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 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教との決定的な違いは何か? 2024/09

2024-09-26 21:13:00 | なるほど  ふぅ〜ん

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教との決定的な違いは何か? 「不世出の語学の天才」が解明した仏教の「計り知れない奥深さ」。
  現代ビジネス より 学術文庫&選書メチエ編集部


【】「翻訳」に秘密あり
 約2500年前のインドに生まれた仏教が、アジアに生まれた他の無数の宗教とは異なり現在の世界に広がっているのは、なぜなのだろうか? 
  唯一神を信仰するユダヤ教・キリスト教・イスラム教との大きな違いとは? 講談社選書メチエの『仏教の歴史 いかにして世界宗教となったか』(ジャン=ノエル・ロベール著/今枝由郎訳)は、多言語に通じた著者の視点で、「仏教の強さ」を明らかにしている。

⚫︎コーランはアラビア語、カトリックはラテン語、では仏教は?
 本書の著者、ジャン=ノエル・ロベール氏は、仏教を中心とした日本文化の研究で国際的に高く評価されるフランスの東洋学者で、2021年、第3回人間文化研究機構日本研究国際賞を受賞している。

 ロベール氏は、母語であるフランス語のほかに、中国語・日本語・英語はもちろん、朝鮮語、サンスクリット語、チベット語、ラテン語、ギリシャ語…などに通じた「ポリグロット(多言語話者)」で、学生時代から「不世出の語学の天才」と称されていたという(本書「訳者解説」)。

 そして、その能力は、仏教研究においても存分に発揮されてきた。ロベール氏は、さまざまな言語の仏典と言語資料を読み込むことで、仏教の世界的な広がりと多様性を明らかにしてきたのである。
 ではなぜ、仏教には「さまざまな言語の仏典」があるのだろうか?

 実は、「さまざまな言語に翻訳されてきた」ということこそが、世界宗教としての仏教の大きな特徴なのだ。一方、一神教であるキリスト教やイスラム教、ユダヤ教は、必ずしもそうではなかった。

〈言語の問題は経典と切り離すことができない。コーランはその原語であるアラビア語でしか学習されないし、ヘブライ語のモーセ五書だけが今日でも書写されるということを知らない人はいないだろう。また今から数十年前までは、カトリックでは聖書はラテン語で読まれていた。言語と宗教は密接に繫がっている。〉(『仏教の歴史』p.25)

 仏教と同じくインドに生まれたヒンドゥー教でも、〈神々と人間の完全な言語〉としてサンスクリット語が尊重されてきた。ところが仏教は――

〈諸々の精神的伝統の中で、仏教は開祖がその教えをある特定の言語に限定してはならないと規定した最初であり、ブッダは各々の民族の言葉で教えを伝承することを推奨した。仏教の伝道者たちが、その教えをインドの内外に伝えた時、彼らの最初の仕事は受け継いだ教えをまずは口頭で、次いで文字で翻訳することであった。〉(同書p.25-26)

 開祖であるブッダ自身が、他言語への翻訳を推奨していたのである。

 言語からみた仏教の「意外な歴史」は、まだある。原始仏教といえば「梵語」すなわちサンスクリット語、と連想してしまうが、どうやらこれは日本人特有の「誤解」らしいのだ。

 日本の仏教寺院では、よく「梵字」を見かけるが、ブッダ自身が梵語(サンスクリット語)で教えを説いたわけではなかった。むしろ〈サンスクリット語は最初は仏教徒に軽蔑されたが、そのうちに主要な伝道言語の一つとなった。〉(『仏教の歴史』p.26)という。

〈ブッダ在世当時およびその後の何世紀にもわたって、インドの宗教的、知的で偉大な言語はサンスクリット語であった。
 ブッダは明言してはいないが、弟子たちに彼の教えをサンスクリット語にしないようにと忠告していたと伝えられており、初期の仏教徒たちは意識的にサンスクリット語を避けてきた。その理由は、サンスクリット語とバラモン教との繫がりがあまりにも強かったからであろう。〉(同書p.118-119)

 バラモン教とはヒンドゥー教の前身で、仏教以前からインド宗教の主流だった。しかし紀元1世紀頃から、バラモン教の聖典以外でもサンスクリット語が使われるようになると、そうした状況に追随して、仏教もサンスクリット語を用いるようになった。そして――
〈中国文化圏では、そして不思議なことに日本では、サンスクリット語は「ブラフマー神〔梵天〕の言葉〔梵語〕」として真言を記すのにもっとも有効な言葉となり、それを記すインド文字〔梵字〕も同じように見なされた。〉(同書p.119)

⚫︎中国語よりヨーロッパ語の方が翻訳しやすかった?
 それでは、初期の仏教では、いったい何語が用いられていたのだろうか。
最古の仏教テクストとされるテーラワーダ(東南アジア系仏教)の仏典は、「パーリ語」で記されている。パーリ語は、アショーカ王の帝国で用いられていた言語に近いといわれるが、現在は使われておらず、仏典や仏教儀式の用語として伝わるのみだ。しかも、〈パーリ語はブッダ自身が話した言葉ではないことはほぼ確実である。それゆえに、これはすでに翻訳ということができる。〉(同書p.118)という。

また、仏教は「アジアの宗教」と思いがちだが、それも結果からみた思い込みらしい。
〈かつて仏教がインドから中国に伝播したことは、文化的には(中略)度肝を抜くことであった。ヨーロッパの諸言語は、中国語、日本語、チベット語よりもインドの諸言語に近い関係にあり、仏教概念の翻訳はそれ以上に難しくはないはずである。〉(同書p.18)

