中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

中国の泥人形(2)恵山泥人

2021年06月07日 | 中国文化

恵山泥人「阿福」

 

中国全土で、泥人形の産地には、以下のようなところがあります。

 

北京市

天津市

山東省:蒼山県、臨沂市、済南市、黄県、掖県、高密県等

河北省:新城県、泊鎮、玉田県、保定市

江蘇省:無錫市、徐州市

安徽省:阜陽県、蚌埠

河南省:淮陽県、浚県、沈丘県、霊宝県

陝西省:鳳翔県、富県、西安市等

甘粛省:泰昌県

四川省:南充市

浙江省:嵊県

遼寧省:瀋陽市

 

これから、これらのうちの主な産地と、そこで作られる泥人形の特徴を紹介していきます。今回は、先ず、江蘇省無錫市の恵山泥人について、紹介していきます。

 

恵山は慧山とも言い、江蘇省無錫市の西郊に位置し、江南の名山の一つです。山中に泉が多く、またの名を恵泉山とも言い、「天下第二泉」、「龍眼泉」など十数カ所の名所旧跡があります。恵山の東側に錫山という山があり、現在は、2つ併せて錫恵公園となっています。少なくとも今から400年前の明朝末期には、錫山で泥人形が売られていたという記録があります。

錫恵公園

 

1.恵山泥人の歴史

 

初期の恵山泥人は、子供のおもちゃが主体でした。春に江蘇地方では多くの土地で「迎神賽会」という、神像を廟から担ぎ出し、街を練り歩く、災いを消して福を賜うことを祈る祭りが行われ、更に「赶場」という市が立ち、交易活動が行われました。これらの行事の中で、恵山泥人形が大量に販売され、職人たちは大きな器に泥人形を並べ、人込みの中で呼び売りをしました。これらのおもちゃは多くが型を使って作られ、一面型か両面型で押して土の原型を作り、乾かしたら下地に色を塗り、絵付けを施しました。また多くは人形を動かしたり、音を鳴らしたりすることができ、子供が遊ぶのに適していました。

 

清の乾隆年間(1736-1796)、恵山の泥人形は大いに発展し、専門に泥人形を制作することを職業とする工房が現れ始め、泥人形の生産は安定した手工業に変化し始めました。泥人形の品種は増加し、品質は向上しました。この頃から、泥人形は、大人が家に飾って鑑賞するものが増えてきました。

 

清朝末期、恵山泥人形の生産は日増しに専門化し、技巧が巧みな専門の作家が現れ、恵山の泥人形の名声は日増しに高まりました。製品は高級品にシフトし、多くの職人が、型で大量に作るのではなく、手先の技で一個一個作り、人物描写に力を入れ、有名な恵山泥人形の「細貨」(高級品)である、「手捏戯文」(手で捏ねて作った人形で芝居の場面を表現する)を完成させました。

 

「手捏戯文」は、先ず芝居の人物に取材しました。無錫地方で流行した「草台戯」(田舎回りの大衆演劇)はたいへん人気があり、人形職人たちは芝居の舞台に表現する題材を求めました。

 

無錫では、こうした高級泥人形を「細貨」、それに対し、子供が手に取って遊ぶ玩具は「粗貨」(安価な一般品)と呼ばれました。

 

「手捏戯文」は通常、芝居の一場面に登場する二三人の人物で構成され、芝居の主要な情景を表現しました。後に、芝居の舞台という制約を超え、神話の人物、伝説、歴史上の人物、宗教上の人物、風俗風習の情景などが加わりました。清の同治(1862-1874)、光緒年間(1875-1908)に、恵山の「手捏戯文」は最盛期を迎えました。

 

「粗貨」(一般品)と「細貨」(高級品)とでは、技術の要求もサービスの対象も異なっていました。「細貨」は主に権勢のある家や金持ちが季節の行事、嫁取り、長寿の祝いなど、祝い事を盛大に行う時、室内のしつらえに用い、気分を高揚させ、見栄を張るのに用いられました。「細貨」は当時、親しい友人への贈り物となりました。光緒年間、西太后が長寿祝いをした時、無錫地方の役人は特に手作りの八人の仙人の像一式を都、北京に送り、ご機嫌を取りました。当時は恵山の「細貨」は都・北京でもたいへん有名だったのです。

