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世界の河川,35年間で衝撃の変化 科学者らが調査 2024/12

2024-12-14 03:33:19 | 気になる モノ・コト

世界の河川、35年間で衝撃の変化 科学者らが調査
  CNNニュース より 241214

  
 中国雲南省の長江。過去35年間で水量が大幅に減少した河川の一つ/Tuul & Bruno Morandi/The Image Bank RF/Getty Images

(CNN) 世界を流れる300万近い河川に現在、急速かつ予想外の変化が生じている。影響は飲料水から洪水のリスクまで、あらゆる面で劇的なものになる可能性がある。新たな研究から明らかになった。


 科学者らは地球上の河川一つ一つの水の流れを35年間毎日調査。衛星データとコンピューターモデリングを駆使して分析したところ、衝撃の結果が出た。

12日刊行のサイエンス誌に掲載された研究によると、世界最大級の河川では半数近くに相当する44%が毎年流れる水の量を減らしていることが分かった。

 アフリカ第2の河川コンゴ川や中国大陸を流れる長江、南米のラプラタ川は流量の減少が著しいと、論文の筆頭著者で米シンシナティ大学の水文学教授、ドンメイ・フェン氏は述べた。

対照的に極めて小さい上流の河川の場合は事情が異なり、流量は17%増加していた。これらの河川の大半は山岳地域を流れている。

 論文では変化の理由について詳しく調べてはいないものの、著者らによれば明らかな要因は人間活動や化石燃料の使用が引き起こす気候危機だという。これらは降雨のパターンを変動させ、雪の融解を加速する。

 従来の研究は最大級の河川の流量のみに注目する傾向があり、導き出される結果も特定の地点、特定の時期に限定されていたと、論文共著者で米マサチューセッツ大学アマースト校の土木環境工学教授、コリン・グリーソン氏は指摘する。

 同氏がCNNの取材で明らかにしたところによると、今回の研究で用いた手法で、研究者らは「対象となる全地域を一度に」眺めることが可能になった。こうして作成した河川のマップは、これまでで最も正確なものかもしれないという。

 世界の河川は研究者の想定以上に変化していたというのが、グリーソン氏の結論だ。一部の河川では1年間に流量が5%もしくは10%の割合で変動していた。「変化のペースとしては極めて早い」という。

 シンシナティ大のフェン氏によれば、河川は「地球の血管のようなもの」であり、流れのパターンが変われば重大な影響が及ぶ。

 川下での流量の著しい減少は、最も広大な箇所で使用できる水が減ることを意味する。これは地球上を流れる河川の多くに当てはまると、論文は指摘する。言い換えれば、人々の飲用や穀物、家畜に与えるための淡水が減るということだ。

 水の流れが遅くなれば、泥や小さな岩からなる堆積(たいせき)物を動かす力も弱まる。これはさらに下流で堆積物が三角州を形成する上で重大な影響をもたらす。三角州は海面の上昇に対して天然の防護物の役割を果たす。

 一方でごく小規模な河川については、その多くが地球温暖化に伴う氷雪の融解の影響を受け、川の流れは速くなっている。それによって種々の栄養物が魚類にもたらされるといった好ましい影響も起こりうる。

 ただヒマラヤ山脈などの地域では、流速の上昇が「想定外の被害をもたらす」こともある。下流へ運ばれる堆積物が増加し、水力発電所の稼働を妨げるといった事態がそれだ。

 川の流れが速まれば洪水の被害も悪化する。研究の結果、小さな下流の河川で発生する大規模洪水は、この35年以上で42%増加していることが分かった。

 英レディング大学の水文学教授、ハンナ・クローク氏は、当該の研究について、ごく小さな河川まで含めて広範囲に焦点を当てているのが重要だと指摘する。同氏は今回の研究に関与していない。

 クローク氏はCNNの取材に答え、最も甚大な洪水の一部は必ずしも大きな河川で発生するわけではないと指摘。逆に小さい河川や、普段は干上がった河川に突然水があふれ、人や車、建物を流し去るケースもあると示唆した。

 研究の次なる段階は、こうした河川の水流の変化がこれほど急速に起きる正確な理由を突き止めることにある。同時にそうした変化への対処法にも取り組む必要がある。
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クマの殺処分にかわいそうの抗議〉「(クマの代わりに)お前が死ね!」の暴言も…ネット社会で巻き起こる論争に抜け落ちていること 2024/12

2024-12-13 00:54:19 | 気になる モノ・コト

〈クマの殺処分に「かわいそう」の抗議〉「(クマの代わりに)お前が死ね!」の暴言も…ネット社会で巻き起こる論争に抜け落ちていること
  Wedge より 241213  林 智裕