 パーリ語やサンスクリット語と同じ「インド・ヨーロッパ語族」に属するヨーロッパの言語のほうが、中国語よりも翻訳しやすかったはずだ、というのだ。

 こうして仏教は、中国語やチベット語、東南アジア諸国の言語をはじめ、モンゴル語、コータン語、トカラ語、西夏語…など様々な言語に翻訳された。
 そしてその言語に新たな文字文化を誕生させたり、その土地の文法学や論理学、さらに言語文化や文学・思想の源泉にもなった。
 その結果、〈仏教の計り知れない多様性は他の宗教に見られるものを遥かに超えている〉(同書p.18)といい、〈仏教を一律に語ることはほとんど不可能である〉(同書p.27)という。
〈仏教は、多様な文化に対する並はずれた適応能力によって、特異な豊かさを呈している。それゆえに、仏教徒ではなくても、仏教研究は魅惑的である。〉(同書p.27)
 この巨大な翻訳活動から生まれた多様性こそが、「世界宗教」としての仏教の「深さ」であり、キリスト教やイスラム教、ユダヤ教とは大きく異なる「強味」なのだ。

※著者・ロベール氏の詳しい経歴については、〈これは日本人研究者には書けない!? フランス屈指の東洋学者による〈世界レベル〉の仏教史、驚きの日本語版。 〉を、さらに、〈中国経由で伝来・進化した日本仏教は「ガラ仏」だ! しかし、そこにこそ「仏教の本質」が見えている。〉もぜひお読みください。
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メガエルニーニョが2億5000万年前の世界最悪の大量絶滅を引き起こした 2024/09

2024-09-23 00:15:43 | なるほど  ふぅ〜ん

メガエルニーニョが2億5000万年前の世界最悪の大量絶滅を引き起こした
 ナゾロジー より 240923  大倉康弘


⚫︎世界最悪の大量絶滅を引き起こしたのは「メガエルニーニョ」だった!? 
 2億5200万年前に生じた大量絶滅では、すべての生物種の90%以上が死滅しました。
科学者たちはこれまで、この大量絶滅の原因が、「現在のシベリアで何百万年も続いた巨大な火山噴火による地球温暖化」にあると考えてきました。

 ところが最近、イギリスのブリストル大学(University of Bristol)に所属するアレクサンダー・ファーンズワース氏ら研究チームは、最新データを用いた気候モデルから、大量絶滅の原因に関して新たな視点を見出しました。

 彼らによると、2億5200万年前の大量絶滅は、単に火山噴火で生じたのではなく、その火山噴火をきっかけとして生じた大規模なエルニーニョ現象「メガエルニーニョ」が原因だというのです。
 このメガエルニーニョは、長い時には10年間も続き、世界各地で壊滅的な干ばつと洪水を生じさせたと考えられています。

研究の詳細は、2024年9月12日付の学術誌『Science』に掲載されました。

◆目次
ー2億5200万年前の大量絶滅の原因はエルニーニョだった!?
ー世界最悪の大量絶滅を引き起こした「メガエルニーニョ」とは

⚫︎2億5200万年前の大量絶滅の原因はエルニーニョだった!?
 古生代後期のペルム紀末(2億5200万年前)に、地球史上最大の大量絶滅が起こり、生物種の90%以上が死滅しました。
 この大量絶滅自体は、化石生物の変化から実証されていますが、その原因にはいくつかの仮説があります。
 例えば、世界的な海岸線の後退による食物連鎖の崩壊、隕石の衝突などが挙げられます。

▶︎火山活動だけで90%以上の種が絶滅するのは難しい!? 
 そして科学者たちが最も有力だと考えているのは、「シベリアの火山活動」です。
当時、現在のシベリア高原(ロシア)にあたる場所で、大規模な火山活動が200万年以上続き、この活動で放出された二酸化炭素が地球の急激な温暖化を引き起こしたというのです。

 しかし、ファーンズワース氏は、この「火山活動による温暖化」説だけでは不十分であることを次のように述べています。
「気候温暖化だけでは、このような壊滅的な絶滅を引き起こすことはでません。
なぜなら、現在見られるように、熱帯地方が暑くなりすぎると、種はより涼しい高緯度に移動するからです」

 そこで今回、ファーンズワース氏ら研究チームは、当時の生物の化石から得られるデータと、地球の大気と海洋の循環パターンに関するコンピュータシミュレーションを組み合わせ、大量絶滅期の気候モデルを作成・分析しました。

 その結果、大量絶滅が生じたペルム紀末にて、最初に大気中の二酸化炭素が増加(410ppm→ 860ppm)し、地球の気温が上昇した際、当時の海では、現代のエルニーニョをはるかに超えるような現象が生じていたと分かりました。
(ちなみに、現在の空気中の二酸化炭素濃度は、422 ppm 前後を推移しています)

⚫︎世界最悪の大量絶滅を引き起こした「メガエルニーニョ」とは

(左上)エルニーニョ現象における海水温、(左下)ラニーニャ現象おける海水温、(右)エルニーニョ・ラニーニャに伴う太平洋熱帯域の大気と海洋の変動 / Credit: 気象庁

 そもそもエルニーニョとは、現代において、中部・東部太平洋の赤道付近において海水温が平年より高くなり、その状態が1年ほど続く現象を指します。
 逆に低い状態が続くことをラニーニャと呼び、この2つの現象はそれぞれ数年おきに発生します。
 また研究が進むにつれ、エルニーニョやラニーニャは、海洋と大気の相互作用によって起きると分かっており、現在は一連の変動現象を「エルニーニョ・南方振動」と呼びます。

(具体的なメカニズムは完全には解明されていません)

 そして、この周期的な変化によって、海水温だけでなく、世界中の気象が大きな影響を受けます。
 近年でも、このエルニーニョ・南方振動により、降雨パターンと気温に大きな変化が生じています。
 例えば、2023年から2024年は、強力なエルニーニョ現象の影響で、世界的に「最も暑い年」の1つとなりました。

 またエルニーニョの影響は地域ごとで異なっており、南アメリカでは豪雨・洪水が引き起こされる一方で、インドやインドネシアでは干ばつが引き起こされました。
 研究チームは現在のエルニーニョについて、「幸いなことに、このような出来事は1度に1~2年しか続かない」と述べています。

