそ、合理的論理的な主張をする人間をまるで悪魔のように非難し、しかも自分は正しいと思い込んでいる人間が大勢いる。

 東條英機はアメリカから中国からの撤兵を求められたとき、それを受け入れれば戦争をしなくていいかも知れぬと思いつつも、結局は撤兵できなかった。「英霊に申し訳ないから撤兵できない」、それが彼自身の言葉である、結局その合理性を無視した判断は三百万人の犠牲者を出した。
 今、日本人の安全を守るために憲法改正すべきだと言うと、「三百万人の犠牲者に申し訳ないから改憲できない」と護憲派は言う。結局、東條英機と護憲派の主張は同じだ。理由は簡単で、同じ宗教の信者だからである。
 だが、戦前も戦後も一番大切なことは「犠牲者の死を無駄にしない」ことでは無い。「今生きている日本人の命をどうやって守るか」ということである。

 これも私の作品の愛読者ならとっくにご存じのことだが、念のために言っておこう。護憲派は「戦後の平和は平和憲法によって守られた」と主張する。
 合理的論理的に考えればそんなはずが無いではないか。プーチンに日本国憲法を守る義務があるのか? 日本を侵略しようとする人間が日本国憲法を尊重するはずも無い。日本が平和だったのは、自衛隊と日米安保条約に基づくアメリカ軍の駐留があったからである。
 ウクライナの現状を見れば、そういう抑止力が無ければ国の安全を保てないというのが一目瞭然ではないか。
 日米安保条約ならぬNATO(北大西洋条約機構)に加盟していれば、ウクライナは侵略されることは無かった。だからこそ、中立を守ってきたフィンランドもスウェーデンもNATO加盟を熱望したのだ。

⚫︎「神風」と「平和憲法」は同じ
 しかし、日本には軍事力を「ケガレ」つまり「悪の根源」だと忌み嫌う宗教がある。詳しく述べていたらキリが無いので、興味のある方は『逆説の日本史 第四巻 中世鳴動編』あるいは『逆説』シリーズの総まとめである『日本史真髄』(ともに小学館刊)をご覧いただきたいが、天皇家はこうした信仰を持っていたからこそ、平安時代に軍事権を放棄するという世界史上前代未聞の決断をし、その軍事権を拾い上げた形で武士たちの政権が成立した。これが鎌倉幕府である。

 その鎌倉幕府の時代に、海の向こうからモンゴルが攻めてきた。ご存じ「元寇」だ。幸運なことに、日本は幕府という軍事政権の時代だったので見事に元の侵略を撃退することができた。
 だが、面白く無かったのは天皇家を中心とした朝廷勢力である。彼らは軍事力を「悪」だと考えていたから、そんなものによって神聖な国土が守られたと思いたくなかった。だが、思いたくないと言っても、実際に幕府の軍事力が侵略者を撃退したのは事実だから、それを否定するには超自然的な力を持ち出すしかない。

 おわかりだろう、それが「神風」なのだ。神風は、そもそも「軍事力によって国が守られた」ということを絶対認めたくない人々が考えた、まさに「机上の空論」なのである。
 その証拠に朝廷は鎌倉幕府の責任者で見事に侵略を撃退した執権北条時宗に、なんの栄誉も与えなかった。世界史のなかで侵略を撃退した英雄は何人もいるが、なんの栄誉も貰えなかったのは時宗ぐらいだろう(明治になってようやく大日本帝国は時宗に従一位を追贈した)。

 これも、しつこいようだが論理的合理的に考えればわかることで、どうしても軍事力を「悪」とし、その有用性を認めたくない人間は、結局非論理的な「モノ」が代わりに務めを果たしたと考えるわけで、「幕府の軍事力が元を撃退したのでは無い。あれは神風の力だ」というのと「戦後日本の平和を守ったのは自衛隊や在日米軍では無い。平和憲法だ」というのは、まったく同じ信仰から生まれた発想だということもわかるだろう。
 この意味では右翼も左翼も無い、皮肉なことに同じ日本人なのである。

 ちなみに、このことはすでに二十年近く前に書いていることである。『逆説の日本史 第六巻 中世神風編』にも書いているし、『「攘夷」と「護憲」』(徳間書店刊)という著作もある。
 神風を否定し平和憲法を肯定すれば、自分は民主主義的な善人だと思い込むような人間こそ、じつは「日本教」に自覚無しに縛られている存在で、日本の将来にとってもっとも危険な人々である。日本人を合理的論理的に守ることを認めないからだ。