 『「友だちでした。何も言えない」クマに襲われたとみられる遺体、北大生と判明…キャンパスで沈痛な声、水産学部長「志半ばの若い命が失われたことに深い悲しみ」』──。

 今年4月に筆者が上梓した拙著『「やさしさ」の免罪符 暴走する被害者意識と「社会正義」』冒頭の記述である。

 本の執筆を始めたちょうど1年前のこの時期、クマによる被害人数は環境省が統計を取り始めた2008年度調査以来で過去最悪となっていた。
 全国統計では11月の暫定値時点で22年(76人)の2.8倍以上の212人、死亡例は22年の3倍となる6人に及んだ。

 今年も昨年に続き、日本各地で記録的なクマの出没が相次いでいる。秋田市内のスーパーでは、従業員を襲ったクマが3日にわたって立てこもる事件まで発生した。

⚫︎人里に出没するクマの殺処分を「かわいそう」と抗議するのは正義なのか(Freder/gettyimages)
 ところが、クマの殺処分には反対する声も相次ぎ、行政には抗議の電話が殺到している。
 これら抗議の大多数は、他人事でいられる地域からのものだ。安全圏から「可愛いクマが可哀想」「命をまもれ」などと安易に抗議すれば、自分が「やさしい」「ただしい」「知的」「いい人」「ヒーロー/ヒロイン」になれたかのような自己満足を手軽に感じることができる。一方で、クマの出没リスクに直面している当事者、被害に遭っている地域にとってクマの殺処分は死活問題だ。

 ところが、当事者の事情など抗議者にとっては「自己満足を邪魔するノイズ」でしかない。事実、抗議の矛先は被害者家族にまで向けられた。中には「(クマの代わりに)お前が死ね!」などの暴言さえ珍しくない。

 「秋田県から人間を追い出せば全てが解決する」などと主張する者まで現れた。抗議者側が、いかに当事者の人権や地域を軽んじているかが垣間見える。

⚫︎クマの出没とNIMBY問題の構造的類似
 これらの現象を単なる感情論として片付けるのは容易だが、そこには社会学的視点で捉えるべきNIMBY(Not In My Back Yard:私の家の裏庭には持ってこないで)問題としての意味がある。
 NIMBY問題とは、「公共のために必要な事業や施設であることは理解しているものの、自分の近所で行われることは反対する」という住民のエゴイズムに使われる概念である。主に空港や工場、発電所、ゴミ処理場、刑務所などが槍玉にあげられ、ときに保育園や幼稚園、児童相談所、病院や特別養護老人ホームなどが対象にされることもある。

 これも前掲した書籍に記したが、近年では「公共のために必要な事業や施設であることは理解している」前提や公共と「裏庭」の境界すら見失い、たまたま自分の視界に入った心的不快の排除、承認欲求などの自己愛を満たすこと、あるいは何らかの政治党派性に都合の良い主張ばかりが肥大化したケースも見られる。

 代償となる心的・物的・時間的コストやリソース、解決努力や譲歩といった負担の全ては他者に丸投げした上で、感謝どころか「悪役」として無限に叩けるサンドバッグにさえしようとする。
 挙句、それら甘えやエゴを「やさしさ」「社会正義」「被害者側」「アドバイスを与えてやった功労者」であるかのように正当化する立ち居振る舞いさえ珍しくない。

 クマをめぐる抗議活動も、この構造に類似性を持つ。
都市部やクマが生息しない地域に住む、本来であれば何ら当事者性を持たない抗議者が、現地のリスクや生活環境に無関心なまま当事者を差し置き、「クマを殺すな」などと「被害者」「当事者」然として声を上げる。
 一方で、クマ出没リスクに直面する地域住民や行政といった本来の当事者や被害者は苦しい実態を理解してもらえず、むしろ「悪役」のように糾弾される立場に追い込まれる。

 「自然を守れ」「生き物を殺すな」という大義名分は、クマ駆除に反対する抗議者の主張を正当化する強力な論理として機能していると、抗議者側は見做しているであろう。
 しかし、その裏には自己満足・免罪的な「やさしさ」(優しさ/易しさ)が潜む。
それら『「やさしさ」の免罪符』がいかに近視眼的であり、現実や人権を軽んじた詭弁・暴力・ハラスメントであるかを可視化させる必要がある。

 クマが脅威とならない地域からの抗議者らは、現地の被害など、まるで「取るに足りない辺境で起きた他人事」のように思っているのだろう。
 だからこそ、実態を真摯に学ばずとも「自分が格上の存在で尊重されるべき」であり「易しく」口出しできると、さも当たり前のように問題や当事者全てを見下している。
 要するに、彼ら彼女らにとって自分の視界内から「クマが殺される」という不快な出来事が排除されることは、地方に暮らす人々の生活や人権、命よりも遥かに重いということだ。