 しかし新しい研究は、2億5200万年前には、火山噴火をきっかけに、もっと大規模なエルニーニョ現象が生じたかもしれないと報告しています。
 メガエルニーニョは、10年間も続く干ばつと、その後数年間の洪水を繰り返しもたらしたかもしれない / Credit: Canva
 研究チームはこれを「メガエルニーニョ」と呼んでおり、これがペルム紀から三畳紀にかけて繰り返され、時には1度のメガエルニーニョが10年間も続くことさえあったという。

 現在のエルニーニョ・南方振動は、いわばシーソーのように1.2年ごとに傾きが変わるため、生物たちは何とか耐えることができています。
 しかし遠い過去には、そのシーソーのバランスが極端、また崩壊しており、片方に傾いたままの状態が長期間続き、ほとんどの生物を絶滅に追い込んでいたというのです。

この影響について研究者たちは、次のように述べています。
「ペルム紀・三畳紀の危機の間、メガエルニーニョが長く続き、10年間にわたる干ばつと、その後数年間の洪水を生じさせました。
 気候はあらゆる場所で変化しており、どの種にとっても適応するのが困難でした。
また干ばつが発生しやすい気候では、山火事も頻発します」

⚫︎メガエルニーニョによる「気候のジェットコースター」は、当時の大陸に住む生物から逃げ場を奪い去った。 / Credit: Canva
 火山活動により大量の二酸化炭素が排出される中、メガエルニーニョによる干ばつや火災で森林が減少。温暖化はさらに進んだことでしょう。
 この変化は、森林破壊だけでなく、海の中のサンゴ礁の消滅、プランクトンの危機へと繋がっていき、結果としてすべての生物に壊滅的な影響を及ぼしました。

 ファーンズワース氏も、「温暖化が進み、植物が死滅。そしてエルニーニョが強くなり、世界の気温がさらに上昇。そうすると再び異常気象が発生。生物はますます死滅していきます」と、負の連鎖・サイクルが生じた可能性を指摘しています。

 地球規模の温暖化、干ばつ、火災、そこからの大規模な洪水。あらゆる場所で問題が生じたため、多くの種はこの「気候のジェットコースター」から逃れる場所を見いだせず、絶滅してしまったと考えられます。
 この新しい仮説は、単なる「火山噴火による温暖化」説よりも、大量絶滅の理由として納得のいくものかもしれません。



▶︎参考文献
Mega El Niño Events Caused End-Permian Mass Extinction, Researchers Suggest
https://www.sci.news/paleontology/end-permian-mega-el-nino-events-13262.html
▶︎元論文
Mega El Niño instigated the end-Permian mass extinction
https://doi.org/10.1126/science.ado2030

▶︎ライター 大倉康弘: 得意なジャンルはテクノロジー系。
機械構造・生物構造・社会構造など構造を把握するのが好き。科学的で不思議なおもちゃにも目がない。趣味は読書で、読み始めたら朝になってるタイプ。
▶︎編集者 ナゾロジー 編集部
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涙腺崩壊?国歌「君が代」に世界中が涙するワケとは?「伝統的」「美しい」海外の反応 2024/09

2024-09-12 01:46:33 | なるほど  ふぅ〜ん

 涙腺崩壊?国歌「君が代」に世界中が涙するワケとは?「伝統的」「美しい」海外の反応
マタイク編集部


 オリンピックやワールドカップなどの国際大会で耳にすることが多い「君が代」。
一見、控えめで静かなメロディが特徴的なこの国歌ですが、その歌詞や背景には深さがあります。
 さらに近年、海外での評価が急上昇しており、なんと「君が代」を聞いた外国人が涙を流すほど感動することも!

 なぜ世界中で「君が代」がこれほど注目を集めているのか、その理由を探っていきます。

⚫︎君が代の起源と歴史
「君が代」は実は1000年以上前の平安時代にまで遡ります。

歌詞は『古今和歌集』に収められた古歌で、当時は天皇や貴族の長寿を祝う歌として詠まれていました。
 この歌が明治時代に国歌として選ばれたのは、日本が近代国家としての体制を整えていく時期でした。
 当時、国歌を持つことは近代国家の象徴として重要視されており、イギリスの軍楽隊長J.W.フェントンが最初の「君が代」を作曲したのです。

 初めて演奏されたのは、明治3年9月東京・越中島における天覧練兵の際に、薩摩藩楽隊による演奏とされています。
 しかし、その初代「君が代」は日本人の感性に合わず不評だったため、明治9年に改訂が検討され、明治13年に新たなメロディが採用されました。

 この時に作曲を担当したのが宮内省の雅楽師、林廣守であり、ドイツ人のフランツ・エッケルトが西洋音楽風に編曲し、現在の「君が代」が誕生したのです。
 しかし、この時に国歌としての位置付けで取り扱ったのは、海軍省と宮内省のみでした。

 その後、君が代は、日本国憲法において国家の象徴とされ、日本の公式行事や学校教育で歌われるようになりました。
 現在、一部では歌詞に対する批判も存在しています。

⚫︎海外の反響
「君が代」が、海外で注目を浴びるようになったのは比較的最近のことです。
特に、オリンピックやワールドカップなどの国際大会で演奏された際に、外国人の心を打つことが多いようです。

 なぜ「君が代」が他国の国歌と比べて特異な存在なのか,その理由は大きく二つあります。
まず、ほとんどの国歌が戦争や革命をテーマにしているのに対して「君が代」は平和と長寿を象徴する歌であること。
 この平和的なメッセージは,現代の国際情勢においても新鮮な驚きと感動を与えています。
特に、君が代の歌詞が英訳され、その意味が伝わると、外国人はその深さに涙を流すことが多いと報じられています。

  とにかく美しいと言うのが率直な感想
  日本の国歌は本当に好き。すごく綺麗
  僕が聴いてきた中で、一番美しい国歌だった
  自分でもよく分からない。だけど日本の国歌を聴いてると泣きたくなってくる…
  国歌と言うより、美しい賛美歌のようだ