 何十年も先に、子供から「ねえ、令和時代、なぜ日本は国を守れず独立を失ったの? 北朝鮮はどんどんミサイルを撃ち込んで来ていたし、プーチンのウクライナ侵略もあったのに、なぜ憲法改正して自分の国を守れるようにしなかったの? そんなの人類の常識じゃない」と聞かれ、「いや、それは日本だけは特別で、『憲法改正』と言うと極悪人の仕業のように考え、自分たちが絶対正しいと血相変えて改正に反対した人たちがいたからだよ。
 それが日本独特の宗教の作用であったことを日本人自身が自覚していなかったんだよ。誤った歴史教育のせいでね……」

 なんてことにならないためには、きちんと歴史を学ぶしか無い。そして「きちんと学ぶ」ということは改めて強調しておくが、「宗教を無視しない」ことなのである。

 令和から明治に戻ろう。この時代の新聞(=マスコミ)は国民の「耳目」では無く、むしろアジテーター、扇動者と化していた。わかりやすく言えば、「満洲を得るために犠牲となった十万の人々の死は、絶対に無駄にしてはならない。それゆえに、平和とか国際協調とか日中友好とかいうお題目を唱えて、この尊い犠牲を無駄にするような動きは絶対に許せん」ということだ。
 戦後「平和憲法改正を唱える人間は極悪人」であったように、戦前とくに昭和前期は「国際協調、日中友好を唱える人間は極悪人」であったことを頭に叩き込む必要がある。

 なぜそうなるかと言えば、国際協調とは戦争より平和を優先する態度だから、場合によっては戦争(=尊い犠牲)で得た占領地を返す、あるいは第三国に譲るなどという道につながりかねない。
 日中友好もそうだ。それは中国の主張も認める姿勢につながるから、中国が「満洲はウチの領土だから返せ」と言われた場合、返さなければいけなくなる。いずれにせよ「満洲を失う(=尊い犠牲を無駄にする)」ことになるから、絶対に認められないことになる。
 これを頭に置いておけば、日清戦争後の三国干渉が日本にとって単なる屈辱以上の痛恨事であったことも理解できるはずだ。それはまさに「尊い犠牲を費やして獲得した領土を失う」ことであった。

 昭和史をかじったことのある人間なら、日本いや大日本帝国の軍事・外交政策のなかにもときどき国際協調路線や日中和解路線への方向性が散見されるのに、結果的には強硬路線に必ず回帰してしまう傾向があることに気づくだろう。
 それを歴史学者は軍部の横暴だとか、利権に目がくらんだ政財界の後押しがあったからとする。たしかに、そうした側面もあっただろう。
 しかし、昭和史だけで無く日本史全体から見ればそれはあきらかに、この宗教(尊い犠牲を無駄にするな!)のせいなのである。では、この宗教とはいったいなにかと言えば、これもすでに述べたことだが形を変えた怨霊信仰である。

 怨霊信仰とは,「怨みを抱いて死んだ人間はその激しい怨念によって怨霊と化し激しいタタリをなす。この世に災厄をもたらす。それを防ぐために怨霊は必ず鎮魂しなければならない。
 ただし、鎮魂がうまくいけば怨霊は善なる御霊と化し、この世を災厄から守る」というもので、これが明治以降は「国家のために犠牲(戦死や戦病死した人間)を丁重に祀れば、英霊となって日本を守ってくれる」という形にリニューアルされた。
 もちろん、その根底には「彼らの死を無駄にするようなことをすればどんな災厄が襲ってくるかわからない」という潜在的な恐怖もある。

 もうお忘れになったかもしれないが、現在話題にしている南北朝正閏論で、北朝の出身なのに「南朝こそ正統」と認めた明治天皇は、即位直前に「日本一の大怨霊」崇徳上皇の御陵に勅使を派遣し、かつて朝廷が上皇を配流したことを謝罪してその神霊を京都にお迎えしてから正式に即位し、明治と改元している(『逆説の日本史 第21巻 幕末年代史編IV』参照)

 だからこそ、大日本帝国の「神学」はきちんと検証しておく必要がある。

(第1352回へ続く)

※週刊ポスト2022年9月2日号



💋なんか、マスコミって、時代劇の瓦版売りとあまり変わらないのかな?ジャーナリストと言うよりも…「てえへんだぁ〜」って

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