 今、社会で議論されるべきは「クマ殺処分の是非」などでは全くない。いかにこうしたノイズに相応の代償を返し、理不尽な暴力から当事者と地域を守るかだ。

⚫︎「やさしさ」が生む分断と社会正義の暴走
 こうした「やさしさ」の問題は、様々な社会運動に共通して見られている。
身近で分かりやすい例としては、たとえば都市開発やインフラ整備に伴う「樹木の伐採反対運動」も挙げられるだろう。 

 2024年夏、かねてより燻っていた東京都の明治神宮外苑の再開発をめぐる反対運動が話題になった。東京都知事選でも蓮舫候補が「いったん立ち止まる。都知事選の争点にしている」と主張し、都による環境影響評価や、開発が可能となった都制度の適用過程について「厳格に検証する」と訴えたことで更に注目を集めた。

 反対派の主張は「歴史的な景観を守れ」「緑を破壊するな」という感情的訴えが中心であったが、実際の開発計画には新たな植樹や持続可能性を考慮した取り組みが含まれていた。
 小池百合子候補(現都知事)は蓮舫候補とは対照的に、「争点にならない。なぜなら今立ち止まっているから」と説明。事業主体である民間事業者に樹木保全策の提出を求めているとした。「イチョウ並木が切られるとのイメージがあるが、そうではない。むしろ樹木の本数は増える」とも述べた。

 こうした反対運動は、自然保護という「やさしい」大義名分のもと、計画の全体像や将来的な利益、ときに事実さえも無視した感情的な論調に帰結しがちになる。
 詳細は記事「彼らはなぜ神宮外苑再開発反対のデマに乗ったのか(加藤文宏)」で述べられているが、明治神宮再開発反対運動には、数々のデマも発生していた。
 これらの目的は「当事者の為」なのか。そもそも「当事者」とは誰を指すのか。

⚫︎当事者を無視する〝批判〟
 こうした状況は、今年1月に発生した能登半島地震の復興を巡る議論にも見られる。

 発災直後から、被災地には遠方からのデマや、それらを基にした身勝手で現実離れした「べき論」がぶつけられた。その一端について、詳しくは能登半島で自らも被災した方自身が以下に綴っている。

『令和6年能登半島地震にかかる風評・流言・誤解の記録検証について~もう一つの「震災被害」を記憶する~』
1.地震直後も道は空いていた、渋滞は嘘だ
2.被災地への救助部隊派遣が遅いし少なすぎる、政府の怠慢だ
3.石川県は最初ボランティアに来るなと言ったが手のひら返しした
4.被災地がボランティアを拒んだせいでボランティアが来なくなった
5.ボランティアから参加費をとるのはおかしい
6.被災地を見に行ったがまだ「瓦礫」が片付いてない、怠慢だ
7.二次避難者から料金を徴収するのは酷過ぎる
8.万博/宿泊割/ブルーインパルス飛行/政府外遊をやめてその予算を復興支援へ回すべき

⚫︎おわりに.行政・政治を動かす為にデマや誇張は許されるか
 能登半島では今もなお、復興復旧が不十分な場所ばかりを敢えて探し「政府の対応が悪い!」と主張したがる人々も少なくない。
 一方で、復興復旧は政府と被災地、当事者らが協力して推し進めてきた。

 当然課題も残るが、既に驚くべき成果を挙げた部分もある。それらを知ろうとすらせず、外野から「やさしい」批判をすることは、同時に被災地の努力と成果全てを「上から目線で」否定・侮辱すること、熊害に安全圏から文句を付けているに等しい行為にさえ繋がりかねないことに注意するべきだ。

 残念ながら、被災当事者への侮辱を隠そうともしないケースも既にある。
意に添わぬ被災者に対し「じゃあ、ずっと瓦礫の下でお過ごしください」と言い放った者がいた。「能登ウヨ」(ネット右翼=ネトウヨという俗語・侮蔑語から)呼ばわりする者もいた。

 これらは「(クマの代わりに)お前が死ね!」と言い放った者と何が違うのか。

⚫︎社会的解決に向けた課題
 クマ殺処分や伐採問題、能登半島地震など数々の事例から見えてくるのは、「困難に直面した現実の当事者」を差し置いて、当事者性・被害者性・発言権を奪おうとする「外部の無責任な理想主義者」に社会がどのように対処すべきなのかという課題である。

 無論、現場のミクロ的な視点からだけでは見えない、解決できない課題もある。
理想主義の全てを否定する訳ではないし、外部の人間が当事者に一切関わるなというつもりも全くない。