SNSでも「これが日本人の国歌なのか」「戦争を歌う国歌とは全然違う」といった感想が多く寄せられています。

⚫︎なぜ外国人が涙するのか?
「君が代」はその控えめなメロディとシンプルな歌詞が特徴ですが、その背景に込められた深い意味が、外国人を感動させる理由の一つです。

 歌詞の「さざれ石の岩となりて苔むすまで」とは、長い時間の中で小さな石が岩に成長し、苔がむすまでの時間の流れを象徴しています。

 この表現は、単に個人の長寿を願うだけでなく、国や社会の繁栄と平和が末永く続くことを祈るメッセージを含んでいます。

 また、歌詞における「君」は、歴史的には天皇を指すとされていますが、現代ではもっと広い意味で解釈されています。
 つまり、天皇だけでなく、大切な人々や国民全体を指し、その幸せと平和を願う歌とも捉えられています。

 この普遍的な願いが、戦争や革命をテーマにした他国の国歌とは一線を画す理由です。
さらに、「君が代」のメロディも、言葉を超えて人々の心に響く力を持っています。

 静かで落ち着いた旋律が、緊張感のある国際舞台での演奏時に特に際立ち、他国の勇ましい国歌とは対照的な存在として外国人の心に残ります。

⚫︎まとめ
 君が代は、国境を超えて世界中の人々の心に響き、特にオリンピックや国際大会での演奏時に多くの外国人を感動させています。
 これからも、この国歌が世界中で愛され続ける理由を、私たち日本人自身も改めて感じ取るべきかもしれません。

 今こそ、私たち自身も「君が代」の意味とメッセージに向き合い、考えていくべきではないでしょうか。

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 日本で「アニミズム」が保存された3つの根本理由 2024/09

2024-09-07 01:53:00 | なるほど  ふぅ〜ん

日本で「アニミズム」が保存された3つの根本理由
 東洋経済Online より 240907  広井 良典:京都大学 人と社会の未来研究院教授


⚫︎なぜ日本ではアニミズム的な自然観が保存されてきたのでしょうか


 加速する「スーパー資本主義」、持続可能性を前提とする「ポスト資本主義」の「せめぎ合い」はどこへ向かうのか。
『科学と資本主義の未来──〈せめぎ合いの時代〉を超えて』著者で、一貫して「定常型社会=持続可能な福祉社会」を提唱してきた広井良典氏が、「日本人論」を刷新し「アニミズム文化・日本」の可能性を検討する。
 今回は、全2回の後編をお届けする(前編は こちら)。

⚫︎アニミズムとは何か
「アニミズム文化としての日本」というテーマを考える際、まず確認しておくべきは「アニミズム」という言葉の意味である。



⚫︎地球倫理の構造

 一般に、この「アニミズム」という言葉を初めて明確に定式化したのはイギリスの人類学者エドワード・バーネット・タイラー(1832-1917)とされる。

 タイラーはその主著『原始文化(Primitive Culture)』(1871年)において、アニミズムを「万物の中に魂(soul)あるいはアニマが存在するという信念(faith)」としてとらえ、しかもそれがさまざまな宗教のもっとも原初的な形態であるとした。
 この場合の「アニマ」は「魂、生命、活力」に相当するラテン語で、「アニマル」や「アニメーション」の語源でもある。

 ここで少々個人的な述懐を記すと、「アニミズム」という言葉のこうした起源について私自身さほど詳しい知見は持っておらず、「タイラーという人類学者がこの言葉を最初に使ったが、それはアニミズムを“未開”社会における“低い”レベルの観念としてネガティブにとらえたものであり、そうした発想を克服していくことが重要になっている」といった程度のイメージで理解している面があった。

 しかし数年前に上記『原始文化』の全訳が日本で刊行されたことともつながるが(『原始文化(上)(下)』国書刊行会、2019年)、タイラーのアニミズムについての理解は決してさほど単純なものではなく、たしかに“アニミズム→多神教→一神教”といった発展段階論的な面はあるにせよ、むしろさまざまな宗教の根底にある世界観としてアニミズムをとらえるという、きわめて先駆的かつ現代的な意義をもっていると言える。

 ここでは人類学者タイラーについて論じることが主題ではないが、当時の社会的状況(ダーウィンの進化論の受容、イギリスでの心霊主義<スピリチュアリズム>、工業化の急速な進展等)も視野に収めながら、「アニミズム」という言葉の背景やタイラーの思想を再吟味していくことが重要と思われる。
 そして、こうした「アニミズム」的な自然観・世界観は近年になって新しい形で注目され再評価されるようになっている。

 その大きな背景の一つは、エコロジーあるいは環境問題への関心の高まりであり、人間と自然、あるいは生命と非生命(さらには有と無)の間に絶対的な境界線を引かず、それらを包括的ないし全体的な視座においてとらえるという意味において、「アニミズム」は新たな現代性をもつに至っているのである(これはいわゆる自己組織性など現代科学の方向とも共鳴する側面をもっており、こうした点については「新しいアニミズム」について論じた拙著『ポスト資本主義』岩波新書、2015年および『無と意識の人類史』東洋経済新報社、2021年を参照されたい)。

⚫︎アニミズムと日本
 さて、先ほど「万物の中に魂(soul)あるいはアニマ(生命)が存在するという信念(faith)」という、タイラーによるアニミズムの定義にふれたが、この内容を見て、ある意味でそれは日本人にとってはなじみやすい、むしろごく当然とも言える自然観ないし世界観ではないかと感じた読者も多いだろう。

 まさにそのとおりで、(自然の中の)「八百万の神様」、あるいは「鎮守の森」といった表現にも示されるように、日本においては、一つには神道ということとも関連しつつ、「アニミズム」的な発想や自然観が広く日常生活や年中行事等の中にさまざまな形で浸透していると言える。

 そしてそれは、本欄の『「自然資本」への対応には日本の伝統文化が重要だ――SDGsと「鎮守の森」やアニミズム文化をつなぐ』においても述べたように、近年において気候変動や脱炭素をめぐるテーマと同様に大きな関心の対象となりつつある、生物多様性や生態系に関する話題ともつながっていくのだ。