 

泥人形の一般品(粗貨)は、市が立つ時(赶場)や祭り(賽会)で販売するだけでなく、常設の店舗でも販売されました。蘇北地方(江蘇省の長江北岸地方)や北方の省、市から来た商人も、毎回無錫に来ては泥人形を仕入れました。当時はまだ物々交換による交易が盛んで、運んできた大豆や綿花、落花生などを泥人形と交換しました。

 

2.恵山泥人の主要作品

 

恵山泥人形の「粗貨」は、歴史が長く、販路も広いものでした。表現する題材は、おおよそ三種類に分類されます。すなわち、子供の人形、物語上の人物、吉祥やめでたさを表すものです。

 

子供の人形のうち、最も代表的なのは「大阿福」です。歴史的に各時代の阿福の形式は決して同じではありませんが、その基本的な造形はおおよそ同じで、ひとつ、或いは一対の健康で豊満な太った子供です。対になった阿福は「対阿福」と言い、一男一女で、「梅花五福袍」という梅花柄の中華服を身に着け(梅の花は花びらが五枚あり、「五福花」とも言い、快楽、幸福、長寿、順調、平和の5つの福を代表している)、手には金の毛の大青獅(青い獅子)を抱き、恥ずかしそうに微笑み、飾り気がなく、実直で、穏やかで慎み深い表情をしています。

恵山泥人「阿福」

 

「阿福」は誕生以来、恵山泥人形の中で最も人々に愛される商品でした。当地に伝わる多くの神話や物語は、阿福に対する賛美の気持ちで溢れていますが、中でも有名なのが、「阿福降獅」の物語です。

 

昔、恵山に邪悪な獅子がいて、専ら村々で子供を捕まえて食べていた。獅子は凶暴、残虐で、無数の罪のない子供を噛み殺していた。後に、天上より二人の神様が下りて来られた。神様は「沙孩儿」と言い、勇敢で強く、法術に優れていた。神様は邪悪な獅子を打ち負かし、人々の害を除き、幸福と安寧を人々にもたらした。このため、人々は神様に感謝し、神様の姿を土で刻み、家々でお供えした。神様が幸福をもたらしてくれたので、この像は「阿福」と呼ばれた。

 

こうした子供の人形は、幸福と安寧の象徴となり、人々の生活への祈りとなっています。

 

「阿福」は標準的な造形以外に、様々な形式の変化が生まれ、「団阿福」(「団」は丸い形)、「小阿福」、「撲満阿福」(「撲満」は貯金箱。素焼きのつぼで、貨幣がやっと入る細長い口があり、つぼを割らないとお金が取り出せない)などがあります。「阿福」は中国で有名であるだけでなく、世界でも名声を博し、中国の「泥娃娃」、子供の人形の代表となっています。

団阿福

 

「花囡」huānānは恵山泥人形のもうひとつの重要な商品です。江蘇省の方言で、女の子のことを「囡」nānと言い、「花囡」は「かわいい女の子」の意味で、その基本的な造形は、にっこり笑った女の子の形で、無邪気で素直で、喜びにあふれた様子をしています。

惠山泥人“花囡”

 

「花囡」も様々に変化し、双桃囡、西瓜囡、如意囡、団囡などが現れました。「花囡」の装飾の紋様には、多くは天青(赤みがかった黒、紺)、大红(深紅色。緋色)、紫、緑、群青(“佛青”ともいう。ラビスラズリ。青金石という鉱物から作る青い顔料)などの色で絵が描かれ、鮮やかな色彩の中、古風さ、素朴さが溶け合い、子供の活発さの中に、厳かさが溶け合っています。

团囡

 

子供の人形の中には他に「和合」、つまり手に蓮の花(荷花héhuā)と宝箱(宝盒bǎohé)を持った太った子供の人形で、発音が同じ「和合héhé」(和睦同心。仲良くし、気持ちをひとつにすること)を意味し、「忍を高しとし、和を貴しとする」という儒教思想を表しています。泥人形には他に「三胖子」、「吹炉火」、「皮鼓木鱼」などがあり、何れも子供の姿を題材にした作品す。