 ここで問題になるのは、災害などの緊急時にさえ興味本位や自己愛を満たすこと、あるいは何らかの政治党派的な主張ばかりが目的の、現場と謙虚に向き合わず、コストも責任もリスクも負う気すら無きまま「当事者」「被害者」になり替わろうとする雄弁な部外者たち、そして、それらを無批判に歓迎し招き入れてしまっている人物や社会だ。

 「広く多様な共事者視点を交えた議論」とでも掲げれば「やさしい」「正しい」「知的」「冷静」「いい人」のように振舞えるかも知れない。

 それは、救急車の不適切利用にも似ている。消防隊が通報した人を誰も拒まないことは結局、限りあるリソースの奪い合いをもたらす。
 社会問題の場合、その議題や世論における支持は声の大きいものや数多くの投稿によってときに「事実」や「社会的正しさ(コンプライアンス)」をも凌駕してしまう。


⚫︎誰もが通報できる119番通報は、時に声を上げられない急患を苦しめる
 そうしたリソースの奪い合いは非常時であるほど、声をあげる力無き急患や被災者など、最も危機的な弱者に襲い掛かる。
 たとえばクマ出没問題で命の危機にある被害当事者に、「クマ殺処分反対派も交えて、共に冷静な議論するべきだ」などと迫っても、被害当事者は全く救われない。
 東京電力福島第一原子力発電所事故の場合、部外者からはデマだらけの「放射線被曝による住民の健康被害」ばかりが声高に叫ばれた一方、それら社会不安の拡散こそが被災者へ健康被害や震災関連死をもたらしたことはほとんど顧みられなかった。

 これまで社会問題を巡る議論では、無責任な外部からの干渉を批判すれば「分断を煽る」「排他的・暴力的」と見做され、逆に当事者や被害者の言葉を奪う行為を擁護・正当化することが「やさしさ」「正しさ」のように扱われてきた。
 それらを喝破し安易な免罪符を与えないことが、今後様々な社会問題の解決に求められる大きな課題と言えよう。
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「秋田のクマ駆除」に"ブチ切れる人"なぜ増えた? 2024/12

2024-12-06 20:01:54 | 気になる モノ・コト

「秋田のクマ駆除」に"ブチ切れる人"なぜ増えた?
木村 隆志:コラムニスト、人間関係コンサルタント、テレビ解説者

肉食でもあるが、ヒグマと比べても植物食に依存するというツキノワグマ(画像:sw950502/PIXTA)


秋田県秋田市のスーパーにクマが侵入したのは11月30日。47歳の男性従業員が襲われて頭などを負傷し、クマは2日以上にわたって居座り続けましたが、わなにかかった後に麻酔で眠らされ、その後駆除されたそうです。

【写真】秋田で人気?「ツキノワグマの自販機」と、確かに可愛い…「ツキノワグマの赤ちゃん」

これらが報じられると、市などに100件を超える抗議の声が寄せられたことが波紋を呼びました。

「人間の都合で殺すな」「山に返すべき」「かわいそう」などと抗議する声に賛否があがっていますが、このような現象は今回だけではありません。
 クマの出没が各地で相次いで報じられ、そのたびに同じような命をめぐる論争が起きています。

 また、先月末には北海道猟友会が71の支部に「クマ駆除要請の拒否を認める通知を出した」ことが大きく報じられました。
 これは2018年に同道砂川市のハンターが発砲した際、危険性を理由に猟銃所持許可を取り消された札幌高裁判決を受けたものでしたが、このときにも「クマの駆除」に関する論争が起きました。

⚫︎命は重くても抗議は行き過ぎ
 はたしてクマ駆除の反対派による「命の重さ」「動物愛護」「自然との共生」などの主張は妥当なのか。度重なる論争の本質はどこにあるのか。そして何か悪影響を及ぼしているものはないのか。掘り下げていきます。

【写真を見る】秋田で人気?「ツキノワグマの自販機」と、確かに可愛い…「ツキノワグマの赤ちゃん」
 まず今回のケースに関しては、クマ駆除の反対派による「命の重さ」「動物愛護」「自然との共生」などの主張は、1つの貴重な意見でこそあれ、妥当とは言いづらい感があります。

 クマがスーパーの商品を食べた可能性がゼロではないこと。少なくとも食べ物の存在を知ったことから、山に返しても再びスーパーを訪れるリスクがあり、住民や店員の不安が募ること。
 地元では今月数十件の目撃情報があったうえに、捕獲翌日に別のクマの目撃情報もあったなど、ゆったり対応している余裕がないこと。だから秋田県、秋田市、警察が連動して懸命に対応したこと。

