ラティハンの発展するスピードは、受けているその人の状況に自動的にあったものに
なっているようだ。
自分で「やる」事が出来ないラティハンというのは、進歩を強制できないという事である。
それで現代社会に適応した、忙しい心、進歩したがりの心にはとても遅く感じられる。
ちょうど植物の種をまいた時の様です。
土を耕して、水をやって、雑草をとって、あとはお日様まかせ。
そのしんぼうができるかどうかということですね。
植物なら毎年のことだから、様子がわかっている。
ラティハンは、生まれて初めてのことだから、様子がわからない。
それで心が騒ぐ。
頭が働く。
不安になる。
あせる。
そんなふうな「ごたごたした心」では、またうまくラティハンを受けれない。
これはもう悪循環ですね。
こんなときはどこかで思い切らないと仕方がない。
まあ早い話が、諦めるのですわ。
なにを諦める?
進歩したり、うまく受けたいという「欲望」を諦めるのですね。
それでもって、「立ちダルマさんでもしようかい。」ぐらいの気持ちでラティハンにのぞむ。
まあ、それができりゃそのうちにまた歯車が回りだします。
ラティハンは気長な道ですから。
なっているようだ。
自分で「やる」事が出来ないラティハンというのは、進歩を強制できないという事である。
それで現代社会に適応した、忙しい心、進歩したがりの心にはとても遅く感じられる。
ちょうど植物の種をまいた時の様です。
土を耕して、水をやって、雑草をとって、あとはお日様まかせ。
そのしんぼうができるかどうかということですね。
植物なら毎年のことだから、様子がわかっている。
ラティハンは、生まれて初めてのことだから、様子がわからない。
それで心が騒ぐ。
頭が働く。
不安になる。
あせる。
そんなふうな「ごたごたした心」では、またうまくラティハンを受けれない。
これはもう悪循環ですね。
こんなときはどこかで思い切らないと仕方がない。
まあ早い話が、諦めるのですわ。
なにを諦める?
進歩したり、うまく受けたいという「欲望」を諦めるのですね。
それでもって、「立ちダルマさんでもしようかい。」ぐらいの気持ちでラティハンにのぞむ。
まあ、それができりゃそのうちにまた歯車が回りだします。
ラティハンは気長な道ですから。