だから天皇家は世界最古の王家となった…存在価値の大転換を成功させた藤原道長の知られざる功績
プレジデントOnline より 240305 香原 斗志
なぜ日本の天皇家は126代続く世界最古の王家となったのか。
歴史評論家の香原斗志さんは「藤原道長の影響が大きい。摂関政治により実権を握り天皇を権威の象徴にしたことで、結果として天皇が時の権力者から狙われるのを防いだ」という――。
天皇陛下の64歳の誕生日を祝う一般参賀で、手を振られる天皇、皇后両陛下と長女愛子さま=2024年2月23日午前、皇居・宮殿 - 写真=時事通信フォト
⚫︎藤原道長に対する本当の評価
紫式部(吉高由里子)とならぶ主人公だから当然かもしれないが、NHK大河ドラマ「光る君へ」で柄本佑が演じる藤原道長は、いまのところ好人物として描かれている。
しかし、道長の歴史上の評価は、今日にいたるまで必ずしも高かったとはいえない。とりわけ明治維新以降は、天皇の意向を無視して恣意(しい)的かつ専制的な政治を行った人物と評され、いまなおその評価から逃れられていない面がある。
ただし、この評は、天皇親政(天皇自らが政治を行うこと)を建前とした明治から戦前までの体制においては、摂政や関白が政治を代行した「摂関政治」の時代が、理想から隔たっているとされたための批判にすぎない。
ところが、いまなお道長やその一族に対する見方は、戦前の歴史観に左右されている。
たしかに、藤原氏のなかでも北家は一門の権勢を維持するために、力を合わせてほかの一族が力をもつことを阻止し、天皇をしのぐ実質的な権力を手にしてきた。
その後、北家のなかでも勢力争いが顕著になり、最終的に権力を握ったのが道長だった。
いったん権力を握るや、道長は自分の娘たちを次々と天皇のもとに入内させた。
天皇の母方の祖父、すなわち外祖父となって、政治を思うままに動かそうとした。そのことは、それまで生身の権力者だった天皇から実権を奪うことにつながったが、はたして天皇の立場から見て、摂関政治はネガティブな状況だったのだろうか。
⚫︎「摂政」という立場を利用して実権を握った
摂政とは、天皇が幼少であったり病弱であったりした際、代わりに政務を執行する役で、一方、関白は成人した天皇を補佐する役のことを指す。
『日本書紀』には、推古天皇の時代に厩戸皇子(聖徳太子)が摂政になったと記され、これが記録上の最初の摂政になる。
ただし、摂政とは読んで字のごとく、「政」務を「摂」り行うことが文字にされたにすぎない。その後、中国から律令制度が導入されても、そのもとで摂政が官職とされることはなく、必要なときに政務を執行する者がそう呼ばれた。
その役を担うのは、しばらくは皇族だったが、貞観8年(866)に藤原良房が人臣としてはじめて摂政に就任した。良房はそれ以前から、幼年で即位した清和天皇を太政大臣として支え、事実上の摂政だったが、正式に摂政と認められたのだ。
ただし、その時点では清和天皇はすでに元服していたため、事実上は関白だったことになる。つまり良房は、天皇が成人しても政務をあずかるという先例をつくり、そのうえで嫡男の藤原基経が、はじめて正式に関白に就任した。
このとき藤原良房の権力の基盤となったのが、清和天皇の外祖父であるという事実だった。すなわち、娘の明子を文徳天皇の女御にして生まれた惟仁親王を即位させ(清和天皇)、政治の実権を握ったのである。
⚫︎天皇から権力を奪い、権威の象徴にした
その後、藤原忠平(道長の曽祖父)が朱雀天皇の摂政になり、天皇が成人するとあらためて関白に任命された。ここに、天皇が幼少だろうと成人だろうと摂関が政務を執行する、という慣行ができあがる。
さらに忠平の嫡男、実頼が冷泉天皇の関白に就任して以後は、後醍醐天皇による建武の新政時などをのぞき、明治維新を迎えるまで摂関が常置されることになった。いわば、藤原北家が天皇から権力を奪い、権威の象徴に祭り上げたのである。
ただし、陽成天皇の伯父として摂政を務め、光孝天皇の従兄弟として関白に就任した藤原基経は、天皇の外祖父ではなかった。忠平や実頼も同様だった。
同じ外戚であっても、とりわけ絶大な権力を握ることになったのが外祖父だったが、ねらったところで、なかなかなれるものではない。
その難関を突破して、藤原良房以来、外祖父として摂政に就任したのが道長の父で、ドラマでは段田安則が演じている藤原兼家だった。
自身との縁戚関係にない花山天皇を強引に出家させ、円融天皇のもとに入内させた娘の詮子が産んだわずか7歳の懐仁親王を一条天皇として即位させて、その摂政に就任した。
外祖父としての摂政がいかに絶大な権力を握ったか。それは兼家が、藤原氏の氏神にすぎない春日社に一条天皇を行幸させたり、自分の子弟をどんどん公卿に抜擢したりしたことからも明らかだ。
⚫︎3人の天皇の外祖父になった道長