和合二仙

 

子供の姿に取材した泥人形作品は、中国の人々の素朴で偽りのない伝統的な道徳観念を体現しました。伝統的にこの種の作品は、多子で多幸、人口がどんどん増加するという意味合いが含まれていました。

 

恵山泥人形は、この他、芝居の一場面、神話や伝説、歴史事件、著名な人物などが表現されています。中でも有名なのは、「武松打虎」(水滸伝)、「草船借箭」(三国志)、「老爷(関羽)看兵書」、「西遊記」、「小尼姑下山」、「哪吒閙海」、「十八般兵器」、「八仙過海」、「水斗」(白蛇伝)などであります。こうした泥人形は、一般的な娯楽、鑑賞の役割の他、子供たちにとって、作品の内容を理解することを通じ、知識の増進や、広範な分野への興味を養うことができました。

水斗

 

泥人形にはこの他、吉祥や喜び事を意味する作品があり、民間で幅広く流布している吉祥の題材が表現されます。例えば、「大青牛」と呼ばれる泥玩具があります。当地の民謡で、「青牛の頭をなでてごらん。田を耕すのに心配はいらない。青牛の角をなでてごらん。田を耕すのに役に立つ」と歌われます。大青牛は体中が青や黄色をしており、農民の豊作への祈りを象徴しています。

童子春牛

 

もうひとつ、農民が好む作品に「蚕猫」があります。これは「蚕宝宝」、蚕の守り神です。無錫市は江南地方にあり、周辺では桑を植え養蚕をする農家が多くあります。ネズミは蚕の大敵であり、蚕が成長する期間中、ネズミの害を防がなければならず、猫はネズミの天敵ですので、猫により蚕の保護を象徴しました。養蚕農家では多く猫を飼っていました。「蚕猫」の造形の様式は様々で、玩具であるだけでなく、吉祥の象徴でもありました。「青牛」、「蚕猫」と同工異曲の作品には、他に「車状元」、「車老虎」、「吉慶有余」、「一団和気」、「福寿三星」、「聚宝盆」、「劉海戯金蟾」などがあります。

蚕猫

 

泥人形の職人たちは、更に子供が遊ぶのに相応しいおもちゃを作り出しました。例えば、ニワトリやトラの人形、「揺叫」(人形の首のところにばねを入れた首振り人形)、「皮老虎」(上下の容器が空気が漏れないようつなげられ、一方に呼び子が取り付けられ、上蓋に虎の顔が描かれ、蓋を押したり引っ張ったりすると音が鳴る)などです。

皮老虎

 

 3.恵山泥人形の技法と特徴

 

恵山泥人形の主な生産工程は、土を篩にかけ、槌で叩き、土を捏ねて形を作り、型を取り、型抜きをし、全体を修正し、下地を塗り、絵付けをし、艶出しをするなどの工程があります。型には一面型と両面型の二種類があります。両面型で作るものの多くは空芯になっていて、泥人形の重さを軽減でき、且つ材料を節約できます。例えば、「肖形撲満」、「観音」、「寿星」、「対阿福」などの作品は両面型で制作されます。最近は一部の人形はシリコンの型で作られ、型は内外二層に分かれ、内層は柔軟性のある型で、外層は二面の固いシリコンが使われています。内側の型は柔軟性があるので、複雑な造形も一度で造形が可能で、粘土の水分を増やして泥状にし、一定の流動性を持たせ、それにより粘土が型の隅々に充填するようにします。硬質シリコンの外型、液状の粘土を流し込む時に内型が変形するのを防いでくれます。

型を使って人形の頭を作成

 

白地を型から取り出して後、毛筆に水を含ませるか、濡れた布で一度全体を洗い、白地の表面を滑らかに整えてやります。白地が乾いたら、窯で焼いて、人形の強度が増すようにします。

 