 たとえば、昨年(2023年)3月に策定された政府の「生物多様性国家戦略2023-2030」において、次のような文章が盛り込まれたのである。

「鎮守の森、八百万の神に象徴されるような・・・我が国における人と自然との共生の考え方や、生物多様性の豊かさに根ざした地域文化(伝統行事、食文化、地場産業など)を守り・・・自然がもたらす文化的・精神的な豊かさや、・・・人と自然の共生という自然観の継承を、様々な機会を通じて発信し、・・・地域における生物多様性の保全活動を促進する」(強調引用者)

 このように「八百万の神様」あるいは「鎮守の森」といった、アニミズム的な自然観の現代的な意義が、環境問題やエコロジーに関する文脈において再評価されるようになり、またそれが日本においては(かろうじてというべき面もあるが)伝統文化として保存されていることが新たな文脈で認識されるようになっているのである。

⚫︎日本でアニミズムが保存された理由
 ところで、ではなぜ日本においてはこうしたアニミズム的な自然観が比較的保存されてきたのだろうか? これはじっくりと掘り下げていくべき興味深いテーマと思われるが、さしあたり以下の3つが挙げられるだろう。

1)風土的環境
2)神仏習合
3)ガラパゴス的辺境性

 まず1)の「風土的環境」。これは日本の場合、湿潤・温暖な気候の中で生物相が相対的に豊かであることに加え、“南北に長く伸びる火山帯の列島”という環境が起伏に富んだ自然景観を生み、また生活レベルにおいても山、川、海、森などが身近に感じられると同時に、台風や豪雨、地震など自然災害も多く、自然は「恵み」をもたらす存在であるとともに「畏怖」すべき存在でもあった。
 こうした(脅威としての側面も含んだ)自然環境の豊穣さが、アニミズム的自然観のいわば物質的・環境的基盤として作用したことは確かなことだろう。
 ちなみに生物多様性の議論などで指摘されることだが、日本の既知の生物種数は9万種以上、分類されていないものも含めると30万種を超えると推定されており、生物相が豊かであることに加え、日本は「固有種」が多いことで知られており、陸に住む哺乳類の約4割、爬虫類の6割、両生類の約8割が固有種とされている(「生物多様性国家戦略」等)。
 また世界で36カ所の「生物多様性ホットスポット」(=地球上で生物多様性が特に豊かでありながら同時に破壊の危機にさらされている場所)の一つとしても日本は認定されている。

 次に2)の「神仏習合」だが、おそらくこれが日本においてアニミズム的自然観が保存されるにあたって決定的な意味をもった要因だったと思われる。それは次のような意味においてだ。
 神道という、日本における土着かつ原初的な「自然信仰」がアニミズム的自然観ときわめて親和的であることは言うまでもない。誤解のないよう確認すると、神社における“鳥居”とか“社殿”といったものは、後の時代において(仏教寺院への対抗という文脈や、古代国家における中央集権化といった背景の中で)付加されていったものである。
 一方、ここで述べている神道とは、その原初の形態としての、まさに先述の(自然の中の)「八百万の神様」という表現に象徴されるような、あるいは「御神体」が山や岩、木等々といった自然そのものであるような信仰ないし世界観を指しており、アニミズムそのものと言えるものである。

⚫︎人間以外の草木や自然もまた成仏するという思想
 ところで、ドイツの哲学者ヤスパースが「枢軸時代」と呼んだ紀元前5世紀前後の時代に、地球上の各地において、都市文明の成熟の中で高度に言語化され体系化された「普遍宗教」(ないし普遍思想)が成立していった。
 インドでの仏教、中国での儒教や老荘思想、ギリシャ哲学、(キリスト教やイスラム教の源流となった)中東での旧約思想等である。
 こうした普遍宗教は、その高度な体系性とも相まって地球上の各地に広がり、浸透していくとともに、各地域にもともとあった土着の信仰を(その“原始的”で“不合理”な性格ゆえに)否定し排除していった。

 ところが日本の場合、当初は外来の普遍宗教である仏教と土着の自然信仰ないし神道との間に激しい争いが生じたが、最終的に「神仏習合」という形で両者の融合ないし習合(syncretization)がなされていった。
 また、必ずしも神仏習合という形をとらずとも、日本の天台宗において9世紀後半に活躍した安然という仏教学者が提起した「草木国土悉皆成仏」という思想(人間以外の草木や自然もまた成仏するという考え)などに象徴されるように、日本においては仏教そのものが土着の自然信仰とそのアニミズム的要素に(意識的であれ無意識的であれ)影響を受ける形で変容していったのである(安然の思想とその背景については末木文美士『草木成仏の思想』サンガ、2015年を参照されたい)。

以上の内容について、2点ほど補足を行っておこう。
 1つはいま指摘した日本における仏教の変容という点である。
 上述の普遍宗教が地球上のさまざまな地域に広がっていく中で、その地域の風土や土着の信仰と相互作用を行いながら、その場所固有の文化に適合的な形で変容していくということは広く見られることであり、日本に限ったものではない。
 単純な例で言えば、中東の砂漠周辺で生まれたキリスト教がイタリアなど(風土的にもより温和な)地中海世界に広がっていく過程で、母性的な聖母(マドンナ)信仰が重要な意味をもつようになっていったことなどもそうした例である。
 そうした意味では日本に渡来した仏教(の一部)がアニミズム的性格を包摂していったことは、ある意味で自然な変容であったとも言える。

 もう1点は、「神仏習合」のような現象――外来の普遍宗教が土着の信仰と何らかの形で融合するという現象――もまた、必ずしも日本に限られたことではないという点である。

 たとえば北欧のノルウェーには「スターヴ教会」という独特の形状の木造教会があるが――「アナ雪」の映画を通じて日本でも注目された――、これは(外来の普遍宗教である)キリスト教と、北欧の地域固有の建造物が何らかの形で融合したものとされる。