父を範として、権力をさらに強固にしたのが道長だった。もっとも、いきなり外祖父になったわけではない。当初は右大臣(のちに左大臣)および、太政官から天皇へ奏上する文書など一切を先に見て意見をいう「内覧」として最高権力を維持しながら、姉である詮子の息子、つまり甥にあたる一条天皇のもとに娘の彰子を入内させ、時機を待った。
そして、彰子が産んだ敦成親王を長和5年(1016)に即位させ(後一条天皇)、ようやく外祖父としての摂政になる。それに当たっては、対立関係にあった三条天皇を、眼病を理由に強引に退位させている。
また道長は、そんな三条天皇のもとにも次女の姸子を入内させていたから複雑だ。
その翌年には、嫡男の頼道に摂政を譲って出家するが、実権は握り続けた。そして、寛仁2年(1018)には、孫である後一条天皇のもとに三女の威子を嫁がせ、3人の娘を天皇の后(きさき)にすることに成功した(一家立三后)。さらには六女の嬉子も、彰子の子でのちに後朱雀天皇になる敦良親王に入内しているから(嬉子は親王の即位前に死去)、一家立四后ともいえる。
また、道長の死後にも、彰子の子である後朱雀天皇、嬉子の子である後冷泉天皇が即位したので、道長は3人の天皇の外祖父になったことになる。
⚫︎天皇ではない権力者の存在は悪なのか
さて、ここまで記した経緯から、摂関政治が天皇親政の邪魔をしてきたことは、明らかだというほかない。天皇の外戚、それもできることなら外祖父になって権力を握る――。藤原北家はそれをめざして、実質的に保持する権力の大きさは、天皇のそれをはるかに超えてしまった。
ただし問題は、それがネガティブに評価されるべきものかどうか、ということだ。関幸彦氏は、それについて以下のように記している。
「天皇の幼少化が政治権力との遊離を招き、外戚が権力の中枢へと進出、摂関による政治システムの広がりに至る。三条天皇が道長と対抗した背景にあるのは、摂関システムが外戚との関係性のなかで、“成年”天皇を排する傾向を背負っていたからだ。
かりに“成年”だとしても“物言わぬ天子”こそが待望されたからに他なるまい。“物言わぬ天子”の登場は、代替機能を有した他者(摂関)の政治請負化を進行させる」(『藤原道長と紫式部』朝日新書)
少々わかりにくい表現だが、要は、藤原北家が摂関として権力を握るためには、天皇は幼少であるほうが都合はよく、幼少の天皇は判断力もないので、摂関が政治を請け負うようになった、ということだ。
これを関氏は「天皇自身の文化的存在への転換」とも記す。すなわち、道長らが天皇を、権力を行使する存在から文化的な存在、言い換えれば象徴的な存在へと棚上げした、ということである。
以来、天皇は事実上の権力者に権威をさずける名目上の統治者として、今日にいたるまで存続することになった。
⚫︎だから天皇システムは存続し続けた
仮に天皇が実質的な権力を握り続けていたら、あらたに権力の座をねらう人物は、それを倒さなければ権力を握れない。当然、平氏にせよ源氏にせよ、天皇を倒すことを検討したのではないだろうか。それは他国や他地域の歴史をみれば明らかである。
しかし、武家としてはじめて政権を掌握した平清盛は、藤原氏同様に天皇の権威に寄り添いながら実質的な権力を握ることで満足した。
続く源頼朝も、天皇からあたえられた征夷大将軍という官職に政権の正統性を求め、他国のように前王朝を倒して新王朝を築くことなど、おそらく考えもしなかった。
それは天皇という存在が文化的=象徴的なもので、権力基盤を固めるためには、それを倒すよりもその権威に頼ったほうが有利だと判断したからにほかならない。
そして、この判断はのちの武家政権にも継承されていく。執権北条氏も足利尊氏も、みずからが天皇に替わる存在になることなど考えもしなかった。
織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も、天皇の権威を借りて国を統治することを考え、それを滅ぼそうとはしていない。それは藤原兼家や道長らが、天皇を利用価値がある象徴に祭り上げたからである。
前出の関氏も「皮肉ながらわが国の天皇システムが存続し得た理由は、十世紀の王朝国家が天皇を政治から分離させたことにあった」と記す(前掲書)。
明治国家は天皇親政こそが理想だと喧伝し、それを阻害した道長らを、天皇の敵であったかのようにプロパガンダした。しかし、そもそも道長らの摂関政治がなければ、明治国家が頼った「万世一系の天皇」は、とっくに存在しなかったかもしれないのである。
また、明治国家が理想とした天皇親政よりも、現在の象徴天皇制のほうが日本の伝統に近いことも、最後に付記しておきたい。
▶︎香原 斗志(かはら・とし) 歴史評論家、音楽評論家 神奈川県出身。
早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『 カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『 イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。