人形の下地には通常白色土やリトポン(硫酸バリウムと硫化亜鉛の混合物である白色顔料)を用いますが、一部の小型の人形は下地を塗らず、直接彩色し上絵を描きます。彩色や上絵描きは恵山泥人形制作の重要な工程で、「造形三分、彩色七分」という言い方があります。よく使われる色は、花青(アントシアン。花、果実、紫蘇の葉などの細胞液中に含まれる植物色素)、石緑(孔雀石で作った緑色の絵具。マラカイト。緑色の単斜晶系の鉱物)、赭石(しゃせき。代赭石。主に顔料に用いる。赤い色の石)、青連(薄い紫色)、群青(ラピスラズリ。鮮麗な藍青色)、大紅(深紅。緋色)、鵞黄(卵色。淡い黄色)などで、少量の金、銀を入れることもあります。

彩色作業

 

恵山泥人形の色彩は、柔らかくつやつやしているのが特徴で、「ぼかし」の手法を用いて色の深みに変化をつけ、落ち着き、均一でむらがなく、変化が自然であることを重視しています。現在は一般にスプレーを使って色のぼかしをつけています。彩色は色毎にまとめて行い、彩色後に墨で輪郭を描き、目や鼻を描き入れ、髪の毛を描く等の細部の描写を行います。

 

恵山泥人形の造形は簡潔で、作品の大小にかかわらず、細部の形状に複雑なところはなく、できるだけ造形は大きな部分に留め、不必要な細部は省略し、簡単な手法で全体のイメージをまとめています。外形の輪郭は線が流れるように優美で、やわらかいなめらかな曲線を多用し、直線をできるだけ避けています。表面の起伏はなだらかで、深くしつこい彫刻はせず、ふくよかで丸みのある造形を形成しています。

 

職人たちは色使いに豊かな経験を持ち、「赤に緑を合わせると、玉のように美しくなるが、赤に紫を合わせると、全体が死んでしまう」と言い、また「赤は鮮やかな赤でなければならず、緑は若々しい緑でなければならず、白は穢れのない白でなければならない」と言います。一個の作品で使う色はあまり多くありません。職人たちは、「頭の色は四つを超えず、体の色は三を超えること勿れ」と言います。色を選び、色の種類を抑え、色を使いすぎてけばけばしくなるのを避けるようにするということです。

 

泥人形の作品の細かい造形は絵付けで完成しますが、職人たちは作品により、異なった筆遣いや画法を使い分けます。例えば、人の眉には8種類の描き方があり、柳葉眉(眉毛の両側が吊り上がり、柳の葉のような形になっている)、臥蚕眉(眉毛の端が高く上がり、全体は二段に多少まがっている。毛は艶やかで蚕のよう。一般に男の英雄豪傑の眉)、散眉(眉毛が途中まで伸びているが、途中で散らばる)、八字眉(眉先が上に跳ね、眉尻が下に払われる)、剣眉(眉の端が跳ね上がって剣の形になっている。俗に「倒八字眉」(逆八字眉)と呼ばれる)、寿眉(長く伸びた眉毛。眉毛の長いのは長寿の象徴)、掃箒眉(眉の端が次第に薄く散らばる。箒の形。俗に悪い意味で浪費の象徴と言われることもある)などがあります。更に目も描き分けられ、例えば悪役の人物の時は「蛇眼」(眼が長く細く、眼球は小さく丸い。こうした眼をした人は、残忍で、腹黒く、陰険)を多く使います。

柳葉眉 

臥蚕眉

散眉

八字眉

剣眉

寿眉

掃箒眉


中国の泥人形(1)その歴史

2021年06月05日 | 中国文化

 中国へ旅行に行くと、お土産屋さんに粘土を焼いて着色した、かわいらしい人形が並んでいるのを目にします。中国語で「泥人」、「泥玩具」などと言います。産地や作者の名前を付けて、「恵山泥人」、「泥人張」などという商品名が付いています。今回は、こうした泥人形について、その歴史や各産地の商品の特徴について、ご紹介したいと思います。

 

ちょうど手元に、王連海著、『中国民間玩具簡史』と言う本があり、この中で、泥玩具について、約20ページにわたり記述があり、この内容から抜粋したいと思います。王連海氏は現在61歳、北京出身、北京清華大学美術学院で中国民間美術の研究をされています。

 

1.泥人形の歴史

 