 また、秋田に限った話ではない部分で、このところ市街地に出没したケースが続くなどクマの生息圏内に住む人々の危機感が増していること。
 山に食べるものがないからではなく、あるときでもおいしいものを大量に食べようと人里に降りてくるなどクマの学習能力が上がっていること。
自分たちの命だけでなく、住宅や農作物などの財産も守りたいと思っていること。だから自治体には抗議ばかりではなく、感謝の声も多数寄せられていること。

 これらの理由から「命の重さ」「動物愛護」「自然との共生」という主張そのものは理解できても、当事者の安全や心境を踏まえると、抗議は行き過ぎのように見えます。

クマが立てこもって2日、駆除されてから5日での営業再開を発表したスーパー「いとく土崎みなと店」(写真:同店HPより)

⚫︎「自然と共生していない地域の人」ほど声が大きい
 そもそも「命の重さ」や「動物愛護」を考えるのであれば、クマの駆除だけをピックアップして当事者に抗議するのはフェアではないでしょう。他にもそれらを訴える案件はあるはずなのに、なぜクマの駆除にそれらの声が大きくなるのか。
 クマの出没がたびたびニュースになるから命をめぐる主張がしやすいのかもしれませんが、被害に苦しみ、現場で必死に対応している人々に不要な心的負担を強いている感は否めないのです。

「自然との共生」に関しても、共生しているからこそクマが出没して被害が出ているのでしょう。本当に自然と共生している地域はわざわざそれを掲げないでしょうし、「もともとあまりクマがいなくて被害が少ない」地域の人ほど、「自然との共生を目指そう」などと掲げるのかもしれません。
 もしクマが人里に出没したら、「これからも自然と共生していくためにはクマの駆除が必要」と考えるのが自然に見えます。

⚫︎他人への想像力と理解に“個人差”
 体長1.1メートル・体重69キロのメスで、それほど大きくないツキノワグマだったこと。襲われた男性が軽傷だったこと。本当に商品を食べたのか明らかではないこと。ツキノワグマは植物が主食であること。住宅地のため銃を使わなかったことで「生きて森に返すのだろう」と思わせたこと。

 クマの駆除反対派の中にはこれらの主張も見られましたが、いずれも論争の本質ではないでしょう。
 クマの駆除に関する論争が過剰になってしまう最大の理由は、他者への想像力と理解に個人差があること。これが論争をヒートアップさせる要因になっています。

「『自分の生活エリアにクマが現れるかもしれない』という状況で安心して暮らせるのか」
「もし自宅にクマが入ってきたら、スーパーでクマに遭遇したら、どう対応するのか本気で考えたことはあるか
「自分が大丈夫だとしても、家族、友人、仕事仲間などがクマの出没を不安視していないか」
「クマ出没の不安があることでスーパーなどの客足が遠のき、もし出没したら店が閉鎖されて営業ができないなど困ると思わないのか」

 これらを自分事として真剣に考えたとき、「命の重さ」という主張はさておき、クマの駆除に抗議できる人は多くないでしょう。
 意識的かどうかを問わずニュースを見たときの印象や感覚が優先されるほど、他者への想像力や理解が後回しにされていきます。
 さらにネットの普及で目にするニュースの量が増えたことが、「印象や感覚優先で、他者への想像力や理解が後回し」という風潮を加速しました。

 1つひとつのニュースを当事者の立場でじっくり考えるのではなく,自分の印象や感覚ですぐに判断を下す人が増え,中でも批判的なものほど瞬発的に発信されやすい傾向があります。
 そのニュースに関する情報をそれなりに得て、自分なりに学んだうえでの印象や感覚であればいいのですが、瞬発的に抗議の声をあげる人々がそれをしていないのは明白。

 特にネットニュースは「あまり考えずにコメントしてもいいもの」とみなされがちで、思い込みのような声が目立ちます。だから「他人の命を想像できずクマの命だけを考える」「生かして返せる方法は何かしらある」などと他人事になってしまうのでしょう。

⚫︎ウシ、ブタ、ニワトリはいいのか
 今回ネット上のコメントを見ていると、「ウシ、ブタ、ニワトリを食べている人が『クマを殺したらかわいそう』は矛盾している」という声が散見されました。
 さらに「『かわいそう』と言うなら人間に危害を与えないウシ、ブタ、ニワトリのほうだろう」「畜産にかかわる人々はさまざまな思いを抱えながら日々命と向き合っている」などの声もありました。

 これらの人々は「他者への想像力と理解がある」と言っていいのではないでしょうか。一方、もし犬や猫を飼ってかわいがっている人がクマに命の大切さを重ね合わせて抗議したのなら想像力が足りないように見えます。

