ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

唯一の神( Tuhan Yang Maha Esa)

2019-02-08 | 日記
以下は
・PERKUMPULAN PERSAUDARAAN KEJIWAAN SUSILA BUDHI DHARMA ( SUBUD )<--リンク
からの引用になります。


『前書き

SUBUDのこの簡単な説明は、インドネシア共和国の教育文化省、神の評議員の評議員長の要請により作成された概要から引用されたものであり、日付の文字の添付である精神文化スピーチ資料の概要として記載されている指示に従ってSubud Indonesiaにより整理された。 1988年5月番号159 / F.6 / E.2 / 1988 。

・・・・・

II。基本方針

a。Tuhan Yang Maha Esaの概念

SubudがTuhan Yang Maha Esaを理解しているということは、神の力を持ったTuhan Yang Maha Esaは栄光的で目に見えるものと見えないものすべての創造物を網羅するということです。
・・・
c。 宇宙についての概念

Tuhan Yang Maha Esaは宇宙を創造し、Tuhan Yang Maha Esaの力はすべての創造物を網羅します。

・・・・・

Ill。基本的なイベントの種類
a。 霊的活動

Tuhan Yang Maha Esaを崇拝するための手順は、彼らのそれぞれの宗教的な手順を通してSubudメンバーによって行われます。

SubudのラティハンLatihan Kejiwaan は感謝の手続き(感謝を表す礼拝)ではありません。

SubudのラティハンLatihan Kejiwaan は、Tuhan Yang Maha Esaの力に完全に(自分を)放棄すること以外には手続きがない全托であり、Tuhan Yang Maha Esaの憐れみのためにそれは欲望と心の影響から解放された自己の感覚を生み出すでしょう。

この動きは、Tuhan Yang Maha Esaの力によって引き起こされる動きであり、従うべきものです。

・・・・・

IV。 基本な事項

b。 人生の実践と生活環境での儀式(儀式)。

Subudは社会の生活や社会の輪の中で特別な儀式を持っていません。
人生の過程でSubudメンバーの儀式は彼らの宗教の儀式とそれぞれの習慣に従います。

・・・・・

日常生活の出来事は、私たちがそれを受け入れるならば神の愛を受け入れることができる神の最も高貴な創造物として、私たちは完璧な人間へと導かれます。

神の力は私たちの内にあり、私たち全員を満たし、覆い隠すことはできず、分ける事もできません。
ラティハンを通して、私たちは神の力を感じることができます。
(神=Tuhan Yang Maha Esa)

1991年12月22日、ジャカルタ Subud Indonesia』


さてバパはトークの中では「ラティハンは唯一の神=Tuhan Yang Maha Esaへの礼拝である」と言っています。

しかしながら、スブド インドネシアは公式にはそこまでの表明はしていない様です。

『Tuhan Yang Maha Esaを崇拝するための手順は、彼らのそれぞれの宗教的な手順を通してSubudメンバーによって行われます。

SubudのラティハンLatihan Kejiwaan は感謝の手続き(感謝を表す礼拝)ではありません。
・・・・・
この動き(ラティハンによって生じる動き)は、Tuhan Yang Maha Esaの力によって引き起こされる動きであり、従うべきものです。』

こうしてインドネシアにおいては公式にはラティハンは礼拝ではなくプラクティス、修練、あるいは修行として認められているという事が分かるのであります。


以下インドネシア語(原文)からの上記相当部分の引用になります。

PENDAHULUAN

Keterangan singkat tentang SUBUD ini diangkat dari suatu sinopsis yang dibuat atas permintaan Direktur Pembina Penghayat Kepercayaan Terhadap Tuhan Yang Maha Esa, Departemen Pendidikan dan Kebudayaan Republik Indonesia dan disusun sesuai dengan arahan seperti tercantum sebagai Garis Besar Materi Pemaparan Budaya Spiritual yang merupakan lampiran dari surat tertanggal 3 Mei 1988 nomor 159/F.6/E.2/1988 kepada Pengurus PPK Subud Indonesia



II.  POLA DASAR PENGERTIAN

a. Konsepsi tentang Ketuhanan Yang Maha Esa

Pemahaman dan pengertian Subud tentang Ketuhanan Yang Maha Esa adalah bahwa Tuhan dengan kekuasaanNya mencakup seturuh ciptaan-Nya baik yang terpandang maupun yang tidak tampak.

・・・

c.  Konsepsi tentang Alam Semesta

Tuhan Yang Maha Esa menciptakan alam semesta dan kekuasaan Tuhan meliputi seluruh ciptaan-Nya.