 泥人形の起源は、墓の副葬品として、死者が死後の世界で寂しい思いをしないよう作られた、いわゆる明器です。これは、その当時、一定の身分や勢力があった人が特別に作らせたものですから、一般の人々には縁のなかったものです。それが、市場で売買され、庶民にも手の届くもの、商品として、また子供のおもちゃとして販売されるのは、宋代になってからと言われています。

 

北宋(960-1127)の時代、泥玩具の製作を生業とする民間の手工芸職人が出現し、泥玩具が商品となり、都市の市場では専ら泥玩具を売る露店や、行商人が出現しました。この時代の主要な泥玩具は「磨喝楽」、「黄胖」と呼ばれていました。

 

「磨喝楽」は「摩喉羅」、「摩侯羅」、「魔合羅」とも書き、宋代に流行した一種の泥塑の子供の人形で、農暦七月七日の前に大量に市場に出回った、季節商品でした。

 

北宋の都、汴梁(今の河南省開封)城内の「南渡」一帯はたいへん賑やかで、毎年「七夕」には「后市」(都城で市は宮廷の北側、後方に置かれたので「后市」という)の衆安橋、潘楼街東門外「瓦子」(娯楽兼商業区域)、州西梁門外「瓦子」、北門外、南朱雀門外街、及び馬行街等で磨喝楽が売られていました。

宋代泥人商舗

 

現在はもう当時の磨喝楽の実物を見ることはできず、ただ古文書の記載の中で「磨喝楽」のだいたいの形式を知ることができるだけです。このような小さな土の人形は作りが精緻で、姿かたちが端整で、色彩を施した木彫りの小さな台座の上に置かれ、赤い薄絹か青い薄絹で作ったカバーで覆われていました。小さな泥人形は深紅のチョッキを着、青い薄絹のスカートをはき、小さな帽子をかぶったものもあり、種類が豊富で、様々な大きさのものがありました。

 

古文書に、七夕に子供が手にはすの葉を持ち「磨喝楽」のまねをするとありますから、泥人形は必ず手にはすの葉を持っていたことがわかります。現在の泥玩具の人形は多くは絵で描いて衣服装飾を表現していますが、「磨喝楽」は別に衣服やアクセサリーを加える必要があり、織物、絹織物を使って小さな衣服やスカート、帽子を作って小さな泥人形の体に着せていたようです。

 

磨喝楽は北宋の都、汴梁の特産であるだけでなく、外地の製品も汴梁に運ばれ販売されました。その中で最も有名なのは蘇州の製品でした。

 

蘇州市の虎丘山の下で一種の磁土を産し、泥玩具を作るのに適し、明代には「塑真」(土で本物そっくりの塑像を作ること)工芸が盛んで、蘇州で作られたものが最も著名でした。

 

磨喝楽の用途は、一に「七夕」の「乞巧」(七夕の日に女性が織女星を祭って手芸、裁縫が上手になるよう願った風習)に使うため。二に男の子が生まれるよう祈るためでした。

 

唐代の「磨喝楽」は蝋で作られ、それを水に浮かべて、婦女が男の子を生むよう祈りました。宋代の「磨喝楽」は同様に女性が男子を多く生むことを祈る意味が込められていました。

 

磨喝楽を売る時は普通の販売方法だけでなく、「撲売」――これは宋、元の時代に流行した販売方法で、物売りが客と賭けの形で商いを行いました。多くの場合、銅銭を投げて、銅銭の表と裏の出た数の多い少ないで勝ち負けを決め、勝つと物がもらえ、負けると銭を失いました。

 

後世に行われた「転糖得彩」(あめを買って賭けに参加し、勝つと景品で人形がもらえる)、「昇官図売糖」(「昇官図」は一種のボードゲーム。四面に文字の書かれたコマを回して、平民から高官に昇格する順序を競う。あめを買って参加し、勝つと人形がもらえる)等も「撲売」の一種でした。「撲売」は賭博性を帯びていますが、また遊びの色彩もあり、泥玩具の販売にも合ったものでした。北宋の汴梁にはあちこちに磨喝楽を「撲売」するところがありました。

 

1980年代初頭に、江蘇省鎮江市で一組の子供が戯れている泥人形が出土しました。全部で5人の子供が、それぞれ相撲をし、足で踏んだりけったり、あたりを見回したりしています。