 たとえば今では少なくなりましたが、野犬が現れて愛犬や自分が襲われたときも同じことが言えるのか。ペットや人を襲うかもしれない野犬を殺処分しなければ誰が世話をして、誰がお金を負担するのか。本当の意味で抗議できるのは「私がやります」と責任を負える人だけなのかもしれません。
 命をめぐる論争そのものはあってしかるべきものでしょうが、その前提として欠かせないのが、他者への想像力と理解。

 個人差があるのは当然だとしても、当事者や主張が異なる人のこともいかに考えられるか。自分の主張に偏るほど対立が激しくなり、論争の本質からは外れていくだけに、「抗議するとしてもどんな姿勢で向き合うのか」が重要なのです。
 クマの駆除に関する今回の論争で最後に1つふれておきたいのが、メディア報道の是非。
クマの出没から捕獲、駆除されるまでの推移を報じることにもちろん問題はないでしょう。
 その一方で残念なのは、「なぜ殺した?」「殺すのは非道」「抗議の声が殺到」などと過激なフレーズを前面に出して対立をあおる記事が少なくないこと。
自社の営業利益や記事のスピード感を優先させたこれらの記事がニュースの本質を遠ざけている感は否めません。

 クマの出没に関するデータ、秋田県の現状、現地住民の声、有識者の見解などが的確に報じられないため、「かわいそう」という抗議の声をあげている人もいるのでしょう。
 世間の人々がクマに関する情報や学びが足りないのは確かであり、これが前述した他者への想像力や理解の不足につながっているところもありそうです。

 当事者にとってクマの出没は深刻な問題だけに、「人々に有益な情報を提供する」という本来の目的を差し置いて論争をあおるメディアには怒りを感じているのではないでしょうか。
 また、ネット上には被害を受けて7日までの休業を余儀なくされた秋田のスーパーを応援する動きも起きているだけに、後方支援するような記事がもっとあってもいい気がします。

⚫︎猟友会にも抗議の声が寄せられている
 そしてもう1つメディアが報じるべきは、各地の猟友会が抗議の声に悩まされていること。今回は市や警察が主導で対応したうえに、そもそも住宅地のため銃を使う可能性がなかったことも含め、もし猟友会へ抗議している人がいたらまったくのお門違いでした。

 その他でもクレーム、無言電話、誹謗中傷、活動妨害などに悩まされているというだけに、猟友会の立場や仕事などの理解が進むような記事も出してほしいところです。

クマに対する情報と学びを提供し、猟友会などへの理解を促す……。
「命の重さ」「動物愛護」「自然との共生」をめぐる論争が健全に行われるためにメディアの果たす役割は重要でしょう。
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野口健氏 クマ殺処分で秋田市に苦情電話も「有り難くお命、頂けばいい」「人命重視は当たり前」 202412

2024-12-04 03:16:00 | 気になる モノ・コト

野口健氏 クマ殺処分で秋田市に苦情電話も「有り難くお命、頂けばいい」「人命重視は当たり前」

デイリーニュース より241204 野口健氏


 登山家の野口健氏が2日、Xで秋田県のスーパーにクマが立てこもり、殺処分となったことに、行政に苦情の電話などがかかってきているという報道に「行政としては人命重視は当たり前」との意見をつづった。

【写真】目撃情報が多すぎて「クマ出没マップ」がヤバい!
「駆除で武器を使うのは卑怯」「素手でやれ」と謎クレーム

 秋田市のスーパーにクマが立てこもった騒動について、クマは箱わなで捕獲され、その後、麻酔を使って眠らせた上、殺処分を行ったという。ただ、秋田市などには「殺さないで」「かわいそう」など、殺処分対応への苦情電話が掛かってきていることも報じられていた。

 野口氏はこれを報じたネット記事にリプする形で「殺したのならば、その肉を食べ、毛皮を使い臓器を漢方にすればその命は無駄にはならない」とし「有り難くお命、頂けばいい」との考えをつづった。

 「山に帰しても里に降りてきたクマはまた里に降りてきやすいと聞いた事があります」ともつぶやき「難しい問題ではありますが、行政としては人命重視は当たり前」との考えを示していた。
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【イグ•ノーベル賞の日本人連続受賞は続くのか?】流行の分野に流れる研究開発費,目先の利益だけでは土台が崩れる 2024/11

2024-11-30 02:31:14 | 気になる モノ・コト

【イグ・ノーベル賞の日本人連続受賞は続くのか?】流行の分野に流れる研究開発費、目先の利益だけでは土台が崩れる
 Wedge より 241130 野口千里


 「3、2、1、GO!」その掛け声とともに、集まった人々が大量の紙飛行機を飛ばす──。「人々を笑わせ,そして考えさせる」業績をたたえる,イグ・ノーベル賞の授賞式の一場面だ。
 1991年から始まった同賞は、ノーベル賞を模した〝パロディー〟の賞で、日本人の受賞は今年で18年連続だ。