 ただしこれはあくまで建造物に関するレベルであり、またそれがキリスト教が渡来する以前の北欧の土着の信仰や(hofと呼ばれる)信仰の場所ないし建造物とどのような関わりがあるかについてはさまざまな議論があるが、外来の普遍宗教と土着の信仰とのある種の相互作用を示していることは確かだろう。

 地理的に日本により近い例では、東南アジア各地において、普遍宗教としての仏教やイスラム教が他の地域から渡来し広がっていった一方で、自然信仰を含む土着の信仰がなお保存されたり、融合ないし習合しているという例は少なくない(たとえばミャンマーにおける「ナッ信仰」と呼ばれるアニミズム的な土着信仰と仏教との融合などはそうした例の一つである)。

 このように、地球上の各地において「外来の普遍宗教と土着の信仰が融合(習合)する」という例は一定程度見られる。しかしその中でも日本における「神仏習合」はかなり明確な融合ケースと言えるだろう。

 そして、ここで重要なのは次の点である。
すなわち仏教という、高度に体系化・言語化された普遍宗教と融合したことで、日本において原初にあったアニミズム的な自然信仰は(やや俗な言い方をすれば)ある種の“お墨付き”あるいは普遍性を獲得することになり、それによって後の時代まで長く保存されることになったと言えるのではないだろうか。

 日本においてアニミズムが保存された背景として「神仏習合」を挙げたのは、以上のような趣旨である。

⚫︎「ガラパゴス的辺境性」とアニミズム
 さて、日本でアニミズム的自然観が保存された最後の要因として挙げた3)「ガラパゴス的辺境性」についてはどうか。

 今から約1万年前にメソポタミアを中心に生じた農耕、言い換えれば食糧生産の始まりを受けて、およそ5000年前にメソポタミアで最初の「都市文明」が生まれ、文字、法制度、市場経済、数字、建築・都市計画等々のシステムが人類史上初めて整備されていった。

 これに前後してエジプト、インド、中国、ローマなどで同様の都市文明が生成していったわけだが、これらの都市文明圏は、そこにおいてさまざまな民族や共同体が出会う普遍的な交流圏ないしセンターであると同時に、その周辺に“衛星”的な文明圏(あるいは文明圏というより文化的共同体に近い地域)を派生的に生み出していった。

 日本はまさにそうした衛星的な文明圏の一つであり、もちろんそれは中国文明に対してその「周辺(または辺境)」に展開したものだった。
 具体的には(農耕ないし稲作そのものが大陸から移入されたことに続いて)5~7世紀前後を中心に、上記のような都市文明のあらゆる要素(文字、法制度、建築・都市計画等々)が中国から導入されたのである。

 このような意味で、日本はその初期から中国文明に対する“衛星”ないし周辺、辺境というポジションにあったわけだが、次のような要因から、都市文明以前の土着のアニミズム文化が保存されたと考えられる。
 すなわち、都市文明圏の中心部においては、そこで出会うさまざまな民族や共同体にとって「普遍性・合理性」をもった思考方法やシステムが重要になるから、特定の共同体にのみ根差すような文化や土着の信仰は排除され背景に退いていく。

 しかし日本の場合は、まさに中国という巨大な都市文明圏の周辺ないし辺境に位置していたからこそ、アニミズム的な土着の自然信仰が、非合理的なものとして排除されることなく、生き残っていったのである。
 加えて、「ガラパゴス」という表現を使った理由の一つでもあるが、都市文明圏の中心部との“距離”という点がある。
 つまり朝鮮半島のような、中国文明圏と陸続きの場所では文明圏に近接する“衛星”としての側面が強くなり、土着の民間信仰などは文明圏の強い磁場と力学の中で排除されやすい。
 日本の場合、良くも悪くも文明圏の中心部から海を隔てて相当な距離があったために――まさにガラパゴス――、その風土に根差したアニミズム的な自然信仰が残存しえたと考えられるのである。

⚫︎後発国家のアイデンティティと神話
 さらに、7世紀から8世紀にかけての古代国家の形成やそこでの『古事記』等の編纂課程において、天武・持統といった当時の為政者が、中国文明に対する自らのアイデンティティとして、アニミズム的な自然信仰の要素を多く含む土着の神話を積極的に位置づけようとしたという点も大きいだろう(こうした点については溝口睦子『アマテラスの誕生』岩波新書、2009年および工藤隆『深層日本論――ヤマト少数民族という視座』新潮新書、2019年参照)。

 多少脱線めくが、このように「後発の国家」が、その後発性ゆえに「神話」的な土着の民間信仰を自らのアイデンティティとして積極的に位置づけようとするという現象は他でも見られる。

 私がこの点で想起するのはフィンランドである。フィンランドは北欧自体がヨーロッパの文明圏において「辺境」的な位置にあることに加え、北欧の中でも「辺境」に位置している国と言ってよい。
 私はヘルシンキに2001年12月から翌年1月までの2カ月間滞在したことがあるが、この国が1917年にロシアから独立するにあたって、それに大きな影響を与えたとされるのが「カレワラ」と呼ばれる民族叙事詩の編纂だった。
 これは19世紀に医師エリアス・リョンロートによって、フィンランド各地の民間説話や神話的物語を集める形でまとめられたもので、天地の創造から始まる、ある意味で“『古事記』の近代版”とも呼べるような性格のものである。
 ちなみにフィンランドの作曲家シベリウスもこの「カレワラ」にインスピレーションを得て多くの曲を作曲している。

 日本とは風土も歴史もまったく異なるが、実はフィンランドも、その豊かな森林とともに、キリスト教が渡来する以前のアニミズム的な自然信仰が残っている国という側面をもっている。

 一例を挙げよう。私は上記のヘルシンキ滞在時に、ヤーリ君という当地の神学部の学生と知り合ったのだが、彼によれば、フィンランドのキリスト教には(通常のキリスト教の視点からすればやや異端的に響くが)「サイレンス(静けさ)」を重視するという思想の伝統があるとのことで、私はそのことをとても印象深く受け止めた。