宋代の子供が戯れている泥人形

 

造形は生き生きとしていて、人形の地は土の色のままで、彩色は施されていません。これらの泥人形こそ「磨喝楽」だと考える人がいますが、証拠が十分でありません。というのも、「磨喝楽」は単体の泥人形であり、多くとも一対であり、一団のグループとなった「磨喝楽」の記録はまだ発見されていません。「磨喝楽」の衣装や装飾は別に作ったものを取り付けたはずですが、鎮江出土の泥人形の衣服は土で形作られ、またどれも中国服の上前衽(おくみ)と長ズボンを着ており、このことと「磨喝楽」が赤いチョッキ、青い薄絹のスカートを身に着けていたという記述と一致しません。このため、これらの泥塑の子供の群像は宋代の子供が遊び戯れる本当の姿の描写であり、古代の彫刻を研究する上での貴重な史料ではありますが、「磨喝楽」ではないと考えられます。

 

河南省博物館の陶磁器収蔵品の中にも宋代の「白釉加彩童子」があり、河南省禹県扒村窯跡から出土しました。童子(男の子)は陶器でできた太鼓型の腰掛けに座っていて、上半身はチョッキを着ていて、衣服の前をはだけて腹を出し、腰に帯を巻き付け、帯が二本の足の間に垂れています。男の子は手に蓮の葉を持ち、姿態はきちんとしています。全体の高さは21センチあり、白釉がかけられ、赤と黒の線で目、眉、頭髪、服装が描かれています。その形態から見て、今のところ最も「磨喝楽」に近い作品と言えます。

河南省博物院蔵宋白釉加彩童子

 

これも「磨喝楽」とは認められませんが、「磨喝楽」の風貌はここからそのおおよその見当がつくと思われます。というのも、これらの作品は間違いなく宋代の代表的な泥人形の影響を受けており、「磨喝楽」の本来の姿を理解するうえで重要な参考資料だからです。

 

名称からすると、「磨喝楽」と泥人形の間にはっきりした関連性はありません。これまで、多くの研究者が「磨喝楽」について考証を行ってきました。現在では二つの解釈が存在します。

 

第一の解釈は、「磨喝楽」はすなわち梵語(サンスクリット)の「摩喉羅」が訛ったもので、元の意味は仏教の神の名で、「摩喉羅迦」、または「莫呼勒迦」とも書き、梵語のMahoragoの訳語です。『大毗盧遮那仏神変加持経』及び唐代の慧琳の『一切経音義』の中に書かれているところでは、「摩喉羅迦」は「天龍八部の一つ」と称しています。仏教の経義によれば、諸天、龍、鬼神は八部に分かれています。晋代に、中国では既に、「天龍八部」は世尊(仏の尊称。釈迦牟尼のこと)を取り巻くという記述が出現しました。いわゆる八部は、一天、二龍、三夜叉、四ゲンダツバ、五阿修羅、六カルラ、七キンナラ、八マゴラガ(摩喉羅迦)。「天」と「龍」が八部の首位にいるので、名を「天龍八部」と言います。「摩喉羅迦」は大蟒神(「蟒」はニシキヘビやウワバミのこと)で、人首蛇身、つまり首から上は人間で体は蛇であり、「胸行神」とも言います。『東京夢華録』で「磨喝楽」を取り上げる時、作者は「元々仏教経典の「摩喉羅」は、今は通俗としてこう書く」と注釈しており、当時はこのような小さな泥人形と神仏を同列に論じていたのです。「摩喉羅迦」は大蟒神であるのに、どうして子供のおもちゃになってしまったのでしょうか。この点はたいへん分かりにくい問題です。

 