2015年のイグ・ノーベル賞受賞式。米国の科学雑誌『IMPROBABLE RESEARCH』の編集長のマーク・エイブラハムズ氏(写真中央)がイグ・ノーベル賞の主宰者だ(UPI/AFLO)

 「最初にイグ・ノーベル賞に選ばれたときは、喜ばしいことなのかもわからず、賞を受け取るかどうか悩んだ」。そう語るのは、2008年、10年にイグ・ノーベル賞を受賞した北海道大学電子科学研究所の中垣俊之氏。
 中垣氏は、単細胞生物から人間の行動を捉え直す「動物行動学」の研究を行っている。
00年、単細胞生物である粘菌が複数のエサ場をつなぐときに、①短い距離で、②外部の刺激にも耐えられ、③お互いに連絡がしやすい連絡効率の3つをバランス良く満たすことを発見した。
 中垣氏は言う。「〝単細胞〟はネガティブな意味で取られることがあるが、我々が考えているよりもずっと賢いことを示せた」

 イグ・ノーベル賞は一般の人にとって、多様な研究を知るきっかけにもなる。
大阪大学大学院人間科学研究科教授の西村剛氏は、ワニにヘリウムガスを吸わせてその声の出し方を調べたことで、20年にイグ・ノーベル賞を受賞した。
 普段はサルの研究を行っているが、ウィーン大学客員研究員だった際、手伝いとして参加した研究成果が認められ受賞した。
西村氏は「研究の世界は『何にお金を使っているのか』と思われることも多い中、研究内容を知ってもらういい機会になった」と話す。

▶︎話者の声を遅くして跳ね返し、話しにくい環境をつくる「スピーチ・ジャマー」
 なぜ日本人は連続してイグ・ノーベル賞を受賞できるのか。
12年、強制的に人が話す速さをコントロールできる機械「スピーチ・ジャマー」で同賞を受賞した津田塾大学学芸学部教授の栗原一貴氏はこう語る。

 「同賞の主宰者に『英国と日本は変わったことをする人を称賛する文化がある』と言われたことがある。
 日本人は本音と建前の『本音』の部分にも全力なため、ユニークな研究に対する抵抗感がないのではないか」

 日本人に希望を持たせる華やかな成績のイグ・ノーベル賞だが、今後も続くのか心配な面もある。
 文部科学省が発表する「科学技術指標2024」では、22年の研究開発費総額の対国内総生産(GDP)比は、日本は3.65%で米国を上回り、上位にいる。
 だが、例えば、04年に国立大学が法人化されて交付されることになった運営費交付金は、04年の1兆2415億円をピークに24年は1兆784億円と徐々に減少している。
 また、引用される回数の多い論文TOP1010%補正論文数)も20~22年の平均で世界第13位と、4位だった00~02年の平均と比べて下落している。

 東京大学大学院理学系研究科教授の合田圭介氏は「日本の研究現場では、科学技術研究費などで多くが競争的資金化していて、光熱費や場所代、技術職員などを保障するのに手いっぱいな状況だ。
 分野によっては、たとえ新しい発想が生まれても、+αで自由な発想を試す資金の余裕はないのではないか」と警鐘を鳴らす。

 「研究開発費の伸び悩みについて、内訳をみるとAIや再生医療など流行りの分野が重視され、基本原理を解明する『基礎研究』がどんどんおろそかになっている。目先の利益ばかりで、長い目で見た時に何も生まれなくなってしまう」(同)

▶︎日本の研究現場の実態 「選択」と「集中」の誤算
 「役に立つ」分野に対して、研究資金を集中させることも必要だが、行き過ぎは禁物だ。イグ・ノーベル賞受賞者からも懸念の声が上がる。
 西村氏は、「例えば、iPS細胞など『役に立つ』医療分野の研究が発展すると、生命倫理の問題が起こり、人文学的研究にも結びつく。
 今『役に立つ』とみなされる研究ばかりが優先されると、そうした分野の研究が必要な際に、対応する体力がなくなってしまうのではないか」と話す。

 東京大学先端科学技術研究センター先端研フェローの小泉英明氏もこう警鐘を鳴らす。
「かつてはどんな研究室にも最低限の研究費が配分され、すぐに結果が出なくても、長期間の研究ができていた。
 しかし、それでは『他国には勝てない』と、研究費の選択と集中が行われ、その結果、一部にはすでにMRI高磁場化や今の量子コンピューターなどのような流行りの技術を、高額の実験装置で後追いすることに注力するようになり、新しい発見を生み出す力が失われていった。

