ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

ラティハンが地球に降りてからそろそろ100年

2012-06-29 | 日記
さて、1925年にラティハンが地球に降りてから86年が過ぎました。

もうじき100年になろうとしています。

1世紀ですね。


最初に地球が受けた衝撃はだんだんと薄まってきているのでしょうか?

2世代に渡ったガイド役もそろそろ仕事の終了が近いようにも思われます。

言葉を変えますと、本当にラティハンが地球に根をはったのかどうか、これから本当に
試されるという訳ですね。

案内役なしでも、保護者同伴でなくともちゃんとやっていけるのかどうか。


ラティハンそのものはバパが言われるように「とんでもないもの」でしょう。

人間の常識をこえていますからね。

常識どころではなく、想像力さえこえています。


そんなとんでもないものと地球がぶつかったのですから、その衝撃たるやものすごい
ものです。

それで当初はかなりの人がラティハンをやり始めました。

衝突の衝撃はかなりの吸引力をもっていましたから。

ところが、なかなかラティハンをやっている人の中に実感が育たないのですね。

スタートは出来るのですが、継続していくのが難しかったのです。


世の中の圧力、仕事が忙しい、成長が実感できない、などなど。

ええ、ほんとうにラティハンを続ける時間がとれないことの理由は簡単に挙げられます。

それに対してラティハンを続ける理由は一つしかありません。

オープンの時までに「決めたこと」だからラティハンを受けるのです。

これでは多勢に無勢、頭で考えりゃかなう訳がありませんね。


と言う訳で、相変わらず頭は「忙しいのに、、、。」とかなんとか言ってますが、まあ
言わせといて今夜もラティハンに出かけましょうかい。

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「私は正しい」とあなたは言うのだけれど、、、。

2012-06-22 | 日記
「私は正しい」ということは「あなたは間違っている」ということとほとんど同じ事。

これでは仲良くやれる訳がない。

仲良くやるよりは、「私は正しい」と言う事の方が我々は好きなのです。


どうしてでしょうね。

物質世界の成り立ちがそうなっているからでしょうか?

植物世界の競争が反映しているのでしょうか?

弱肉強食の動物世界の反映ですか?

それとも16年間にわたる学校教育のたまものでしょうか。

「あなたは正しい」、「あなたは間違っている」ということの16年間におよぶ毎日の
繰り返し。


おまけに世の中に出れば今度は上司が「あなたは正しい」、「あなたは間違っている」
と教えてくれる。

こういう長年の教育の成果ですか。

これでは何か世の中は「正しいと言う事を中心に動いている」と思い込んでも
おかしくはありませんよねえ。



それで、今になってもあなたは「私が正しい」というのですね。

いったい誰に向かって言っているのでしょうか?

仲良くやりたい相手に向かってではありませんね。


世の中を見ている大先生ですか?

正しいかどうか判断してくれて、正しければ誉めて、間違っていれば罰を与える。

そんな存在があなたの目にはみえるのでしょうか?


そうですね。

本当に迷惑な話ですね。

隣にいる人と単純に仲良くやっていきたいだけの人にとっては。

そんな大先生はじゃまになるばかりですね。

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誰も知らなかった道

2012-06-15 | 日記
ラティハンに似たものなど世の中にはない。

あるのは全て心の道。

本を読んだり教えられたりしてそれに従ってゆく。

内容を理解して、あるいは理解したつもりになって、あるいはまったく理解せずに
従ってゆく。


ラティハンは受ける道。

本を読まなくとも、教えられなくともオープンとともに始まる道。

さあ、こんなところにこんな道があろうとは、いったい誰が想像できただろうか。


PS
この世の富を求めるものは、それなりに強欲ではある。

しかしながら、次の世の生命、魂の救済を求めるものは、それとは比較にならない程に強欲になれる。

そうして、その強欲と次の世の生命、魂の救済は相いれないものの様に見えます。

従って、ラティハンに対してあまりに強欲な態度で臨むことは避けた方がよいでしょう。

ここにこの神秘の道の難しさがあり、そうしてこれはいずれの神秘の道に於いても言われてきたこと、今も昔も変わらない事の様に思えます。


それで、このあたりの事をバパは次のように表現されておられる。

「神を求めることは間違いである。

そうして、神を求めないこともまた間違いである。

そんな時にいったい人はどうしたらよいか?

神をただ礼拝するのみである。」


さて、バパにとっては「神の礼拝」とはラティハンの事であります。

そういう訳で、ただただ人はラティハンを習するのでありまして、そこにあまり強い思い込みを持ち込むというのは、よい態度であるとは言えない様であります。 16・7・5



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この世の栄光

2012-06-08 | 日記
ここは本当に路地裏。

裏通りの中の裏通り。

なかなか人が立ち寄ってくれない場所。


ラティハンなどという言葉を知っている人は本当に限られた人。

マイナーの中のマイナー。

それでも訪れる人がいないかというとそうでもない。

これが又不思議なところ。


さあてそれではメインストリートはどこ?

人の生命や財産に関係した所は人々に人気の場所である。

そうですね、やっぱりラティハンは裏通り。


さて、そんな裏通りに宝物はあるのか?

ラティハンの本質は次の世まで続く生命にあるといわれている。

この世で生きることにあまりにも集中しすぎているとそれは見えなくなる。


目に見え、耳に聞こえて頭で理解し操作できるもの、この世の栄光はそんなもので
できあがっている。

そうして、そういうものはこの世の生命が続く限りのもの。

まあたまにはそんなことを思い出してみるのもあながちムダなことではないようです。

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ごっつんこの数

2012-06-01 | 日記
歩いてきた道を振り返るともっと楽にここまでこれたように思うことがある。

藪の中を歩いたり、谷に転がり落ちたり。

まったく無駄に思える事をいろいろとやっている。


「あそこでは曲がらずにまっすぐにくればいいのに」とか
「あんなことはさっさとやめときゃいいのに」とかいろいろと思ったりもする。

そうはっても、そういうことの全部が合わさって今を作り上げているのだから
しょうがない。

人が手探りで歩いていくということは、結局、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりを
しながらしか進むことだもの。


それでもまあ、もう少し楽な方法はないのかというと、ないこともない。

ラティハンが示す道を歩いてゆけばよい。

これは楽なのだ。


そうかといって、すぐにそこに行けるものでもない。

そこまで行くには、やっぱりあっちにごっつん、こっちにごっつんだけれどもね。

それでもまあ、ラティハンやってりゃ、少しずつだけれどもごっつんこも少なくなってくる
というものです。

そして実はこれが「人生の秘密」なのですね。


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