 それは有と無の二分法を超えて、生と死の根源にある何かとしての「サイレンス」ということであり、ある意味でアニミズム的な自然観にもつながるような発想と言えるだろう(この話題については拙著『生命の政治学――福祉国家・エコロジー・生命倫理』岩波現代文庫、2015年を参照されたい)。

 話を「カレワラ」に戻すと、興味深いことに「カレワラ」の物語の最後は、イエス・キリストと思われる子どもが(処女懐胎を通じて)誕生し、その子を殺すか否かが問題となるが、ワイナミョイネンという主人公の一人はその子の誕生を祝福し、自らは海の彼方(そして陸)に向けて旅立つところで終わる。
 これはキリスト教の到来とともに、フィンランドの“土着の神々”が自らの故郷の住処に帰っていったことを象徴しているとされる。

 ある面で、これは構造としては日本における「神仏習合」と同じ性格のもの――外来の普遍宗教と土着の神々(自然信仰)の融和――ととらえることもできるのである。

⚫︎日本的アニミズムの課題①
 以上、日本においてアニミズム的な自然信仰が保存された理由を3点にそくして見てきた。
 そしてすでに述べたように、人間による資源・エネルギーの消費が地球のキャパシティを超えるような状況になり、またローカルからグローバル・レベルに及ぶ環境問題への関心が高まる中で、エコロジーとの関連を含め、アニミズム的な自然観が新たな文脈で再評価されつつあるのが現在の状況である。

 ここにおいて、本稿で述べてきたように日本においてアニミズム的な自然信仰が保存されてきたことが、時代の潮流と共鳴するという側面が浮かび上がっているわけだが、ここで注意したいのは、だからと言って“日本ではアニミズム的文化が生きているからすばらしい!”と手放しで礼賛するだけでは議論は終わらないという点だ。
 これについて、以下の2点を指摘しておきたい。

⚫︎自然観と政策の2つの位相
 第1は、アニミズム的な自然信仰といった自然観のレベルの話と、政策や社会システムに関するレベルの話は分けて考える必要があるという点である。

 このことに関する、私にとって身近な、比較的わかりやすい例を挙げてみたい。

 先ほども言及した本オンラインの〈「自然資本」への対応には日本の伝統文化が重要だ――SDGsと「鎮守の森」やアニミズム文化をつなぐ〉でも紹介したが、私はここ10年ほど、ささやかながら「鎮守の森・自然エネルギープロジェクト」というプロジェクトを進めてきた。
 これは本稿で幾度か言及してきた「鎮守の森」を、自然エネルギーの分散的整備や地域再生といった現代的な課題と結びつけ、発展させていこうという趣旨のものである。

 この試みはまだ試行錯誤の状況だが、最近進展のあった事例として、埼玉県秩父市での小水力発電に関する展開がある。秩父は秩父神社の夜祭がユネスコの世界無形文化遺産に登録されたことにも示されるように、「鎮守の森」的伝統の豊かな地域だが、こうした場所において、地元の有志の方々と、私たちのプロジェクト・グループである鎮守の森コミュニティ推進協議会のメンバーが共同出資して「陽野(ひの)ふるさと電力」という会社を設立して事業を進め、幸い2021年5月には50キロワット(約120世帯の電力を供給する規模)の小水力発電設備の導入に至った。

 このこと自体はプラスの成果であり、こうした試みをさらに発展していきたいと考えているのだが、一方で現実を見ると、この地域を象徴する武甲山という見事な容姿の山――秩父神社のまさに“御神体”でもある――は、石灰岩を豊富に含む山であることから、戦後一貫してセメント会社による石灰岩の採掘がなされてきており、山の形自体が無残にも大きく損なわれるに至っている。

 ある意味で“神様を削って経済的利益を得ている”わけだが、セメント工場がもたらす雇用などの地元の利益にとどまらず、そこで作られたセメントそしてコンクリートで東京など大都市圏のビルや各地のさまざまな建造物が作られていると思えば、決してこれは他人事とは言えないことになる。

 つまりここで指摘したいのは、日本人あるいは日本社会は、本稿で述べてきたような「アニミズム的な自然信仰」を含め、自然観や自然に対する意識といったレベルでは優れた面を多くもっているが、政策や経済社会システム、あるいは公共的な対応といったレベルになると、非常に多くの問題を抱えているという点なのだ。

 実際、国際的に見ても、「ミナマタ」などのもっとも悲惨な産業公害や、「フクシマ」での深刻な原発事故が、いずれも日本において起こっているというのはこうした点と関係しているだろう。
 また、森林面積率が7割という豊かな森をもちながら、木材の自給率は4割程度で、海外の森林資源に依存している(その結果海外の森林や生態系の劣化を招いている)といった点も同様である。

「アニミズム文化とともに日本人は自然との共生において意義深い意識や自然観をもっている」といったことだけで話を完結させてはいけないのであり、それを公共政策や社会システムの次元での対応にうまく接続し展開していくことが重要なのである。

⚫︎日本的アニミズムの課題②
 最後にもう1点指摘しておきたいのは、「アニミズム的な自然観の再評価」と言っても、それは単に過去に帰るということではなく、環境問題などの議論でよく言われる「なつかしい未来(ancient futures)」という言葉に示されるような、新たな文脈での位置づけが重要という点だ。

 また、こうした点を意識しなければ、先ほどの「後発国家のアイデンティティ」の議論とつながるが、日本的アニミズム論は一歩間違えると狭隘で排他的なナショナリズムに陥るおそれもあるだろう。
 ここで浮かび上がってくるのが、私自身がこれまで「地球倫理」と呼んできた発想ないし見方である(拙著『コミュニティを問いなおす』『ポスト資本主義』等参照)。

⚫︎「有限性」と「多様性」
 地球倫理とは、その結論のみを簡潔に述べれば「地球環境の『有限性』を認識し、地球上の各地域の風土や文化の『多様性』を理解しつつ、個人を超えてコミュニティ、自然、生命とつながる」という内容なのだが、それは図のような構造をもつものである。