 日本では、1990年代以降、パッションのある人を見抜く研究者やマネジャーが減っている。このままでは、しかるべき立場の研究者の中に、自ら手を動かして研究をしてきた、目利き力がある人がいなくなってしまう可能性がある」

 研究成果は、結果だけではなく、その過程も大切だ。前出の栗原氏は「動物への『スピーチ・ジャマー』の効果を調べようとしたところ、使用している超音波が動物を振り向かせることに〝偶然〟気付き、その後、動物の視線を集める『アニマルキャッチャー』を作ることにつながった。
 本来の実験はうまくいかなくとも、思いがけない成果もある。私たち研究者はそれらを見える化して世の中に伝えることが重要で、社会全体では、思いがけない成果を受容していくことも必要なのではないか」

 中垣氏も同様の意見だ。「自分が『おもしろい』と思う研究を極めることも必要だが、その『おもしろさ』を誰かに伝えることも大切だ。
 社会にとって『役に立つ』ゴールが最適解とは限らないし、世間に何かを問いかけられるような別のゴールにたどり着いたりする。
 独りよがりにならず、絶えず社会と対話してすり合わせをしていき、別のゴールの必要性を考えていくことが重要になる」。

 イグ・ノーベル賞について、中垣氏は「どの研究もおもしろい。ただ、それは一般の人がイメージする科学技術や人類の『発展や進歩』に直結するものではないからこそ素晴らしい」と語る。
 また、冒頭で述べた通り、あくまでパロディーの位置づけで権威がないことも特徴の一つであり、肩肘張らずに楽しんで研究を知ってもらうことができる。
「イグ・ノーベル賞のような賞は他にはないユニークなものだ」と話す。

 小泉氏は、「イグ・ノーベル賞もノーベル賞も本質的には変わらないもの。本当に新しい発見をするためには、自由な感覚が必要だ。自分が興味のあることへの強烈なパッションがなければ感性は磨かれない。イグ・ノーベル賞はその感性を見抜く賞だともいえ、ときにパロディー以上の科学の本質が見えている」と話す。

 例えば、グラフェンの発見自体が「発見の本質」を示す好例だ。我々は鉛筆の原料であるグラファイトを使用して白紙に黒い文字を書いてきた。
 まさに世界中の人々が知らずにその恩恵に浴していたが、それがグラフェンという特殊な物質だと発見され、多くの研究者もその特殊性に気づいた。
 当たり前のように存在しているものを明確にするのが「発見の本質」だ。

 グラフェンの発見はアンドレ・ガイム氏が10年にノーベル賞を受賞しているが、彼は「カエルの磁気浮上」で、その10年前にイグ・ノーベル賞を受賞している。
 この「カエルの磁気浮上」は、病院で一般的に使われているMRIの原理につながっているのだ。

 また、長期の視点に立ち、優れたイノベーションを生み出すためには土台が重要だ。合田氏は「日本人は真面目で、学力も高く、発展できる土壌は備わっている。多様な研究ができる環境を整え、土台を強化していくべきではないか」と話す。

▶︎企業にも通ずる視点  長期の投資がカギ
 企業活動でも同様だろう。小泉氏の指摘する次の考えが参考になる。
「企業での研究も同じで、これまで『役に立たない』と思われてきた倫理などの問題をおろそかにしてきた会社は、今、そのツケにより危険な状態に陥っている。
 それは最近、ドイツの気鋭の哲学者、マルクス・ガブリエルによっても一つの倫理資本主義として指摘されている。
 目の前のことばかりを追い求めていては、バブル崩壊後の停滞からはどの企業も抜け出せない。将来方向にお手本があった時代には、日本特有の改良や改善が効率化に功を奏した。

 しかし、今のように先が見えない時代には、短期間で『役に立つ』ことばかりに注力せず、土台となる基礎部分から長期の目線で投資していくことが必要なのではないか。

 生成AIにしても、最近になってChatGPTが出現するまで多くの基礎研究があった。
価値に気付く前の芸術作品と同じように、数十年の下準備の期間中は、AIがこれほどのインパクトを与えることは考えられなかった。
 だが、大きな価値が誰の目にも見えたとたんに、世界の大企業が一斉に投資を始め、商品も多数世に出ることになった」

 今、研究開発に求められていることは、昭和の時代のキャッチアップ型モデルではなく、非連続的な進展や価値を生むものだろう。
 短期的な利益ばかりを求めず、長期の視点に立ち、将来の日本を見据えて、まずは土台を強化しなければならない。




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