それゆえ、第二の解釈をする者が現れました。それは、「磨喝楽」は梵語の「羅喉羅」の音訳が間違って伝わったとするものです。羅喉羅は釈迦牟尼仏の実の子供であり、母親のお腹の中に七年いて、釈迦牟尼が悟りを開いた日に生まれました。仏が戻って来て後、羅喉羅の母親、釈迦牟尼の妻は清らかな気持で、羅喉羅に「歓喜丸」(歓喜団とも言う。バター、小麦、ハチミツ、ショウガなどを混ぜて作った古代インドの菓子)を掲げ、父に贈らせました。仏はその意味を会得し、遂にその従者たちも悉く仏になりました。羅喉羅が手に持って贈ったものは間違いなく、彼の聡明な資質を示しました。彼は15歳で出家し、仏の十大弟子中で密行(みつぎょう。戒律を綿密にきちんと守り修行すること)第一でした。羅喉羅の意味は、「覆障」(覆い隠すこと)です。彼が母の腹の中に七年いたことから、そう名付けられました。仏教経典の記述では、羅喉羅の身の上と磨喝楽の泥人形の生活上の用途は関係無くは無いように思われます。彼は生まれつき聡明で、密行第一であり、七夕の時、これを使って「乞巧」(きっこう。旧暦7月7日の七夕に女性が織女星を祭って手芸、裁縫が上手になるよう願う風習)を行うのは適しています。唐代に流行した蝋で作った「磨喝楽」(「化生」。婦人が男の子を生むよう祈ること)と結び付けて考えると、その大意は理解できます。「化生」は元々婦人が元気な男の子を生むことを祈るためのものですから、「羅喉羅」から来たものと解釈することは、道理に合っています。

 

宋代に流行したもうひとつの泥玩具は「黄胖」です。

 

「黄胖」は迎春の季節の土人形であり、通常は宴会の席で使われ、人形の手足を動かすことができました。したがって、「黄胖」はおそらく酒を勧める道具、「酒胡子」と似たものだったと思われます。「酒胡子」は、紅毛碧眼、髭を生やした西域人の姿に似せて作った人形で、上は軽く下は重くして、倒してもまた起き上がるよう作られていて、酒席の遊びで、この人形を揺らしてくるくる回し、最後に留まった時に人形の手の方向に座った客が罰として酒を飲むというものです。これは、後世の起き上がりこぼしの原型です。「黄胖」はこうしたおもちゃの一種で、南宋の時流行し、多くは権勢を誇った一族や王族の宴席で用いられました。民間では迎春の時に客に贈る土産品となりました。

 

宋王室は南渡以降、北方の領土を失った代わりに束の間の平和を手にし、それに加えて大量の北方人が南方に移り、南方の手工業は迅速に発展しました。南宋の都、臨安(今の浙江省杭州市)は至る所、酒楼、茶店、店舗、市が作られました。西湖一帯の民間手工芸品は独特の風格を持つようになり、北宋の汴梁の「門外の土産」に匹敵する「湖上の土産」となり、その中には泥人形が含まれていました。

 

明代の田汝成は『西湖遊覧志余』にこう記しています。

「臨安の風習では互いに往来交遊し、湖上を遊覧する者は競って土でできた子供の人形、小鳥、花湖船を買い求めて家に持ち帰り、隣近所に配り、湖上の土産品と言った。」

 

これらの子供の人形などの泥玩具は全て杭州市内で作られたもので、泥玩具の職人が住んだ地域はこれにより「孩儿巷」(「巷」は路地や横丁の意味で、北京の「故同」に相当)と名付けられました。「孩儿巷」の名は、今日の杭州市に今尚存続し、民間工芸の繁栄、栄枯盛衰を記録しています。

 

 明、清時代になると、政治の安定、商業、物流の発展から、中国内を行き来する人も増えました。江蘇省蘇州市虎丘山は、観光名所として発展し、また全国的に有名な工芸品市場になりました。民間玩具は虎丘市場の多くの商品の中で重要な地位を占め、「虎丘耍货」(虎丘のおもちゃ)と呼ばれました。

 

中でも、一級品の泥人形は、作りはよく吟味され、形態は精緻で美しく、価格は高価で、おおよそ無錫恵山の泥人形の「細貨」に似ていました。虎丘の一級品の泥人形中、「泥美人」(美人像)が最も代表的なもので、形態は真に迫り、楚々として人を感動させました。

虎丘泥人

 

虎丘のおもちゃにはこの他に絹人形があり、姿かたちは生き生きとして真に迫り、頭や顔は粘土で作られ、絹織物やガラス玉など多くの材料で服装や飾りが作られました。粘土の頭の製作も、泥玩具の職人が担当しました。彼らが作った粘土の頭が絹人形に用いられました。こうした人形の頭の部分が蘇州以外の地に販売され、「虎丘頭」と呼ばれました。