・・・・・

Ill.  POLA DASAR PENGHAYATAN

a. Perilaku Spiritual

Tata cara ibadah kepada Tuhan Yang Maha Esa dilakukan oleh para anggota Subud melalui tata cara agamanya masing-masing. 
Latihan Kejiwaan Subud bukan merupakan tata cara penghayatan. 
Latihan Kejiwaan Subud merupakan suatu penerimaan yang tidak ada tata caranya kecuali penyerahan diri sepenuhnya kepada kekuasaan Tuhan Yang Maha Esa, yang kemudian atas kemurahan Tuhan akan membangkitkan gerak rasa diri, bebas dari pengaruh nafsu hati dan akal pikiran.  Gerak tersebut merupakan gerak yang dibangkitkan oleh kekuasaan Tuhan dan hanya tinggal diikuti saja.
Gerak tersebut merupakan gerak yang dibangkitkan oleh kekuasaan Tuhan dan hanya tinggal diikuti saja.

・・・・・

IV.  POLA DASAR PENGAMALAN

b. Pengamalan dalam Tata Kehidupan, dan Upacara-upacara (ritus) dalam Lingkungan Kehidupan.

Subud tidak mempunyai ritus khusus dalam tata kehidupan dan dalam lingkaran kehidupan bermasyarakat. 
Upacara-upacara para anggota Subud dalam tata kehidupan mengikuti ritus agamanya dan adat-istiadat yang dianutnya masing-masing.

・・・・・

Kejadian-kejadian dalam kehidupan sehari-hari terasa terbimbing ke arah kebaikan, ke arah penyempurnaan kita sebagai manusia seutuhnya, sebagai makhluk Tuhan yang paling mulia, yang mampu menerima kasih sayang-Nya jika saja kita mau menerimanya.


Kekuasaan Tuhan ada pada diri kita, mengisi dan meliputi seluruh diri serta tidak terpisahkan. 
Melalui Latihan Kejiwaan Subud, kekuasaan Tuhan ini dapat kita rasakan.

Jakarta, 22 Desember 1991
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PS
つまり「インドネシアの仏教徒は「唯一神を信仰」している事になっている」のです。

さてこう書きましたが、これは「日本人から見た感想」です。

インドネシアの仏教徒は「Tuhan Yang Maha Esa」を本気で信仰している可能性があります。
(「唯一神」はインドネシア語では「Tuhan Yang Maha Esa」と書かれます。)

その「唯一神への信仰」と言うのは、とても古くからあるものでその上にまずは仏教とヒンドゥー教が伝来し、そしてのちにイスラム教とキリスト教が入ってきた、というのが歴史です。
(仏教とヒンドゥー教は端の方に押しやられました。)

そして、インドネシアの人たちは「それらの外来の神はすべてTuhan Yang Maha Esaが形を変えたものであり、本質は同じだ」ととらえている所があります。

そうでありますから、我々の目には一見無謀な、無理筋に見えるパンチャシラ Pancasilaが成立するのでありましょう。<--リンク
その一番目に
1、唯一神への信仰 (Ketuhanan Yang Maha Esa)
と言う事が決められています。

インドネシアの人はこれを認めそうして『インドネシアではイスラム教、プロテスタント、カトリック、ヒンドゥー教、仏教、儒教の6つの宗教が公認されているが・・・』
これらの宗教は全て「唯一神を信仰するもの」と認めているのであります。

そして当然、オープンの時の宣誓も「Tuhan Yang Maha Esa」を信仰しますね、と聞かれるのですから「NO」と言う人はいないのです。

「唯一全能の神」などとは聞かれないのですよ。
これがインドネシアでの状況です。


さて日本ではどうなったか?
まずは「Tuhan Yang Maha Esa」が英訳されます。
クリスチャン文化圏の英訳者はそれを God Almighty とかThe only almighty godと英訳し、日本人はそうやって英訳された文章から「唯一全能の神」と訳します。

そうしてこう聞かれるのです。
「唯一全能の神」を信じますね?と。
おまけに伝わってくるバパのトークは全て「スブドの神はアブラハムの宗教の神」のように書かれています。
それじゃ「唯一全能の神」とはあれの事か、となりますよね、普通は。

さてそれで困ってしまうのは仏教徒でした。
(インドネシアの仏教徒は困りません。
しかしながら、それ以外の世界中の仏教徒は困ってしまいました。)
・・・・・
世界中の翻訳者はこうしてインドネシア語から英語に翻訳されたものを第二原典として、そこから自国語に翻訳していきました。
従って、世界中でオープンの時の宣誓は「唯一全能の神」を信仰します、と言わねばならなくなったと、そういう事の次第であります。

全ての呼び名を超える存在としての「Tuhan Yang Maha Esa」と言う概念はインドネシアにしか存在しない様です。
そのためにこうした誤解、あるいは混乱が発生し、世界中に広まっていったのであります。

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