(出所:筆者作成)
 駆け足での説明となるが、この図は人類史の流れと関連しており、一番下の「自然信仰(アニミズム)」は、20万年前にホモ・サピエンスがアフリカで誕生して以降の狩猟採集段階の後半期に生じたものだ。真ん中の「普遍宗教(A、B、C・・・)」は、本稿で述べた、ヤスパースのいう枢軸時代(紀元前5世紀前後)、すなわち農耕文明の後半期に生成したものであり、現在の世界はこうした普遍宗教同士が互いに対立している状況にある。

 これに対して地球倫理は、人類の歴史としては第三のサイクルにあたる近代あるいは工業化社会の後半に位置するものである。それは普遍宗教の多様性をいわば一歩メタレベルから俯瞰し、「地球上の各地の環境の多様性が多様な宗教や文化を生んだ」という把握――人間の認識や世界観が風土によって規定されているという、エコロジカルな認識観――をもつと同時に、普遍宗教がネガティブにとらえてきた自然信仰ないしアニミズムを、さまざまな信仰のもっとも根底にあるものとして積極的にとらえるのである。

 本稿で論じてきたアニミズムの現代的意義は、まさにこうした地球倫理的な枠組みないし文脈においてとらえられる必要がある。
 そしてもし日本が今後世界に発信していきうる思想や自然観、世界観があるとすれば、それはほかでもなく、以上のような自然信仰=アニミズムを土台とする地球倫理の思想と言えるだろう。

なぜならここで述べてきたように、日本はアニミズム的な自然観がもっとも明瞭な形で保存されてきた場所の一つだからである。
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古墳時代の土台は弥生時代だ! 前方後円墳出現前夜の「四隅突出型墳丘墓」とは? 2024/09

2024-09-06 00:10:23 | なるほど  ふぅ〜ん

古墳時代の土台は弥生時代だ! 前方後円墳出現前夜の「四隅突出型墳丘墓」とは?
 歴史人 より 240806  柏木 宏之


「古墳時代」とは、日本の考古学上の時期区分で弥生時代と飛鳥時代の間に存在し、おおよそ3世紀半ばから7世紀頃とされている時代だ。
 その時代の幕開けの指標のひとつとして「前方後円墳の出現」が挙げられることがあるが、それ以前の“黎明期”にも古墳と判断される長方形墳が誕生している。
 今回は前方後円墳が登場する少し前の時代にスポットを当ててみたい。

■壮大な古墳文化の礎を築いた弥生時代後期
 弥生時代の墳丘墓から古墳への変化こそ重要な時代の画期であることは皆さんご承知だと思います。小規模な集落社会が徐々にまとまって中規模の邑国(ゆうこく)になり、そしていよいよ大規模な国造りを始める重要なプロセスの起点が、実は弥生時代にあります。

 古墳時代の開始は「前方後円墳の出現」などを条件としていますが、実際には大阪府高槻市の安満宮山(あまみややま)古墳のように、3世紀半ばの長方形墳でも副葬品などの観点から「古墳時代に突入しているので古墳である」と判断される微妙なゾーンも存在します。

 長方形墳といえば島根県の出雲周辺を西の極限として日本海側に広く分布する四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)を思い出します。

「弥生の森博物館」の説明パネルより。四隅突出型墳丘墓の分布は非常に広いことがわかる。
 今回私は島根県の弥生遺跡の代表的なところを踏査して参りました。加茂岩倉(かもいわくら)遺跡・荒神谷(こうじんだに)遺跡・西谷墳丘墓群(にしだにふんきゅうぼぐん)・出雲大社周辺の大きく四か所です。それぞれに資料館や博物館が設置されていますので、そこの方々にお話も伺ってきました。

 今回は西谷墳丘墓群を中心に取り上げます。ここには公園化された四隅突出型墳丘墓群に隣接する「弥生の森博物館」があって、1号墓から6号墓までを見学することができます。特に2号墓は墳丘が丁寧に整備されていて、なんと内部が展示施設になっています。また外見は石貼りも再現されていて迫力のある大型弥生王墓です。

 そして博物館には出土物が丁寧に展示され、当時を再現するジオラマもわかりやすく設置されています。
 これらを材料にして、推理と想像と妄想の世界を楽しむことにしましょう。

博物館展示のジオラマ。 

 出土土器には朱が塗られ、埋葬施設にもふんだんに高価な朱が使われています。そして美しく青色に輝くガラス製の勾玉が2点、ほかにも首飾りや装飾品が豊富です。つまりこの西谷墳丘墓群に埋葬された弥生王家の力と富は強大だったといえるのです。

 そのうえ出土土器は遠く北陸の越(こし)地方の物もありますし、奈良県纏向(まきむく)の箸墓からも出土している吉備の特殊器台が持ち込まれています。

美しく輝くガラス製の勾玉 普通の勾玉と違って、穴が二つ開けられている。

 古墳時代は大和王権の覇権展開と前方後円墳の広がりがリンクすると考えられますが、その前夜には出雲に強大で広範囲に影響力を持っていた弥生の王国があったと考えざるを得なくなります。

 すでにお気づきの方も多いと思いますが、「出雲神話」の真実性を裏付けるかのような考古史料が、加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡で発見されています。貴重な『出雲国風土記』の神話は壮大な物語でありながら、この発見は神話の根底に真実があることも感じさせます。

 もちろんこんな発想は昔からあって、神話と史実を合成しようとする研究はいくらでもあります。『記・紀』は邪馬台国や卑弥呼については本文で一切触れませんが、出雲国についてはしっかりと記載していますし、触れないわけにはいかない事情もあったのでしょう。

 それは「素戔嗚尊(すさのおのみこと)・大国主命(おおくにぬしのみこと)・国譲り・国引き」神話が重用な履歴だったからでしょうか。すぐれた先人の研究にはもちろん及びませんが、実際に現地を踏査して感じた弥生の王国について、これから考えていきたいと思っています。
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