蘇州泥塑、絹人形

 

虎丘の泥玩具は明清時代に始まるのでなく、北宋時代には既に東京(都、汴梁)の「磨喝楽」市場に蘇州の製品が並び、しかも「天下第一」の特別な栄誉を有していました。虎丘の民間泥人形が宋から清に至るまで長きに亘って伝わり衰えることの無かった重要な理由の一つは、「虎丘には最もしっとりした泥土を産するところがあり、俗に「磁泥」と呼ばれていた」ことによります。こうした磁土は上等なおもちゃを制作するのに必要な原料であり、おおよそ北宋時代には発見されていました。

 

理想的な原料、強力な職人集団、広大な販売市場が、虎丘の泥玩具が幅広く発展することを可能にする前提条件となり、更に一群の新たな民間工芸品が日増しに成熟し、清代初めには国中で有名な民間工芸品目である「塑真芸術」となりました。

 

「塑真」とは「捏塑」或いは「捏相」とも呼ばれ、つまり実際の人物に基づき土を捏ねて形作った小像です。明代晩期に著名な作家、王竹林が制作を始め、清代初期にはこの特殊な工芸は継承、発展され、康煕、乾隆期には一時最盛期を迎え、ピークに達し、「塑真」の作品は天下に鳴り響き、古い書籍の中に多くの作家により描写されました。古典の名著、『紅楼夢』の中にも虎丘の「塑真」の話が描写され、この話は第67回の「見土儀顰卿思故里,聞秘事鳳姐訊家童」に見られます。

 

薛蟠は江南より商売をして戻り、母親と妹に二箱の贈り物を携えて来ました。「二人が箱の中を見ると、筆、墨、紙、硯、様々な色の箋紙、香袋、香珠扇子、扇子に下げる飾り、天花粉、口紅などが入っていた他、虎丘で買ってきた、道行く人、酒席遊び、水銀を注ぐとでんぐり返りをする子供、飾り灯籠といった、泥人形の芝居の場面がいくつか、青い紗の箱の中に納めてあった。また、虎丘の山上で土をこねて作った薛蟠の小像があり、薛蟠と瓜二つであった。宝釵はこれらを見て、他のものは別に気に留めなかったが、薛蟠の小像は仔細にながめ、また兄の方もじっと見て、思わず笑ってしまった。」

 

「塑真」の造形について、清の乾隆年間に常輝が『蘭舫筆記』の中でこう説明しています。

「蘇州の「塑真」の作家は、虎丘の山塘に住み、私は曾て観光に行きこれを見たことがある。土は細かく小麦粉のようで、色は濃淡様々である。像を作ってほしいと依頼があると、顔の皮膚の色を見て土を少量取り、手でこれを弄ぶと、普段通りに談笑して、意に介さないようだが、しばらくすると像は完成している。これを見ると、その人そのものである。「皺、痣とほくろ、喉」皆少しも違いが無く、ただ髭と髪の毛は別に付ける。」

 

「塑真」の作品は、多くが文人墨客、官僚富豪のおもちゃでした。泥人形は乾かして後、更に「衣服、冠、靴、靴下を身につけさせる。衣装が一重か二重か、棉か皮か、どんな様式でも悉く準備でき、綸子(りんず)、紗(しゃ)、薄絹、苧麻(ちょま)に至るまで、依頼者の意のままである。」更に甚だしきは、衣服や冠をきちんと身に着けた土の像を小さな楠の木の箱の中に納め、また小さな腰掛け、テーブル、方形の小テーブル、上に物を飾る細長い机といった家具のミニチュアを並べ、またその上に香炉、お香入れ、道具入れの壺や骨董、筆、硯、文具を置き、壁には小さな字を書いた掛け軸を掛け、ミニチュアの室内のしつらえを構成し、これを「相堂」(書斎)としました。更に書斎には家人や婦人、子供、下女や侍童を配置しました。

清末の蘇州出身の官僚、顧文彬の「塑真」

 

 以上が、泥人形の歴史です。次回は、恵山泥人など、各地の泥人形を紹介します。